旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

拙書=琉歌百景=書評2題

2010-06-24 00:16:00 | ノンジャンル
 「ふるさとばんざい=沖縄公論社」「そぞろある記・島うたの周辺=沖縄タイムス社」「交友録・島うたの小ぶしの中で=丹躑躅山房」「沖縄ばなし・浮世真中=沖縄タイムス社」。そして、この度の「琉歌百景=綾なす言葉たち=ボーダーインク」も、恥かきを覚悟!遊びごころに勝てず、出版してしまった。沖縄芝居の脚本以外、書下ろしは1冊もなく、新聞や雑誌に連載、もしくは単発で書いたものを〔おだて上手〕の悪友たちの術中にはまっての結果である。もっとも、その気にさせてくれた悪友がいることは、なんとも嬉しい。
 本ホームページから生まれた「琉歌百景」は、琉歌にあまり興味を示さなかった若者たちが「歌の裏ばなしが面白い!」と、意外なページめくりをしてくれた。沖縄を感じる手掛かりにしてくれたらしい。このことにも、密かにほくそ笑んでいる次第。さらに沖縄タイムス、琉球新報両紙に【書評】まで掲載された。筆者は両氏とも古馴染みなので「褒め言葉」半分と思われるが、両社及び筆者の了解を得て転載させてもらうことになった。

 いつのころからか。聞きなれているラジオの民謡番組で、琉歌を紹介する新しいコーナーができた。以来、当番組を聞く都度、どのような琉歌が紹介されるのか楽しみにしてきた。このコーナーがRBCiラジオ「民謡で今日拝なびら」の“琉歌百景”であり、本書である。著者はいわずと知れた当番組の名プロデューサーであり、今や県民的行事となった「さんしんの日」の提唱者である。
 本書は15編と終書から構成され、各編には古今の琉歌集の中から、古典音楽で歌われる琉歌、島唄の名手が即興で三線に乗せた歌、おきなわ文学賞琉歌部門入賞者の琉歌、奄美大島の唄や詩形にこだわらない歌等々、著者作品も含め、百首余の琉歌が紹介されている。
 古今の琉歌集の多くは、ほとんどが歴史的かな使いで表記されており、慣れていないと読みにくい面がある。本書ではウチナーグチの発音の通り表記しており、さらに読み方を語句ごとに区切って添えてあるので初心者にも読みやすく、語彙やアクセントがわかりやすい。歌意は歌われている情景が創造できるように膨らみを持たせた意訳となっている。評釈は著者流の解釈をほどこし、歌にまつわる説話やユーモラスな経験談などを織り交ぜて楽しめる内容となっている。なかでも番組で出会った古典音楽家や余話、挿話は先達の歌への思いや歌の周辺のさまざまな情景を描きだしていて、三線の楽しい稽古談議になる。
 昔も今も、琉歌が沖縄の人々の暮らしの中で活き活きと歌われ詠まれ、琉歌を彩るウチナーグチの魅力について語る著者の軽妙洒脱なラジオの名調子が本書から伝わってくる。終章の立雲節「夢の世の中に ぬがしシワみしぇが ただ遊びみしょり 御肝晴りてぃ」には、著者が半世紀にわたり、今なお大事に愛しむ島唄や古典音楽そのもの、これらにかかわる人々への眼差しがあり、粋な遊び心のエッセンスも込められているようだ。
 本書は、コンパクトな琉歌案内書、解読書であり、三線や琉歌を楽しむ方々へお勧めの一冊である。
 (比嘉康春・沖縄県立芸術大学音楽学部教授)
  琉球新報 5月30日掲載を転写

