旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

名曲・かじゃでぃ風節の周辺

2010-04-29 00:21:00 | ノンジャンル
 琉球宮廷音楽。
 記録本であり、教則本でもある「工工四」には上巻三七節、中巻二九節、下巻五七節、拾遺八一節。計二0四節が記載されている。そして、上巻の第一節目には「かじゃでぃ風節」が全曲を代表するかのように堂々としてある。戦前までの表記法では「かぎやで風」と書かれて、発音は「かじゃでぃふう」としているが、最近になって旧仮名遣いに親しみのない若い世代のために、発音通りの表記を併用しようという動きがある。これは大いに歓迎するべきではなかろうか。このことは、歌詞にも言えることだろう。
 それにしても「かじゃでぃ風」なる楽曲は、魔力のあるひと節だ。歌三線を習得する場合、まず「かじゃでぃ風節」から入る。三線の基本音が織り込まれていると、専門家に聞いた。他の節に比べて、このひと節は多くの人に普及。さまざまな祝宴には、決まって冒頭に演奏されることからしても、普及度が計り知れよう。
 それが公式の祝儀ではなく、誰が言い出すでもなく、最初は「かじゃでぃ風」に始まる。しかも、それまで膝を崩して坐っていた者も歌う人も、これまた誰に言われなくても正座して演奏し、聴き入るのだから沖縄人にとって「かじゃでぃ風」は聖歌なのかもしれない。
 これら宮廷音楽には、五節づつ括った五節類がある。大昔節五節、昔節五節、二揚節五節がそれだが、御前風五節の中に「かじゃでぃ風節」は組み入れられている。首里城内の東苑〈別称御茶屋御殿〉だったろうか、時の御主加那志(国王)の「御前」で演奏されたことから「御前風」の名が付いたと言われている。このひと節目が「かじゃでぃ風」で「恩納節」「中城はんためー節」「長伊平屋節」「特牛節」と続くのは周知のところ。また、御前風五節を漢字二文字で表すならば、かじゃでぃ風=歓喜、恩納節=優美、中城はんためー節=華麗、長伊平屋節=悠長、特牛節=荘厳と、研究者島袋盛敏氏は位置づけている。
 3月4日、「ゆかる日まさる日さんしんの日」は、今年18回目を無事終えた。ラジオの正午の時報に合わせて、午後9時までの放送の内、都合9回演奏したのは「かじゃでぃ風節」。この曲節を毎時演奏することについて、当初から八重山の方々は「赤馬節」「鷲ん鳥節」にしてはと言い、宮古からは「とうがにあやぐ」をの意見、本島でも若い人たちも演奏できるように、流行りの「安里ゆんた」「てぃんさぐの花」の採用を促す電話、文章もあった。
 しかし、主催側が「かじゃでぃ風」を固定したのには理由がある。その①老若男女問わず浸透している。②技術は別として演奏できる人口が多い。③沖縄人の聖歌的節曲。④日常的祝儀歌。⑤三線音楽の基本的楽曲などを吟味しての選択であった。
    

