旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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年の瀬記・年賀状・新旧暦

2008-12-25 14:40:02 | ノンジャンル
★連載NO.372

 一家総がかり、といっても3人だが夕食後の2時間ほどをかけて、これまでにいただいた年賀状を整理。クリスマスまでには、丑年のそれを出し終えた。昨年よりかなり枚数が増えている。
 「今年も多くの方々にお世話かけて、年越しができるんだね」
 実感するのはこのことである。しかし、年内に逝った人もいる。身内あり、友人知人あり・・・・。その人たちからの年賀状に書いている「謹賀新年」「賀正」の文字や1行2行の直筆のメッセージがなんとなく虚しい。
 「この人たちには2度と逢えない。年賀状も出せない」
 そう思うと悲しくなってくる。それだけに、これらの年賀状は特別にファイルして机の引き出しの少し奥にしまうことにした。でも、いつでも出して偲べるように・・・・。
 年賀状なるものは、何時ごろから習慣化したのだろうか。
 琉球王府時代にも、中国の風習にならった年賀状のやりとりはあったようだ。ただし、一般庶民には縁遠く、王府の中核にいる親方<うぇーかた>、親雲上<ぺーちん>など、高官のみに限られていたようだ。赤い紙に「恭賀新禧=きょうがしんき」「恭賀聖寿=せいじゅ」と黒痕鮮やかに書いて配ったという。恭賀は〔うやうやしく祝う〕、新禧は〔新年の喜び、幸福〕、聖寿は〔天子の寿命・長寿〕を意味する。つまりは、国王の長寿を祈念し、臣下はじめ民衆ともども新年の喜びを分かち合おうという願いが込められている。
 しかし、郵便制度が確立していない時代、配達は本人自ら成すか、一家の嫡男などに適当な祝品を添えて届けさせるか、親しい間柄であれば、気の効いた下僕を使者にした。

 日本では年賀ハガキが売り出されたのは、明治6年<1873>のこと。当初は「年賀葉書紙」と称して2折りのもの。価格は5厘。100枚買うと5分引き。200枚以上は1割引だったそうだから、今日よりサービスは行き届いている。しかし、2折りの年賀葉書紙はどうも不評。理由はいろいろあったようだが、政府としても無視するわけにはいかず、明治8年には1枚ものの縦16.5センチ、横7.8センチに改めた。そこから普通ハガキも徐々に普及し、現在はたて14.8センチ、横10センチに落ち着いている。価格は、明治32年4月1日から〔1銭5厘〕となり、昭和12年<1937>まで変わっていない。その後、世の中の移り変わりとともに通過価格も変動して値上げをくり返し、現在は1枚50円也。
 沖縄に年賀状が定着したのは、明治も中期後半といわれるが、それでもまだまだ上流社会に限られていた。今日のような億単位の年賀ハガキの売り出しは戦後、人びとが落ち着きをみせはじめたころからだろう。


 ことのついでに「西暦採用」についてふれよう。
 政府は、明治5年11月9日「来たる12月3日を明治6年、西暦1873年1月1日とする」という改暦令を発布している。西欧諸国と肩を並べるためには、国際的に通用する西暦を採用しなければならなかったのである。しかし、それも政府お膝下の東京ではすんなり受け入れられたが、地方では西暦採用にかなり抵抗感があった。農業漁業や伝統的諸行事に季節的、あるいは時期的ズレが生じたからだ。反対を唱えて一揆を起した地方もあったと聞く。そのため、新聞も新旧暦を併記〔慣れるまでは〕と、旧慣を尊重した。
 南北に長い日本列島。本土と沖縄では季節観念がまるで異なる。そのことは、農業漁業にはっきり見ることができるが、日本復帰を境にしてまたぞろ〔本土化〕しつつあった年中行事も、ここへきて陰暦に戻しつつある。毎年発行されるカレンダーや沖縄手帳も新旧暦を明記したものが多くなっている。旧暦を主に、新暦を従えた〔沖縄暦〕も発行されている。このことは、善し悪しの問題ではなかろう。亜熱帯に暮す沖縄人には、旧暦の方が1年365日の推移はとらえ易い。簡単に言えば、われわれ沖縄人は新暦旧暦を巧みに使いこなして、春夏秋冬を楽しんでいるのだ。




