旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

琉歌・浅き夢見し

2017-03-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ‟枕ゆゐ他に 誰が知ゆが涙 夢やちょんアリに 知らしぶしゃぬ
 <まくらゆゐ ふかに たがしゆが みなだ いみやちょん アリに しらしぶしゃぬ
 詠歌は色っぽいが、春の夜というのにこのところ、とんとそんな夢をみることがない。夢を見ることがないではない。見ても現実的には味気ないどころか、なぜそんな夢を見たのか詮ないワンシーンでしかない。
 琉歌の歌意は、
 (夢を見てハタッと目覚めた。気がつけば枕が濡れている。傍らには誰もいないひとり寝である。せめて、せめてこの夢だけは彼女に知らせたい)となっているが小生の場合、相手は(いまは白髪のお婆さん~)が、無理してセーラー服を着けているのだから、目覚めても、その夢を振り払うかのように頭を振ってから溜息を吐き、外のまだ冷たい春の夜風を耳にして、また寝を決め込むのである。

 夢とはなにか。またぞろ辞書に頼る。
 ゆめ・夢=眠っている間に、さまざまなできごとを実際におこっているかのように、見聞きしたり感じたりする現象。はかないこと。たやすくは実現できない願い。理想として予想されるもの。現実から離れた甘い考え。
 などなどとある。これだけ見ると、自分の頭の中で展開される意識なのに(夢も希望)もないような感じがいてならない。小生の夢が消極的な結末で幕を引くのは、碌な生き方をしていないせいだろう。いま一度、恋しびとの夢を見て枕を濡らすほどにならなければならないが・・・・夢は五臓六腑の疲れでみるという。疲れるほどのことはしていないのだが・・・・。

 ‟夕び見ちゃる夢や道標思てぃ とぅめどぅめい いちゅる 無蔵が住み家
 <ゆうび んちゃる いみや みちしるび とぅむてぃ とぅめどぅめい いちゅる ンゾが しみか
 *無蔵=んぞ。んぞーさ。妻や恋人に対する美称。転じて、愛おしい。かわいいの意。
 対語=里・サトゥ。男性に対する美称。*とぅめどぅめい=探し求めるさま。畳語・重ねことばになると日常語風に(とぅめーい どぅめーい)と言う。
 歌意=昨夜夢に出てきた彼女。どこの誰かは知らないが、とにかく美しく聡明なひとだった。彼女との語らいを手掛かりに今日は、何としても(とぅめどぅめい)住み家を探し当てずにおくものか。
 いやはや、羨ましい若さではある。
 直接、言葉は交わしていなかったが、名前とどこに住んでいるかは分かっていて(とぅめどぅめい)存在を確かめに行った経験は小生にもある。
 彼女の家は、バスに乗って(当時はマイカーもなく、タクシーもそうそう普及していない時分)小高い丘を越えて小1時間はかかる所にあった。大きな家で、珍しく孟宗竹を植え込んだ庭があった。決して裕福ではなかった小生の住まいとは大違い。それだけで彼女を訪ねる勇気はしぼみ、ただただ家の周りをウロウロするのみ。間の悪いことには、不審者に見えたのか、出てきたのは、彼女の祖父らしい眼光鋭い御仁。怖気づいて退散するよりすべはなかった。以来、彼女に逢うことはあっても♪及ばぬ恋と諦めました~だけど恋しいあのひとよ~。歌謡曲そのままで今日に日を繋いでいる。八重山の「とぅばらーま」の1歌詞(思ぉてぃ通ゆらば千里ん1里~逢わん戻らば元ぬ千里~)を実感したのもそのころだった。

 ♪夢に見る沖縄 元姿やしが 音に聞く沖縄 変わてぃ無らん
 <いみにみるウチナー むとぅしがた やしが ウトゥにちく ウチナー かわてぃ ねらん

 歌意=異郷にいて見る沖縄は、自分が出てきた時と同じ元の佇まいだが、音信に聞く沖縄は(戦争で)元姿の欠片さえなく、変わり果てたそうな・・・・。
 これは昭和の民謡の父故普久原朝喜(ふくはら ちょうき=1903年12月30日~1981年10月20日)作詞作曲による「懐かしき古里・原名は故郷」の1節。戦前に大阪へ渡り、かの地に没した朝喜翁の傑作のひとつ。国破れて山河ありとは言うものの、沖縄戦間もなく作詞作曲をした折りには、郷愁を通りこして断腸の想いがあったにちがいない。しかし、朝喜翁は(夢)を捨てなかった。

