旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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人生いろいろ夢いろいろ

2008-07-31 11:52:29 | ノンジャンル
★連載NO.351

 人が集まるとどうしても〔まとめ役〕が必要になってくる。その道に秀でた人は、自らの集団、団体、組織作りをして〔指導者〕になる例も少なくない。メンバー・スタッフもまた、指導者を見習って後継者と成るべく努力する。
 例えば、普通にする就職にもそれは見られる。学校を卒業して、必ずしも自らが希望した職種に100%満たなくても、まずは仕事に就いたことを喜びとする。その喜びに浸っている間は昇進なぞ脳裏にはないが、仕事を覚えて自分の可能性と人生を意識しはじめると、1ランクでも上を目指すのは当然のことと言えるのではあるまいか。これも、まとめ役、指導者、後継者、経営者、専門家への道のひとつで、うまく行けばその人物をひと回りもふた回りも大きくするエネルギーになると思われる。
 しかし、いかに才能豊かで周囲から〔優秀〕の評価を得、将来を属望されたとしてもそううまくいかないのも世の中である。
 昔。
 琉球国を仕切った名宰相具志頭親方蔡温〈ぐしちゃん うぇーかた さいおん。1682.9.5~1761.12.29〉のころ。首里の名家に生まれた池宮城青年は学力優秀、品行方正。いずれ「琉球国を動かす大人物になるだろう」というのが王府内での専らの評判であった。やがて複数の親方〈王府の大臣級の職名〉や親雲上〈ぺーちん。次官級〉の推挙があって、彼は遂に宰相蔡温の側近役に取り立てられた。人びとの期待は大きく、池宮城青年自身もそれに応えて忠実に職務を励行していた。しかし1年後、蔡温は彼を側近から外してしまった。
 「これは、いかにッ!」
 解せない処分に対して重臣たちは、その真意を蔡温にだした。蔡温は静かに答えた。
 「なるほどこの若者は抜群に優秀で、与えられた職務は完璧に成した。このことは大いに認める。しかし、彼は王府の中枢にありながら、この国の将来について一言の提言も提案もなかった。いま琉球国に必要なのは、遺漏なく職務を遂行する若者ではなく、これからの琉球国はどうあるべきか、どう進むべきか、単なる夢でもよし。そのことを考え語る若い人材なのだ」
 蔡温の判断を読者はどう受け取るか。賛否いずれもあり得るが、現代でも大企業であればあるほど〔夢を語る〕若者が多くはいないように思える、筆者が世間知らずに過ぎるか、単なる危惧・老婆心いや老爺心か。そうあってほしいが・・・・。

 夢といえば。大きい小さいは別として、自分にとっての夢を果たした男がいる。
 友人喜納政宥〈69歳〉。
 「少年のころから海への憧れがあって、高校は迷わず県立水産高校に進み、卒業して琉球海運KKに就職。琉球丸、那覇丸、球陽丸に乗って世界の海を渡った。憧れの海の男を気取ってみても、初めは〔ボーイ長〕と呼ばれ〔長〕は付いているが、仕事は皿洗い。1年もして後輩が入るとボーイ長は〔ロバス〕になる。それでもトイレ掃除が主。3年もして一人前の船員扱いだ。そこで勤務態度が認められると〔ヘッドセーラー〕になり、つぎに〔コーターマスター〕舵取り、その上に〔ストーキー〕があって倉庫係に就く。海上生活では重要な役目だ。さらにさらにランクアップして〔ボースン〕甲板長。ここまでは船員が努力で成れる位置だ。あとは資格試験を経て、まず〔アプさん〕と愛称される見習い航海士。さらに3等航海士、2等航海士、1等航海士。そしていよいよキャップテン・船長になる。私は琉球海運時代に1等航海士の資格を取得。1963年、県立沖縄水産高校の実習船翔南丸300トンに一等航海士、のちに船長として乗った。太平洋、大西洋、インド洋での実習は厳しかったが、生きているという実感があった。なにしろ〔若い命と夢〕を乗せているから緊張と充実の毎日だったねぇ」
 喜納政宥はさらに語る。
 「私のころとは制度も異なり、いまは在学中に免許試験が受けられるから資格取得も努力次第だし、実習船も大型化してクラスの名称も変わってきたようだ。その後、実習船から県の水産調査船に乗り換え、1999年42年間の船乗り生活を終え、定年で船を降り陸の河童になっているが現役時代、私が舵を取った翔南丸で実習を積んだ若者の中には、後に母校の校長に就任した子もいるし皆、海のように広い心で、少年のころに描いた夢を実現させている。このことで私の夢もある程度、達せられたかな。大した夢ではないがね」
 いやいや、大した夢を果たした大した人生の達人として筆者は、喜納政宥と付き合っている。