綾なす言葉たち―という副題が付いている。言い得て妙。まさにウチナーグチの豊かな表現世界が展開されている。そんな1冊だ。
 百景というから100首取り上げたのかと思いきや全部で104首の琉歌が紹介されている。テーゲー主義ではなく百景とは「いろいろ」ぐらいの意味だという。白髪三千丈などと同じか。で、1首目から目を通し、付箋を施してみた。つまり、琴線に触れた歌とその解釈にである。読み終えて、机の上に置き、ふとながめると付箋の集中する部分があることに気づいた。
 歌の種類はあっても内容的には圧倒的に恋歌と分句に付箋が集中している。分句とは、上の句と下の句を別人が詠むこと。このあたりになると、筆者の解釈がグッと饒舌になるのである。歌を詠んだ人も粋人なら、それをうまく解説できる人もまた粋人なのである。
 たとえば、組踊「花売の縁」の冒頭で歌待ち(前奏)もなく歌われる「宵ん暁ん 馴れし面影ぬ 立たん日や無さみ 塩屋の煙」(琉歌百景12)。「面影が立つ」と「煙が立つ」を巧みにかけた秀逸な1首だが、実はこの歌、上の句はこの組踊の作者である高宮城親雲上で下の句は与那原親方良矩の作だという。興味深い挿話だが、最後に後の人による創作落ちを付けている。著者は、ラジオ番組を通じて古典音楽の大家らに多種多様な逸話を聞いている。そうした財産が歌の解釈に深みを持たせているように思われる。
 「琉歌百景」というと古い歌ばかりと想像しがちだが、さにあらず。嘉手苅林昌、金城実といった現代の歌者の詠んだ歌まで、多彩に紹介している。歌は生活のなかで現に生きているものだという主張がうかがえる。
 編集を含め、それぞれの歌の紹介の仕方がユニークだ。文字の種類や大きさを変えて、読み方、歌意、解釈を施している。全体に高年齢者にも読みやすい作りになっており、三線をたしなむ人には愛読書になるような1冊だ。続編を期待したい。
  (真久田巧・沖縄タイムス社文化事業局次長)
                 沖縄タイムス 6月5日掲載を転写

 意識して〔文章作法〕を勉強したことはない。
 放送屋としての仕事の中で書く台本、脚本、CM、作詞等々の流し筆の作文。どうしてもナレーション用風のそれになっているが、そこはそこで黙読だけでなく、時にはアナウンサー気分で朗読していただきたい。また、読者が知っている八八八六調の島うた、例えば「てぃんさぐぬ花」などに乗せて歌っていただければという意図を持ったのも確かである。拙文は承知の上だが〔綾なす沖縄語〕のひとつでも拾い、笑読いただければ幸い。

 *上原直彦著「沖縄ばなし・浮世真中」の問い合わせ
   キャンパスレコード  TEL:098-932-3801
   Eメール bcy@campus-r.com

    

雨のち・海の季節

2010-06-17 00:03:00 | ノンジャンル
 外が騒がしい。大雨が大地を叩いている。
 芒種が過ぎて、もうすぐ沖縄の雨の季節は去る。ひと月余り居着いた雨も、九州から東北に移動するとあって、南西諸島に名残りを惜しむ最後の力量を発揮して騒がしく降っている。
 春の桜の開花と同じように、夏を告げる雨も南から北へと移って行く。日本列島、なんと南北に長いことかを実感する。6月も20日を過ぎるころ、長雨はティーダ<太陽>に替わり、容赦なく南の島を支配することになる。この時季を詠んだ琉歌を1首。

 symbol7かち曇てぃ居たる 雨ん打ち晴りてぃ 慶良間渡にかかる 虹ぬ美らさ 
 <かちくむてぃ うたる あみん うちはりてぃ キラマどぅに かかる ヌージぬ ちゅらさ

 語意*慶良間=那覇市の西に位置する島名。けらま・キラマ。*渡=どぅ。沖合いの意。*ヌージ=虹。
 歌意=一天にわかにかき曇ったかと思うと瞬転、視界ゼロ!滝のように降った雨も、嘘のように上がった。その雨が洗い流して〔青〕を増した慶良間島の沖合いに虹が生れた。なんと美しいことか。
 瞬時にして雨、晴れがはっきりしているのも沖縄の夏雨の特徴だ。