 「かじゃでぃ風」異聞。
 野村流古典音楽松村統絃会・故宮城嗣周翁。ある日、浦添市内での所用をすませ、バス停留所へ向かって住宅地内を歩いていると、一軒の家から三線の音が聞こえる。「かじゃでぃ風」だ。しかし、その演奏は三線のチンダミ〈調弦〉は甘く、節入りも心もとない。(習い始めの人だな)。嗣周翁は、頬笑みながらその家の前を通り過ぎたのだが、そこは古典音楽の師匠。どうにもチンダミの甘さが耳の底に残って離れない。嗣周翁は迷わず、いま来た道を取って返して件の家の玄関に立ち、ブザーを押した。三線の音が止むと同時に出てきたのは、稽古をしていたらしい初老の男性。訪問者がこの道の大家とあって男性は大いに驚愕の態。嗣周翁は来意を告げた。
 「わしは、古典音楽を少々たしなんでいる宮城嗣周という者だが、あなたの三線のチンダミは多少甘い。ちょいと調弦させてはくれまいか」
 家の主に否があろうはずがない。玄関先でチンダミをしようとする大家を応接間に案内したのは言うまでもない。それをきっかけに家主は嗣周翁と向き合って2時間ほどの特別授業を受けたのだった。
 「余計なことをしたのかもしれないが、歌者の業なのだろうねぇ」
 嗣周翁はそう語っていたが、私は世にもいい話として心の奥におさめている。
 大げさな例えになるが沖縄では、カラスが鳴かない日はあっても歌三線、殊に「かじゃでぃ風節」の聞こえない日はないだろう。年中行事は言うに及ばず、諸々の芸能文化、生活文化の根源を成す三線。ヨーロッパの古諺にいわく「歌声のある所に暮らせ。悪人は歌は歌わない」。沖縄の今日という日も、いたる所で歌三線の音が流れている。喜怒哀楽を乗せて流れている。願わくば、歓喜を表して「かじゃでぃ風」を歌い、そして聴ける日々でありたい。

      琉球新報「巷ばなし 筆先三昧」2010.4.1掲載転写。

    
       上原直彦著書:2010年4月29日発行
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芝居からことば塾へ

2010-04-22 00:20:00 | ノンジャンル
 消防隊司令・美容師・教員・団体役員・看護婦・ラジオパーソナリティー・同レポーター・元教員・元警察官・元公務員・主婦、そして大和人。中には自治体元教育長と異職業経験者25名が、毎週木曜日の夜、沖縄市に集まる。この集団の名称は「北村三郎・芝居塾ばん」。
 塾長北村三郎は、芸歴54年の沖縄芝居の現役の役者である。ちなみに「ばん」とは、芝居の開幕閉幕を告げる拍子木のこと。
 平成12年4月。沖縄芝居の若手養成と研修を目論み[芝居塾]を立上げたことだが、公募してみると、応じてきたのは芝居、舞台とはおよそ縁遠い面々だった。もちろん、若手役者、舞踊家、歌者もいるにはいた。しかし、大方の希望するところは、
 「役者になるつもりは毛頭ない。芸能は嫌いでは決してなく、むしろ好き。その芸能を通して、沖縄の庶民文化を学びたい。また、日増しに衰退しつつある〈沖縄語・方言〉を身をもって学習、復習したい」。このことである。
 しからばと、沖縄芝居の脚本や琉球詠歌、さらには諸々の故事来歴・諺・歴史・語源等々をテキストに、大げさに言えば自由な沖縄学学習会が出来上がった。沖縄方言で書かれた脚本や琉歌は、多かれ少なかれ皆、日常的に親しんでいて、方言学習のテキストとしては最適と言える。特に脚本には登場人物がそれぞれの人生を背負って描かれ生きている。時代もの現代もの問わず抜粋して、塾生ひとりひとりに配役して実技を試しみた。すると、どうだろう。人間、誰もが持っている変身願望を喚起した。「生身の自分が王府時代にタイムスリップする」「老人、青年、美男美女、士族、百姓、強者弱者、役人、泥棒・・・さまざまな生き方を通して自分を見つめられる」エトセトラ・・・。
塾生のこの意識の変化をいち早く察知した塾長北村三郎は、否応を問わず研修発表会を企画。翌年3月には、半年の稽古を経てオリジナルの芝居1本を軸に琉舞、日舞、方言トーク、さらにはこれまた民謡風の「ばんの歌」まで作ってプログラムとし、第1回発表会を開催するに至ったのである。そしてそれは「ばん塾」の恒例行事になり、開設10年目を迎えた今年も、4月29日〈木曜日・昭和の日〉午後7時半、沖縄市民小劇場「あしびなぁ」の舞台に面々が立ち「第9回公演」の幕を開ける。