喜納政宥

 人生いろいろ夢いろいろ。
 筆者は幼児のころ「大きくなったら陸軍大将になるッ」と言い切って両親を喜ばせたそうな。昭和18、9年のことだから責めないでほしい。
 同じ幼児でも、今の子たちの夢は壮大だ。知人の孫7歳は「沖縄の海をもっともっとキレイにして、世界中の人を泳がせる。そうしたらノーベル賞がもらえる」と言い、今日も海で遊んでいる。7歳にしてノーベル賞を狙うとはッ!この子はきっとやり遂げるに違いない。50年後60年後「沖縄にノーベル賞受賞者が誕生する!」なんとすばらしいことか。その朗報に接する日を待つ。楽しみがまたひとつ増えた。

次号は2008年8月7日発刊です!

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肩書き・職位・階級

2008-07-24 11:49:24 | ノンジャンル
★連載NO.350

 「ウチのパパは会社の社長だけど、キミんちのパパはどこの社長?」
 「????・・・・」
 保育園の幼児同士の会話である。
 問われた子は、考えてもみなかったことだったらしく目をパチクリさせるだけだったそうな。それを何気なく聞いてしまった保母さんの方が、真剣にならざるを得なかった。
 「幼児は、自分の父親が社長だから世の父親も皆、社長なのだと思い込んだとしても不思議はない。それよりも、問われた子が家に帰って、そのことを父親に確かめたとき、父親は何と答えたかが大切だと思う。[つまらないことを聞くんじゃない]としたか。[パパは社長ではないが、一生懸命働いている。それにキミのことを世界中のどんな社長よりも一番愛している父親だよ]と語りかけたか。家庭教育の重要な一面を考えさせられました」
 保母さんは、真剣に語ってくれた。

 世の中、いかなる機構、組織にも職位がある。その上下と人格とは必ずしも合致しないが階級、職位がはっきりしなければ、組織は機能しないのも確かだろう。会社の場合、会長・社長・専務・常務と続き部長・課長・係長・主任・社員の構造が普通ではないか。
 その中での昇格は、なんとも晴れがましく誇らしく嬉しいものだ。私にも経験がある。琉球放送[制作部]のみの名刺に、やがて[チーフ][制作副部長]の文字が、なにしろ自分の名前の上に付いた時には正直、小鼻をふくらませたものだ。親孝行ができたような気にすらなり早速、年老いたおふくろに印刷のインクも真新しい名刺を見せた。おふくろは言った。
「会社勤めに出て“長”が付いたら一人前だよ。これで次は社長だね」
私は胸を張って「うんッ!」と答えたのを覚えている。


 職位。身近な警察組織はどうなっているか。
 国、あるいは自分の住む地域の治安、秩序、安全を守るという高邁な理想を胸に[警察官]を志す。エリートは別にして普通、資格試験を受けて採用されると、まず拝命するのが巡査。そして、巡査長・巡査部長・警部補・警部・警視・警視正・警視長・警視監・警視総監と昇格していく。組織もまた、国家公安委員会に属し、警察行政を統轄する中央機関・警察庁をトップに全国都道府県に警察本部を設置。さらに、これらの一定区域を統轄する機関がわれわれの近くにある警察署。ここは活動の基本的単位機関で全国に約1200余あるそうな。そして、離島などにある駐在所は巡査が受持ち区域に家族ぐるみで赴任して業務にあたるためか、警察組織といういかめしさはなく住民に親しまれている。派出所は巡査が交代で勤務。また交番は、まちの要所に設けられ活動の第一線にある。最近は国際化に伴って外国人の出入りも多く、漢字を廃してローマ字「KOBAN」の表示になった。
 少年の頃、悪いことはしていないのに「警察」「巡査」という言葉にビビリを感じた。戦前の警察権力のあり方を親の話や書物で知り、戦後の米軍MPの権力行使を生活の中で実感してきたせいだろう。制服もなんとなく高圧的権力の象徴そのものに見えた。