 1月下旬には〔日本一早い桜〕が咲き、3月下旬には〔日本一早い海開き〕が各地で宣言されて観光客を誘っている。
 「キミたち。もう海水浴には行ったかい?」
 先日、まわりの若者たちにそう聞いてみた。すると、意外な返事に耳を疑った。
 「エッ?かい・・すい・・よく?なんですかそれッ?」
 海水浴場はビーチと言い、泳いだりボート、ダイビング、パーティは楽しむが、いまどき「海水浴。海水浴場」とは言わないらしい。いよいよ、時代においてけぼりをされたような哀感を禁じ得なかった。
 健康や避暑の目的で海浜に行き、泳いだり遊んだり、日光浴をしたりすることを〔海水浴〕と言ったものだが、それも死語になりつつあるのか。
 しかし、若者よ!
 海水浴の歴史は古く、医術的であることを知っていただきたい。和銅5年<712>に成立を見、天地創造から天皇の系譜・神話・伝説を記した日本最古の歴史書「古事記」には、女神イザナギノミコトが、汚れを海水で清めたという記述があり、日本人は神代から湯治同様、海水浴を治療の方法としていたとみえる。
 また、この療法を〔海水浴〕と名付けたのは、松本順という蘭方医で、彼の提唱により神奈川県大磯に日本初の海水浴場が開設されたのだそうな。このように海水浴が古代は、「潮浴=しおあみ」「潮湯治=しおとうじ」と呼ばれて親しまれていたことが分かる。
このことは日本だけでなく、イギリスのラッセルという貴族が「海水は万能に効果がある」と言ったことから、ヨーロッパでも海水浴が普及したという。


 またぞろ、半世紀も前のはなしになるが、少々の切り傷、かすり傷や歯痛は、海水に浸っているうちに痛みが薄れると言われた。私の経験では、夏場によく出て痒さに泣いたアシブ<汗疹・あせも>は、海水浴をすれば、まず枯れるのが早く2、3日で完治したものである。その効果の抜群さを知っていて、いまでも「アシブには海水浴!」を推奨してきたのだが、昨今はアシブをかく子どもたちもいなくなって、すっかりお勧めの機会を失っている。

 「海水浴」と「水泳」は確かに異なる。
 海水浴は「潮浴」「潮湯治」の歴史からみても、前代の民間医療法であり、水泳は近代的スポーツ行為と位置づけられよう。
 沖縄に正式な「水泳法」がもたらされたのは、大正9年<1920>のこと。その前の年、沖縄県立第一中学校に本土から赴任してきた高田<水府流>、池田<野島流>の両教諭によって、初めて日本泳法が導入された。そして、翌年には日本泳法研究会を設立。那覇の波之上海岸で講習会を開催したのが、沖縄水泳界のスタートとされている。以来、水泳は中学校の正課になるが、泳ぎの速さを競うものではなく、持久力をつける遠泳法が採用されていた。遠泳は、波之上海岸からサチフィジャー<崎樋川。現天久海岸>の往復だったが、この辺りには時として鮫が出没。しかし、己より身長の長いものは襲わないという鮫の習性に着目して、6尺フンドシを着用、長々とそれを流して泳ぐ猛者もいた。


 ともかく、沖縄は海のシーズンだ。今年の県内のビーチの水質はどうか。
 年間利用者が1万人を超す主要ビーチ31カ所すべてが「遊泳に適する良好の水質である」と、県環境保全課は6月11日に発表している。特に最高ランクの「水質AA」と判定されたのは本部町のエメラルドビーチ、名護市のブセナビーチなど25カ所。昨年度の調査と比べて「A」から「AA」にランクアップされたのは読谷村ニライ、宜野湾市トロピカル、北谷町アラハ、南城市新原<ミーバル>、宮古島市パイナガマ、石垣市底地<ソコチ>の6つのビーチだった。

 かつて河童を自称していた私もこの40年ばかり、とんと海に入ったことがない。この夏は若者たちの仲間に入れてもらって、ビーチパーティを楽しみたいものだが、海水浴とは本来「医術的療法のひとつである」なぞと、屁理屈をこねていては敬遠されること必定。お誘いはかからないだろうきっと。




