旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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ガラケー派・スマホ派

2016-05-20 00:10:00 | ノンジャンル
 着信「ガラケー卒業。スマホデビュー。まだ、使いこなせずオタオタ。そのうち、馴れるはず・・・」早苗。
 返信「裏切者!オレはガラケーへの義理を果たす!連休は何処へ。放送屋には休みはない」直彦。
 着信「義理堅いこと。私はただ時代の波に乗っただけ。駿河の国に新緑。青葉の中に鯉幟と登り旗を見に御殿場線で電車の旅。働きすぎないように」早苗。

 静岡県清水町在住。染織・刺し子・和紙人形作家城間早苗女史とのメール交信である。
 「一人ひとりが何故、電話を持ち歩かなければならないのだ?」。
 出始めに強い抵抗を示してきたボクが、携帯電話の利便性、通信の即効性、時代性等々、屁理屈と思われる勧誘に敗北して、電話を携帯するようになって10年余になろうか。さまざまな機能が内蔵されているようだが、いまもって電話、メールしか使えていない。
 「それで十分!」と、納得しているからだ。そこへきて(ガラケー派)だった城間早苗女史の(スマホ派)への転向!「ブルータス!お前もかっ!」と(裏切者)呼ばわりしたのである。
 独白「また一人、ガラケーの同士を失った。ボクは時代に取り残されるのだろうか・・・」。

 ところで「ガラケーの語源は何か?何の略語か?」
 携帯しているガラケーには、その検索機能がない。無念ながら(スマホ派)の友人に頭を下げて教えてもらった。
 ガラケー=日本独自の市場で進化した携帯電話。
 語源・由来は如何に?
 ガラパゴス携帯の略。ガラパゴスは、エクアドルの西方約900kmの太平洋上に浮かぶ諸島で、他の島との接触がなく隔絶された状態にあるため、独自の進化を挙げた動植物が多く存在している。
 ガラパゴス諸島の生物のように進化する、殊にIT技術などで国際規格とは異なる進化をすることを「ガラパゴス化」という。日本の携帯電話はワンセグ、着メロ、着うた、赤外線通信、電子マネーなど多様化を有し、世界標準とは異なる進化をしていることから「ガラパゴス化した携帯電話」の意味でガラケー(ガラパゴス携帯電話)と呼ぶようになった。
 独白「なるほど。スマホには(ガラケーでは知り得ない語源を知り得る機能)がついている。便利だなあ。スマホに替える?いやいや、長年、ガラケーに受けた恩義を忘れてはなるまい。そのガラケーへの義理は、通し続けなければ人情にもおとる。浮気はすまい!」。

 どんなものにも(功罪)は付きもの。
 国立青少年教育振興機構の調査結果が発表された。
 朝食や歯磨きなどの生活習慣が身に付いていない子どもほど、スマートフォンや携帯電話を気にしたり、操作したりする傾向があるという。
 調査は2015年2~3月、公立の小学校4~6年と中学2年、高校2年を対象に実施し、約1万人のデータを分析した。
 スマホなどについては「特にすることがない時、とりあえず操作している」「食事中でも気になる」などの質問への回答から、スマホ熱中度を「高い」から「低い」まで、5段階に分けて、関係を調べた。
 機構によると、生活習慣が身に付いている集団のうち、スマホ熱中度が「高い」との回答は15.0%。生活習慣が身に付いていないほど「高い」の割合は増え、あまり身に付いていない集団で29%、身に付いていない集団で32.6%と、およそ倍の開きだ出た。
 また、液体の中をキラキラ光る素材がただよい、若い女性に人気の液体入りスマートフォンケースから液体が漏れ、肌がかぶれたり、やけどなどをしたりする恐れがあるとして、国民生活センターの注意を呼び掛けている。
 同センターによると、やけどなどの被害情報が昨年6~11月に5件寄せられた。センターが行った類似商品の試験では、液体の成分は石油系とみられ、皮膚障害になる可能性があるのが確認された。「液体漏れがあったら直ちに使用をやめ、付着したら水で洗い流して」としている。
 センターは4商品を試験。いずれも中国からの輸入品で、肌への刺激性があるのを確認した。だが人体への影響を「無害」と説明している商品や、全く表示していない商品もあった。
 新製品、新商品を購入、利用する場合、機能だけでなく安全性の確認が肝要ということだろう。