 戦前の警察官を詠んだ狂歌。
 ♪身に着きてぃ居しや むる官ぬ物 な胴ぬ物てぃしや サナジびけい
 歌意=[警察官が]身に着けているものは、すべて国からの支給品。自前の物はと言えば、フンドシだけではないか。威張るなッ威張るなッ!
 庶民感情の風刺精神が発揮された痛快な1首。しかし、これは戦前のことで現在は民警一致。権力をかざして威張っている警察官は一人もいない・・・と思う。
 沖縄における警察業務の始まりは[沖縄県]が成立した明治12年〈1879〉4月4日のこと。熊本県分遣隊の管轄下に置かれ、巡査は鹿児島県人、熊本県人で占められていたが、言語や風俗習慣の異なりを理解できず、しばしばトラブルが起きたため地元出身者の採用に踏み切っている。明治15年、美里間切泡瀬村〈現沖縄市〉高江洲某、首里区久場川出身翁長某の二人が沖縄県人初の巡査と記録されている“某”とあって、フルネームが残っていないのはなぜだろう。
 那覇の遊所「辻」のジュリ〈遊女〉は、当時の巡査をこう詠んでいる。
 ♪顔見りば里前 抱ち欲さあしが ガマクから下に 太刀ぬさがてぃ
 歌意=巡査にあなた。顔をみればいい男で抱きつきたいけれど、いつも腰に太刀〈サーベル〉をさげているんだもの。艶消しだワ!怖いワ!

 自衛隊の職位はどうなっているか。積極的には知りたくもない。しかし、軍国主義時代のそれになってはならないという思いを込めて、旧日本軍の階級を記しておこう。
 *二等兵。*一等兵。*上等兵。*伍長。*軍曹。*曹長。*少尉。
*中尉。*大尉。*少佐。*中佐。:大佐。*少将。*中将。*大将。*元帥。

次号は2008年7月31日発刊です!

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真6月の会話

2008-07-17 16:28:31 | ノンジャンル
★連載NO.349

 梅雨明けを待っていたかのように、温度計はウナギの勢いで水銀を押し上げている。
 7月7日―小暑。19日―土用。21日―海の日。22日―大暑。24日―土用の丑と暑い季節用語を揃えている。それもそのはずで、旧暦が四季を動かす亜熱帯沖縄は、新暦7月3日に旧暦6月に入った。この6月のことを特別に「真6月=まるくぐぁち」と言い、1年で最も熱い月としている。4月後半、初夏を告げるデイゴの花の咲くころまでは、暑さは感じるものの春風の名残りがあって過ごせたが、梅雨が明けて真6月に入るや灼熱の太陽は、容赦なく人間イジメにかかった。いやいや、イジメと受け取るのは、冷房生活に慣れきったわれわれのヒガミかも知れない。

 街中で友人知人に出会う。ほかの季節ならば、それなりの挨拶を交わし、1、2分程度の会話をするのが普通だが、真6月の街頭ではそうはいかない。おたがい眉間にシワを寄せ、口をへの字に結んだ状態では、声を発するのも億劫。挨拶や会話は[いずれ涼しい所で]と、アイコンタクトをとってすれちがう。親しい立ち話しはしておれないのであり、それをあえてしないのが真6月の常識である。
 夏の感じ方、夏の会話にも世代感が見え隠れする。冷房の効いた会社の喫茶室に、まさに照りつける太陽に翻弄されてきたばかりのご老体が入ってきた。おしぼりを使い、冷たいお茶を一気に飲んだご老体は、フーッと息を吐いて言った。
 「家んかい坐ちょーてぃん 暑さんどぉ=家の中にジッと坐っていても暑いぞ、昨日今日は」
 それを受けて、同席の若い女性が目を丸くして発して一言。
 「へッ?お宅にはクーラーが入っていないのですか!」
 そうではないのである。「家の中にジッと坐っていても暑い」と言うのは、それほどの猛暑だから[キミたちも、真昼の外出はお気をつけなさい]との先輩のやさしいメッセージ。その言下にある[思いやり]を察知しなければならないのである。「お宅には、クーラーは入っていないのですか?」とは、いまどき何と失礼なッ!」