 ♪何時か自由なやい親兄弟ん揃るてぃ 打ち笑い笑い暮らすくとぅや
 <いちか じゆうなやい うやちょうでん するてぃ うちわらい わらい くらすくとぅや

 「いまはアメリカの統治下にあって束縛されているが、いつの日か自由を取り戻し、親子が兄弟が縁者が笑顔で暮らすことを得よう。それまでは(夢)を捨てまい」。
 朝喜翁は苦渋、絶望の中でも(明日への夢)を詠み込むことを忘れなかった。

 そうなのだ。自由を謳歌している時に見る夢は甘かったり、切なかったり、はかなかったりで終わるが、困難時に見る、あるいは持つ夢は強い夢は意志とエネルギーを生み出すものと思われる。
 3月下旬とは言え曇りの夜、雨の夜は掛け布団が欠かせない。いい夢だけを選んでみることは出来ないだろうが、さて今夜はどんな夢と出逢うのだろうか。
 「末は博士か大臣か!」とんでもない!もう、そんな夢は要らない。出来得るならばフランス映画の、それもラブストーリーの主役にでもなろうか。うん!それがいい。けれども・・・・もしも、もしもその相手役が古女房であったりするとどうしよう。きっと(恐怖の夢)にうなされ再三、カパッと起き、冷や汗を拭うことになるだろう。


三線の余韻

2017-03-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「さんしんの日に向けて三月の間、自分でも信じられないほど打ち込んだ稽古なのに、仲間に遅れをとらず、演奏会に参加するという目的を果たし、フッと息を吐き、緊張感をほぐして三線をとるのを小休止した。するとどうだ!その日以来今日まで三線を手にしていない。1度休んでしまうと、それは長期化するものだ。やはり素人の域を出られそうもないなあ。ノルマを課して毎日、稽古を続けられる人は、玄人はだしになれるし、小休止を長期化させる人を素人というのだろうな」。
 述懐しきりの三線愛好家の弁。夢を手元に引きつけるには、それに向かう根気と年月が必要ということらしい。

 少年Mの場合。
 夕刻になると、近くにある公民館の灯りが(三線への入口)だった。
 平日、部活の帰り、公民館の前を通ると三々五々人が集まり、やがてそれは20人ほどになる。老若男女、年齢差も見て取れる。なかには小学生の少年少女もいる。公民館活動のひとつ「三線教室」が開かれるのだ。今日の練習曲は「安波節」らしく、チンダミ(絃試み・調絃)をして、予習をしている人もいる。
 もちろん少年Mには、「安波節」であることまでは分からない。いつも見る風景だから、別に気にも留めなかったが、その日はどうしたことか三線の音が、すんなりと耳に馴染む。
 「ボクも三線を習ってみようかなぁ」。
 三線の講師は時折、少年の家に来ては、父親と酒を酌み交わしている隣家のKおじさんだったこともいなめない。Kおじさんは、中学生のころ三線に馴染み、高校生そして大学卒業後、地域の青年会に入り、旧盆のエイサーの地謡をずっと務めている地域の有名人。
 「ボクも青年になったら、エイサーの地謡をやってみたい」。
 このことは日頃から少年の心のどこかで見え隠れしていた。
 「公民館の三線教室に入ろうかな。Kおじさんならついて行き易い」。
 夕食時に父親に言ってみた。
 「やればいい」。
 父親の返事に二の句はなかった。
 少年のひと言は父親からKおじさんの耳に届いた。Kおじさんは三丁ある稽古用の三線をM少年にプレゼントしてくれた。早速、週1回の三線教室通いを日程に組み入れた。
 目指すはエイサーの地謡!
 10年後かどうか知らないが、いつの日かM少年は地謡として「エイサー頭=かしら」から、青年会のリーダーになっているだろう。少年Mは、この4月から中学2年の春を迎える。

