旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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追悼・松田弘一。さらば友よっ

2019-11-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「父が逝きました」。
 娘松田忍が震える声で知らせてきた。
 11月6日、午前11時2分。不整脈のため、北中城村内の病院で死去。73歳。島うたを通じて親交があっただけに茫然自失。唇が歪み、涙をこらえた。
 歌者松田弘一は、昭和23年(1947)北谷町謝苅に生まれ、古典音楽の師範であった父弘の長男。幼少の頃から歌三線に親しみ、20歳を期して民謡界の大御所津波恒徳に師事。のちに風狂の歌者嘉手苅林昌に就いて、常に大衆の暮らしの中にあった(昔風)の歌三線を修得。現在の民謡界の重鎮として存在感を占めていた。
 
 去った令和元年10月1日『松田弘一・古希記念リサイタル』を自ら主幹する「松絃会」の主催で弟子筋、歌者仲間が参加して催したばかりだった。
 「思い起こせば小学校2、3年の折り親戚筋のお祝いの座で私が三線を弾き、母を躍らせたことがあり、終了後母は満面の笑みで私の頭を撫でました。その時から三線だけに夢中になり、学校の勉強はおろそかになりました」。
 リサイタル記念誌の(ご挨拶)述懐。さらに記念誌には、
 「生まれ年は厄年とも言われ、その上、病を養うい、そろそろ年貢の納め時かなと滅入ることもありましたが、ステージに立ち観客の笑顔に接し、拍手をもらうと不思議に、身も心もテンションが上がり病も吹っ飛んで『人生は楽しい!病は気からだ』と思えるようになりました。御衆様から生きる力をいただき感謝に尽きない次第です」と記した彼だったが・・・・。
 「この世を卒業するにも順序がある。親より先に逝ってはならない。後輩を送り人にしてはならない。それは不遜というものだ」。
 そう語り合い、得心していたのだが、小生よりも9つも下の弘一が先に逝くとは、あまりに卑怯と言わざるを得ない。

 同記念誌には、小生も拙文・戯文を気軽に寄せたが、いまとなっては虚しさが去来する。松田弘一の一面を知ってもらうために、あえてその拙文を記す。

 『歌三線仲間が寄り合って一杯やる折り、決まって話題にのぼる人物がいる。松田弘一がその人。
 ひところは、故嘉手苅林昌が話題の中心人物だったが、松田弘一がその(後継者)にとって代わった。嘉手苅、松田ともに学術的というか、高尚に(歌を語るように、語りは唄うように)表現し、歌詞や三線の奏法についても真面目に論じ合ったが、松田弘一の場合、大抵は(色ネタ)になる。
 どこから仕入れてくるのか(色ネタばなし)になると、もう松田弘一の独壇場。ウチチフェーシ(返事・合いの手)を打つ隙もあらばこそ、もっぱら聞き手にまわらざるを得ない。ボクも色ばなしは嫌いではないから、ノートを出してメモをとることすらある。
 男同士の場合は、常識人には聞かせられないほど、突っ込んだ色ネタになり、真面目な女性が混じる場合でも、色ネタをオブラートに包んで語る。女性たちは顔を赤らめ「いやさーもうっ!」といいながらも聞き耳を立てさせる。要するに話術に長けているのである。
 そう書くと松田弘一は単なるジビター(品のない人)と勘違いされる。それでも実体験か作りばなしか察しかねるが、手振り足振り付き。
 「色ばなしのあるところには、争いは起きない」
 このことを哲学?としている。そうなると座談、雑談の場は和やかな雰囲気をかもし出す。そういう意味では、松田弘一の色ネタは上品?なのかもしれない。
 50年近くの付き合いの中で幾節の歌詞を提供したことか。
 このことから仲間内では松田弘一は、上原の一の(子分)という風評があるらしい。決してそんなことはないのである。ボクが彼と付き合うのは、そのことによって、ボクが担当するラジオ番組が、聴く人の癒し、心の潤いになればいいと、勝手に思っているにすぎない。むしろ、松田弘一が親分でボクは三下奴にすぎない。彼は独自の音楽観を展開している。