 それにしても、年賀状はいい。出すのも快く、いただくのはなおさらいい。若い人たちは、除夜の鐘が鳴り終えると同時に、携帯電話にアドレスされた人たちへ〔一斉メール〕をするそうな。それもまた、手間が省けていい。しかしそれは、すべて同じ文面。もし、ギャル友から私に「あけ・おめ」「こと・よろ」とかいう絵文字入の一斉メールのひとつが届いたらどうしよう。これもまた、若やいでいいか。

 ♪月日走い過ぎてぃ 一夜隔みたる 年ぬ中垣ん 今宵なたさ
 歌意=歳月は早馬の如く駆け過ぎて今宵は、今年と来年を垣根ひとつで隔てる大晦日になった。なんとも感慨深い。
 “年の内に春は来にけりひととせを こぞやと言わむ今年とや言わむ”

次号は2009年1月2日発刊です!

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人生模様・男と女

2008-12-18 16:23:15 | ノンジャンル
★連載NO.371

 イギリスの話題。
 二人合わせて179歳のカップルが9年間の交際を経て結婚して、イギリス国内最高歳の〔新婚さん〕として話題になっているというニュースを聞いた。新婦は90歳。1年半前から体が思わしくなく施設に入所していたが、毎日にように彼女のとことろへ通ってくる89歳の彼氏に、今年の2月にプロポーズされた。彼女に異存はなく、家族にも紹介してこのほど結婚式を挙げた。ふたりの結婚式には、過去の結婚で出来た4人の子どもと5人の孫、それに、10人の曾孫の全員が出席したそうな。
 情念があるならば、やはり思いのたけを告げることが肝要なのだろう。

 遊び唄「川平節=かびらぶし」の中の男も、なかなかいい返事をくれない女に対し、あきらめずにアプローチをかけ続けて、遂には愛を勝ち得る。物語性に富んだひと節で、踊りも軽快で面白い。そして、この愛の成就を神に感謝している。
 “天の御助きか 神ぬ引ちゃわしか かながなとぅ宿に 戻る嬉りさ”
 この縁は「天の助成あっての引き合わせ!神が授けた縁!ふたり手を取り、宿に戻るこの嬉しさを何に例えよう。例えようもない」
 このケースは、うまく結ばれて神にも仏にも感謝しているが、成就しなかった場合、殊に男は天に背を向ける。
 “通ゐがな通ゆてぃ 自由ならんありば 神・仏てぃしん 当てぃやならん”
 「日毎夜毎通い詰めて告白しても、彼女は拒否の姿勢を崩さない。願えば叶うというが大ウソのコンコンチキだっ!神も仏も当てにはならねぇやっ!=いちゅび小節」
 とうとう無神論者になってしまう。相手の女の断わり様ひとつは男の人生を狂わしかねない。だが八重山民謡「多良間ゆんた」の中の女は、そのあたりを心得ていた。
 石垣島北端の集落平久保には王府時代、宮古の多良間島の人びとがサバニ<内海用の板船>で渡り拓いた田畑があった。はじめ、海岸近くに掛けた小屋もしだいに増えて、通称「多良間村」を形成した。多くの島々から成る宮古・八重山では、個々の島での生産だけでは暮らしが成り立たず、少しでも大きな島へ毎日のようにサバニで渡り農業を励んだ。これを「渡海農耕」と言い、本調子の「鳩間節」も、鳩間島の人びとが向かいの西表島での渡海農耕の収穫期のさまを歌った名曲だ。
 話を「多良間ゆんた」に戻そう。
 その村の美しい女に思いを寄せた若者がいた。しかし、内気がわざわいして恋心をなかなか打ち明けられずにいる。そのことを知らない女は、縁あって他の男と結婚してしまった。件の若者はそれでも彼女への思い断ちがたく、夜な夜な夫婦の家の垣根越しに彼女の姿を求めていた。だが、目にするのは夫婦の熱い熱い睦ましい行為・・・・。若者の熱情はさらに燃えて、遂に決死の覚悟で告白した。
 「夫と別れてくれっ。オレの女房になってくれっ!」
 鬼気迫る求愛に困惑しながらも、そこは人妻。平静を取り戻して答えた。
 「愛してくれてタンディガータンディ<宮古方言。ありがとうの意>。こうしましょうよ。村の前の海にいるタコの足は8本です。いつの日かタコの足が10本になったら、夫と別れてあなたの許へ行きますヮ」。
 さあ、このあとどうなったか「多良間ゆんた」には、残念ながら読み込まれていない。この若者、今風に言えばいささかストーカー気味だが、そう解釈してはもらいますまい。つまりは、男の純愛と人妻の貞節を歌い上げているのだから・・・・。