 ガラケー、スマホの功罪は身近にもある。
 「家族の所在がすぐに判って安心」
 「子どもが依存症になって片時もガラケー、スマホを放さず、家族同士の会話が激減した」。
 功罪の例をあげると切りがない。
 さて。ボクはガラケーへの愛着が強い。スマホへの色目は使わない。それは、時代の波に乗り遅れたことになるのだろうか。遅れてもいい。人生を登山に例えるならば「這って行っても走って行っても山は山」だから・・・。



熊本大地震・不発弾処理

2016-05-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「オスプレイでなければならなかったのかねぇ・・・。被災した方々の救援目的は容易に理解できる。反対は決してしないが・・・。オスプレイというのがねぇ・・・。複雑な心境になる」。
 4月14日夜9時26分。熊本県を襲った大地震。戦争中は、沖縄からの疎開地としてお世話になった熊本。沖縄県民には身近な地であるだけに(心痛)は絶えず、いち早く救援活動を開始、継続している。
 自衛隊の出動は当然として、基地移設問題で揺れる普天間基地に配備されていたオスプレイ2機が出動した。県民は一様に懸念、不安を余儀なくされた。
 このことについて沖縄タイムス紙は、4月19日付の紙面で次のように伝えている。

 {熊本で新垣卓也}
 普天間飛行場に配備されている米海兵隊の輸送機MV22オスプレイ2機が18日午後4時すぎ、熊本地震の被災者支援のため、熊本県内に到着した。水や食料など20トンを搬送。日本の被災支援に初めてオスプレイが参加した。
 17日、4機のオスプレイが演習先のフィリピンから普天間飛行場を経由して米軍岩国基地に到着した。関係者によると2機は整備などの都合で初日は運用しなかった。
 2機は18日午後3時半ごろ、山口県の岩国基地を離陸し、約45分後に熊本県益城町の陸上自衛隊高遊原分屯地に着陸。同県南阿蘇村の白水運動公園に救援物資を運んだ。輸送した物資はペットボトルの水2リットル計1200本や食料(ごはん・パン)、テント80張り、簡易トイレ160個など。
 オスプレイは19日以降も輸送を行う。活躍中は、同県八代市沖に停泊している海自ヘリコプター搭載型護衛艦「ひゅうが」で燃料補給を受ける予定。安倍晋三首相は衆院特別委員会で「高い能力を生かした支援を期待できる」と述べた。
 被災地では、オスプレイの救援物資輸送への歓迎を懸念が交錯した。益城町小山の団地から避難した北島亮さん(32)は「水も食べ物もない中での支援は本当にありがたい」と評価。同町惣領に住む太田文博さん(65)は、「ニュースで事故が多いと聞いた。万が一何か起きたら話にならないし、そもそも他に手段があるのでは」と首を傾げた。

 「ありがたい」「他に手段があるのでは」。
 世界各地で事故を頻発しているオスプレイ。被災地でも基地をかかえる沖縄でも「オスプレイの活躍?」の捉え方は、なんとも言い難い複雑さをもって飛び続けている。
 さらにさらに。日を同じくして4月19日付沖縄タイムス紙には、
 {不発弾処理 国道58号線封鎖 浦添市牧港 5月15日実施}の見出しが目を射る。

