旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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盛夏・一杯のコーヒーから

2016-06-30 10:00:00 | ノンジャンル
 「これが沖縄の夏だっ!」
 自分の力を誇示して温度計は日中32、3度に位置し、夜は夜で熱帯夜を執拗に保っている。これに対抗するためには連夜クーラーのみならず、扇風機を併用せざるを得ない。勢い冷たい飲み物が多くなる。
 あなたの「夏の飲み物」は何?
 ボクの場合、市販のミネラルウォーターがもっぱら。冷蔵庫に入っているジュース類は、ふいに訪ねてくる来客や身内用と決めている。
 たまには親しさにまかせて「ビールある?」「アイスコーヒーを」と、無遠慮に要求してくる御仁もいるが、そんな注文には応えられず、有り物で我慢していただいている。自分本位と言われても、家ではビールはもとより、アルコール類を口にしない習慣で「ビールある?」は、非常識にすら思えるのである。
 先日は、わが家の慣習を知らない知人が「暑中見舞い」とやらでボトル入りコーヒーの4本セットを届けてくれた。厚情は素直に味合わなければならない。早速、アイスをたっぷり入れて飲んだ。久しぶりのそれは、意外な爽やかさで、喉を通過していく。シプタイ暑さ(しつこい蒸し暑さ)まで押さえてくれる効果があった。よほど快適だったのだろう。鼻歌まで出た。
 
 ♪一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 二人の胸の灯火が ちらりほらりと点きました~

 んっ?待てよ?昭和14年。藤浦洸作詞、服部良一作曲。霧島昇、ミス・コロンビアの唄で世に出た、いわゆる「なつメロ」をどうしてボクはそらんじているのだろう。ふり返ってみるに少年時代、近くの映画館から、呼び込みのために流れていたこの歌を聞きおぼえたのが、いまがいままで脳の片隅に刷り込まれていたものと思われる。
 独白=思い出すにしても、西田佐知子の‟コーヒールンバ”なら青春の歌でまだしも、‟一杯のコーヒーから”とは随分、時間を逆回ししたものだ。

 コーヒーが沖縄に移入されたのはいつごろだろう。
 風俗史をめくると明治8年(1875)の項に可否茶の文字が見える。熱帯植物の栽培に適した琉球でも栽培可能だろうと、琉球藩から沖縄県に移行する4年前の明治政府内務省は、ジャワ産のコーヒーの栽培を試みているが、収穫には至らなかったという。
 日本人で初めてコーヒーを飲んだのは、長崎に寄港したオランダ船の取締役人だったとされるが、感想は「まずかった」と、感心していない。
 しかし、押し寄せる西洋文化には抗しがたく明治21年(188が
8)まだ江戸のたたずまいを色濃くしていた東京上野黒門町に‟わが国初”の喫茶店「可否茶館」が開店。丸い木製のテーブル、籐椅子に天井にはランプを下げて西洋的雰囲気を売りにして、1杯1銭5厘で出した。初めは物珍しさで繁盛したが、新時代の味は、新しいモノ好きの東京人にも馴染めなくて、3年で閉店したと東京故事物語にある。
 沖縄における喫茶店は大正初期、那覇にあった芝居常打ちの大正劇場の待ち合い所‟快楽店”。1杯5銭也。さらに大正中期になると、沖縄一の歓楽街‟チージ”波之上にコーヒーを出す‟波之上軒”が開店。那覇の文化人が通ったそうな。

 ♪一杯のコーヒーから モカの歌姫 ジャパ娘 歌は南のセレナーデ あなたと二人 朗らかに 肩を並べて 歌いましょう~

 「ジャマイカ産以外は飲まない」「シュガーを入れるのは邪道」。などなど、巷にはコーヒー通が実に多い。ボクは銘柄は問わない。砂糖はふたつ。これだから‟通”からは‟野暮な男”に認定される。それでいいのである。
 産地や砂糖、クリープ、ミルクを通の名にかけて排除し、ブラック派を必要以上に標榜。しかもしかも、飲む前にカップを鼻の下に運び、悦に入っているパフォーマンスをされると、耐えがたさを禁じ得ない。ボクにとってのコーヒーの味は‟誰と飲むか”これがすべてである。一人で飲むそれは苦い。
 二人きりで飲む場合、場所は小さな喫茶店がいい。テーブルも小さめがいい。前に顔を寄せると、額がふれあいそうなほどがいい。会話は囁くようにトーンを落としたほうがいい。黙っていてもいい。そして時々、目と目が合えばそれでいい。男同士ではないのは言うまでもない。