      ◇プログラム

 ①オープニング・合唱「一、二、三、四!ばんばんばん!」
  上原直彦の作詞に、歌者前川守賢が曲をつけた塾生の愛唱歌のひとつ。前川守賢はこれを今春リリースしたCD「これからも かなさんどう」に、自ら歌って収めている。
 ②喜歌劇「戻りかご」*出演=〈客員・芝居集団石なぐの会高宮城実人・知名剛史・当銘由亮〉
 昭和10年〈1935〉ごろ、玉城盛義が創作。当時、那覇の花街チージで流行っていた「サイレン節」を主に振り付けた小舞踊劇。
 ③舞踊「浜千鳥=一名チジュヤー」*出演〈客員。舞芸・さらの会座喜味米子〉
 明治20年〈1887〉ごろ、旅情を歌い上げた流行り歌に玉城盛重が振り付けた。
 ④琉球講談「寅年・虎物語」*口演=北村三郎・〈客員・劇団真永座座長仲嶺真永〉
 作上原直彦。
 ⑤歌三線*独唱=琉球古典音楽保存会師範・嘉陽 正。
 敢えて民謡のあやぐ、しょんがね、やっちゃー小など。
 ⑥時代劇「遊び村栄ぇ=あしび むらじゃけぇ」。作上原直彦。演出北村三郎。出演=塾生総掛かり。
 チラシの惹句に“名優・迷優!舞台は狭し!沖縄力全開の花舞台”“力不足はあなたにすがる!うんじゅぬ情どぅ頼まりる”“お待たせしてもしなくても!今年も熱演!素人芝居”とある。

 開設10年目の今年、芝居塾「ばん」は名称をことば塾「ばん」に改めた。その理由。
 「素人は所詮素人。年に一度舞台に立つ程度で“芝居”を標榜しては、沖縄芝居を完成させた先人、それを今に継承して演じている現役の役者さんたちに対して、失礼この上もない。われわれの舞台はあくまでも、ことばの勉強会の延長線上にあるもの。10年の節目に“ことば塾”に改名したい」。
 これは塾生の総意である。謙虚な姿勢とは言えないだろうか。


 余談的自己満足。
 これまでの9年間、盆と正月など特別の行事の日以外は、一度も休塾することなく集合してきたことが認知されたのか映画「風の舞」のエキストラ。TBSテレビ。その他大勢組ながら、NHKの「沖縄の歌と踊り」。国立劇場企画公演にも出演。果ては劇団大伸座〈代表大宜見静子〉とも共演している。素人の向こう見ずと言えるが「ばん」の行動力は、県下各地域に刺激を与えたかして村民劇、市民劇活動を促す遠因になっているように思える。
 第9回ことば塾「ばん」公演。制作=キャンパスレコード・備瀬善勝。
 “恐るさ物ぬ見欲さ物”。恐い物見たさの遊びごころをもってご覧あれ。
 入場料=2000円。問い合わせはキャンパスレコード。
TEL:098-932-3801



貧素 技持ちの歌づくり

2010-04-15 00:20:00 | ノンジャンル
 いささか内輪ばなしになる。
 「大人はいま、子どもたちのために何ができるか」
 この想いが膨らみ、平成18年12月に始動して、翌年4月からラジオ・テレビに乗せてきたのが[大人から子どもたちへの贈り物]の歌作りだ。琉球放送とRBCビジョン、そして人気ユニット[ビギン]が組んで制作。「RBCホームソング」として放送中だ。
 大正時代、作曲家中山晋平、山田耕筰、詩人北原白秋、三木露風らが興した「大人が歌える童謡運動」に、早くから関心を抱いていた私は、ホームソング制作スタッフに誘われた際、二の句をつがず参加。放送第1回目の歌「走ぇーゴンゴン!=作曲ジョージ紫・編曲島袋優、上地等・歌比嘉栄昇と子どもたち」の作詞を担当した。以来「RBCホームソング」は、今日までに23曲のCD、DVDを制作・放送中だ。その中に私の拙作「ね・ね・ね=作曲ジョージ紫・編曲上地等・歌比屋定篤子、里 実咲」「お盆の夜は=作曲編曲上地等・歌那覇少年少女合唱団・金武町少年少女合唱団」が入っていて、ちょっと誇らしくもあり、一方で気恥ずかしさも味わっている。