話のはなし・茶の香り

2010-06-10 00:20:00 | ノンジャンル
「直彦くん。茶飲み友だちになろうね。」
 沖縄の女流作家新垣美登子女史に、そう声を掛けられたのは、もう40余年前のことである。女史は「花園地獄」「哀愁の旅」「黄色い百合」等々の新聞小説で健筆をふるっていた。明治34年<1901>那覇市生まれの女史は、日本女子大学国文科中退後、帰郷して県庁に勤めた。戦後「みと美粧院」を開業するかたわら、昭和34年<1959>那覇市上之蔵に財団法人琉球高等美容学校を設立、校長として〔自立する職業女性〕のさきがけを成し、文筆家金城芳子、女医千原繁子さんらとともに「女傑」の異名を馳せていた。
 その後の昭和36、7年ごろ、放送屋の駆け出しだった私に「茶飲み友だち」の勧誘をしたのは、琉球放送にはRBC放送劇団があって、昭和29年から30年・沖縄タイムス紙に連載された「黄色い百合」の放送劇化が縁であってのことだろう。もっとも私は放送劇団のその他大勢組で出演はしていない。
 「先生の周囲には作家、新聞人、文化人の方々がいらっしゃるのに、ボクみたいな若僧ではつまらないでしょう」
 そう遠慮すると美登子女史は、いつもそうであったように薄化粧に赤い紅を引いた口もとをほころばせて言った。
 「もう年寄りの男友だちは飽きた。キミみたいなイキのいい男を好むようになっているのよ」
以来、東京あたりから珍味のモノが届いたと言っては電話をもらい、わざわざ機会を作って、美登子女史が茶飲み友だちの男女先輩方と交す世間ばなしを伺うべく、琉球放送からもごく近い那覇市久茂地のお宅に押しかけ、多くの耳学問をさせてもらった。とは言っても先輩たちが話題にのせる茶飲みばなしの内容が、すべて理解できたわけではない。しかし、自分が少しずつ(大人)になっていくような気がしたのは確かである。
 いま、私の周りにもイキのいい若者たちがいるが、なかなか茶飲み友だちには成り得ていない。茶飲みばなしと無駄ばなしを一緒くたにしているのだろうか。いずれにせよ若い時の多くの年上との無駄ばなし、茶飲みばなしは後々の(いい肥しになる)と思うのは、やはり今日的ゼネレーションギャップというものか。