 ボクのコーヒー歴は長い。アメリカ軍が野戦用に携帯し、持ち込んだCレーション、Kレーションという缶詰には、クラッカー、バター、ジャム、シュガー、煙草4本、そしてコーヒーがコンパクトに入っていた。終戦直後の沖縄の子は、それで大人の世界を体験学習したのである。これでもコーヒーの味を知らない野暮な男のレッテルは取ってもらえないのか。

 ♪一杯のコーヒーから 小鳥さえずる春も来る 今宵ふたりのホロ苦さ 角砂糖ふたつ入りましょか 月の出ぬ前に 冷えぬ間に~

 さる日。知り合ったばかりの女性に、いきなりビールをというのも失礼かと思い「コーヒーでもいかが」と、声を掛けたら「えっ!ほんとうにコーヒーだけですよ」ときた。
 「ほんとうにコーヒーだけですよ」は何だったのか?いまもって解釈に苦しんでいる。やはり「野暮な男」か。



摩文仁の岡

2016-06-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪ヤッチー ヤッチー 寂しいヤッチー
  摩文仁の岡の 白い陽をみつめ 
  なに憶うブロンズ像の 愁いの瞳よ
  ああ 仏桑華のように赤い あの花びらが 悲しゅてか


 山之口獏作詞、服部良一作曲、歌嘉手納清美「摩文仁の岡」の出だしである。山之口獏、嘉手納清美共に沖縄出身。昭和37、8年ころ出された45回転盤の1曲。嘉手納清美の両親は、終戦間もなく東京新宿・コマ劇場裏に琉球料理店「南風」を開いて、東京に出た県人、学生の溜り場になっていた。ひょっとして、ひょっとしてだが、山之口獏さんも、顔を見せていたかも知れない。因みに「ヤッチー」は、実兄、叔父貴、他人でもリスペクトとている年上の男性をさす沖縄語。

 ♪ヤッチー ヤッチー 恋しいヤッチー
  声ふるわせて 兄の名よべど 
  藍色のあの海の果て 返らぬ魂魄よ
  ああ 母はいまもおもかげ胸に 哀れや帰り待ちわびる


 摩文仁は、沖縄本島南部に位置する糸満市の1集落。沖縄地上戦最大の激戦地。
 現在の沖縄平和祈念公園の所在地。「平和の礎(いしじ)」もここにある。
 「平和の礎」は、日米戦争・沖縄戦終結50周年記念として、平成7年(1995)、戦没者の氏名を刻銘し、慰霊するとともに恒久平和を願い、戦争の悲惨さを後世に伝える目的で建設された。
 沖縄県出身者は、昭和6年9月18日の満州事変から、昭和20年9月7日、南西諸島日本軍が米軍との調印後、1年以内の戦争が主な原因で亡くなった方々が刻銘されている。
 県出身者以外は、昭和19年3月22日、沖縄守備軍第32軍創設から昭和20年9月7日以降1年以内に亡くなった方々を刻銘。

 平成28年6月現在の刻銘者を国別に見る。
 ◇日本=沖縄県人149,431。県外都道府県人77,417。
 ◇米国(U.S.A)=14,009。
 ◇英国(U.K)=82。
 ◇台湾=34。
 ◇朝鮮民主主義人民共和国=82。
 ◇大韓民国=365。
 計=241,414.
 刻銘碑は公園内の「平和の広場」を中心にして、放射線状に円を描いて配置。これらは屏風上の5折りタイプ69基。3折りタイプ49基、計118基。刻銘版は1,220面。約25万名の刻銘が可能。
 刻銘ゾーンは、平和の広場に向かってメイン通路の左側が県出身者、右側が他府県出身者。右手のサブ園路の奥側が外国出身者の刻銘ゾーンになっている。沖縄県については、戦没者数が多いことから、市町村別、字(あざ)別に刻銘。また、県内出身者は、名前が不明の場合でも刻銘されているが、これは、戦後50年、60年余年という時間経過のため、調査しても名前が判明しないことと、沖縄戦で戸籍簿が焼失したことが原因している。

 平和の広場の中央には「平和の火」が灯されて、すべての戦没者の「生きていた証」として、戦争の残酷性と「平和の尊さ」を訴えている。
 「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と、原爆被爆地広島市「の平和の灯」と長崎市の「誓いの火」から分火したものを合火し、1991年から燃え続けていた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」に移設している。そして「火種」は、平和の広場の地下に保存されている。