 沖縄の古諺に「貧素 技持ち=ふぃんすう わじゃむち」がある。
 「銭じんぶんじん」ともあり、金銭は即知恵に通じ、金銭が豊潤にあれば大いなる知恵も沸き、大抵のことは実現できるとしている。逆に「銭ぬ無ん沙汰や 馬ぬ糞心=じんぬ ねん さたや ンマぬクスぐくる」で、想いはあっても手も足も出ないのは、今も昔も変わらない。ならば貧素者〈ふぃんすうむん。貧乏人〉は、どうすればよいか。「貧素 技持ち」にその術が説かれている。つまり、金のない者は、じんぶん〈知恵〉を発揮して、個々が持ち合わせている才気を引き出せばよい。さすればそれは[技術]となって、事を成し得ると昔びとは教えている。
 昭和62年〈1987〉3月〈その「貧素 技持ち」を実行して、子どものために歌をものにしたことがある。末娘小学校に入学するというのに、家計は実に苦しかった。そこで、じんぶんをめぐらせて(作詞をする分には、金は掛からない)ことに思い至った。幸いにして近所に、音楽家であり、シンガーソングライターとして特異な活動を精力的にこなしている海勢頭豊〈うみせど ゆたか〉氏が住まいしていた。彼の娘もまた新1年生だ。(娘の入学記念に、歌を作ろう)。そう持ち掛けてみると「お互い金はないからね」と海勢頭氏は、即座に応じてくれた。出来上がったのは「アンゼンマンの歌」。入学する西原町立坂田小学校にこのことを申し入れ、同校の在学生に合唱してもらって収録、同校に贈った。


     アンゼンマンの歌

 symbol7アンゼンマンが言っていた
 車は決してこわくない きまりを守ろう 手を上げて
 赤・青・黄色 よく見てわたり 車と仲よくしちゃおうぜ
 “あっ!アンゼンマンだっ!”
 アンゼンマンは ぼくらの味方

 
 symbol7アンゼンマンは強いんだ
 無理するヤツをやっつけて わるい車はゆるさない
 いつもよい子を見守って やさしくそばにいるんだぜ

 “あっ!アンゼンマンだっ!”
 アンゼンマンは ぼくらの味方


 symbol7アンゼンマンがやってくる
 仲間をつれてやってくる みんな仲よく手をつなごう
 明るい街はぼくらがつくり いっしょにくらそうこの街で
 “あっ!アンゼンマンだっ!”
 アンゼンマンは ぼくらの味方


 symbol7アンゼンマンはどこにいる
 いつも学校の行き帰り ボクのこころの中に
 笑顔でいるぜ声かけようぜ ボクらよい子の大行進
 “あっ!アンゼンマンだっ!”
 アンゼンマンは ぼくらの味方


 曲は行進曲風の明るい傑作だ。しかし、詩を読み返してみると「アンパンマン」をもじっていて発想が安易。それでも当時、カセットテープを数10本コピーして、南大東村立の小中学校など数校に贈ったものだ。


 2010年4月1日。共同通信放送ニュースは次のように伝えている。
 小学校に入学したり、幼稚園に入園したりする子どもに、お祝いをあげる予定の人のうち、60代の平均予算は、ほかの年代の約3倍に上り、かわいい孫に奮発する姿が浮き彫りになった。これは、住信SBIネット銀行が先月、インターネットで調査したもので、子どもらにお祝いを贈る予定の20代から60代の2100人余から回答を得た。それによると、幼稚園の入園祝いと小学校入学祝いの場合。贈る側の年齢別でみると、20代から50代の予算が1万1000円~1万6000円の範囲だったのに対し、60代は約3倍の3万8000円で奮発ぶりが際立った。調査担当者は「かわいい孫の晴れ舞台に出費を惜しまない、おじいちゃんやおばあちゃんが多いのでは」と話している。

