旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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琉歌百景・大昔節五節その④

2009-04-27 18:16:00 | ノンジャンル
 琉歌百景51[大昔節その④仲節=なかぶし]

 symbol7今日の誇らしゃや 何にぢゃなたてぃる 蕾でぃゆる花ぬ 露逢ゃたぐとぅ
 詠み及び歌意は[御前風五節]1節目「かぢゃでぃ風」に同じ。乞う参照。
 古典音楽中、最も所要時間の長い節。
 “蕾でぃ花ぬ・・・・”の後に「サトゥヨ ティバ」。“露逢ゃたぐとぅ”の後に「ハイヤ イチャシュガ ンゾヨ ティバ」のはやし言葉が入り、前奏、間奏、後奏共に長く、発声面では「階越=けーぐし」という三線音・声の移行がある上に「突吟=ちちぢん」と称する技法がある。そして、古典音楽全体的には「かぢゃでぃ風」を序曲とし「仲節」を終曲とし位置付けている。文章法に言う「起承・転結」。ものごとの始めと終わりを重要視していて、このことを「ちびくち 当てぃ」といい、縁起としている。風習観念に立脚した演奏構成をして、めりはりをつけたと言えよう。
      

*仲節余話①
 40年ほど前になろうか。
 当時はまだ、古典音楽の放送音源はその道の方々にスタジオ入りしてもらい、テープに収録して使用していた。あるとき、名人とうたわれる野村流師範故幸地亀千代〈明治29年3月4日~昭和44年9月25日。1896~1969〉夫妻をお招きした。その収録予定曲の中に「仲節」はあった。30歳になったかどうかの私、自分では一端のプロデューサー・ディレクターのつもりでいて、マイクテストを終えて収録本番の段になって言った。
 「幸地先生。スタジオには残響があります。歌い終えても私がOKのサインを出すまでは、静止していて下さい」
 そして「仲節」は歌い出された。一名「長仲節」と言われるだけあって高く低く、ゆっくりゆったり重厚に歌はつづく。まだ古典音楽が何たるかを知らない私。三線の音、琴の調べが快く、スヤスヤと実に気持ちよく夢路に誘われてしまった。しばらくして技術担当者に「オイッ!終わったよッ!」と起こされて、マイクの前の幸地亀千代、ナエ夫妻を見ると、若僧の[しばし静止]を厳守、OKのサインを待って完全かつきっちりと固まっていた。その時の「仲節」は、他の曲と共にまとめ、ジャケットを故与那覇朝大画伯に描いてもらってLP盤にしたが・・・・。いまでも、この一枚のレコードを見るだけで背中に冷たいものが流れる。
    

 *仲節余話②
 那覇市安里の古典音楽研究所でのこと。師匠は、弟子と言っても上級者を相手に「仲節」の稽古を始めた。師匠の奥さんは[長い節]を心得ていて、茶や菓子の支度だけはしておいて、那覇市牧志の市場へ買い物に出かけた。それをすませて帰宅してみると「仲節」の稽古は、まだ延々と続いていた。
 また戦前の話と聞くが、首里の古典音楽の大家、那覇市内の崇元寺付近から「仲節」を口ずさみながら徒歩で首里に向かった。前、間、後奏は口三線〈くちじゃんしん。口で三線の音を発すること〉。すると、歌い終えたときには首里観音堂の門前に達していた。
 手元にある野村流音楽協会師範玉城宗吉氏による「仲節・清屋節」の所要時間は30分12秒ある〈うち清屋節2分19秒〉。好奇心に押されて私、崇元寺前から首里観音堂までをストップウォッチ片手に、実際に歩いてみた。ゴルフ歴40余年の脚力を活かし「仲節」のテンポを考慮しながらだ。松川・坂下からは登り勾配。タイム28分44秒。因みに復路は下りとあって25分05秒。
 これらの話は「仲節」は、それほど長くゆったりした節であることを伝える余話として受けとめたい。
    
