旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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時を紡ぐ三線二題

2014-03-31 22:11:00 | ノンジャンル
 「1957年(昭和32年)に落成した沖縄タイムス旧社屋の基礎を支えた“琉球松”の杭を材三線を作ってみました。どうぞお気軽に奏でて下さい」。
 2014年1月11日、琉球松の芯部を棹にした1丁の三線が沖縄タイムス社に赴いて見せてもらった。同社にとっては社歴を語る貴重な物件だけに社長室・社長豊平良孝氏の奥の木製の三線立てに堂々とそれは鎮座していた。
 通常、三線の棹部分は密度が高く、しかも硬度のある黒檀やユシギなどが使われる。新城伸治氏と共に実際の製作に携わった同所相談役慶佐次興達氏は、「戦後このかた、沖縄の文化を支えた旧タイムスホールの地下に眠っていた琉球松500本をむざむざ廃棄するのはしのびない。担当者に相談して数本をゆずり受けた。もちろん、特殊な加工を施し、時間をかけて完成をみた。しっかりした味わいのある棹が生まれたと自負している。まだ数丁しか生まれてないが、タイムスホールゆかりの方々にもぜひ弾いてほしい。音色を確かめていただきたい」。
 三線を作る・打つのではなく(生む)と言い切る職人の誇らしさが心に響く。
 1丁1丁に魂を込めて生み出す三線は、それぞれが(世界で1丁)の琉球楽器だけに(生む・生まれる)という言葉が職人の(入魂)を伝えているように思えて感動的だ。
 また、この琉球松はペーパーナイフや机、腰掛けなどに生まれ変わり、55年の歳月を経て、さらに“未来を拓く”という願いを込めて新社屋落成の記念品になり、多くの人たちに配られた。
 この三線を社長室にじっと鎮座させて置くにはもったいない!。
 2014年3月4日の第22回「ゆかる日まさる日さんしんの日」に借り受けて披露した。三線は引いて初めて三線。同ラジオ番組生放送中、歌者よなは徹には「まく弾ち・さんしん」を、八重山歌者大工哲弘には「やぐじゃーま」を弾歌ってもらった。
 大工=三線は弾く人が選ぶのでなく、三線が弾き手を選ぶと言われているが、選ばれた私は幸せ者。念入りに弾いて歌ったら、不思議な力を導いてくれて、完璧に歌えた。棹は「ちょっと灰入がかった光沢が上品」。
 よなは=森林にあった樹木ではなく、地中に眠っていた琉球松が音を出すと思うと緊張せざるを得なかった。新しい命のいい音色だった。
 「ゆかる日まさる日さんしんの日」企画、実施している筆者は、これを勝手に「タイムス三線」と名付け今後、都度紹介してみようと思っている。

 三線ばなし。
 「里帰り三線」と名付けられた三線の棹を見ることが出来る。
 沖縄県立博物館・美術館(那覇市おもろ町)において2014年2月18日~5月11日までの日程で開催中の「三線のチカラ~形と美と音の妙展」展示されている1丁の三線がそれだ。
 *ハワイからの里帰り。
 帰米2世の琉球古典音楽奏者で、米国の人間国宝に認定された故仲宗根ハリー盛松氏(1912~2011)が愛用した三線である。
 仲宗根氏は1953年、ハワイで琉球古典音楽「盛風会」を立ち上げハワイのみならず米国、欧州、カナダなど各地で琉球三線音楽の普及に努めた方。年代ものの三線の収集家としても知られ、沖縄県指定有形文化財の富盛開鐘(とぅむい けーじょう=県立芸術大学蔵)も仲宗根氏の秘蔵品の1丁だった。
 「里帰り三線」と名付けられた三線の棹は、与那城型(ゆなぐしく)。棹の下部、野坂(ぬざか)からチーガ=胴=のさらに下部の(尾WU・じゅー・糸掛けの部分が赤みがかっているところから自ら「尾アコー・WUアコー」と愛唱し、数10丁ある所有三線の中でも特に重宝して、大舞台にのみ弾いていたという。
 この里帰り三線をハワイから持参し、県立博物館・美術館に手渡した仲宗根氏夫人で琉球舞踊家の渡具知光子女史は語る。
 「機嫌のいい夜は、尾アコーを出して丁寧に弾き、そのまま抱いて就寝するくらいだった。生前、いずれは故郷沖縄県に寄贈するようにと、言いつかっていた。主人も尾アコーも里帰りができて心安らいでいるでしょう」。
 県立博物館・美術館の学術員・園原謙主幹は「明治、大正期に製作されたものではないか」と、推測している。