私にも今年、新一年生の内孫が2人いて、それぞれそれなりの入学祝い金を均等に奮発した。それも爺の幸せ行為のひとつ。一方で(わが孫だけのための)を作ろうかなという気が働いたのも確かだが、孫たちの親にしてみれば、記念品よりも歌よりも、現金の方がありがたいというのが本音らしい。子育て真っ最中の彼らにとっては、正しい価値観と言えよう。なにしろ、現金を山積みにして子を育てた親はいないのだから。



誰にも言わないでっ!秘密

2010-04-08 00:20:00 | ノンジャンル
 「誰にも言ってはダメだよッ!」
 そう言われて耳にした内緒ばなしや秘密を[黙して語らず]を通したことがあるだろうか。私なぞ一度もない。他人の秘密を明かすのは愉快この上もないからだ。自分だけが知っている快感を自慢したくて知人に話す。それでもその場合「キミだけに話すのだから、誰のも言ってはダメだよッ!」と、前置きの釘をさすことを忘れない。
北村孝一編・東京出版「世界のことわざ辞典」【危険と安全】の項にインド、スウェーデンの諺として、次のことばがある。
 【一人しか知らなければ秘密、二人が知れば公然のこと
 したりッ!と、膝を打ちたくなる。およそ秘密は自分の内なるものであって、漏らそうものなら、相手が誰であろうと皆に知れ渡るものと覚悟しなければならない。沖縄の狂歌にもある。

 symbol7聞かさんぱすしや ゆくん聞ち欲さぬ 見しらんぱすしや 開らち見欲さ
 〈ちかさんぱ すしや ゆくん ちちぶさぬ みしらんぱ すしや ふぃらち みぶさ

 「実はね。ここだけの話・・・・。いやいや、言うまい。聞かないでくれ」と言われると、余計に聞きたくなるし、包装物の中身をいまにも出そうとする素振りを見せながら「いやいや、見ないでくれ」と、しまわれるときの心残りはこちらがイヤイヤ!で消化不良の不心地をきたし、強引にでも包みを開いて見たくなる。これはまともな人情だろう。
 フランスには【二人の秘密は神様の秘密、三人の秘密はみんなの秘密】という諺があるそうな。この場合の二人を「恋する二人」としよう。当事者であるだけに、二人が秘密を胸にしまっておけば、神様にしか知られないから秘密は保てる。しかし、婚約、結婚などの幸せ事は、時期尚早と思っていても、自ら口の外に出したくなるのも健全な人情。実際に二人だけなら信頼関係も保ち易いが三人、それ以上が知るところとなれば、秘密などはどこかへ吹っ飛んでしまう。


大正3年〈1914〉3月初演。伊良波尹吉作・琉球歌劇「奥山の牡丹」も、秘密がキーワードになっている。
 時は王府時代。首里士族・奥間殿内の嫡男サンルーは、遊芸を生業とし人別帳にも載っていない部落の娘チラーと恋仲になる。男は、女が身重になったことを知るが、身分の相違から結婚は叶わず、泣く泣く別れなければならない。その場面は、琉歌でなされる。

 symbol7仕情ぬ朽ちゅみ 何時までぃん肝に 思染みてぃ他所に 知らち呉るな
 〈しなさきぬ くちゅみ いちまでぃん ちむに うみすみてぃ ゆすに しらちくぃるな

 これに対する女の返歌はこうだ。
 symbol7糸目から針目 ふきるとぅん我身ぬ 何故でぃ思里ぬ 御腰引ちゅが
 〈いとぅみから はいみ ふきるとぅん わみぬ ぬゆでぃ うみさとぅぬ みくし ふぃちゅが