       首里観音堂

 「仲節」のチラシは「清屋節」
 琉歌百景52[清屋節=ちゅらやーぶし]
 symbol7あたい苧ぬ中ぐ 真白引ち晒るち 里があけず羽 御衣ゆすらに
 〈あたいWUぬ なかぐ ましらふぃち さるち さとぅが あけずばに んすゆすらに〉
 語意*あたい=屋敷内やそのごく近くにある畑。*苧=苧麻。沖縄語ではWU。繊維質の植物の皮のそれによって紡いだ糸。この歌の場合は芭蕉苧=バサーWU。*あけず=とんぼ。蜻蛉の古語。一般的にはアーケージュー。
 歌意=アタイで植栽した芭蕉の繊維を真白に引き晒して糸にし、機〈はた〉に掛けて、愛しい夫、彼のためにトンボの羽のように薄く美しい着物にする布を織って差し上げよう。
     

 正装用に織った芭蕉布は、どれだけ薄かったか。昔びとは「1厘銭かの穴から1反布が通った」と表現している。
 芭蕉は熱帯アジア、アメリカ、アフリカなどが原産地。沖縄には繊維を採るリュウキュウバショウ〈糸芭蕉。俗に苧バサー〉、食用のバナナ〈実芭蕉。バサナイ〉のはかにサンジャクバナナ、マニラ糸芭蕉などが植栽されている。戦争もなく平和に治まっていた時代には、親戚筋や友人知人などの家庭に子や孫が生まれると、お祝いのしるしとして実芭蕉〈ミーバサー・芭蕉木=バサナイギー〉の苗を持参、屋敷内に植える習慣があった。バナナのように「ひと房に沢山の実がなりますように」という子孫繁栄の願いを込めたのである。「清屋」は、家庭円満、子孫繁栄。誇らしく幸せに満ち、見た目にも心やすまる清々しい家庭そのものをさしている。
 教職あった平良景昭氏は、芭蕉布・藍染めの里として知られる大宜味村喜如嘉〈おおぎみそん きじょか〉がふるさと。一遍の詩を書いている。
 糸芭蕉の柄は 白く冷たい 竹でしごいて 糸を引く
 糸芭蕉の糸は ハーラ〈竹籠〉にためて ヤーマ〈糸車〉で紡いで 管に巻く
 糸芭蕉の糸は 綛にみたして 機にとりつけ 筬に貫く
 糸芭蕉の糸は ヒジキ〈横糸を通す小道具〉を通し 筬でたたいて 布を織る 
 糸芭蕉の袖は 黄トンボの羽 涼しい風が 吹いてくる

次号は2009年5月7日発刊です!

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琉歌百景・大昔節五節その③

2009-04-23 13:30:00 | ノンジャンル
★連載NO.389

 琉歌百景○49[大昔節五節その③長ぢゃんな節=なが=]
 ♪首里天加那志 十百とぅゆ ちょわれ 御万人ぬ まじり 拝でぃしでぃら
 〈しゅゐてぃんじゃなし とぅむむとぅゆ ちょわれ うまんちゅぬ まじり WUがでぃ しでぃら〉
 チラシ「伊集早作田節=はいちくてんぶし」
 ♪蘭ぬ匂い心 朝夕思みとぅまり 何時までぃん人ぬ 飽かんぐとぅに
 〈らんぬ にうぃぐくる あさゆ うみとぅまり いちまでぃん ふぃとぅぬ あかん ぐとぅに〉
 この歌詞については、3月19日号・昔節五節「ぢゃんな節」の項でもふれた〈参照〉。
 歌意を台詞風に書いてみよう。ある公的行事が御城内〈うぐしくうち〉で成され、国王がお出ましになったとき、家臣代表が国王に申し上げた。
 「国王様。いつまでもご壮健あらせられ、われわれ琉球の民に徳を賜りますように。さすれば、万民こぞって御奉公相勤めるでありましょう。
 これに対し国王は答える。
 「よくぞ申してくれた。そのように私も尽力する所存。例えるならば、蘭の匂いはなんびとも飽くことはない。そのような蘭の花ごころを朝夕持ち合わせて職分を果たせよ。そして、万民に支持されるよう、琉球国が何時までも平和に繁栄するよう努力してもらいたい」
 しかし「長ぢゃんな節」と「伊集早作田節」は、同時に詠まれたのではない。それを本歌の内容を、より濃密にするために宮廷音楽家たちは巧みに2節を同位置に置いた。この用法は他の本歌・チラシにも言える。
 琉歌には、こうした国王讃歌・君臣和睦の詠歌が多い。このことについて最近、古典音楽愛好家の間である会話がなされた。
 「琉球国王は、いわば日本の天皇の位置にあった。天皇讃歌は、いまや封じ込められた感があるが、琉球国王讃歌は今日的に歌われている。やはり、琉球音楽は独立している」
 国王制度、天皇制度を無理に結びつけることはないが、殊に戦後生まれの人たちには気に掛かることらしい。