 *タイムス三線。里帰り三線。
 三線は、人間同様生まれるべくしてこの世にある。殊に鑑定を受けて(年代物・名器)と認定された三線は、所有者とともに数奇な生き方をしてきたものが多い。名人が弾いた三線は。戦火を潜り抜けてきた三線。家宝として所蔵される三線。一家の慶事を記念した三線・・・。逆に興味本位で入手したものの、弾かずじまいで押し入れの番をしている三線も少なくない。そんな三線は(音を出したい!歌に乗せたい!)と夜な夜な泣いているのではなかろうか。三線は弾かずに置物にしているとチーガの張りが裂けたり、糸を巻いたカラクイが甘くなったりする。毎日とは言わないまでも三線は所有者とともに(呼吸)をしたがっている。三線の気持ちを察してあげたい。

 ♪ただ三筋糸や誰が掛きてぃ置ちゃが 思事ぬあまた我身に知らち
 〈ただ みすじいとぅや たが かきてぃうちゃが うむくとぅぬ あまた わみに しらち

 歌意=たった三筋の糸。誰が掛けて今に伝えたか。昨日今日明日の思いのたけを(弾く私)に知らせてくれる。
 さあ、今宵は久しぶりに三線とともに(呼吸)をしてみることにする。




琉歌・春よ来い!

2014-03-20 00:10:00 | ノンジャンル
 3月下旬。
 確かに陽は長くなり、ティーダ(太陽)の輝きも鮮明になってはきたが、寒さを押し退けるほどの力は発揮していない。行きかう人びと、
 「もうすぐ温かくなるね」。
 そう挨拶はするものの、その「もうすぐ」が簡単にはやってこない。「もうすぐ」に期待して、3月の声とともに「もうすぐ!もうすぐ」を連発してきた人も、その言葉に飽きたかして、
 「われわれがあまりにも春を引き寄せようとするのが、自然の神の機嫌を損ねて、温かさを出し惜しみしているのだろうよ。“もうすぐ”は口にはせず、いましばらく、こらえていようよ」と言うようになった。春も人間の都合通りにはやってこないもののようだ。そこで神さまには知れないように、秘かに(春の琉歌)を拾い集めて(春の気分)を先取りすることにしよう。

 ♪梅ぬ花笠や 深山鶯ぬ 晴り間無ん雨ぬ 頼ゐなたさ
 〈んみぬ はながさや みやま うぐゐしぬ はりまねん あみぬ たゆゐなたさ

 歌意=“わか世の春”を里びとに告げようと、奥山で巣立った鶯はやってきたことだが、里は止むことを知らない春雨・・・・。しかし、鶯の訪問を待ちかねて咲いた梅は満開。その枝の下はまるで花笠のようで、鶯が雨宿りをする(いい頼み)になった。
 「わが庭の梅の木陰で雨をしのぐ鶯よ、濡れてはいけないよ。今日はここを宿にするがいい」と、鶯に語りかけた詠者。なかなかの風流人。鶯もまた返礼に(ホーホケキョ!)と三声、五声鳴いたにちがいない。
 自然描写もさることながら、鶯を男性、梅を女性として解釈してみるのも面白い。さしずめ雨は(世間の目)と言うところ。
 人目をさけて思いびとのもとにやってきた男。女もまた待ちかねていたかして、温かく迎え入れた。そこはもう梅の香りに包まれた花笠のもとの世界、愛の世界だろう。早春は恋の季節である。

 ♪思みなしがやゆら 何時ゆゐんまさてぃ 花ぬ影映す 月ぬ清らさ
 〈うみなしがやゆら いちゆゐんまさてぃ はなぬかじ うちゅす ちちぬ ちゅらさ

 *思みなし=思いなし。気のせい。
 歌意=気のせいだろうか。花を照らし映す今宵の月。いつもの春の月とは異なり、一段と清らかで美しい。
 詠者の繊細な感性は、さらに心にとどく。早春の宵、花も美しいだろうが、それを愛でてそぞろ歩く人影も絵になる。歌人与謝野晶子は、京都の春の夜桜見物に出かけたおり、1首を詠んでいる。
 “円山の祇園の夜桜清く 今宵会う人みな美しき”
 彼女はひとりで出掛けたのか。それとも夫鉄幹と二人連れだったのか。それによっても月、花の美しさは異なるだろう。月がどんなに照り映えても、花がどんなに色鮮やかに咲いていても、一人で愛でるのは、いかにも味気ない。やはり美しいモノは複数で同時に共有、共鳴仕合ったほうがいい。それが愛する人とふたりだけなら(月、花〉はなお美しい。
 こんなことを詠んだ琉歌がある。