 先輩方との会話は楽しい。
 「真6月ですが、ウクタンディんサーイみしぇびらに」と挨拶をする。「ウ」は[御]の敬語。「クタンディ」は疲労の意。「サーイ」は差し障り・不調。ほかにも妊娠もサーイである。つまり「酷暑の日々。何の障りもなく過ごしていらっしゃいますか」と、声をかける。すると、返答はすぐに返ってくる。
 「いい。ニフェーどぉ。汝達ぁん子ん叶てぃ歩っちゅみ=はい、ありがとう。お前さんとこも(健康でありたいという願いは)叶うて元気にしているかい」と、本人はもちろん、家族の息災まで気遣ってくださる。

 カナイについては、古語に「願い叶い=にがい かない」があって、ものごとは先ず願いに始まり、その達成に向かって努力をすれば[叶う]とする考え方が古くからある。優れ者、強者、働き者には「カナヤー」と言い、願いを聞き努力のさまを見とどけた神が与えた称号のように思える。言い換えれば「カナヤー」は努力によって、ものごとを望み通りに叶えることのできた人物なのだ。

 ついでに、夏の琉歌を1首。
 ♪夏ぬ夜ぬ習れや 語れ尽くさらん 思い云言葉ん 残る恨みしゃ
 〈なちぬゆぬ なれや かたれ ちくさらん うむい いくとぅばん ぬくる らみしゃ〉
 歌意=夏の夜は短い。彼女と逢って愛の言葉や思いのたけをすべて語ったつもりでも、まだまだ言い尽くせない思いが残っている。短夜が何とも恨めしい。
 さもあろう。恋人たちにとっては、時間はいくらあっても足りないだろう。よしんば明け方まで語り合ったとしても、今度は暁を告げ、別れを促す鶏を恨むことになる。
 夏の夜のデートの場所はどうか。昭和30年半ばまでは、青い月夜の浜辺、松風騒ぐ村ハジシ〈はずれ〉や橋の上・下が定番だった。しかし、私なぞ1度ならず約束の場所へ蚊取り線香を持参したものだ。なにしろ、浜辺のアダン陰や村はずれの松の下、橋の辺りは、ガジャン〈蚊〉が集団で出没。いやさ、室内でも彼らの嫉妬に狂った攻撃を受けざるを得なかったからだ。
 いまどきの恋人たちが羨ましい。街中にデートスポットがいくらでもあり、人目を避けて村ハジシに行く必要もない。クーラーは夏をよそごとにし、蚊取り線香の世話にもならずにすむ。
 沖縄の夏はこれからだ。真6月が過ぎても猛暑はおさまらない。つぎにやってくるのはタナバタティーダ[七夕太陽]。旧盆に演じられる念仏踊りエイサーの太鼓に煽られたわけでもあるまいが、旧七夕〈今年は新暦8月7日。立秋〉前後が[1番暑い]とされる。真6月も1番暑く、沖縄には[2番の暑さ]はないのである。旧盆を終えて、村々のエイサー太鼓の音が遠のくころの朝夕一瞬、気持ちばかりの涼風を感じることができるが、それでも残暑は10月までつづく。


 夜8時。ガラス窓を叩くものがいる。ジージャー〈蝉〉だ。明かりに向かって飛んできたのだろう。外には地熱が残っている。彼もわが家のクーラーの恩恵に浴したいらしい。

次号は2008年7月24日発刊です!