 「いま!何段目?大城貴幸」。
 大城貴幸は、県立芸術大学・大学院生だ。
 同大学で琉球芸能を専攻。琉球古典音楽安冨祖流を修め(教師免許)を取得。卒業後、県立南風原高校郷土芸能部を指導。自らも本格的歌三線活動を県内外で続けている。この3月12日。南城市文化センターシュガーホールを会場に「歌の輪・三線の絆」なるコンサートを開催。そのパンフレットに小生も拙文を寄せる。

 「ことを成すまでには、七段の階段を登る」。
 おそらく中国の聖人の言葉だろう。
 大城貴幸はいま、何段目にいるのか。本人はどこに立っているのか、訊いてみなければならない。先輩面して彼の立ち位置を眺めれば、一段目に足を掛けたところか。それとも、七段を見上げて気合を入れ、踊り場で一気に駆け上がるウォーミングアップをしているのかも知れない。
 けれども階段は、1度登ればいいというものではないらしい。挫折して降りるだけでなく、さらに高所を目指す時に(初心)という忘れモノを踊り場まで取りに引き返すこともあるからだ。
 また、その階段は急ぐあまり、つまずくこともあり得るし、ひとりでは登れないのも確かだ。誰かが、いや、多くの人の後押しが不可欠であることは、階段を登ろうとする本人が1番に心得ておかなければならないだろう。
 「作詞をした。見てほしい」「作曲をした。聴いてほしい」「県外で歌ってきます(きました)」「コンサートの相談にのってほしい」。
 大城貴幸は都度、報告にくる。
 「やくとぅ何?(だから何?)」というのだが、齢かさの者は、後輩から声を掛けられるのが何よりも嬉しい。用件が何であれ、じっくりと聞いた後、私は決まっていう。
 「いま思うことを、思うようにやってごらんなさい」。
 決して投げやりではない。それが七つの階段(経験)だと思うからだ。
 大城貴幸が現時点で、どこに位置しているか正直、分からない。が、動き出した若者の熱情だけは活力をもって迫ってくる。
 それよりも何よりも貴幸!結婚をし、子どももできた。階段はゆっくり登ればいい。まずは愛児に風邪など引かせるなっ。

 東村が管理する「つつじ園」には、5万本の各種が「おいで!おいで」と、南に回りはじめた風に踊っている。「やはり(さんしんの日)の三線の音は、春を連れてやってきたか!」。私はひとりほくそ笑む。




三線・赤花。そして輝き

2017-03-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「輝」。
 今年のコンセプトは、これである。
 毎年「ゆかる日まさる日さんしんの日」のイベントのコンセプトを1文字で表し、司会者席のバックに掲示している。昨年は「創」だった。「輝」とは、名誉で、華々しいさま。希望や歓喜が表に出るさまを意味している。「さんしんの日」も25回、年を回した。人間も25歳は輝いて行動する時。RBCiラジオは、三線の音を太陽として(世界に輝く)ことをスタッフ一同決意。この一文字に思いを込めた。
 墨痕鮮やかに「輝」を書いたのは第16回からメイン司会者のひとり狩俣倫太郎アナウンサー。趣味で書道を嗜んでいるというのがいい。
 昨今、右を向いても左を見ても、冴えない空気ばかり。また、節目とは言え、25年も経ると、ややもするとくすみがちで、初心の初々しさ・輝きを失念しがち。そこで「さんしんの日」を契機に、内なる「輝き」を放とう。そのことを世界中で共有しようとの願望が秘められている。ひとり輝いてもそれは微々たる光。万人で光ってこそ「輝き」と言えるのではないか。そう高邁な想念を抱いているようだ。
 その「輝」に、さらに輝きを加えているのがポスター。
 画面中央にまっすぐ、逞しく伸びた黒檀の棹。力強く張った3本の絃。その真中にウチナーンチュの心意気を誇示して、一輪のアカバナー(沖縄在来のハイビスカスの1種)。しかし、よく見ると三線は沖縄そのもの。アカバナーは三線を愛してやまない沖縄人の輝きを感じることができるけれども、この三線にチーガ(共鳴盤)が描かれていない。思うに物言わぬ三線に命を込めて弾き鳴らすのは人間。どういう音を出すかは(あなた次第)という画家からのメッセージが聴こえてくる。じっと、このポスター、いや、ひとつの絵画として見入っていると、三線の音が聴こえてくる。描いたのは無念にも、画家としての充実期に逝った与那覇朝大氏。