 「通りすがりの者ですが・・・・」
 我が家の表のチャイム音が鳴る。松田弘一である。ご機嫌伺いと称して定期的にやって来るのである。パンや野菜類、時には花鉢を持って。これが10年は続いている。義理堅いことだ。♪義理と人情のこの世界~。人生劇場を地で行っている。

 ヒロカズよ。
 「生きている間は、70ばんじゃー、80ばんじゃー」でいようではないか。

 入院中も遊びを忘れない。「病院川柳」を詠んでいる。
 ◇点滴の したたるリズム 三拍子
 ◇何故痩せぬ 血糖値示す 隠れ喰い
 ◇病院で 溜息ついたら 屁のおまけ
 ◇イケメンの 面影いずこ シーサー顔
 ◇心拍数 美人看護師に 乱れけり
 ◇ポーズ決め 笑顔で撮るのは レントゲン
 ◇見舞金 遅れる友は 香典に

 島うたの星が流れた。さらば友よっ。 
 
     合掌


首里城・炎上

2019-11-10 00:10:00 | ノンジャンル
 枕元の携帯が震えて、メール着信を知らせる。
 時計を見ると午前5時47分。熟睡中のことだ。不機嫌を囲いつつ、携帯を取る。発信人は職場の同僚。(夢を破りやがってっ)。そう思いつつ開く。
 「首里城が燃えている」。
 「ばかなっ。燃えているとは大げさなっ。火が出たとしてもボヤ程度だろう」。
 安易に考えて、また寝を決め込もうとしたが、1度覚醒した眼は睡眠につながらない。ボヤにせよ場所が首里御城(すい うぐしく)では、気になって眠れない。大きく背伸びしてから、のろのろとテレビを点ける。
 画面いっぱいに紅蓮の炎! 確かに見慣れた首里城正殿の大屋根が燃えている。一瞬、息を呑む。いましも大屋根が崩れ落ちる・・・・。(う~ん)と、唸ったまでは覚えがある。あとは茫然自失。頭は思考力を停止させていた。
 10月31日のことである。
 「まさかっ!」
 その(まさかっ)は現実だった。首里城近隣に住居する複数の友人に電話をする。一応に声を震わせ(恐怖)を口にする。中には呼び出し音はするが声が返ってこない友人もいた。そうなると余計に気になる。
 「無事なのだろうか?」
 しばらくして、携帯が震える。通話できなかった友人からである。その声も震えていて、首里城が炎上しているのを目前にしながらの実況報告。それは完全に恐怖の泣き声で、何を言っているのか内容不明に近かった。内容不明でも(本人無事)だけは確認できて一応、ホッとした。

 11月2日付。沖縄タイムス1面。コラム「大弦小弦」にはこう書いている。
 『秋晴れの空に映えているはずの白と朱色の屋根は黒く焦げ、そこには正殿の姿はない。当たり前だった日常の風景が一変した。首里城の大火災から丸一日たったが、いまだに悪夢であってほしいとの思いが去来する。
 明けて11月1日も朝から多くの市民が現場近くを訪れ、変わり果てた姿を遠巻きに「ずっと傍らにあったに・・・・」「寂しすぎる」と、落胆の表情をみせた。
 モノレール首里駅からの観光客の流れはいつも通りに見えたが、団体ツアーでは、ルートを変更する動きもある。沖縄観光や首里城周辺地域への影響は計り知れない。
 急遽上京した玉城デニー知事は。国に早期再建への支援を要請。面談した菅義偉官房長官は「政府として財政措置も含めてやれることは全てやる」と明言した、安倍晋三首相も再建に取り組ことを約束したという。シンボルの再建に向けた動きは日増しに広がっている。
 県や市町村でも募金箱の設置やふるさと納税を活用した支援の検討も始まり、企業からも協力の声があがっている。沖縄タイムス社など県内メディア8社・局も共同で県民募金を始めることを決めた。玉城知事は、本土復帰50周年となる2022年までに再建計画を策定する考えをしめした。ウチナーンチュが一丸となって機運を高めたい(石川亮太)。