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63年目の夏・ひとりひとりの戦争

2008-07-10 12:40:02 | ノンジャンル
★連載NO.348

 「火種を消すな!」南風原春子。「古鉄ひろい」たかはしのぶこ。「サトウキビが食べたい」松原慶子。
 沖縄県退職教職員会の会員が書いた読み聞かせのための文と絵の本など数冊。沖縄平和祈念資料館が公募した「児童生徒の平和メッセージ」作品数編。5月後半から6月23日、日米戦争沖縄地上戦終結の日をピークにこの方、戦争体験記や平和への道、考察をつづった作文を意識して目を通してきた。国にとっては1度の戦争でも犠牲になった人々、生き残った人々の数だけ戦争はあったことを再認識せずにはおられない。そして、そのことは、63年経ったいま、戦火を潜ってきた者が個人の体験を通して児童生徒に伝え、少年少女たちも祖父母や両親から聞き、素直に戦争を否定し平和を希求していることを読み取って胸を熱くせざるを得ないのである。
 先年逝った詩人・作家船越義彰さんが生前、茶飲み話でもらしていた言葉を思い出す。
 「僕自身、沖縄戦で負傷。生と死の間を往き来して、幸か不幸か[生]を得た。戦争体験は重い荷物だ。担ぐのはやめて、もう降ろしたい荷物だ。しかし、降ろしたくても降ろせない、いや、降ろしてはならない荷物なのだよなぁ・・・・」

 6月12日付、沖縄タイムス紙夕刊で、またひとつの[戦争]を知った。
 「沖縄戦時に海軍沖縄方面根拠地隊で、海軍司令部壕において自決したとされる小山正信さん〈広島県〉の家族がこのほど、沖縄などの戦地から家族に送られた手紙19通を旧海軍司令部壕事業所〈豊見城市〉に寄贈した」という書き出しだ。
 手紙は1943年6月から1945年3月まで、ラバウル島や沖縄から妻幸枝さん〈現在88歳〉に当てたもの。長女橋本恵美子さん〈64歳〉が1、2歳のころ小山正信さんは沖縄にいた。手紙には〈娘恵美子は〉「一歩二歩と歩く様になったとの事。一層可愛い事と思ふ」「よくご飯を食べるし、よくお喋りするとの事で小生の眼の前にその様子が浮かんで来るやうだ」〈1944年12月〉と、愛娘への思いがつづられている。一方で刻々と厳しくなる戦況報告とともに「今度は絶対的に白木の箱に入るものと覚悟している」〈1944年12月〉「最後の訣別の辞をおくる事になった」〈1945年2月〉などの文面。米軍上陸直前の1945年3月の手紙には「敵の来るのを待つ身を想像してみてくれ。進撃なら愉快だが〈敵が〉来るのを待つのは嫌だネ」と記されているそうな。[そうな]というのは私はまだ、小山正信さんの妻への手紙を直には読んでいないからである。小山さんは、1944年沖縄に着任。1945年6月、太田實司令官の自決後「海軍司令部壕で5人の幕僚とともに自決したとされる」と、沖縄タイムス紙は報じている。

故小山正信さんの手紙
 推察するに小山正信さんは当時25歳前後か。妻の幸枝さんの現在の年齢からすると孫ほど。[一歩二歩と歩む様になったとの事]の愛娘恵美子さんからしても子の年齢。しかも、広島県在住と知って愕然とする。妻と娘は63年間、原爆と沖縄戦という二重の[戦争]を背負いつづけてきたことになる。