 かと思うと。比嘉春潮・崎浜秀明編「沖縄の犯科帳」には、つぎのような判例が記録されている。
 ※真和志間切識名村<現那覇市>のジラー比嘉41歳と、その弟ウシー比嘉35歳の妻ウター30歳の密通は平等所<ふぃらじゅ。王府時代の警察及び裁判所>の知るところとなり吟味の結果、ジラーは八重山へ一世流刑<終身刑>に処せられた。
 ※兼城間切糸満村<現糸満市>のタラー玉城23歳と、知念間切志喜屋村<現南城市>の人妻マカー30歳、そしていまひとり同村の人妻ウシー17歳の三つ巴の不倫事件には、タラーは渡嘉敷島へ、人妻カマーは慶良間島へそれぞれ3年の流刑。ウシーには、科牢24日間の判決が下された。=1854年12月=。
 こうした事件に対しては、流罪のほかに所払い、寺入り、百叩きなど様々な刑が科せられているが、それも「貞節」を重視する故の刑罰である。

鳩間島

 先日、古馴染みのG夫婦に逢った。年末から正月にかけて、石川県金沢市に嫁いでいる娘夫婦と孫たちを訪問。ついでに10日ばかり、みちのくの温泉巡りをすると言う。温泉旅行と仲睦ましさを羨望しながら「いい旅を」「いい正月を」の挨拶をして別れたが・・・・。〔あれも愛これも愛 みんな愛〕と歌う松坂慶子の「水中歌」のように、男と女はいろいろな形を彩なしながら、昔も今も浮世の真中を生きている。


紙人形作:城間早苗

次号は2008年12月25日発刊です!

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年の瀬・いろはばなし

2008-12-11 11:09:22 | ノンジャンル
★連載NO.370

 「正月には兄弟姉妹そろって、カルタ取りをしたなぁ・・・・」
 12月中旬になったせいか、正月を十分に意識するようになった。この1年の始末は、それほどのこともしてきていないので、正月への思いだけがことさら馳せるのだろう。
 江戸いろは歌留多の1枚目は「犬も歩けば棒に当たる」。これを俗に「犬棒カルタ」と言い、大いに楽しみながら、いろいろな言葉や俗諺を覚えてきたものだ。それらは生活の中の会話に引用し活用しているが、いまは犬も家の中にいるか、鎖に繋がれて裏庭の片隅に閉じ込められて、外のひとり歩きができなくなっている。したがって、棒に当たることはない。このことは、犬にとって幸か不幸か。
 「犬も歩けば棒に当たる」には、ふたつの解釈がある。ひとつは〔でしゃばると、ひどい目にあう。ロクなことはない〕とするもの。いまひとつは〔出歩けば、思いがけない良いことに遭遇する〕というものだ。まるで正反対の意味を持ち合わせているところが戒め語の特徴。実際に、右か左か選択しなければならない局面では〔勇気を持って己で判断せよ〕ということではなかろうか。
 親の意に反してばかりいたウーマクワラバー<やんちゃ童>の犬だったころの私は、年長連にこずかれたり泣かされたりで、棒にばかり当たっていた。しかし、それにも負けず積極的に外歩きをした成果で仲間も増え、初恋という棒にも当たったのだから人生、裏にも表にも当たったほうがよいのかも知れない。
 沖縄にも、類似した俗諺「外歩っけー カナクス 踏んぴーん」がある。カナクスは金屑、踏<く>んぴーんは、踏む。踏みつけるの意。これまた両面の意味を持っている。その①は、家にも落ち着かず、外を歩き廻ってばかりいると、古釘のような価値のないモノを踏む。災難にも会うし無益とする解釈。その②は、ヤーグマイ<家籠ゐ。今風に言うオタク>をかこっている者に対して〔ヤーグマイは非生産的だ。とにもかくにも外へ出よ。さすればカナクスも踏むだろうが、それはそれで見聞を広めるための経験。場合によっては、金や銀を得ることもある。行動せよ〕とする考え方だ。
 昭和1桁前半生まれの先輩F氏は、戦争のおかげで遅れをとった学問を取り戻そうと、ヤーグマイを徹底して勉学に励んでいた。こうしたF氏に祖父は言ったそうな。
 「男はヤーグマイになってはいけない。たまには外に出て女を引っかけてこいッ」