 ♪ヤッチー ヤッチー 涙のヤッチー
  明日はなんの花 捧げましょか 
  囁けばブロンズの頬 夕陽に濡れたよ
  ああ 風は悲し 摩文仁の岡の 穂すすきゆすり すすり泣く

 「貧乏詩人」「放浪詩人」と親しまれる山之口獏は、明治36年(1903)9月11日、那覇市東町に生まれた。本名山口重三郎。
 放浪・ルンペン・極貧の中で詩を書き続け、誰にも分かり易く、語り掛けるような、ユーモアとペーソスの作品は、読者の微笑と涙をもって共感を得、沖縄には作品の1篇2篇をそらんじて、日常の会話の中に生かす人が少なくない
 那覇尋常高等学校高等科を経て大正6年(1917)、沖縄県立第1中学校に入学するも、4年で中退。そのころから詩作、絵画に熱中。詩誌「ほのほ」「榕樹」などを創刊、多くの生活詩を発表しているが、絵画は残っていない。中央詩壇を目指して上京するが、関東大震災に遭い帰郷。その間のことは自伝小説「無銭宿」「野宿」などに詳しい。2度目の上京は父親の事業失敗、一家離散がきっかけ。本屋の荷造人、暖房屋、おわい屋(便所の汲み取り人)などと、底辺を転々としながら詩作に没頭。佐藤春夫、金子光晴、草野心平らとの親交を深めた。しかし、戦前、戦中、中央では続々と「戦争詩」が発表される中、山之口獏は1篇の戦争詩も書いていない。ただ、それらしき作品は戦後、34年ぶりに帰省した後に書いた「弾を浴びた島」ではないか。昭和38年(1963)7月13日。胃癌のため新宿戸塚の病院で60歳で逝った獏さんの「弾を浴びた島」を掲載して「慰霊の日」がらみの項としよう。
 
 島の土を踏んだとたんに ガンジューイとあいさつしたところ
 はいおかげさまで元気ですかと言って 島の人は日本語で来たのだ
 郷愁はいささか戸惑いしてしまって ウチナーグチマディン ムルサッタルバスイと言うと
 島の人は苦笑したのだが 沖縄語は上手だねと来たのだ


 *ガンジューイ=元気か。*ウチナーグチマディン=沖縄方言もすべて。*イクサニ サッタル バスイ=戦争にやられたのか。


梅雨に学ぶ

2016-06-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「沖縄の人は雨の日でも、傘を持たない」
 本土からきて沖縄に暮らす人に指摘される。
 そう言われてみれば、そんな気がしないでもない。ボクからして自前の傘がない。と言うよりも持たせてもらえないのである。確実に出先に置き忘れてくるからだ。注意散漫なのだろう。
 テレビで本土の梅雨入りのニュースをみると、勤め人の出勤時、退社時の駅前なぞ、ほとんどの人が傘を差している。思うに、それらの人びとは、自宅から職場までの距離を結構歩かなければならないからだろう。ボクの場合、そうそう歩かなくても目的地に着けるし第一、車を横付けできるから、車が雨具になっている。こうした生活者が多い風景が(沖縄の人は、雨の日でも、傘を持たない)になったと思われる。
 けれども、それは昔からそうだったのではない。
 「雨ぬ降ゐねぇー 犬ぬん隠っくぃーん=あみぬ ふぃねぇー インぬん くぁくぃーん=雨降れば、犬でさえ雨宿りをする」
 雨に関する慣用句のひとつである。まして人間、濡れることを好むわけがない。が、雨宿りはしても、なかなか上がらない雨であったり、急用が待っていると‟本降りになって出て行く雨宿り”するしか手はない。
 
 かつての母屋付きの民家には(雨端=あまはじ)があった。
 母屋の軒四面に差し出した庇(ひさし)を差す。玄関を持たない沖縄特有の建築様式で、庇下は、外来者との接客の場にもなった。母屋は茅葺でも、雨端は瓦をのせたのが多かった。マッテーラー(燕。マッタラーともいう)が巣をかけるのも、この雨端だ。たとえそれが見ず知らずの民家であっても「アマハジ貸らち、呉みそぉーり=アマハジ からち くぃみそぉーり=雨端・軒下を貸して下さい」と声をかければ、めったに断られることはない。それどころか、晴れるまではと茶菓子を出し、世間ばなしで場を繋いでくれた。ビル街では、もう見られない人情風風景。