 与那覇朝大(よなは ちょうたい)。
 1933年10月8日、八重山石垣市新川生れ。2008年7月2日。西原町在アドベンチストメディカルセンターで心不全のため逝去。19歳、絵家を志し八重山からコザ市(現沖縄市)に移り住む。1971年、新美術協会展新人賞受賞。1977年、沖縄県デザインコンクール会長賞。1986年、第33回新美術協会光琳賞。日本美術選賞。1992年、新美術協会桃山芸術大賞。1998年、アート・オブ・ジ・イヤー・グランプリ受賞。1999年、フランス芸術協会から、20世紀芸術遺産認定作家に認定。2004年、ジュネーブ国際平和遺産認定作家賞受賞するなど国際的にも評価された。

 出会ったのは、彼がライカム画廊の一絵家として、ビロードのキャンパスに米兵の似顔を描くことを生業としていたところ。時、ベトナム戦争が熾烈を極めているころだ。沖縄から出兵し、彼の地で戦死した米兵の写真を戦友が持ち込み、与那覇朝大が写真と見違うほどに写生。戦友が本国に持ち帰る。絵画に疎い私は、それをそっちのけに、3ヵ日をおかず逢い、コザ市の歓楽街中の街のおでん屋、同市諸見里百軒通りの料亭で遊んでいた。遊興費はすべて彼持ち。
 酒はもちろんのことだが、彼の目的は三線を弾き、ふるさと八重山の歌を歌うことにあった。私が八重山節に傾倒していったのは、その辺に始まったといえるだろう。
 ライカム画廊から同市の自宅、宜野湾市大山へ。そして中城村登叉にアトリエを移して落ち着いたころだ。「ゆかる日まさる日さんしんの日」を立ち上げることになった。
 彼は言った。
 「三線は歌者だけのものではない。絵描きは、どう関わればいいのだ」。
 「ポスターを描いてくれ」。
 なんの遠慮もなく言い放つ私に彼は、1週間後に応えてくれた。三線の上辺部をひと筆書きのように仕上げた作品だ。私には(簡単過ぎる)と思われる原画は、絵ごころのある人たちを唸らせた。このことは、いまでも恥入っている。
 与那覇朝大は歌三線が上手かった。時折、殻のアトリエに親しい歌者が集まって、非公開の歌会を催すのだが「安里屋節」「仲筋ぬヌベーマ節」「しょんかね節」は、誰も歌はない。彼の(持ち歌)としていたからだ。三線も3丁持っていたが、2丁は私にも弾かせてくれたが、愛用の1丁だけは手を触れることさえ許してくれなかった。
 己でそばを打ち、山羊汁を作り、季節の食材を使ったチャンプルーを料理人よろしく仕上げて、仲間を呼んではふるまっていた。そして酒をお共に「歌三線」になるのである。
 陶芸家としての名も馳せる。大山に住まいしていた折り、隣家に茶道を心得た人がいて、呼ばれては茶を楽しんでいた。私も同席したことがあるが、ある日の茶会。彼が手にした茶碗が少々重かったらしく「自前の茶碗を持ちたい」。そのことがきっかけになって、本格的焼窯を設置。土も自ら選定して焼いた。これは後年、中城村登叉に移されて「朝大窯」と称されることになる。
 画家、陶芸家としての与那覇朝大の表の顔よりも、ひとりの人間としての、私なりの話は尽きない。
 「さんしんの日」も25回。志半ばにして逝った彼にも参加してもらおう。いささか個人的感情が絡んでいるが、その思いがあって今回のポスターは、彼の作品を遺族の了解を得て使用することになった。では、与那覇朝大の歌声「安里屋節」はどうするか。彼がいないいま、彼がかわいがっていた八重山の歌者大工哲弘に歌ってもらうことにする。