短期連載のつもりで始めた『県令・知事』シリーズだが、思いのほか長期に渡り、遂に年を越すことになる。それもこれも、いずれの時代もよどみなく動き、表舞台裏舞台の世相を刻んできたからだろう。先は長い。時の流れを追うことにしよう、
◆昭和5年〈1930〉
□デパート登場。
5月。鹿児島県に本店を置く「山形屋」が、那覇市西町に木造2階建てを新築して本格的営業を開始した。山形屋は、大正9年ごろから春と秋の2回、呉服と雑貨の出張販売をしていた。沖縄進出の主目的は、琉球織物の仕入れにあったが、大正11年2月、西本町通堂通りにあった60余坪の店舗を借り受けて営業した。しかし、黒糖の値の暴落で思惑通りにはいかないスタート。そこへ大阪支店から派遣されたのは33歳の若手経営者岩元栄之助。彼は沖縄事情を詳細に把握、敏腕をふるって経営を立直して、本格的なデパート「山形屋」を誕生させた。
※【官選知事時代】
◆守屋麿嵯夫〈もりや まさお〉明治22年〈1889〉、熊本県生れ。没年不詳。*第17代沖縄県知事。
東京帝国大学法律科に学び、在学中に文官高等試験に合格。卒業後、内務省入りして静岡県警部となる。以後、静岡県属理事官、兵庫県理事官及び工場監督官。大阪府警視、警視庁警視、静岡県警察部長、社会局書記官及び同保険部大阪出張所長などを歴任。昭和4年〈1929〉7月5日、沖縄県知事に任命された。
離島航路の改善、外交貿易調査会を設置する一方、小学校教員の初任給引き下げを断行。また、産業助成費の援助継続と増額を政府に要請し続けた。県民蔑視の傾向があったことや、自らも民政党に属しながら同党県支部との折り合いが悪く、昭和5年6月に同支部の「守屋知事排撃運動」に出会う。そのせいかどうかは明らかではないが同年8月26日、青森県知事に転出した。
◆井野次郎〈いの じろう〉明治10年~昭和27年=1877~1952=出身地は群馬県。*第18代沖縄県知事。
群馬県師範、東京高等師範を経て大正2年〈1913〉に東京帝国大学を卒業。東京都をはじめ熊本県、神奈川県などの郡長を歴任。昭和5年〈1930〉8月に就任。当時の沖縄は極度の食糧難で[ソテツ地獄]と全国に報じられるほど疲弊していたが、井野知事は直ぐに「沖縄県振興計画」の腹案を作成。就任翌年、閣議で同案は審議されて『昭和8年から実施』することが決定した。また在任中は、日本の15年戦争の開始時期にあたり、兵器献納運動促進、沖縄県文化講習所設置など、県政の戦争体制移行の役割を担った。沖縄の経済、社会、教育の振興に尽くした功績は大きいと評価する向きもある。昭和10年〈1935〉6月、宮城県知事に転出。
◆昭和6年〈1931〉
□15年戦争。
9月18日の柳条溝事件によって開始された日本の満州〈中国東北部〉の侵略、つまり満州事変から昭和20年〈1945〉9月2日まで、アジアでの日本と米国、英国、中国など連合国との15年間の戦争。昭和12年〈1937〉7月の盧溝橋事件をきっかけに日本と中国は全面戦争に突入した。日本政府は、宣戦布告はしなかったものの大本営を設置「国家総動員」を発動して体勢を立てた。これら国際関係が悪化して太平洋戦争になる。
◆蔵重 久〈くらしげ ひさし〉明治23年~昭和37年=1890~1962=山形県出身。京都帝国大学法律学科卒業。大阪府、島根県松江、岡山県津山の各地方裁判所検事。三重県警視、新潟県農務課長、福島県及び奈良県書記官、警察部長。岐阜県、兵庫県書記官、内務部長などを歴任して、昭和10年〈1935〉6月28日。*第19代沖縄県知事。
在任中、中央の指示に従い沖縄県軍事講演会や国民精神総動員実行委員会を結成したほか、県庁に国民貯蓄奨励課を設置するなど、総力戦体制に向け、銃後における戦争協力の素地づくりに奔走した。昭和13年〈1938〉3月24日、鹿児島県知事に転出。