 県内8社・局とは。
 沖縄タイムス社(社長武富和彦)。沖縄テレビ放送(社長久保田憲二)、エフエム沖縄(社長長濱弘真)。NHK沖縄放送局(局長傍田賢治)。ラジオ沖縄(社長森田明)。琉球朝日放送(社長上原直樹)。琉球新報社(社長玻名城泰山)。琉球放送(社長中村一彦)。
 この8社・局も首里城再建を支援するための県民募金を協同で始めることで合意した。地元メディア8社・局が協力して募金活動をするのは初めて。

 ところで。
 いささか個人的になり(恐縮)・・・・。
 先の首里城復元の際、大屋根に乗せる「赤瓦」が、1枚1万円で売り出された。その赤瓦の裏には購入者の名前を刻むという。早速、小生も1枚買った。どこの部分に乗せられたかは不明だが、小生自身は「正殿の真正面」に使用されていると、勝手に思って誇らしく仰ぎ見ていた。テレビ中継でいままさに正殿が崩壊する瞬間には「オレの首里城が焼け落ちるっ」と、目頭が熱くなり、やがて大粒の涙にかわった。
 「首里城は何時でもそこにあり、何時でも行ける」。
 そう思ってこれまで4度、5度しか行っていない。こういうことになると思えば、足しげく参観するのだったと、無念でならない。
 でも、西原町に住居していた折り、会社への往復は(龍潭)の前を通り、首里城を1日に1回は眺望していたことが、いまとなっては何よりの慰め・・・・。
 国、県は勿論、多くの人たちの義援で「復元・再建」に向けて始動しているのは力強く誇らしい・・・・が、再び元姿を拝するのは20年先か、30年先か。その日が待ち遠しいが、それまで小生は永らえておれるかどうか。おそらく無理だろう。天命に従うしか術はない。それだけに「復元活動」は、先にも増して気張らなければなるまい。


ゆいレールが行く♪

2019-11-02 08:04:00 | ノンジャンル
 平成15年(2003)8月10日。沖縄初の都市モノレール・通称(ゆいレール)が開通。那覇空港から古都首里の東、汀良町(てら ちょう)在・首里駅まで15駅を走っている。
 営業距離12.9km。片道27分。2両編成・165人乗り。座席1両65席。商業地、在宅地を観ながら走行。儀保駅(ぎぼ)~首里駅では那覇市が一望できる上に、クジラ海峡と通称される慶良間諸島が目の前に広がる。四季を問わず、慶良間のその向こうに夕陽は、波が錦を織らせているかのようだ。

 各駅到着前には、それを知らせる木琴の演奏で10秒、沖縄メロディーが車内に流れる。駅順を追って沖縄メロディーを聴こう。

 ⑴=那覇空港駅。
  ♪谷茶前節(たんちゃめー)。
 *恩納村谷茶集落を舞台に、漁村の人々の日常から生まれた歌。沖縄人でこの節を知らない人はいまい。振付された踊りも有名。

 ⑵=赤嶺駅。
  ♪花の風車(はなぬ カジマヤー)。
 *わらべ唄。生まれ年を祝う生年祝儀(トゥシビーすーじ)の中でも97歳のそれを「かじまやー祝」と言い、「その齢になると人間、一切の悪欲、邪念を超越して、童心に還るとされる長寿祝いの歌。

 ⑶=小禄駅(おろく)。
  ♪三村節(みむら ぶし)。
 *近隣に豊見城、垣花の集落があるため、小禄・豊見城・垣花を合わせ読みして「三村節」とした。他に潮平(すんじゃ)、兼城(かなぐしく)、糸満(いちまん)三村。首里の赤田(あかた)、鳥堀(とぅんじゅむい)、崎山(さちやま)三村の歌詞もある。

