旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

流行り唄・替え唄・十九の春

2019-07-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪わたしがあなたに惚れたのは ちょうど十九の春でした いまさら離縁というならば もとの十九にしておくれ~
 歌って聞かせられないのが残念だが、老若男女とわず口づさまれている流行り唄「十九の春」の出だしの歌詞である。
 他府県から沖縄勤務で赴任した人たちは、離任の折り、この歌を覚えて沖縄を離れる。沖縄土産という思い入れがあるらしい。
 「言葉、土産物=くとぅば なーじむん」。古諺にいう「言葉は最大の土産物である」にならって(沖縄民謡)として覚えて行くらしい。ところが歌詞は共通語、曲は歌謡曲調。「どこが沖縄民謡?」と、首をかしげる面もあるが、いまや、沖縄口よりも大和口を日常語としている沖縄では、何の抵抗もなく「沖縄民謡」の位置にある。
 「十九の春は奄美大島生れ!」と主張してやまない方々も少なくないが、流行り唄は、誰それがどこで作ったとははっきりしているのもいいが、作者不明ということにも、流行り唄のよさがあると思われる。

 ここに「世論小唄」の歌詞がある。メロディーは「十九の春」に類似している。かつての同僚でQAB・琉球朝日放送元社長・仲村一夫氏が、与論島に遊んだ折り、採集したもの。

 {与論小唄}
 ♪与論与論と憧れて はるばる来ました与論島
  子の葉みたいな島なれど 笑顔かわいや島娘
 ♪木の葉みたいな我が与論 何の楽しみないところ
  好きなお方が居ればこそ こんな世論も好きとなる
 ♪こんな与論に住めばこそ めちゃくちゃ言われて腹が立つ
  聞けばわたしのことばかり 思えば涙が先に立つ
 ♪思い込んだ方となら 石が砕けて灰になるも
  灰が桜にかわるとも ふたりの約束変わりゃせぬ
 ♪三千世界を尋ねても 思うお方はただひとり
  いまの楽しみするよりは 後の楽しみするがよい
 ♪百合ケ浜辺で見た娘 ハイビスカスの花かざし
  つぶらな瞳に片えくぼ 色の黒さも気にならぬ
 ♪星の降る夜は浜に出て 与論小唄を教えられ
  帰っちゃイヤよと 泣きつかれ ふた月三月は夢のうち
 ♪あなたあなたと焦がれても あなたにゃ立派な方がある
  なんぼわたしが焦がれても 磯の浜辺の片思い
 ♪磯の浜辺は波静か ふたり手に手を取り合って
  死んでもあなたの妻ですワ 哀れ十九の縁結び
 ♪親が許さぬ恋じゃとて あきらめられよか ネーあなた
  いっそふたりは知らぬ国 離れ小島で暮らそうよ
 ♪離れ小島に住めばこそ 波の音聞きゃさびしいよ
  沖の鴎よふるさとの 噂ぐらいは知らせてね
 ♪思えば去年のいまごろは 与論島の海岸で
  ともに手を取り語りしが いまは別れて西東
 ♪明日は発つ発つ我が与論 いよいよ乗り出すクインコーラル
  沖の白波横にみて さして行くのは鹿児島よ
 ♪出船悲しやドラが鳴る 泣いているよな今日の浜
  恋の潮路を船は行く またの逢瀬を待つばかり
 ♪お前十八ボク十九 暗いところですることは
  何をするかと聞かれても いくらボクでもチト言えぬ
 ♪好きも嫌いもあるけれど ひと夏過ごせば同じこと
  縁がなければ結ばれず 恋の花咲く与論島

 ひとりの人が綴ったわけではあるまい。誰それが即興で詠んだものを拾い集めたものだろう。

 南大東島にも「大東島夜曲」と称する同系の歌詞がある。
 ♪波風荒き大東島 月に一度の通い船
  便り待つ身のやるせなさ 明日も荒れるか西の海
 ♪離れ小島の磯椿 清き乙女の夢の花
  ネムの並木に芭蕉葉に つのる涙の恋の文
 ♪周り三里の島なれど やしの葉蔭に照る月
  三味のネジメに夜はふけて 遠く聞こゆる波の音

 こうした流行り唄は時の流れに順応して、歌詞のフレーズが変化するのも特徴のひとつ。
 蛇足ながら・・・・。
 「十九の春」の♪主さん主さんと呼んだとて 主さんにぁ立派な方がある いくら主さんと呼んだとて 一生忘れぬ片思い~の箇所を風狂の歌者嘉手刈林昌は、こう替え唄している。
 ♪牛さん牛さんと呼んだとて 牛さんにぁ立派な馬がいる いくら牛さんと呼んだとて 一生添えない牛と馬~