 節名頭部に「長=なが」の付く節は他にも「長恩納節=なが うんなぶし」「長伊平屋節=なが いひゃぶし」「長金武節=なが ちんぶし」があり、いまひとつは「本部長節=むとぅぶ なが〈あるいは=なぢ〉ぶし」がある。この場合の詩形による「長」。
 八八八六の琉歌基本詩形に対して「本部長節」は、八八八 八八七の47音になっている。
 因みに西島宗二郎、知念松盛、宮平三栄、安富祖竹久、佐久本盛信、大城朝盛、伊波善雄、玉城宗吉、村山盛一、上地源照、花城康栄の各師匠監修による「琉球古典音楽野村流大全集=12枚組LP盤」に収録されている「長ぢゃんな節・伊集早作田節=歌三線上地源照、比嘉良徳。琴亀谷ウト」の演奏所要時間は21分26秒。


 大昔節とは関わらないが「長」繋がりで「本部長節」を記しておこう。
 琉歌百景○50[本部長節]
 ♪検査主司たり前 御取次じしゃびら 御主加那志めでぃ 夜昼んしゃびん あまん世ぬ しぬぐ 御許しみしょり
 〈ちんじゃすし たりめ うとぅいちじ しゃびら うしゅがなし めでい ゆるひるん しゃびん あまんゆぬ しぬぐ うゆるしみしょり〉
 歌意=検査主司=検者の文字もある。王府から地方に派遣され生産、財政、風俗習慣等一切の調査官。巡検使。
 *たり前=口語では、たーりーめー。年長男性や役人に対する敬称。
 *めでい=公事奉公。忠勤。
 *あまん世=天世。神の世。
 *しぬぐ=神祭の古称。古くは豊作祈願、豊年感謝祭、次年の豊作予祝の祭事だったが、時代とともに平民の男女の毛遊び〈もうあしび。野遊び〉になった。このことは「労働力を低下させ、風紀を乱す」として、尚敬王時代〈1713~1751〉に禁止令が出された。
 「本部長節」は巡検使が来た際、村人の「しぬぐ遊び解禁」の嘆願を村頭〈村長役〉が申し出たものと思われる。
 歌意=巡検使さま。村の者たちの願いをお取り次ぎいたします。これからは老若男女、昼夜問わず国王様の御為、琉球国繁栄の為、懸命に働きます。どうぞ、天の世、神の世から続いた「しぬぐ禁止令」を解いて下さいますよう伏してお願いいたします。
 なお、この歌の本歌は本部半島の地名を詠み込んだ次の1首。現在では「本部ナークニー」で歌われている。
 ♪渡久地から登ぶてぃ 花ぬ元辺名地 遊び健堅に 恋し崎本部[ナークニーでは「崎」を省く]
 〈とぅぐちから ぬぶてぃ はなぬむとぅ ひなぢ あしび きんきんに くいし さちむとぅぶ〉
 歌意=渡久地村〈むら〉を発って行けば、すぐに花のような女童の多い辺名地村。そして、若者遊びの盛んな健堅村を経て辿り着くのは、恋しい崎本部である。
 「恋し崎本部」を愛しい人のいる村とするか、単に生まれ所在とするか。三線に乗せて歌う場合の情況、気分しだいだろう。



次号は2009年4月30日発刊です!