故小山正信さん遺品

 劇団「真永座」主宰。琉球芸能組踊技能保持者などの芸能資格を有し、現役の第一線で活躍している仲嶺真永さんは、1935年〈昭和10年〉6月28日南洋諸島サイパンに生まれている。日本の南進国策による移民とは異なり、父真一が貨物船「浦島丸」を所有していて、早くからサイパン島を拠点として貨物を流通していた。真永少年9歳を数えた昭和19年11月末ごろ、日米戦争はいよいよ激化。仲嶺一家は沖縄に引き揚げることになった。サイパン島駐屯の日本海軍は、3隻の引揚船を当てるという。その情報を得た仲嶺一家は、家族会議を開いた。
 「持船はともかく、家族は分散して引揚船に乗ろう。一家まとまって乗船した場合、敵の潜水艦に撃沈されると全滅になる。誰か一人でも生き残らなければなるまい」
 会議はそう結論を出した。非常時の中では[死なば諸共]と考えるのが人情と思われるが、仲嶺一家は分散乗船することによって、誰か一人でもの[生き残り]を選択したのである。先発は祖父真秀、兄真昭、そして真永本人。次いで出航する船には乗らず、数日おいた3隻目に母シゲ、長姉つる子、次姉信子、弟真成は乗船。それぞれ一路沖縄をめざしたが途中「沖縄玉砕」を無線で知った引揚船は、進路を変更。神奈川県横浜港に向かい無事に着いた。
 「サイパン島から横浜まで。4、5日だったような気もするし、半月ほども要したような気もする。2隻目の船は魚雷にやられたそうだが、誰か一人でも「生き残ろう」の思いは、一人も欠けることなく達せられた。先発のボクたちは横浜に着くまで、引揚船の暗い船底で後続の母たちの無事をひたすら手を合わせて祈っていた。後日談になるが母たちは母たちでボクらの無事を祈りつづけていたそうだ。その後、和歌山県田辺市に移り住み、土地の人々の世話になった。帰郷したのは昭和22年始め。いまこうして舞台人として生きていることの幸せは、舞台に立つたびにかみしめているよ」。
 仲嶺真永さんは、口元を引き締めて語る。彼は現在、那覇市牧志公設市場寄りに工房を持ち演劇、舞踊などの小道具を製作する「仲嶺小道具店」を営む傍ら、後進の指導に[生き残り]の情熱を傾けている。

仲嶺真永

過日。
 沖縄口で語る「沖縄戦100人の証言」のドキュメンタリー映像の上映に際し、芥川賞作家目取真俊氏、詩人高良勉氏らとともにパネラーとして参加した。私を指名したのは、沖縄口をほどほど使えることでの人選だったようだが、パネラーの中では年長だった。そのことを会場にいた50余年来の友人、ジャーナリスト・作家森口豁に話すと彼はこう云った。
 「戦後を小学校1年生で始めたオレたちに、語部の役が回ってきたということさ」
 二人とも1938年生まれ。

次号は2008年7月17日発刊です!

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戦争を見る目・平和を願う心

2008-07-03 09:06:12 | ノンジャンル
★連載NO.347

 沖縄は長い夏である。
 季節だけではない。日本と米国が行った戦争犯罪の真相をまた、1から語り直さなければならない季節なのだ。その[1からの語り直し]は、63回を数える。日米戦争は1度だが、それに巻き込まれた人々にはその数だけの[戦争]があった。昭和20年6月23日、沖縄における地上戦は終結。この日を沖縄戦全戦没者の御霊を鎮魂するため「慰霊の日」と制定した。それに合わせ沖縄県及び沖縄県平和祈念資料館は、今年も児童、生徒の平和メッセージ作文募集をした。中学校の部の優秀賞、八重山は竹富町立西表中学校3年生松山忠明君の作文を紹介しよう。この少年一家にも確かな形で戦争は実在している。