 犬棒関わりの〔犬ばなし〕になるが、12月1日付け沖縄タイムス紙夕刊に、ちょっといい話が載っていた。
 「沖縄市のジャスティン・クロフォードさん<21>=米空軍嘉手納基地所属=と妻加世子さん<20>の飼っている犬ジャスミンが子猫のくーすけに乳を与えている。犬は生後11ヵ月の雌だが出産経験はない。沖縄こどもの国動物園は「県内で犬が猫に授乳しているとは聞いたことがなく、出産経験もないのに乳が出るのも珍しいとしている」
 記事によると、子猫は近所で拾った。その翌日から子猫は犬の乳房をくわえはじめた。いまでは、平らだった犬の乳房も次第に張っているという。夫妻はともに猫アレルギーだが、2匹の仲を引き裂くわけにはいかず、ジャスティンさんはアレルギーを抑える薬を飲みながら接し、これからどのように成長していくか〔楽しみ〕と語っている。



 ところで。
 「あいうえお」とともに仮名表記の基になる「いろは」は、涅槃経<ねはんきょう>の諸行無常<しょぎょうむじょう>・是正滅法<ぜしょうめっぽう>・生滅滅己<しょうめつめつい>・寂滅為楽<じゃくめついらく>によるものと言われる。
 “いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめし ゑひもせす”
 “色は匂えへど散りぬるを 我が世誰そ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず”
 〔色香美しく咲きほこっている花もいつかは散る=諸行無=。この世に生きている我々にも永遠の命は有り得ない=是生滅法=。この無常かつ有為転変の迷いの奥山という現世を今、乗り越えて=生滅滅己=。悟りに至れば、もはや儚い夢を見ることなく、仮相の世界に酔い痴れることもなく、安らかな心境を会得する=寂滅為楽=。
 平安時代末期に一般的に唱えられていたそうな。
 これほどの仏教的哲学を説いた「いろは」とは露ほども知らず、いままで私はそらんじていたことになる。それどころか中年になると、物知り顔の粋がりで都都逸の文句を披瀝してきた。
 “七つ八つからイロハを覚え ハの字忘れてイロ<色>ばかり”
 12月の風が妙に身にしみる。

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いい夫婦の日・雑感

2008-12-04 12:47:05 | ノンジャンル
★連載No.369

 11月22日は、語呂合わせよろしく「いい ふうふの日」だそうな。
 夫婦とは、婚姻届け出により法的に成立し、夫婦財産制の適応を受けるものと解釈されているが、それは感情を抜きにした定義付け。そうそう簡単には成立しないことは、既婚者すべてが承知しているだろう。
 夫婦の縁は来世まで契る深いものとして「夫婦は二世」と言われる一方、「夫婦は合わせもの別れもの」とも言い、もともと他人だった男と女が一緒になるのだから、別れることがあっても仕方がないという考え方もある。