 男曰く「キミと交わした情愛は、永遠に朽ちるものではない。このことを胸中深く染め置いてほしい。そして、子が出来たことも含めて、二人の仲は決して他所には知らせてくれるな」。
 女は誓う。
 「例え拷問されて、縫針の糸目・針の目を潜らされようとも、二人だけの愛の秘密を白日のもとにさらすようなことはいたしません。身分違いの縁を無理に結ぶと、貴男の家名や出世に支障をきたすでしょう。私は、後ろから貴男の足や腰を引っ張るようなことは、決していたしません」。
 しかし、この秘密は18年後、チルーから引き取り育てた男子・ヤマトゥ=山戸=に、父親サンルーがもらすことになる。息子とは言え[糸目針目を潜らされようとも]と、あれほど誓い合った秘密も破局。公になる。やはり「物言わぬは腹ふくるる思いなり」で、秘密を守り切るのはむつかしい。

  写真提供:座喜味米子

 「誰にも言うなよ」の沖縄口は「誰にん言なよぉやー=たぁにん いぅなよぉーやー」である。久保田吉盛作詞作曲の同名の俗謡があって、その中でも「彼への恋心。親にも誰にも、本人すら告白していない片思い。私の恋慕の情を彼に伝えてはくれまいか。このことは、信頼しているアナタにしか頼めない。でも、他の人にもらしてはダメよッ。アナタ一人に打ち明けた秘密なのだから。きっとよ!」と、念押しまでする内容。どんなチョウデービレー〈兄弟つき合い〉をしている親友であっても、相手も血の通った人間[もう一人だけなら]と、もう一人の親友に語りたくなるのも、これまた人情。悪意は微塵もなかろう。

 こうしたことを中央アジアのタジク族は「友だちに秘密を打ち明けるな。彼らにも友だちはいるのだから」と、ずばり言い切っている。また、イギリスでは「三人が知っても二人がいなくなれば秘密は守れる」と言うそうだが結局、死ななければ秘密は守れないわけで、イギリス人らしいブラックユーモアと理解しておこう。
 筆者にも、墓場へ持って行かなければならない秘密の一つや二つや・・・・三つや四つはある。でも、それを「誰にん 言なよぉやー」と打ち明けられる人がいない。これも貧困な人付き合いをしているからだろう。寂しいかぎり・・・・。





十二支シリーズ⑨ 亥・猪・ヤマシシ

2010-04-01 00:20:00 | ノンジャンル
 本土でもそうだろうか。
 沖縄の年輩者は「キミいくつ?」なぞとずばり年齢は聞かない。「ナニ年生まれか」と、問いかける。答えると即座に「何歳だね」と、年齢を言い当てるのである。。私も戦前の生まれでいい歳になっているが、2桁以上の数字に極端に弱く、十二支で他人の年齢を言い当てる術を知らない。どうサンミン〈計算〉しているのだろう。このことに長けている役者北村三郎に教えを乞うた。
 「僕の算出法は、まず自分の干支と年齢を基本にした上、家族のそれもきっちり記憶して、さらにつき合いのある親しい人の干支を頭に入れておく。この基本さえ把握しておけば、相手の年齢は干支が導き出してくれる。言い換えると、初対面の人でも年格好からして干支が分かれば、足し算引き算することによって年齢を知れる。12進法だよ。分かったかい?」それでも分からないのである。読者諸君はいかが。

 ※い【亥。猪。イノシシ】十二支の第12。昔の時刻、亥の刻は現在の午後9時から11時の2時間。方角はほぼ北北西。
 辞書の[いのしし]の項をみると、イノシシ科の哺乳動物。ブタの原種。体長1.1~1.5m。体重45~300㎏。犬歯は発達してキバになる。夜行性で雑食性。子には縦ジマがあり「うり坊」と呼ばれる。肉は「山鯨」「牡丹」と呼ばれる美味。本州、四国、九州。ヨーロッパに分布。単にシシ、イ、イノコ、ヤチョとも称するとある。


