旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑪

2011-12-20 03:27:00 | ノンジャンル
 短期連載のつもりで始めた『県令・知事』シリーズだが、思いのほか長期に渡り、遂に年を越すことになる。それもこれも、いずれの時代もよどみなく動き、表舞台裏舞台の世相を刻んできたからだろう。先は長い。時の流れを追うことにしよう、

 ◆昭和5年〈1930〉
 □デパート登場
 5月。鹿児島県に本店を置く「山形屋」が、那覇市西町に木造2階建てを新築して本格的営業を開始した。山形屋は、大正9年ごろから春と秋の2回、呉服と雑貨の出張販売をしていた。沖縄進出の主目的は、琉球織物の仕入れにあったが、大正11年2月、西本町通堂通りにあった60余坪の店舗を借り受けて営業した。しかし、黒糖の値の暴落で思惑通りにはいかないスタート。そこへ大阪支店から派遣されたのは33歳の若手経営者岩元栄之助。彼は沖縄事情を詳細に把握、敏腕をふるって経営を立直して、本格的なデパート「山形屋」を誕生させた。

 ※【官選知事時代】
 ◆守屋麿嵯夫〈もりや まさお〉明治22年〈1889〉、熊本県生れ。没年不詳。*第17代沖縄県知事
 東京帝国大学法律科に学び、在学中に文官高等試験に合格。卒業後、内務省入りして静岡県警部となる。以後、静岡県属理事官、兵庫県理事官及び工場監督官。大阪府警視、警視庁警視、静岡県警察部長、社会局書記官及び同保険部大阪出張所長などを歴任。昭和4年〈1929〉7月5日、沖縄県知事に任命された。
 離島航路の改善、外交貿易調査会を設置する一方、小学校教員の初任給引き下げを断行。また、産業助成費の援助継続と増額を政府に要請し続けた。県民蔑視の傾向があったことや、自らも民政党に属しながら同党県支部との折り合いが悪く、昭和5年6月に同支部の「守屋知事排撃運動」に出会う。そのせいかどうかは明らかではないが同年8月26日、青森県知事に転出した。
 
 ◆井野次郎〈いの じろう〉明治10年~昭和27年=1877~1952=出身地は群馬県。*第18代沖縄県知事
 群馬県師範、東京高等師範を経て大正2年〈1913〉に東京帝国大学を卒業。東京都をはじめ熊本県、神奈川県などの郡長を歴任。昭和5年〈1930〉8月に就任。当時の沖縄は極度の食糧難で[ソテツ地獄]と全国に報じられるほど疲弊していたが、井野知事は直ぐに「沖縄県振興計画」の腹案を作成。就任翌年、閣議で同案は審議されて『昭和8年から実施』することが決定した。また在任中は、日本の15年戦争の開始時期にあたり、兵器献納運動促進、沖縄県文化講習所設置など、県政の戦争体制移行の役割を担った。沖縄の経済、社会、教育の振興に尽くした功績は大きいと評価する向きもある。昭和10年〈1935〉6月、宮城県知事に転出。

 ◆昭和6年〈1931〉
 □15年戦争
 9月18日の柳条溝事件によって開始された日本の満州〈中国東北部〉の侵略、つまり満州事変から昭和20年〈1945〉9月2日まで、アジアでの日本と米国、英国、中国など連合国との15年間の戦争。昭和12年〈1937〉7月の盧溝橋事件をきっかけに日本と中国は全面戦争に突入した。日本政府は、宣戦布告はしなかったものの大本営を設置「国家総動員」を発動して体勢を立てた。これら国際関係が悪化して太平洋戦争になる。

 ◆蔵重 久〈くらしげ ひさし〉明治23年~昭和37年=1890~1962=山形県出身。京都帝国大学法律学科卒業。大阪府、島根県松江、岡山県津山の各地方裁判所検事。三重県警視、新潟県農務課長、福島県及び奈良県書記官、警察部長。岐阜県、兵庫県書記官、内務部長などを歴任して、昭和10年〈1935〉6月28日。*第19代沖縄県知事
 在任中、中央の指示に従い沖縄県軍事講演会や国民精神総動員実行委員会を結成したほか、県庁に国民貯蓄奨励課を設置するなど、総力戦体制に向け、銃後における戦争協力の素地づくりに奔走した。昭和13年〈1938〉3月24日、鹿児島県知事に転出。

 hinode多難な年、卯年が往く。辰年が来る。
 竜に肖って来る年が、あなたにとって穏やかな日々でありますように祈願して、今年の筆を置く。

 

沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑩

2011-12-10 00:10:00 | ノンジャンル
 『明治』は言うまでもなく明治天皇睦仁〈むつひと=1852~1912〉時代の年号。江戸時代最後の年号慶応から改元されて、1868年9月8日を元年としている。明治は、1912年7月30日まで続き『大正』に改元される。
 『大正』は、大正天皇嘉仁〈よしひと=1879~1926〉時代の年号。1912年7月30日を元年とし、大正15年〈1926〉12月25日までを指している。そして日本は、激動の『昭和』に入る。
 『昭和』は、1926年12月25日を元年とする昭和天皇裕仁〈ひろひと=1901~1989〉の時代。昭和64年1月7日まで年号を刻んだ。
 