敷地内禁煙

2019-07-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「禁煙になりました。上からのお達しですから仕方ありません」
 いつものように××文化館に着いて館内に入る前に(一服)と、煙草を取り出したとたん、守衛さんに注意を受けた。
 「そうかそうか」。
 せっかく口にくわえかけていた1本を生唾を飲んでから、もとに戻した。(困ったもんだ)と、煙草の代わりに深いため息を吐いたボクに、守衛さんは言った。
 「携帯用の灰受けが出回っているようですから、それを活用し、当館に入る前に一服してから入館ください。ボクは仕事を失っては飯が喰えませんから禁煙しました」。
 守衛さんは申し訳なさそうに言い、ボクに合わせるように、深いため息をついた。

 かつては煙草のことを{縁づけ草}と称し、琉歌にも堂々と詠まれてきた。

 ♪煙草吹き姉小 ケンス吹ち何すが うりからどぅ縁ぬん 近くなゆる
 《たばくふき アンぐぁ ケンスふち ぬすが うりからどぅ ゐぬん ちかく なゆる

 この句は(分句)になっている。野良仕事の合間、ひと休みしている木陰などでフージョー(刻み煙草と煙管がセットになった煙草入れ)を出して火を点けた折り、男は傍にいる女童に誘いをかけた。
 「ねぇーちゃん。お前も一服どうだ」
 「あらまあ。そんなケンス(煙草の煙)を吸って何になるの?」
 男はすかさず言う。
 「同じ煙管から煙草を吸い合うことで二人の縁も近くなるのだよ」。
 いわば煙草は(恋の駆け引き)の小道具にもなった。また、煙草をたしなむことが、男も女も(成人)の証でもあったのだ。

 こうして煙草の導きで恋仲になると(寝ては夢 起きては現 幻の)で、何時でも(逢いたいっ)を常とする。いわく。

 ♪一人淋さびとぅ 煙草取てぃ吹きば 煙までぃ無蔵が 姿なとてぃ
 《ふぃちゅゐ ささびさびとぅ たばくとてぃ ふきば きぶしまでぃ ンゾが しがた なとてぃ

 就寝前、床についたことだが、彼女のことが思われて淋しくてならない。そこで気を紛らわすために枕元の煙草盆を引き寄せて一服する。すると彼女のことが、しばらくは忘れられると思ったのだが、吐く煙もしなやかな彼女の姿を描いて、切なさがつのるばかり・・・・。

 ボクが携帯するよれよれのカバンには眼鏡、手帳、読みかけの本、2、3の資料。それに(これだけは常備する)煙草が2個入っている。いやいや、1日に2個も吸っているのではない。予備である。あくまでも・・・・。それをしない、予備を持たないと下着のゴムがゆるんだようで、落ち着かないのである。
 周囲の者は「60年も吸ってきたのだから、もういい加減、やめたら」と、ボクの健康を気遣ってくれるのだが「60年も付き合ってきたモノをいまさら袖にするわけにはいくまい。そんな薄情はボクにはできないっ」と正論を吐く。義理堅いのか、へそ曲がり・あまのじゃくなのか・・・・。
 話を琉歌に戻そう。

 ♪宵ん暁ん 煙管咥てぃハメ小 立たん日や無さみ 鼻ぬ煙
 《ゆゐんあかちちん チシリくうてぃ ハメぐぁ たたんひや ねさみ チムリ

 これには元歌がある。組踊「花売りの縁」に主人公森川の子(むりかわぬしー)が、首里を離れて遠く大宜味間切り塩屋に隠遁し、「塩づくり」をして暮らしている孤独感を詠んだ。
 
 ♪宵ん暁ん馴りし面影ぬ 立たん日や無さん 塩屋の煙
 《ゆゐんあかちちん なりし うむかじぬ たたんひや ねさみ スヤぬチムリ

 をもじっている。
 *ハーメー=老婆。ここでは老妻。無理して漢字をあてれば(母前)。ついでに老爺は「ウスメー=御主前」。
 煙草好きの老妻の様子を見て老夫が言った。
 『うちの婆さんときたら、昼となく夜となく煙管を咥えている。婆さんの鼻からはよどみなく煙が立ち上がっている。まるで組踊の(塩屋の場面)のようだ。
 単なる狂歌のようにも思えるが、交わす口数は少なくても、長年連れ添ってきた二人暮らしの老夫婦の日常が詠み込まれているようには察し得ないか。己自身が老境に入ったせいか、詠み人の心境がよく理解できる。
 さてさて。
 「世界禁煙デー」も制定されて、喫煙者にとっては、いよいよ住みにくい世の中になった。それはそれとしてよいのだが・・・・。未だ「喫煙者の残党」でいるボクはどうすれば生き残れるか。
 ‟蟲取れば煙草の花のこぼれけり”思浪。


沖縄の芸能・歌劇

2019-07-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「でぃかっ!芝居観ぃがー行かっ=しばゐ んーじが、いかっ」(連れだって、芝居見物に行こう)。
 戦前、那覇の人たちは日常の娯楽を芝居に求めていた。(那覇の人たち)と限定したのは、那覇にしか劇場がなかったからだ。それでも芝居好きの地方の人たちは、泊まり込み、もしくは弁当持ちで那覇に出、楽しんだ人も少なくない。
 