 item1item1item1
 「おばさん。旨さ茶ぁ入ってぇくとぅ 飲みが参んそぉーりんでぃさい
 60年も前、少年だったころ、わが家でちょっとした慶事がある場合、ごく身近な縁者に声を掛けて「茶沸かしぇ=ちゃーわかしぇ」という茶話会を開いていた。チャワキ(茶請け)は、タンナファクルーか米軍キャンプ流れのクラッカー、あるいは自家製のアガラサーと称するイースト菌で膨らませて蒸したカステラふうなそれだったと記憶している。母の言いつけで茶沸かしぇの口上を述べに行くのが少年の役目だった。
 「おばさん。おいしいお茶を入れましたので、飲みにおいでください」
 沖縄さんとは別に中国から輸入した通称支那茶は、時期的にシーミー(清明)のころに多く出回ったことから、シーミーチャの別名があって、この呼称の方が親しまれた。
 一方現在でも愛飲されている〔さんぴん茶〕の歴史は古く、中国でははじめ薬用として飲まれたという。〔さんぴん茶〕の名称も中国語の香片茶(シャンピェンツア)が転じたもの。基本的には緑茶の茶葉にジャスミンの花弁を香りづけとして混ぜて味わいを深くした。これまた中国語では茉莉茶(モウリイ ホワツア)と言い、沖縄でもジャスミンは茉莉花(ムイクァ)の名で親しまれ、宮廷音楽の「昔嘉手久節=んかし かでぃくぶし」の歌詞になっている。“ムイク花小花物言やんばかい 露は打ち向かてぃ 笑らてぃ咲ちゅさ”がそれである。茉莉花の白い小花が朝露を受けて咲いているさまは、まるで人に何か云いたげな風情。花びらが笑っているように見えると意訳できよう。
 モクセイ科の低木ジャスミンは、沖縄でも古くから観賞用として庭などに植えられ、時には花のひとひら、ふたひらを摘んで茶や白湯にひたして香りを楽しみながら飲んだそうな。昭和40年ごろまでさんぴん茶は「ばらさんぴん」の名で売り出されていた。中国や台湾から箱詰めで入った香片茶を一度、専用の筵様のものに広げ、茶葉と香片花を均等に混ぜてから茶舗の店頭に出された。しかも3匁、5匁あるいは1斤というふうに袋に入れて量り売りをする。つまり、茶筒に入ったものは別として〔ばら売り〕をしたところから〔ばらさんぴん〕の名が付いたと言われる。この呼称は沖縄だけではなかろうか。
 しかし、ばらと言え、さんぴん茶を日常的に飲めるのは裕福な家庭。庶民は一度湯をそそいで飲んだ茶葉は決して捨てない。天日干しにして二度、三度と用いる。さらに、完全に出がしらになった茶葉も、庭木や鉢植えの根もとに撒き、肥料と防虫に役立てた。立派なリサイクルである。
 俗諺に「茶とぅ煙草しぇ倉ぁ建たん」がある。茶代や煙草代を倹約したからと言っても、その程度の金銭では米蔵も金蔵も建たない。倹約は別のことでやるべきだと説いている。言い換えれば、どんなに貧しくてもお茶や煙草はケチらず、むしろそれを楽しむ心のゆとりを持とうと勧めている。倹約について松下産業を興した大事業家松下幸之助翁は、幼少時代を貧苦の中で過ごした経験を踏まえて「欲しいものを買うな。必要なものを求めよ」と提言している。茶と煙草が必要なものかどうか考えあぐねるところだが、私風には、いかなる暮らし向きの中でも茶と煙草をたしなむのは、ささやかな心のゆとり、癒しと心得て実践している。「お茶はよしとして、煙草はどうかな」という声が家人や周囲から聞こえてくるのも確かだが…。愛煙家には住みづらい世の中になった。
 
item1item1item1後の文章は、琉球新報「巷ばなし 筆先三昧」5月30日掲載を転写。





イジュぬ長雨・そして紫陽花

2010-06-03 00:20:00 | ノンジャンル
 沖縄は雨の季節真っ只中にある。
 気温は27、8度を行ったり来たりの雨の日々は湿度も高く、躰がだるくなる。時折、梅雨の中休みとやらで、空が青くなるのは歓迎だが、そうなったらなったで陽射しは半端ではなく、周囲は申し合わせたように皆、眉間にシワ寄せて出会いの挨拶も億劫そうに交わしている。これが(6月いっぱい続く)なぞとは、考えたくもない。
 小満<5月21日>から芒種<6月6日>へ。そして、その10日ほど後までの長雨の期間を沖縄人は「雨ぬ節=あみぬ しち」と言い、あきらめ気分で日々を過ごす。天気に愚痴を言っても仕方がないからだ。
 「梅雨」という沖縄口はない。いまごろの雨期を「雨ぬ節」で通している。とは言っても明治以降、気象用語が統一化されるにつれ「梅雨ぬ節・ちゆぬしち」「梅雨入り・ちゆいり」という表現をしないでもなく、いまでは日常的に使っている。
 雨の季節は、人間の力では如何ともしがたいことを知ると沖縄人は、言葉で鬱陶しさを和らげてきた。基地移設問題で平和闘争を続けている名護市辺野古・久志あたりの人たちは「雨ぬ節」を(イジュぬ花雨=はなあみ)または「イジュぬ花ぬ長雨」と称している。この鬱陶しさに白いイジュの花をかぶせると、確かに気分は晴れる。でもこの言葉は、本島の北部でしか使われない。イジュの木は、土質の関係で、中部西側の中城村から自生しているからだ。したがって、それ以南の人たちには(イジュの長雨)なる言葉は思いつかない。