 ◆大正15年〈1926〉・昭和元年。
 □「さまよへる琉球人」事件。
 小説家広津和郎〈ひろつ かずお=1891~1968=東京生まれ〉が、月刊誌「中央公論」に小説『さまよへる琉球人』を発表した。『貴重な書物を借用しても返却しない文化青年と、いったん売った石油コンロを借り出して転売した二人の沖縄青年』を描いた身辺小説。しかし、題名と内容が沖縄人を誤解させるとして、沖縄青年同盟は激しく抗議。結果、広津和郎は報知新聞に釈明を、中央公論に沖縄青年同盟の抗議書全文と釈明文を掲載。『今後、この作品を創作集に再録しない』と、絶版声明を出して決着した。廃藩置県後、なにかと偏見、差別された沖縄人の怒りが爆発した出版物事件だった。

 ※【官選知事時代】
 ◆今宿次雄〈いまじゅく つぐお=1884~没年不詳〉。京都府生まれ。*第14代沖縄県知事
 明治42年〈1909〉東京帝国大学政治学科卒業。同年7月、文官高等試験に合格して、滋賀県属になった。以後、滋賀県警視。滋賀県、和歌山県、熊本県理事官。内務省社会局書記官、埼玉県内務部長などを歴任後、大正15年〈1926〉9月28日、沖縄県知事に任じられる。在任中の事績については多くの記録はないが、温厚な人柄ながら県議会の操縦などに、手腕を発揮したとされる。しかし昭和2年〈1927〉4月。第1次若槻礼次郎内閣が倒れ、田中義一内閣が成立した際、健康状態を理由に辞表を提出。同年5月7日に依願免職となった。

 ◆飯尾藤次郎〈いいお とうじろう=明治8年〈1875〉~没年不詳。愛媛県生まれ。*第15代沖縄県知事
 明治36年〈1903〉東京帝国大学仏法科卒業。岐阜県地方区裁判所検事を振り出しに大阪府警視、高知県事務官、新潟県警察部長。富山県、宮城県、熊本県の内務部長。朝鮮総督府平女北道、黄海道の各県知事を歴任。昭和2年〈1927〉5月7日、沖縄県知事に就いた。
 在任中、大蔵省預金部から県救済資金400万円の低利融資の取り付け、糖業改良奨励金41万余円の獲得など、県経済の立直しに努力。また、県立第二中学校宮古分校や県立第三中学校の設立、那覇市立高等女学校を県立高等女学校に移管するなど、中等教育の振興につとめた。昭和3年〈1928〉12月26日、岩手県知事に転出。

 ◆昭和2年〈1927〉
 □『青い目の人形』
 野口雨情作詞・本居長世作曲大正10年〈1921〉発表の唱歌「青い目の人形」とは直接の関係はないが、この年アメリカの児童から“友好の証”に「青い目の人形」1万2000体が日本に贈られてきた。その内、沖縄県にも63体が配布され、各地の児童のアイドルになった。けれども、やがて日米関係がキナ臭くなるや、それは『敵国のモノ』として、軍部は排除にかかった。人形は銃剣で突かれ、軍靴に踏まれ、焼かれて大部分が廃棄された。それでも軍部の目を逃れた人形も、全国に170余体が現存しているという。沖縄に来た人形はどうか。贈り主の米軍の砲火によって、すべて消えたとされる。

 ◆細川長平〈ほそかわ ちょうへい=明治17年~昭和42年。1884~1967=香川県出身。*第16代沖縄県知事
 明治42年〈1909〉東京帝国大学法科卒業。文官高等試験合格後、岐阜県事務官、岐阜県理事官。徳島県警察部長、熊本県警察部長などを歴任。昭和3年〈1928〉12月26日、沖縄県知事に任命された。在任6ヵ月を過ごし、昭和4年〈1929〉7月5日、埼玉県知事に転出。

 ◆昭和4年〈1929〉。
 □西武門節〈にしんじょう ぶし〉流行る。
 那覇市久米大通りは通称久米大道〈くにんだ うふみち〉と言い、南と北に大門があった。南口をウフジョウ〈大門〉、北口をニシンジョウ〈西武門〉と称した。北口は遊郭チージ近くに位置していたため、遊女たちは馴染みの客をここで送迎。この西武門での未練の別れのさまを歌ったのが代表的俗謡「西武門節」だ。メロディーは当時、那覇港や泊港に国頭地方の生産物を搬送するのに出入りしていたヤンバルブニ〈山原船〉の船子たちが遊郭辻やワタンヂ〈渡地〉遊郭に遊んだおりによく歌った「山原節小=やんばるぶしぐぁ」文句はチージに遊ぶ那覇の粋人たちが思い思い即興で歌ったものが、時とともにまとまって、今に残る歌詞になったとされる。