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琉歌百景・大昔節五節その②

2009-04-16 08:48:00 | ノンジャンル
★連載NO.388

 琉歌百景○46[大昔節その②昔蝶節〈んかし はべる ぶし〉
 ♪みすとぅみてぃ起きてぃ 庭向かてぃ見りば 綾蝶無蔵が〈あぬ花くぬ花〉吸ゆる妬たさ
 〈みすとぅみてぃ うきてぃ にわ んかてぃ みりば あやはべる んぞが あぬはな くぬはな すゆる にたさ〉
 琉歌の八八八六詩形の上句と下句の間に、さらに八音を加えて、より情緒的にしているのは、このひと節の特徴と言えよう。
 *みすとぅみてぃ=早朝の美語。口語では、ふぃてぃみてぃ。すとぅみてぃ。
 歌意=朝早く起きて庭に目をやれば、羽の綾が美しい蝶々が咲き誇るあの花この花の甘い蜜を吸いながら飛びかっている。自分も花か蝶になりたいが、それができないのはなんとも妬ましい。
 詠みびとは蝶を女性、花を自分以外の男性に置き換えたようだ。普通は逆なのだが。綾蝶のように美しい女性が周囲にいて、心引かされていたのだろう。彼女は他の男とはあのように親しくしているのに、自分の側には来てくれない。妬ましく思うのは、ごく自然の心情とは言えまいか。それとも、春を謳歌する蝶そのものの自由さに対する羨望からの嫉妬か。
 蝶の沖縄語はハベル・ハベラ・ハーベールーなどがあり使い分けているが、沖縄本島で見られる種類は次の通り。
 *アゲハチョウ科11種。*マダラチョウ科8種。*シジミチョウ科15種。*シロチョウ科10種。*タテハチョウ科19種。*テングチョウ科1種。セセリチョウ科13種など。それぞれ好みの植物を食して生きている。そのうち、アゲハチョウ科のシロオビアゲハの食餌植物はサルカケミカン〈シークァーサー〉、ハマセンダンなど。アオスジアゲハはクスノキ、タブノキ、ヤブニッケイ。セセリチョウ科のチャバネセセリはススキ、チガヤ、サトウキビ。クロボシセセリはヤシ類。
 「昔蝶節=はべらぶしとも言う」のチラシは「あがさ節」


 琉歌百景○47[あがさ節]
 *「あがさ」は、蜘蛛の別称。クブとも言うが一般的にはクーバー。
 ♪深山蜘蛛でんし 綛掛きてぃ置ちゅゐ 我女になとてぃ 油断しゃびみ
 〈みやまクブ でんし かしかきてぃ うちゅゐ わうぃなぐに なとてぃ ゆだんしゃびみ〉
 歌意=庭木に糸を掛ける蜘蛛はもちろん、人も通わない深山・奥山の蜘蛛でさえ陰日向なく懸命に糸を掛ける。まして女に生まれた私、油断することなく美しい着物を織るための糸紡ぎをしないでおくものか。
 昔は身分の上下なく、機織りや着物の仕立ては女性の職分だった。嫁入り道具のひとつに機織り機一式が加えられている。そのことから夫婦愛をはじめ恋愛、それに関する教訓の詠歌には糸、布、綾などの言葉が多用される。蜘蛛の吐く糸と絹糸の[糸紡ぎ]の繊細な作業を同一視した感性が妙味。
 機〈ハタ〉に掛ける縦糸を綛糸〈かしいとぅ。経糸〉、横糸を貫糸〈ぬちいとぅ〉と称するが、貫糸はヒジキに納めた1本でも、綛糸は本数が多く、ちゃんと数詞がある。
 縦糸の1本は片筋=かたすじ。*2本は=一葉〈チュファー〉と進み、四葉、つまり8本なると数詞は「一手=チュティー」になる。そして、一手の10倍、80本を「一読=チュユミ」。さらに「読み=ユミ」も「六読=ムユミ」までで、その上は呼称が異なる。
 *七読はナナユミの他にナネーンとも言う。*八読=エーン。*九読=ククニーン。*十読=ティーン。*十一読=チーン。十二読=テーン。十三読=ヌーン。*十四読=ヰーン。*十五読=イチヰーン。*十六読=ミーン。*十七読=トゥーナナユミ。*十八読=トゥーヤユミ。*十九読=トゥーククヌユミ。*二十読=ハテーン。ハテン。