 『祖父からのメッセージ』

 僕の家には防空壕があります。誰が見てもすぐに分かるほど口が大きく開いた壕が二つとふさがれているものが一つ、計三つの壕があります。これは実際、沖縄戦に使われたものです。たくさんの人が入れる大きさにするため「一生懸命掘ったんだろうなぁ。ああ、この中ですし詰めになって、息をひそめながら戦闘機が通り過ぎるのを待っていたんだろうなぁ。嫌だなぁ」。防空壕は六十三年という時を簡単に飛び越え、僕にいろんな事を想像させます。特に壁についているツルハシの跡は「よいしょ、よいしょ」という掘っていた人の息遣いまでも連想させます。
 祖母の話によると僕の叔父さんは、この壕の中で生まれたそうです。だから祖母は「アメリカに見つかるから静かにさせろ。もう一回泣いたら殺すぞ」とおどされ、何度も何度も必死に謝ったそうです。
 また先日、防空壕の上の草かりをしていた時、僕はぽっかり大きく開いた穴を見つけました。嫌な感じを抱きながら、祖母にそのわけを聞きました。すると予想は的中し「弾痕さ」という答えが返ってきました。僕はくらくらしました。若い頃の祖母たちの悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえた気がしたからです。六十三年も前の現実が僕の目の前で起きているような、そんな錯覚に陥りました。そして、僕は祖父のことを思いだしました。
 僕の父は今年で六十一歳になります。戦争が終わった翌年に生まれたので、戦争を知りません。もちろん母もです。唯一知っているのは祖母だけです。祖母は今年で九十二歳になります。そんな祖母は、祖父と一緒に戦争時代を生き抜いてきました。祖父は僕が生まれる二年前に亡くなりました。だから、会ったことも話したこともありません。でも、祖母が祖父のことを語ってくれます。それは、祖父のことを教えようとしているのか、戦争のことを伝えようとしているのか、祖母の真意は分かりません。けれど、祖父のことを聞くたびに、僕は複雑な気持ちになります。
 戦時中、祖父は兵隊で満州などに行って戦っていたそうです。詳しいことは祖母も語らないので、祖父が話さなかったのだと思います。それでも、戦争が終わって帰ってきてからの祖父の様子から、戦地のすさまじさが分かります。祖父は、毎晩うめき声を上げ、うなされていたそうです。きっと戦場を夢で見て、うなされていたのでしょう。五体満足な姿で帰ってきても、精神に傷を負って帰ってきていたのです。その後祖父は、兵隊を育成する青年学校の教官になりました。僕は話を聞いて、人を殺す兵隊を育てていたのが祖父と知り、少しショックを受けました。
 また、祖父は「勲章」をもらっています。これは、戦争で活躍した人に国がご褒美としてくれるものだそうです。要するに、僕の祖父は戦場で多くの人を殺したのです。しかし、しかたなったのです。そうしないと自分の命が無くなるから。「勲章」をもらえることは名誉なことかもしれません。でも、その内容を考えると、とても残念でなりません。僕の祖父は「戦争で人の命を奪った」。そう思うと祖父の苦しみは祖父だけではなく、僕の世代にまで受け継がれているような気がします。
 戦争はきれいなものを簡単に黒く塗りつぶしてしまいます。僕は会ったことのない祖父のことを良い話の中で思い続けたいです。漁が上手だったという祖父。まじめで厳しかったという祖父。それなのに戦争のことを思うと祖父の顔が苦しみでいっぱいになります。僕は戦争がにくいです。
 修学旅行でもチビチリガマとシムクガマでの話を聞き、複雑な気持ちになったことがあります。どちらも住民が避難していた壕です。けれど、チビチリガマにはアメリカ人と会話できる人がいず、シムクガマにはハワイ帰りの二人がいました。英語が話せないチビチリガマにいた千人は、アメリカ人を恐れ、捕まって殺されるくらいならと集団自決をはかりました。シムクガマの千人は「アメリカ人は怖くないよ。大丈夫だよ」と言われ、捕りょとなり助かりました。英語が話せるか話せないか、ただそれだけの違いに命がかけられるなんて・・・・。

シムクガマ


チビチリガマ

 戦争。いろんなものを壊していくもの。いろんなものを踏みにじっていくもの。僕は戦争を経験していません。けれど、祖母の話や家にある壕などからから追体験させられたことだけで十分です。もう戦争はしたくありません。それなのに、今も世界から戦いの音が消えることはありません。アメリカとの戦いで治安が悪くなったイラクや核兵器の標準を日本に向けている北朝鮮。日本でも憲法九条を変えようとしています。どうすれば、私たち人類は戦いをせずに平和に暮らすことができるのでしょう。
 それには画期的な方法はなく「みんなが平和でいて欲しい」と願い、そこに向かって歩むことが一番だとおもいます。「イチャリバチョーデー」の言葉が存在するこの沖縄から平和のパワーを全世界に届けたいものです。

 忠明君へ。
 キミが言うように、ごく普通に生きていた人を不幸にしてしまうのが戦争です。キミのお祖父さんを責めることは誰にもできません。人々をそこまで陥れた、あるいは再び陥れるかも知れない国体の在り方は、しっかり見ておかなければなりません。ボクも自分のできることで平和を希求していきます。ボクはキミの島の歌「でんさ節」が得意だよ。いつか一緒に歌いたいね。お祖母さん、そしてご両親によろしく。上原直彦より。

次号は2008年7月10日発刊です!

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