沖縄=知事・県令・主席。そして知事 その⑨

2011-12-01 00:15:00 | ノンジャンル
 那覇在住に方はもちろん、那覇を訪れる方は県庁前から58号線に出る中間道路を横切るように流れる久茂地川に架かる「おなりばし」を徒歩、もしくは車で渡ったことがあるだろう。
 この橋は、大正10年〈1921〉3月6日。昭和天皇が皇太子のころ、ヨーロッパへ向かう途中、沖縄に御成になることになり、歓迎を意を表して架けたことから『御成り橋』の名が付いた。

 ※【官選知事時代】
 ◆和田 潤〈わだ じゅん〉。明治5年~昭和22年。1872~1947。高知県出身。*第11代沖縄県知事
 法政大学の前身、和仏法律学校卒業後、高等文官試験に合格。明治35年〈1902〉5月、北海道警視を振り出しに香川県、島根県、佐賀県の事務官。大分県、島根県の内務部長を歴任するが休職を命じられる。その後、大正7年〈1918〉1月14日、沖縄県内務部長として復帰。次いで大正10年〈1921〉5月27日沖縄県知事に昇任している。在任中、那覇・首里の市制施行、沖縄県営鉄道や郡道など交通機関の整備、航路改善、教育調査会の設置及び中学校の増設、沖縄県農工銀行の日本勧業銀行への合併、食料増産などに尽力した。内務部長及び県知事としての在任は、5年9ヵ月。歴代知事の中では、沖縄事情に最も精通した人物だった。大正12年〈1923〉10月25日、沖縄県知事退官後は、福島県郡山市、三重県松坂市の市長を歴任した。

 ◆大正10年〈1921〉。
 clover食パン登場
 いつごろ食パンが移入されたかは定かではないがこの年、那覇市泉崎に「久志パン店」が開業。1個2銭ほどし、庶民の口に届くモノではなかった。
 ◆大正12年〈1923〉。
 □9月1日の関東大震災復旧のため、大工職はじめ多くの工事関係者が上京。全国から参集した建築技術者とともに復旧作業に従事した。余談だが現場での建築専門家の知識は、その後の沖縄における建築技術を向上させたと言われる。
 ◆cloverコンクリート建築
 国頭郡役所建築技師・清村勉の設計、指導によって金武小学校と大宜味村役場が沖縄初のコンクリートによる建物とされる。清村技師は、はじめ模型などを用いてコンクリート建物の特徴や安全性、白アリ、台風に強いことなどを説明、協調したが、異様な建物に異論を唱える者もいて、中には『石造りの墓のような建物では、教育も公務も出来ないッ』という反対論まであった。
       
         旧大宜味村役場 
 
 ◆岩元 嬉〈いわもと き〉。明治12年~昭和19年。1879~1944。鹿児島県出身。*第12代沖縄県知事
 東京帝国大学法学部卒業。千葉県属を振り出しに秋田県事務官、香川県警察部長、島根県、茨城県の内務部長などを歴任後、大正12年〈1923〉10月25日沖縄県知事に任命された。8ヵ月という在任だったが、財政引締や沖縄県農会を設立。退官後は鹿児島市長に就任。
 ◆亀井光政〈かめい みつまさ〉。明治15年〈1882〉、熊本県の出身だが没年は不詳。*第13代沖縄県知事
 東京帝国大学政治科卒業。長野県、兵庫県事務官。青森県、茨城県の警察部長、福島県内務部長を経て、大正13年〈1924〉6月24日、沖縄県知事に任じられた。
 当時の沖縄は未曾有の不況下にあり、県民は自生の植物ソテツの幹の芯を摺って採取した固形澱粉を料理して食する危機にあった。このことは『蘇鉄地獄』と称され、全国的に報道された。着任早々の亀井県政は、官民合同の経済振興会を設立する一方で、産業助成費獲得に奔走。これは功を奏し、第51回帝国議会は大正15年〈1926〉・昭和元年以降、5年間に総額262万円の支出を決定した。また、大蔵省に要請して、破綻した沖縄銀行、沖縄産業銀行、那覇商業銀行を合併させて『沖縄興業銀行』の設立を実現させている。
 ほかに沖縄県海外協会を発足させて移民を奨励、経済再建に尽力した。

 ◆大正14年〈1925〉。
 cloverラジオ放送開始
 7月12日。NHKの前身、JOAK〈東京〉、JOBK〈大阪〉、JOCK〈名古屋〉が放送開始。しかし、受信機の価格が高く、新聞社でも手を出せず、那覇の米穀商カネミヤ商店や青山小間物店などが有するのみだった。当時のラジオ受信機の値段は、レシーバー付き1人用鉱石ラジオ=14円。真空管2球付き=120円。同3球付き高声式=160円。普及用45円~60円。最高級外国製=1200円。一般勤め人の月収が22円から30円のころで、ラジオ受信機がいかに高価だったか推して知るべしである。ちなみにアメリカでテレビジョンが発明された年のことだ。