 ♪照り清らさあてぃん 咲ち清らさあてぃん 誰とぅ眺みゆが 月ん花ん
 〈てぃりぢゅらさあてぃん さちぢゅらさあてぃん たるとぅ ながみゆが ちちんはなん

 早春。心地をよくしてくれるのは月、花ばかりではない。春雨もまたいい。

 ♪珠散らすゆゐん まさてぃ嬉しさや しみじみとぅ降ゆる 春ぬ夜雨
 〈たまちらす ゆゐん まさてぃ うりしさや しみじみとぅ ふゆる はるぬ ゆあみ

 *珠=宝石のこと。珠玉。この場合「真珠」と特定すると情景が感受仕易い。
 歌意=歌びとは部屋の中で暖を取っている。そとは雨・・・・。夏の雨とは異なり、しみじみと降る春の夜雨。まるで真珠をまき散らすようでなんとも心地よい。春近かを知らせてくれるようで嬉しくなる。
 詠者は尚鷺泉(しょうろせん)と号する王家尚氏の末裔。書画骨董に通じ、詩歌、絃歌、文芸をよくした風流人。殊に園芸は自らの邸宅に造園をなし、四季折々の花、樹木を植栽して人びとの目を楽しませていた。さすが王家直系らしく、晩年はもっぱら風雅の道を歩んでいたが、沖縄戦に没した。

 ♪便ゐ押す風ぬ 吹ち回ぁし回ぁし 隣ゐ咲く梅ぬ 匂いぬしゅらさ
 〈たゆゐ うすかじぬ ふちまぁし まぁし とぅなゐ さくんみぬ にうぃぬ しゅらさ

 *吹ち回ぁし回ぁし=吹いては止み、止んでは吹く(薫風)。
 *しゅらさ=すばらしいの意。すーらーさとも言う。
 歌意=隣家の庭に梅が咲いたらしい。それを知らせるかのように吹いては止み、止んでは吹く早春の風が香りを運んできてくれる。奥ゆかしいことこの上もない。
 桜、梅、ひまわり、つつじ。そして外来のイペー、カエンカズラなどなど沖縄は花の香りに包まれている。渡り鳥たちも、あちこちの湿原、湖、海辺にしばし羽をやすめ、北へ南へ渡り始めている。
 「もうすぐ本格的な春だ!」
 いやいや!この時点では「もうすぐ」なぞとは口にすまい。神さまが意地悪をして春を遅らせるかも知れない。花鳥風月を楽しみ、入園、入学、進学を心待ちにしている近所の童たちの明るい声に春を待とう。
 筆者の部屋の南向きのガラス窓は開け放ってあるが、確かな春風が遠慮なく訪ねてきてくれている。

 ※3月下旬の催事。
 *第6回沖縄国際映画祭
  期間:3月20日(木)~24日(月)
  場所:沖縄コンベンションセンター周辺

 *ON -NA-GO海開き2014 in 喜瀬ビーチ
  期間:3月29日(土)
  場所:喜瀬ビーチ

 

生まれ年を祝う・13祝い

2014-03-09 22:58:00 | ノンジャンル
 「孫が13歳の生まれ年。内祝いをする。話のネタにおいで下さい」。
 その孫は男児。孫自身がデザインしたというイラスト入りの招待状を祖父にあたる友人に手渡しされた。彼もまた今年午年の生まれの73歳。断る理由は一切ない。むしろ、招待に感謝し言葉に甘えた。
 いわゆる「年日祝儀=トゥシビースージ」である。沖縄の人生祝儀のひとつ。
 この祝儀は生後満1年の「満産祝儀=マンサンスージ」に始まり、13歳~25歳~37歳と12年越しに行う。殊に男児の13祝いは、昔の観念だろうが「大人への出発」の意味を有して盛大に祝う。現代的には「7年後に迎え、立派な成人になるための予祝」と位置づけする向きもある。一方、女児の場合は、次の25歳には(他家に嫁いでいる)のが普通として、実家で成す最後の人生祝儀・儀式と捉え盛大だ。このところ13祝いは影をひそめていたが、ここへきて復活の兆しがこれまた顕著になってきた。

 午年が明けた1月12日。
 沖縄市越来小学校(ごえく)では、13祝いをPTAの企画で催した。同校では10年ぶりの開催。該当児童は47名。この日、児童はおめかしして会場体育館入り。父母の三線演奏やマジックショーなど祝いの余興に終始笑顔。各家庭から1品ずつ持ち寄った馳走にご満悦の態。「7年後、20歳には立派な大人になるために、いまから努力する」と、決意を披露する13歳もいたそうな。その後、13歳たちは父母に対して(感謝の手紙)を渡すプログラムも組まれていて、有意義な親子歓談のひとときだった。
 那覇市の泊小学校でも「13祝い」があった。