 雨に関する慣用句をいま2、3拾ってみる。
 ◇ぐま雨にどぅ 濡ださりーる=ぐまアミにどぅ ンダさりーる
 大雨は、それなりに雨具を用意するから、ずぶ濡れになることはないが、小雨は、大したことはあるまいと、高を括ってしまう。したがって、結果的には大雨以上に(濡れてしまう)としている。
 転じて、自力で解決しなければならない問題は、かれこれ相談したり、調査をして対処するので(大事)には至らないが「細かいこと」は「な~に。ほっといてもすぐに片が付くわい!」と、対処を梅雨のように長引かせていると、かえって大事に落ち込んでしまうとして、日常の油断大敵を諭している。

 ◇頼るがきてぃ 雨降らったん=たるがきてぃ アミふらさったん
 頼みにしていたことを反古にされたの意。
 例えば、人さまに大事な要件を頼んだ。当然、依頼人は相手を信頼し、頼りにするわけだが、相手に誠意がなかったのか、失念したかして約束を果たしてくれなかった場合「頼みにしていたのに、小雨を大雨にされて二進も三進もいかなくなった」ことを言い当てている。また、折角の催しものを、十分な仕込みをせず、最悪な状態にしてしまう例にも、この慣用句は当てはまる。

 ◇雨垂い水ん醤油使えー=あまだゐミジん ソーユー じけー
 雨垂れの水も水甕などに溜めて、醤油を使うように無駄なく使おう。
 夏場、湯水を余儀なくされた沖縄。水は何より貴重で、各家庭の屋根の庇の先端には、雨水を一箇所に流し溜める(樋=とい)をつけた。雨水はその(とい・方言ではティー)を通じて、シム(下、しも、台所)近くに設置した大きな水甕・タンクに流し込む仕掛けになっている。
 それほど貴重な生活用水と醤油を対比したのには理由がある。
 いまでこそ醤油はごく普通に食卓にあるが、かつては簡単に入手できるモノではなかった。調味料はンース(味噌)が主。刺身も酢味噌で食した。
 「あの家庭は醤油を使っている」ということは金持ちを意味した。
 このことから庶民は(どんなものでも、使えば減る。殊に貴重なモノは倹約して使おうという生活哲学を得たものと思われる。

 歌者金城恵子が歌う「恋小洟=作詞上原直彦。作曲=松田弘一」のひと文句を書き添えよう。

 ♪雨や天任し 風や風任し 我命里任し 情任し
 〈あみやティンまかし かじやかじまかし わヌチさとぅまかし なさきまかし

 歌意=雨は天任せで降り、風は風任せで吹く。私の身も心もあなた任せの情任せよ。

 雨には学ぶべきことが多い。
 ただし、雨をどう感じ取るかによるだろう。
 今日のボクはこの梅雨をどう受け取っているのか。
 ♪雨よ降れ降れ 悩みを流すまで~どうせ涙に濡れつつ夜毎なげく身は~。
 淡谷のり子の「雨のブルース」を小声にして梅雨空をぼんやり見している。さしあたり流す悩みもないのだが・・・・。梅雨明けまでの残り10日ばかりを(日々好日)を決め込む。それにしても・・・・よく降るわい。



虫たちよニライ・カナイの楽園へ

2016-06-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「やめなさいヨ!かわいそうにッ!」 
 すっかり情け知らずにされてしまった。
 入ったばかりの梅雨の鬱陶しさにさいなまれたかして、車庫前に這い出していたアフリカマイマイを思いっきり蹴飛ばしたボクの行為に、古女房が放った言葉が「やめなさいヨ!かわいそうにッ!」。
 これまでどこに潜んでいたか、梅雨に誘われて出没するアフリカマイマイ。それも1個2個なら見過ごすが、猫の額ほどの庭の芝生のかげや庭木の根元をよく見ると無数にすがっているのは、正直なところぞっとするのである。
 「一寸の虫にも五分の魂」。
 1個2個には、動物、生物愛護の精神も発揮できるが、朝夕、10数個のそれを見せつけられると、蹴飛ばしたくなる気持ちを理解していただきたい。これからしばらくは週に1度の割合でアフリカマイマイ駆除をしなければ、家の壁にまで進出するからたまらない。チンナン(蝸牛)、ヤスデもその繁殖力を誇示する季節なのだ。
 それが街方の庭や草むら程度ならば、愛護精神も示せるが、農家ではそうはいかない。そこで古来、重要な年中行事として、いまに受け継がれているのが「アブシ払れー=畦払い=」である。
 旧暦4月14日と15日の2日間、あるいは中旬以降の吉日に村びと総出で田畑の畦の草を刈る。いわば害虫駆除の行事だ。そこで発見された大小のシェー(いなご・ばった)やチンナン、野鼠などを捕獲するが、行事はそれだけでは終わらない。捕獲したそれらはフニグァーと称する(虫舟)に乗せて海へ流すのである。その祈りの唱え、祝詞はこうだ。
 「虫たちよ。海の彼方のニライ・カナイの国は、ここよりも暮らしいい。向こうへ行って命をまっとうするがいい」。
 農作物に害をなす虫たちにも、情をかける精神は、自然とともに生き、いや、自然に(生かされている)農民ならではの敬虔な祈りと言えよう。虫舟は、ところによって大きさや形は異なる。150年続いている名護市安部(あぶ)の例を見てみよう。