多難な年、卯年が往く。辰年が来る。
竜に肖って来る年が、あなたにとって穏やかな日々でありますように祈願して、今年の筆を置く。
◆昭和5年〈1930〉
□デパート登場。
5月。鹿児島県に本店を置く「山形屋」が、那覇市西町に木造2階建てを新築して本格的営業を開始した。山形屋は、大正9年ごろから春と秋の2回、呉服と雑貨の出張販売をしていた。沖縄進出の主目的は、琉球織物の仕入れにあったが、大正11年2月、西本町通堂通りにあった60余坪の店舗を借り受けて営業した。しかし、黒糖の値の暴落で思惑通りにはいかないスタート。そこへ大阪支店から派遣されたのは33歳の若手経営者岩元栄之助。彼は沖縄事情を詳細に把握、敏腕をふるって経営を立直して、本格的なデパート「山形屋」を誕生させた。
※【官選知事時代】
◆守屋麿嵯夫〈もりや まさお〉明治22年〈1889〉、熊本県生れ。没年不詳。*第17代沖縄県知事。
東京帝国大学法律科に学び、在学中に文官高等試験に合格。卒業後、内務省入りして静岡県警部となる。以後、静岡県属理事官、兵庫県理事官及び工場監督官。大阪府警視、警視庁警視、静岡県警察部長、社会局書記官及び同保険部大阪出張所長などを歴任。昭和4年〈1929〉7月5日、沖縄県知事に任命された。
離島航路の改善、外交貿易調査会を設置する一方、小学校教員の初任給引き下げを断行。また、産業助成費の援助継続と増額を政府に要請し続けた。県民蔑視の傾向があったことや、自らも民政党に属しながら同党県支部との折り合いが悪く、昭和5年6月に同支部の「守屋知事排撃運動」に出会う。そのせいかどうかは明らかではないが同年8月26日、青森県知事に転出した。
◆井野次郎〈いの じろう〉明治10年~昭和27年=1877~1952=出身地は群馬県。*第18代沖縄県知事。
群馬県師範、東京高等師範を経て大正2年〈1913〉に東京帝国大学を卒業。東京都をはじめ熊本県、神奈川県などの郡長を歴任。昭和5年〈1930〉8月に就任。当時の沖縄は極度の食糧難で[ソテツ地獄]と全国に報じられるほど疲弊していたが、井野知事は直ぐに「沖縄県振興計画」の腹案を作成。就任翌年、閣議で同案は審議されて『昭和8年から実施』することが決定した。また在任中は、日本の15年戦争の開始時期にあたり、兵器献納運動促進、沖縄県文化講習所設置など、県政の戦争体制移行の役割を担った。沖縄の経済、社会、教育の振興に尽くした功績は大きいと評価する向きもある。昭和10年〈1935〉6月、宮城県知事に転出。
◆昭和6年〈1931〉
□15年戦争。
9月18日の柳条溝事件によって開始された日本の満州〈中国東北部〉の侵略、つまり満州事変から昭和20年〈1945〉9月2日まで、アジアでの日本と米国、英国、中国など連合国との15年間の戦争。昭和12年〈1937〉7月の盧溝橋事件をきっかけに日本と中国は全面戦争に突入した。日本政府は、宣戦布告はしなかったものの大本営を設置「国家総動員」を発動して体勢を立てた。これら国際関係が悪化して太平洋戦争になる。
◆蔵重 久〈くらしげ ひさし〉明治23年~昭和37年=1890~1962=山形県出身。京都帝国大学法律学科卒業。大阪府、島根県松江、岡山県津山の各地方裁判所検事。三重県警視、新潟県農務課長、福島県及び奈良県書記官、警察部長。岐阜県、兵庫県書記官、内務部長などを歴任して、昭和10年〈1935〉6月28日。*第19代沖縄県知事。
在任中、中央の指示に従い沖縄県軍事講演会や国民精神総動員実行委員会を結成したほか、県庁に国民貯蓄奨励課を設置するなど、総力戦体制に向け、銃後における戦争協力の素地づくりに奔走した。昭和13年〈1938〉3月24日、鹿児島県知事に転出。
多難な年、卯年が往く。辰年が来る。
竜に肖って来る年が、あなたにとって穏やかな日々でありますように祈願して、今年の筆を置く。