 {浦添}浦添市牧港1丁目の解体工事現場内で3月26日に発見された米国製5インチ艦砲弾1発の不発弾処理作業が5月15日午前10時10分から、牧港の国道58同線を一時封鎖して発見現場近くで行われる。避難場所と現地対策本部は、いずれも浦添市消防本部牧港出張所。
 市によると、午前9時に対策本部を設置。同9時5分から避難誘導を開始し、交通規制は同45分から正午までで、最大2時間15分の見通し。
 陸上自衛隊や県警、市などの関係者が不発弾処理対策会議を開き、詳細を確認する。
 同時間帯は対象区域となる国道58号の通行ができない。
 それに伴い、迂回路として牧港交差点から国道330号(浦添バイパス)を通り、城間の国道58号に抜けるルートと牧港南交差点からパイプラインを通り、同国道に抜けるルートを想定している。
 市の担当者は「交通への影響が大きいと予測される。周辺住民の安全を確保しつつ、スムーズな対応を心掛けたい」と話している。

 戦後この方(不発弾処理)なる報道は日常的になされ(またかよっ!)で知るようになり、特別の脅威、驚愕、不安も覚えなくなった。その感覚の方が、むしろ恐ろしい。しかも、今回の不発弾処理をする日が5月15日。終戦から27年に及ぶアメリカ支配から脱却した「日本復帰」した日である。昭和47年(1972)のことだ。あれから44年経った。

 沖縄の地下には、まだまだ予測できない米国製、日本製の不発弾が眠っているとされる。それが何時、どんな状況で目を覚ますか!県民の不安と恐怖は癒される目途はたたない。その筋の話によると、
 「沖縄戦で投下された爆弾の不発弾を完全発掘処理するには、あと100年を要する」という。
 沖縄の日本復帰の道筋をつけたと言われ、政界の‟団十郎”と称された佐藤栄作総理大臣は、昭和40年(1965)8月19日、中村梅吉文部大臣、鈴木善幸厚生大臣、橋本登美三郎官房長官、田中角栄自民党幹事長らを引き連れ、3日間沖縄に滞在した。そして、帰京の際、次のような名言?を残した。
 「沖縄が帰らなければ、日本の戦後は終わらない」。
 
 「アメリカがクシャミをすると日本は風邪をひく」
 そう言った評論家がいた。風邪どころか沖縄は戦争ウィルスに冒されて高熱を出しっぱなし・・・。戦後は未だ終わってはいない。



歌謡曲の中の風景

2016-05-01 00:10:00 | ノンジャンル
 目を射るような日差しが飛び込んできた。
 久しぶりの朝寝の起きぬけに、まずは風を入れようとカーテン、そして窓を開けてみると、すでに昇ったティーダ(太陽)は、勢いを発揮していて、目が開けられない。目をつぶったまま深呼吸と背伸びをする。風はさわやかだ。ようやく明るさに馴れて、
 (さて、髭でも剃るか)
 洗面所の鏡に向かったとたん鼻歌が出た。
 ♪晴れた空 そよぐ風 港出船のドラの音楽 夢も通うよあのホノルルの 歌も懐かし あのアロハオエ~ああ 憧れのハワイ航路~
 んっ?なぜ「憧れのハワイ航路=岡晴夫=」が、口をついて出たのだろう?
 さっき部屋に取り込んだ5月の陽が‟晴れた空そよぐ風”を記憶の引き出しから誘導したのだろう。歌と記憶の関わりはそうしたもので、ジーンズを履くと、決まって登場する歌と人物がいる。日活スター赤木圭一郎と彼の歌だ。