 ⑷=奥武山公園駅(おおのやま)。
  ♪じんじん。
 *わらべ唄。「じんじん」は、蛍を指す幼児語。一般的には「ジーナー」。

 ⑸=壷川駅。
  ♪唐船どーゐ(とうしん)。 
 *唐船は王府時代、中国交易に就いた官船。「どおゐッ!」は「××だぞうっ」という「呼ばわり語」。

 ⑹=旭橋駅。
  ♪海のチンボーラー。
 *遊び唄の代表格。駅近くには現在、バスターミナルがある。この地はかつて「仲島遊郭」だった。「チンボーラー」は、浅瀬に生息する小巻貝類。

 ⑺=県庁前駅。
  ♪てぃんさぐぬ花。
 *和名=鳳仙花。わらべ唄。教訓歌が多い。かつてはその葉や花弁をつぶし、赤い液で指のツメを染めて、女の子たちは「おしゃれ」をした。

 ⑻=美栄橋駅(みえばし)。
  ♪ちんぬくじゅうしい。
 *ちんぬくは里芋。じゅーしーは雑炊。したがって「里芋入りの雑炊」ということになる。曲は琉球放送ラジオの番組「ホームソング」として放送。作詞あさ ひろし。作曲三田信一。昭和43年(1968)発表。

 ⑼=牧志駅(まきし)。
  ♪いちゅび小節(いちゅびぐぁ)。
 *「いちゅび」は、野苺の意。エイサー唄にも組み入れらている。

 ⑽=安里駅(あさと)。
  ♪安里屋ゆんた。八重山の流行り唄。

 ⑾=おもろまち駅。
  ♪だんじゅかりゆし。
 *船送り唄。だんじゅは「誠・本当に・げにこそ・道理で」の意。
  かりゆしは(嘉例吉。吉事。めでたい)を意味する古語。

 ⑿=古島駅。
  ♪月ぬかいしゃ。
 *八重山の歌。「かいしゃ」は、清らか。美しい。転じて、愛しい。愛しい人をも指す。

 ⒀=私立病院前駅。
  ♪くいちゃ。
 *宮古島の集団歌舞。くい(声)、ちゃー(合わせる。混ぜる)の意。したがって「声合わせ歌」。

 ⒁=儀保駅(ぎぼ)。
  ♪芭蕉布。琉球放送ラジオの「ホームソング」の内。昭和40年(1965)発表。作詞吉川安一。作曲普久原恒男。

 ⒂=首里駅。
  ♪赤田首里殿内(あかた すん どぅんち)。
 *王府時代、首里には祭事を司る首里、儀保、真壁の三祝女館があった。首里殿内は地内の赤田にあったため、首里の上に(赤田)を被せた。わらべ唄。五穀豊穣、平和招致祈願の歌。

 さてさて。
 すっかり庶民の足になった「ゆいレール」は、さらに隣市の浦添まで延びて、令和元年10月1日、総延長は約17kmを運行している。新駅名と到着告知メロディーを紹介しよう。首里駅を出たモノレールは、やがて石嶺駅に着く。

 ⒃=石嶺駅。
  ♪ちょんちょんキジムナー。
 *キジムナーは昔ばなしに語られる老木に棲む妖精。ちょんちょんは(来たぞっ、来たぞっ!キジムナーが来たぞっ)の意。戦前、女学校生が唄った歌を照屋林助、川上進行が採譜、作詞して世に出た。

 ⒄=経塚駅(きょうづか)。
  ♪はべら節。
 *はべらは「蝶」の総称。ハーベールー。ハビル。ハベルとも言う。

 ⒅=浦添前田駅。
  ♪めでたい節。
 *一般的祝儀歌。

 ⒆=でだこ浦西駅。
  ♪ヒヤミカチ節。
 *「ヒヤっ」は、行動を起こす折りに発する気合い語。「ミカチ」は「××をする」さま。終戦まもなく、古典歌謡研究家の山内盛彬が作詞作曲した。いわば沖縄応援歌。

 かくて結いレールは沖縄中の歌を唄いながら、今日もいい顔で走っている。