イジュの花
 イジュは、ツバキ科の常緑高木。高さ20メートルに達し、非石灰岩地域の山地に、ごく普通に成育している。花は3~4センチで白色。4月下旬から6月に咲く。木の芯は淡褐黄色または黒褐色。家具や道具に加工、薪炭材にも利用される。基本種はヒマラヤからマレーシアに分布しているそうな。木は堅く強いため、近年は公園、庭園、街路樹としても植栽されているが、なんと言っても山地の夏色の青葉が雨に洗われて、その色をさらに青にする中に、純白のイジュの花を包み込んだ情景はなんとも美しい。南国ならではの夏景色として好まれている。
 樹皮には通称“ササ”という、魚類を痺れさせる要素が含まれている。かつての少年たちは、その効用を知っていて、イジュの樹皮を砕いて、干潮時の岩溝に撒いた。すると数分を待たず、いろいろな魚が白い腹部を上にして浮き上がってくるのだ。面白いほどに大量の漁獲があって、唐揚げのカルシュームにありつけた。しかし最近は、子どもたちのササを使った磯遊びは、とんと見かけなくなった。それらをなくても十分、海に遊ぶことはできるし、カルシュームも簡単に補給できるからだろう。時代の進歩と言えば、安全を考慮した進歩なのだろうが、いずれの遊具も(人工的に過ぎる)と思い込むのは、私が己の少年時代を懐かしむあまりのセンチメンタルなのかも知れない。

 今年の本土の梅雨入りは、いつごろだろうか。
 本土の梅雨時の花と言えば、一度訪ねた神奈川県鎌倉在の明月院・通称あじさい寺が目に浮かぶ。それまで、あじさいを見たことがなかったこともあって漢字では「紫陽花」と書き、雨の中にあって一段と美しさを増す花の存在を知ったのも明月院だった。男が花に感動するのも、ちょっとテレくさく、普通に振舞いながらも、傘を差して歩く足をしばらくとめて眺め入ったものだった。俳人高浜虚子の“あじさゐの花に日を經る湯治かな”を知ったのもそのおかげである。
 一方、箱根の登山電車の窓から見た沿線の紫陽花には苦い思い出がある。
 時は梅雨の最中。箱根山中の散策を試みたまでは良かったが、山頂終点までの電車はすし詰め状態の人・人・人。沿線の紫陽花は美しいには美しかったが、社内の気温は人息で34、5度はあっただろう。正直、呼吸困難で目まいを覚えた。大げさではない証拠に山頂終点駅には、救急車が待機していて、社内で貧血・酸欠を起こした人が2、3人いて運ばれて行った。(紫陽花は、屋外で傘を差して愛でるもの)と決めているのは、その経験からの学習である。
    
 紫陽花は、アジサイ科アジサイ属の植物の総称。英名・学名は「水の容器」を意味する「ヒドランジア」あるいは「ハイドランジア」と言うそうな。
 知っておきたいのは、紫陽花の蕾、葉、根には毒性があり牛、山羊、人などが食すると中毒を起こして過呼吸、興奮、痙攣、麻痺、ふらつき歩行の症状が出て、志望する危険もあるという。もっとも、どんなに食通を気どろうとも紫陽花までに口にすることもあるまい。ついでのことに、沖縄のイジュの樹液も目に入ると激痛が走る。ご用心!
 紫陽花がいつごろ沖縄に移入されたか、私はまだ知り得てないが、30年ほど前に本部町伊豆味の農家の老女が、自家のキビ畑を紫陽花畑に打ち直し、いまでは数千本の花を咲かせて、この時期の名所になっている。
 全国的には三重県津市及び桑名市、岐阜県関市、兵庫県神戸市、新潟県上越市、東京都練馬区、神奈川県箱根町、京都府舞鶴市等々の植物園、遊園地、寺社は〔紫陽花の名所〕と案内されている。
 「雨の旅路もいいなぁ」と、またぞろ旅ごころをそそられる。