 ◇「流転」唄/赤木圭一郎。
 昭和40年前後。戦前、上原敏が歌った股旅ものを赤木圭一郎はレコーディングした。
 ♪男命を三筋の糸に かけて三七サイの目崩れ 浮世歌留多の浮き沈み~
 こてこての演歌を(かっこいい男)の代名詞にもなった赤木圭一郎は世に出したのである。しかも、それまで聞き慣れなかったスローロックでだ。昭和30年代後半から40年代の若者は、新しい歌のようにして歌った。
 スクリーンでみる彼は、長い脚を細めのジーンズに通し、しかも、普通の革靴を白いソックスで履きこなして、横浜か東京と思われる港やビル街を闊歩する。これがまた(かっこよく)ボクも赤木圭一郎にライバル心をむきだしにして、そうそうは手に入らなかったジーンズを、なんとか探し出して履いていた。けれども、当時、市販されるジーンズの裾は、だぶついたモノばかりで、赤木圭一郎のように(すっきりした足の長さ)を強調することができなかった。それでも、白いソックスは欠かさず(白が黒)になるまで(成り切り)をしていたものだ。彼のジーンズは特注だったに違いない。
 ♪どうせ一度はあの世とやらへ 落ちて流れて行く身じゃないか~啼くな夜明けの渡り鳥~
 赤木圭一郎は、若くしてあの世とやらへ逝った。
 存命ならば、幾つになっているのだろうか。いやいや、埒もないことは考えまい。彼はジーンズとスローロックの中でいまも生きているのだから・・・・。
 ♪意地は男よ情はオナゴ ままになるなら男を捨てて おれも生きたや恋のため~

 テレビの旅番組を見ながら(行ってみたい)と思うのは毎度のことである。
 国内の2泊3日の短い旅の場合、春夏秋冬、行き先は(いい天気)を望むのは誰しも同じだろう。ただ、北国へ行くならば、ボクは冬がいい。沖縄に生まれ育ったボクにとっては、雪の日は最良の(いい天気)だからだ。ないモノねだりで2、3日なら(雪)楽しみたいのである。
 「誰を連れていくか」。
 またぞろ、歌からの発想になるが、おふくろを東京に連れて行きたかった。「東京だヨおっ母さん」が、ボクの親不孝をせめる。

 ◇「東京だヨおっ母さん」唄/島倉千代子。
 ♪久しぶり手をひいて 親子で歩ける嬉しさに 小さい頃が浮かんで来ますよおっ母さん ここが二重橋 記念の写真をとりましょうね~
 ボクはおふくろの手をひいたことがない。5男4女の末に生まれたボクは、おふくろの手をひく場面になっても、それは兄や姉がサッサとやってしまい、その手はボクまでは回ってこなかったである。
 「東京に連れて行ってほしい」。
 兄や姉、そしてボクが長じて、出張や小旅行で本土に行くことを知ると、こういう言葉をかけるおふくろ・・・・。彼女の行きたい(東京)は国会議事堂でも銀座でも浅草でもない。靖国神社だ。沖縄が90年の生涯、1歩も出たことのないおふくろ。長兄、次兄を上海沖とビルマ(現ミャンマー)で戦死させたおふくろ。息子二人の霊魂は、彼女に抱かれることなく、靖国神社に足止めされた。
 「東京に行きたい!」
 母の心情を察しながらも「いつか行こう」「連れて行きたい」。兄、姉、ボク。そう口では言う子たちに母は、しびれを切らしたのか、靖国神社を通りこして直接、息子二人に逢いにと、あの世に行ってしまった。孝行したい時には親はなし・・・。後悔しても、もう間に合わなさすぎるのである。
 ♪やさしかった兄さんが 田舎の話しを聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろおっ母さん~あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも~

 もうすぐ「母の日」。
 カーネーションを上げたことがあったろうか。食事に連れて行ったことがあったろうか。なにひとつ(ない)のである。兄や姉7人も天寿を全うして両親のところへ行った。残ったのは、すぐ上の姉とふたりだけだ。母の日には、セピア色になった数少ないおやじとおふくろの写真を持って、姉の家を訪ねよう。そして「東京だヨおっ母さん」を歌いながら「おっ母さん!ごめん!」を言おう。
 因みにおやじは昭和25年病没した。59歳。ボクより年下になってしまった。