 上質の布は二十読、つまり1600本の縦糸で織られる。この数詞、七読、二読を詠み込んで「干瀬節=ふぃしぶし」に乗せて踊るのが古典女七踊りのひとつ「かしかき」。


 琉歌百景○48
 ♪七読とぅ二十読 綛掛きてぃ置ちゅてぃ 里があけじ羽ぬ 御衣ゆしらに
 〈ナナユミとぅハテン かしかきてぃ うちゅてぃ さとぅが あけじばに んすゆしらに〉
 *里=さとぅ。この場合は夫。*あけじ羽御衣=アケジはとんぼ。蜻蛉の羽のように軽く上品かつ上質の衣。
 歌意=七読〈560本〉さらに二十読〈1600本〉の縦糸を紡いで巻き取る綛に掛けて下準備をする。そして機に掛け、愛する夫の肌に添う着物にする布を仕上げましょう。
 こうして織られた布仕立ての着物を殊に「朝衣=ちょう じん」と言い、蜻蛉の羽のように透き通っている。極細の絹糸で出来た着物を身に着けるのは首里士族のみ。平民は麻や粗目の芭蕉布の着物を着用する。着物ひとつにも[身分]の差があった。しかし機織り作業には上下の差はなく、すべて女性の仕事。したがって布織り上手の娘は嫁乞いあまただったことは言うまでもない。

次号は2009年4月23日発刊です!

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琉歌百景・大昔節五節編 その①

2009-04-09 13:36:00 | ノンジャンル
★連載NO.387

 これまで「御前風五節」を記してきたが、今週からは「大昔節五節=うふんかしぶし いちふし」に入る。
 14世紀ごろ、中国を経て琉球に伝来した中央アジアの三絃楽器は「三線・サンシン」と呼ばれて琉球王府の士族間に定着。100年を待たずして、三線に八八八六詩形の琉歌を乗せて歌う「節歌=ふしうた」を完成させている。そして、15世紀に入って創作された楽曲の中から、後世の音楽家たちによって5節を選出「大昔節五節」と位置付けた。これを別称「前ぬ五節=めぇぬ いちふし」。そして、16世紀ごろ作られた節歌の中から選んだ五節を「昔節五節」別称「後ぬ五節=あとぅぬいちふし」とした。これは先週号までに紹介させてもらった。

琉歌百景○43〔大昔節五節・その①茶屋節=ちゃやぶし〕
♪拝でぃ退かりらん 首里天加那志 遊でぃ退かりらん 御茶屋御殿
 〈WUがでぃ ぬかりらん しゅゐ てぃんぢゃなし あしでぃ ぬかりらん うちゃや うどぅん〉
 御茶屋御殿は美称。正式には、東苑〈とうえん〉。首里城東方に建設されたことから命名された。王家別邸のひとつで、第二尚氏王統11代・尚貞王〈1645~1709〉の即位9年目に築造。中国からの公使など国賓を接待する、いわば迎賓館的性格を持つほかに、同王統19代・尚泰王代〈1843~1901〉までは詠歌、音楽、茶道、華道、囲碁、そして多彩な武芸、芸能を披露する場だった。尚泰は琉球最後の国王。
 このことからすると「茶屋節」の節名は、同御殿と茶道に関わっているように思える。また「首里天加那志」とは、尚貞王をさしているという説もある。
 歌意=国王の御尊顔を直に拝すれば、その高貴に打たれ場を退席することができない。また、国王同席で歌舞を鑑賞すれば御茶屋御殿に身を置くことは、光栄この上もなく立ち去ることを好まない。
「茶屋節」のチラシは「すき節」


琉歌百景○44〔すき節〕
 「すき」は、季節の節のこと。発音は「しち」。表記上「節節」とする紛らわしさを避けるために、あえて平仮名表記の「すき節」としたと言われる。
 作者は、組踊の始祖玉城親方朝薫〈たまぐすく うぇーかた ちょうくん=1684・8・2~1734・1・26〉。作品「二童敵討=にどう てぃちうち」の中のひと節。
 ♪節々がなりば 木草でん知ゆゐ 人に生りとぉてぃ 我親知らに
 〈しちしちが なりば ちくさでん しゆゐ ふぃとぅに んまりとてぃ わうやしらに〉
 歌意=巡り来る季節ごとに、自然の生きとし生きるものはそれに対応して生命を育む。たとえ野の草木、道端のそれでさえ、この理をよく感知している。まして、人間に生まれたわれわれが、命を生み出してくれた親の存在、命の根源を知らないでいるわけにはいかない。孝の道を悟るべし。
 歌意を理解するには、組踊「二童敵討」の内容を知って置かなければなるまい。
 この組踊は別名「護佐丸敵討=ぐさまる てぃちうち」と言い1719年、首里城内の重陽の宴で初演がなされた。丁度、冊封式典のあった年で中国の使者の面々も観劇したという。
 勝連城〈かっちんぐしく〉の主・阿麻和利〈あまわり。あまおへ〉に中城城〈なかぐすく ぐしく〉の城主である父護佐丸を討たれた子息兄弟・鶴松と亀千代は仇討ちを決意して、さまざまな苦難を経て首尾よく大望を果たす。この経緯の中、兄弟は、
 「物言わぬ木草ですら自然の摂理をわきまえている。まして、われわれ兄弟。無念の死を遂げた親の仇を討たずしてなんとするッ。親への孝を忘却するものは人間にあらずッ。力を合わせて孝の道を全うしようぞッ」
 と、誓う場面で「すき節」は用いられる。この1首に類似する詠歌がある。