 13祝い。
 一方には厄祓いの信仰的思考もあったが、祝儀を成すことによって厄を外し、健やかな成長を願う儀式としての考え方が濃い。
 12年毎に回ってくる生まれ年。これは、成長とともに肉体的にも精神的にも「孵でぃー変わゐん=生まれかわる」という意味もあり、新たな出発の節目と捉えると、大いに行ってもよい儀式ではなかろうか。
 戦前までの13祝いの馳走は、祝事には欠かせない赤飯、豚肉を主に白蒲鉾、こんにゃく、シイタケなどを入れた濃い白味噌で作った汁ものイナムドゥチ。昆布とスンシー(筍)干瓢、赤蒲鉾の細目の切りなどをほどよく調和させたクーブイリチー(昆布炒め)などが出た。因みにイナムドゥチという料理名は、かつてはイノシシ肉を用いていたのが豚肉に替わったところから「猪もどき」が沖縄語のイナムドゥチになった。また、それの代わりに豚の腸を具にし、生姜を入れて食する汁もの「ナカミぬシームン=中味の吸い物」をつくることもある。
 ちょっと、琉球料理の本を参考にして、13祝いの古式馳走を記すると赤飯、イナムドゥチ、肉の煮つけ、蒲鉾、かすてら蒲鉾などを盛り付けたウージャラと称する大皿・昆布イリチー・サーターアンダギー(砂糖油揚げ菓子)シルアンダギー(白てんぷら)・帯結びにして揚げた煎餅風のマチカジ(巻松風)と称する菓子。それに米で作ったコーグァーシー(香菓子)の2椀5皿を整えた。が、いまではめったにお目にかかられず、シチュー・チキンのから揚げ・ハンバーグ等々がハバを利かせている。時代に沿って儀式料理も変遷するもののようだ。

 「13歳の年、あなたは何を希望していたか。何を考えていたか」。
 大正10年生で沖縄風俗史研究家崎間麗進氏は「早く20歳になって徴兵検査を受けて、立派な軍陰となり、お国のために滅私奉公したいと考えていた」という。
 「これが日本男子の本懐!。当時の男児皆がそう心底、生きる目標としていた」。
 昭和13年生の筆者の13歳は戦後の昭和25年寅年。料理上手だった親父が国から配給されるメリケン粉(小麦粉)で作るヒラヤーチー(フライパンで焼いた平焼き。沖縄クレープ)、米軍払い下げのチキン、トマト、クリーム、コーン等の缶詰スープ。クラッカー、パンなどで、近所の少年少女を招待して祝ってくれた。時代が時代だけに筆者の13祝いは近所の評判になったそうな。
 「食糧難の時!贅沢だ!」というそしりもあったことは後に知った。
 親父は集まった少年少女ひとりひとりに聞いた。
 「大きくなったら何になるか」。
 さすがに「軍人!」と答えたものはいなかった。
 「医者」
 「看護婦」
 これらには幼ながらも負傷兵、マラリア、栄養失調など悲惨な病人を目のあたりにしてきたからだろうか。
 「軍トラックのドライバー」
 「通訳」
 これは終戦直後の稼ぎ頭であることを少年少女たちは知っていたからだ。かく言うボクはどうだったのか。ボクには記憶がないが、
 「軍作業員」だったそうな。そして、
 「米軍基地から建築資材の戦果をあげて、台風に強い住居を建てる!」と、胸を張って言ったという。
 沖縄戦を(鉄の暴風)と表現しているが、終戦になっても自然の台風は変わることなく猛威をふるった。茅葺やテント屋根の仮設住宅に住んでいた我が一家はひと夏に2度3度は破壊された。その恐怖から逃れたい思いが「軍作業員」と言わしめたのだろう。なんと健気なボクだったことか。
 「戦果」とは、戦争における勝利の成果を指すが、沖縄では米軍基地から諸々の食料品、衣料品、建築資材等々を無断持ち出しすることをそう言った。これは沖縄だけで通じる戦後言葉のようだ。

 今年、13祝いをする少年少女に同じ問いかけをしたならば、どんな答えが返ってくるだろうか。
 (戦果)は立派な窃盗。かりそめにも「戦果あぎやー=戦果常習犯」とは言わせたくない。

 ※3月中旬の催事
 *第32回 東村つつじ祭り
  期間:3月1日(土)〜23日(日)
  場所:東村村民の森つつじ園

 *日本最南端 八重山の海びらき2014 in 西表島
   開催日:3月16日(日)
   場所:月ヶ浜(トゥドゥマリの浜)

 *第3回 シュガーライド久米島2014
  日時:3月16日 (日)
  場所:サイプレスリゾート久米島