 11月19日「夫婦の日」を前に、つぎのようなラジオニュースを聞いた。
 アナウンサー=60代の既婚女性にアンケートを取った結果、半数が「生まれ変わったら、今の夫婦と結婚したくない」と答えました。このアンケートは、通信教育会社ユーキャンが、子ども持つ20代と60代の既婚者それぞれ200人に、夫婦観などを尋ねたものです。それによりますと「現在の配偶者として結婚してよかった」と感じているのは、20代の男女で88%、60代の男女で83%でしたが「生まれ変わっても今の配偶者と結婚したい」と答えたのはいずれの世代も60%にとどまりました。特に、60代女性では50%がNOを突きつけました。
 そして「夫婦で一緒にやってみたい趣味や習い事」は、20代男女と60代男性では「映画鑑賞」がトップでしたが、60代女性は「特にない」がトップで、年を重ねるほど男性には厳しい内容となっています。また、夫婦を漢字一文字で表すなら、20代は「絆」、60代は「忍」がトップとなりました。
 このニュースを伝えたアナウンサーは、30年来の放送仲間。結婚して大学生、高校生の子を持つ立派な父親と見受けるが、この項目の読み終え際の語尾が、かすかにふるえていたようでもあり、声が少しひっくり返ったようでもあった。今年も12月の風が北にかわったせいで、風邪でも引いたのだろう。

 結婚は、決意するのは簡単でも、夫婦であることを持続するのは難しい。大昔から世界中の人間が歓び、泣き、悩んできた結婚、夫婦・・・・。まだ、これといった定義、結論は出ていない。
 インド洋南西部にある小さな島国には「パンを見つけられないチーズはない」という諺があって、チーズがあれば一緒に食べるパンは、なんとかなるように、どんな男にも妻になる相手は見つかるとしている。まさにその通り。明るい未来が目の前に広がるような思いがする。一方。北欧ノルウェーの諺のひとつに「結婚はウナギの梁<やな>と同じ。外にいるものは入ろうとし、中にいるものは出ようとする」がある。まるでウナギが梁に掛かるように、独身者は結婚したがるが、既婚者は逆にウナギが梁から逃れようとするように、結婚生活の手かせ足かせを懸命にほどいて逃れようとする。実に説得力のある諺ではないか。しかもノルウェー人は、したり顔で説教するのではなく、夫と妻をウナギと梁になぞらえて、どちらが良いとも悪いとも言わないところが味わい深くていい。マイナス思考をしないですみそうだ、
 沖縄ではどうか。
 「布やヌチ上がゐ 夫や刀自上がゐ=ヌヌやヌチあがゐ Wutuやトゥジあがゐ」。
 夫婦を布の織り上がりに例えている。〔ヌチ〕は「貫糸・ぬちいとぅ。横糸」。それに対して縦糸を「綛糸・かしいとぅ」と言う。つまり「布の仕上がり具合は、カシイトゥは勿論だが、殊にヌチイトゥの扱いひとつで決まる。同じように夫は、妻の献身ひとつで良くもなり悪しくもなるとしている。この諺には男の生き方に女のそれを合わせようとする旧時代の観念が見え隠れするのも確かだが、夫と妻の立場を入れ替えてみてもなかなか納得できる一言ではなかろうか。

 かつて、恐妻会なるものを創り、会長におさまった古馴染みの友人Yの妻女に「夫をそう束縛するなッ!お前さんは、ソクラテスの妻だッ!」と、苦言を呈したのに対して恐妻会会長は「よしてくれッ!オレが言うならいざ知らず、そのセリフは他人の貴様が吐くことはないッ!」と、激しく抗議を受けたことがある。以来、犬も喰わない他人の夫婦の有り様には、口をはさまないようにしている。
 冒頭のアンケートに戻って。
 「現在の配偶者として結婚してよかったか」「生まれ変わっても、今の配偶者と結婚したいか」「夫婦を漢字一文字で表すなら何?」と、古女房に聞いてみたい・・・・気もするが、それはやめておこう。なぜなら、私がこのところ思っているような〔答え〕が出てくるであろうことが・・・・恐い。


ヒメルズバック夫婦


金城実夫婦

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