 数年前の5月31日に行われたアブシ払れー
 虫舟は、村の男衆が早朝、芭蕉を伐採するところから始まり、村屋(ムラヤー。集会所)で作られる。茎や葉が材料だ。それを選ばれた人が担当。出来上がった虫舟は、根神屋(にーがみや・村の守護神を祀った拝所)に搬入。それを受け取るのは、祝詞をあげるノロ(祝女)や長老、それに村の主だった人たちで、根神屋のヒヌカン(火の神)の前に捧げ「今年の豊作祈願、航海安全、村の繁栄、村びとの安寧の暮らし」を祈願する。
 全長140センチ、幅約40センチ、重さ5キロ。その後、虫舟は「流し役」の男衆にゆだねられて海岸に運ばれる。虫舟には捕獲した虫が納められていることは言を待たない。安部の場合、根神屋から約3キロの海岸まで徒歩で運び、さらに海に腰までつかったリーフから沖へと流すのである。虫舟作り役、流し役に指名されるのは(名誉)とされている。特別な役割を持たない村びとは「虫たちが無事、ニライ・カナイにたどりつくよう祈りながら、その日の満潮時までは大声を慎み、物音をたてないように気を配る。その間、村は静まりまえる。

 虫舟は芭蕉はもちろん、阿檀(あだん)などでも作る。
 蛇足ながら(阿檀)は、アダニとも言い、タコノキ科常緑小高木。3~5メートルに達する。トカラ列島の口之島が分布の北限。南西諸島各地の海岸では、どこでも見ることができる。支柱根からは繊維が採れ、葉は民具、草履、帽子などに加工される。

 さてさて。
 「アブシバレー」の行事は、まだまだ続く。
 虫舟流しを済ませたあとは、根神屋での祈りになる一方、各家庭では農作業を休み、赤飯やクファジューシー、いわゆる炊き込みご飯を作り、火の神、仏壇に供えて、ここでも家内安全、豊作祈願をし、歓談を楽しむ。かつては、牛や馬、山羊、豚などを海岸に集め(潮浴び)をさせて、厄落としをする地域もあったようだが、いまはそこまではやらなくなった。
 農薬などがなかった時代、虫や野鼠の被害は少なからずあり、したがってアブシバレー・害虫駆除は死活に関わる重要行事であり、近代化した農業がなされている現在でも継承されている由縁がこの辺にある。

 アブシバレーの後には「クシユクァーシー=腰休め」が待っている。
 田植えが終わり、サトーキビの収穫、搬入を済ませたこの時季、農家の人びとが(ホッとひと息)入れる行事だ。吉日を選んで村びとがムラヤー(村屋、今の公民館、自治会館)に老若男女が集まり、これまでの農作業の労を癒し合う。酒や馳走を持ち寄り、予算のある集落では、仕出し屋からも取り寄せ、舌鼓を打ち、1日を遊興する。もちろん、歌舞演芸が座を盛り上げ、それはそれは賑やかだ。結(ゆい)という農作業などをお互い無償で助け合う習慣が生んだ(慰労行事)と言えないこともない。

 今年の梅雨明けは6月の23日頃という気象台の見立てだ。
 それまでわが家のアフリカマイマイとの付き合いは、どうあるべきか。
 蹴飛ばしてばかりでは追いつけない繁殖ぶりだ。生き物への憐憫の情を忘却するわけにはいかないし・・・・。どうすべきか考えあぐねている。外は今日も雨。しかも、アフリカマイマイに悩むボクを見て、シトシトを声にして忍び笑いをしている。