 東京で初めての歌劇、グノー作曲「ファースト」が、赤十字慈善演奏会でなされた折り、上野音楽学校の生徒によって上演されたのが日本初のオペラ上演ということだ。明治27年11月11日のことと、日本風俗史にある。

 沖縄の歌劇は、西洋オペラの要素はあっても様式は異なり、演者の台詞は、従来、各地方で歌われている島うたや宮廷音楽に乗せ、3、4人で演奏する三線を伴奏とした。
 沖縄には、八八六の歌詞の形式を詠んだ琉歌がある。この琉歌は、庶民が日常生活の喜怒哀楽を詠んだモノ。したがって(より理解し易く)歌劇を受け入れ易くした。
 また、三線も昔から貧富の差、身分などの差別もなく、地域を問わず、各家庭にあり、そのことも歌劇を受け入れるに拍車をかけたと思われる。
 創始は仲毛芝居(なかもう しばい)那覇在、時代で明治30年前後とされる。
 初めに手掛けたのは玉城盛政(たまぐすく せいせい)。この人物は後に歌劇創り・創作舞踊の名人と称される玉城盛重(たまぐすく せいじゅう)の兄。寸劇「あば小ぁヘイッ」「りんちゃーバーチー」など。それに感化されて役者・渡嘉敷守儀(とかしき しゅぎ)の「茶売やー」などが舞台に掛った。それらの寸劇は、たちまち評判を得て、各地方の豊年祭などの(村芝居)で、素人芝居ながら盛んに演じられことになる。
 その後、創作歌劇は隆盛期に入り、渡嘉敷守良「吉屋物語」「アカマタ―の由来記・三日月」などが長期公演をするほどであったという。
 明治44年(1911)3月3日、いわゆる季節行事「サングァチミッチャー・女の節句」には、それぞれ興行を競い合っていた中座「恋路乃文」を渡嘉敷守礼が脚色した「泊阿嘉・浦千鳥」を。球陽座では、同じく渡嘉敷守礼が手掛けた「組踊・泊阿嘉」を。沖縄座は我如古弥栄(がねこ やえい)作「歌劇・泊阿嘉」が上演された。同じ素材を当時の人気役者たちが、それぞれの劇構成で、ほとんど同時に上演した。現在、上演されている「泊阿嘉」は、我如古弥栄作とされている。

 しかし、隆盛を誇り、庶民の一大娯楽だった「歌劇」も日本が「軍国主義」一辺倒に塗りつぶされるようになると、芝居そのものに「検閲」が入り、芸題をも検閲されるようになる。
 昭和17年(1942)、「芝居興行・届出制」が布かれる。
 趣旨=「歌劇の恋愛物を禁ず」「芝居は標準語使用のこと」。
 さらに舞踊も「金細工」「加那よー・天川」「川平節」など、男女打組踊、それに恋愛的要素の内容のものは、舞台に上げてはならない。一億火の玉になって国難にあたらなければならないときに「色恋」の表現は戦意低下に通じるというものだった。歌劇も「泊阿嘉」「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小」「愛の雨傘」などの上演禁止。組踊「手水の縁」「執心鐘入」は不可。「二童敵討」「万歳敵討」「忠臣身替り」などと「花売りの縁」「孝行の巻」などは忠義、孝行ものだから可。舞踊「高平良万歳」「上り口節」「下り口節」「前の浜」、勢いのある二才踊りは大いによし。演劇も「大新城忠勇伝」「尚巴志物語」など、国民の精神を鼓舞するものを上演せよというものだ。

 「芝居は標準語でせよ」。
 これには役者一同困惑した。いくら国の命令とはいえ、沖縄芝居が標準語だけで出来ようはずがない。「われわれの時代は終わった」と、沖縄語だけを使ってきた古参の役者の中には、人気があったにもかかわらず引退した名優もいたという。

 では、いかように沖縄芝居の存続を図ってきたか。
 「長いモノには巻かれろ」。これに徹した。
 芝居の花は恋愛物、色恋物だが、それが法度とあれば「戦争に勝つまではっ!」と、とかくお上の届出制、検閲制に従い「芝居を続けよう」と、軍部の奨励する戦意抑揚ものを創作した。
 「母の魂」「恩賜の煙草」「銃後の妻」「隣組」といった時局物を無理やり創作、舞台に掛けて糊口をしのいだのである。

 こうした経緯があって「沖縄口」自体が絶滅語に追いやられたことを重々、知っておかなければならない。
 現在、沖縄俳優協会、琉球歌劇保存会など舞台関係の組織もあるにはあるが・・・・。
 キナ臭い世の中が続くと、お上からの統制・強制が日常茶飯事になり、大衆文化は消滅の一途をたどるということか・・・・。