 沖縄口では肉のことを「シシ」と言い、これは大和口の殊に九州に残っている言葉だ。猪肉を食していた名残りと思われる。また、慣用句にも「シシ」はあって、池波正太郎の「鬼平犯科帳」には「シシ置きのいい女」「シシ太り」「シシの細い女」などなどが、女っぷりのさまを表現している。
 いまではすっかり死語になっているが、沖縄では動物の肉・シシを「アッタミ」と称した時代がある。中でも牛肉は、牛にツノがあることから「チヌ アッタミ」と言い、猪の肉を「山アッタミ」と称して珍重した。猪の沖縄名は「ヤマシシ=山猪」。山林に生息しているため、豚肉と区別するために付いた名称である。

 干支は、その人の性格を表すと言う。それは当たりかもしれない。私ごとから考察するに、ウチの「妻女」というイノシシは、まさに猪突猛進型。男ならば猪武者、猪侍を生きざまとしていたのだろう。なにしろ、ふたつの事柄を同時に考えることが出来ず、状況判断はそこそこに即、行動する。これには虎〈寅〉の亭主も翻弄されて、後始末に手を焼く。もっとも、猪突猛進型を「集中抜群」と解釈してあきらめてはいるが・・・・。

 琉歌を1つ。
 symbol7多幸山ぬ山シシ 驚くな山シシ 喜名ぬ高波平 山田戻ゐ
 〈たこうやまぬ やまシシ うどぅるくな やまシシ ちなぬ たかはんじゃ やまだ むどぅゐ
 
 これは遊び歌「多幸山」の1節。
 意訳すると「読谷村と恩納村の境にある多幸山山中の山シシどもよ!読谷村喜名の豪傑高波平のお通りだ。ビクつくことはない。驚き逃げるに及ばない。高波平は、恩納村山田での所用を済ませて帰路についたところだ」と、こうなるが歌意には裏がある。
 その昔、多幸山はフェーレー〈徘徊者〉と恐れられた追い剥ぎが隠れ住んでいて、通行人に悪さをしたそうな。フェーレーとは言っても彼らは、いわゆる勤労を好まないはみ出し者の小心者。強そうな通行人には仕掛けない。むしろ姿を隠すほどの輩だ。そこで、この1節は、おっかなびっくり多幸山越えをする近隣の村の者が、フェーレーを山シシになぞらえ「オレは高波平ほどに強いぞ!」と、威嚇を込めて詠んだものと言われる。
 「多幸山のフェーレーども!我こそはこの辺りで名高い豪の者喜名村の高波平だ。下手に手出しをすると怪我をするぞ!泣きを見るぞ!」と、精一杯の虚勢を張りながらも「難なく通れますように」と、願ったとするのも面白い。その裏づけにはならないまでも、この曲節は〈フェーレー遭遇〉の血生臭さは微塵もなく、それどころかあくまでもどこまでも明るく軽快なテンポで歌われている。


 山アッタミは、確かに美味だ。豚肉とは異なり、先入観が思わせるのか野性的な味がする。本土では牡丹鍋と言い、具沢山の鍋物として食するようだが、沖縄では角切りにして味噌煮にするか、デークニ〈大根〉、チデークニー〈黄大根。にんじん〉を入れた汁物で食べる。側に泡盛があれば、旨さが倍増するのは言を待たない。現在でも、本島北部の農家ではパインの収穫前に、猪被害防止のためにヤーマ〈罠〉を仕掛けて山シシ狩りをする。これは八重山石垣島でも同様だが、西表島でもウムザ〈八重山語の猪の意〉狩りは犬が主役である。狩猟用に訓練された数匹の雑犬が、実にチームワークよろしくウムザを追い込み、捕獲する。このことを日本の動物作家戸川幸夫は実際に西表島で体験取材して「白い牙」と題する小説に克明に描いている。

 さて。
 十二支シリーズも今回で打ち止め。十分なことは書けなかったが、仲間内の歓談の場での話のネタに成り得たら、私としては花札打ちの最中、鹿と蝶の札を揃え、次に「猪」札を引き当てたような気分になるだろう。