 琉歌百景○45
 ♪巡ぐてぃ春来りば 木草でん知ゆゐ 人に生りとぉてぃ 節ゆ知らに
 〈みぐてぃ はるくりば ちくさでん しゆゐ ふぃとぅに んまりとぉてぃ しちゆ しらに〉
 歌意=冬の時が過ぎ春が巡ってくると、木も草も花も己の季節を知り息ぶく。人間に生まれて、春到来を知らずしてなんとしよう。
 これも、組踊「伏山敵討=ふしやま てぃちうち。作者及び創作年代不明」の中のひと節。巡り来る春の到来と仇討ちの好機到来をかけているが、素直に花が咲き鳥が歌い太陽が輝きを増す〔春〕を喜ぶ詠歌として楽しんでもよいのではないか。

次号は2009年4月16日発刊です!

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琉歌百景・昔節五節その③

2009-04-02 11:58:00 | ノンジャンル
★連載NO.386

 琉歌百景○40〔昔節その⑤暁節=あかちち ぶし〕
 ♪暁やなゆゐ 如何うそじみしぇが 別るさみ思みば 袖ぬ涙
 <あかちちや なゆゐ いちゃ うそじみしぇが わかるさみ とぅみば すでぃぬ なみだ>
 *うそじみしぇが=思い。考えの古語。お思いになりますか。
 男女が共寝をするとき、脱いだ着物を重ねて上にかけ、翌朝の別れには、またそれぞれ着ることを〔衣々。きぬぎぬ〕と言い、朝の別れを意味するそうだが、こうした惜別の情は古今、数々の名歌になっている。転じて、夫婦のしばしの別れも用いるが「暁節」の場合は、どうやら思いびととの「後朝の恋=きぬぎぬの恋」「後朝の別れ=きぬぎぬの別れ」と思われる。
 歌意=もうすぐ、白々と夜が明けます。貴方は如何なる心境ですか。どう思っていらっしゃいますか。これでお別れと思うとわたくしは、惜別の情がつのるばかりで、ただただ涙をふく着物の袖を濡らすばかり・・・・。
 古典音楽番組を通して多くのことをご教示下さった野村流古典音楽松村統絃会師範・故宮城嗣周翁は、この1首の挿話をこう話していた。
 「湛水流の始祖、湛水親方賢忠<たんすい うぇーかた けんちゅう。本名=幸地=こうち。1623・6・15~1683・12・10>は、なかなかの粋人だったらしく、仲島遊郭に思戸<うみとぅ>という顔馴染みの女がいた。例によって、睦ましく語らっているうちに夜明けが近くなった。粋人は粋人らしく居続けなどしない。一番鶏を待たず帰宅する。その際、思戸は言った。“暁やなゆゐ 如何うそじみしぇが”。これに対して賢忠は“別るさみ思みば 袖ぬ涙”と返事をした。それだけでは終わらないところが大音楽家の名を今日に残す由縁だろうなぁ。その日の内にこの歌詞に曲節を付けて“暁節”としたそうだよ」。
 しかし、多くの解説書には「詠みびとしらず」となっている。どうやら、湛水親方と思戸の恋物語は、後世の歌人たちの中に生まれたものらしい。
 また、湛水流では、他流が本歌として用いている“暁やなゆゐ・・・・”ではなく、次の1首を歌ってる。


 琉歌百景○41〔瓦屋節=からやーぶし〕
 ♪惜しむ夜や更きてぃ 明雲や立ちゅゐ にゃまた何時拝でぃ 百気延びゅが
 <WUしむゆや ふきてぃ あきぐむや たちゅゐ にゃまた いちWUがでぃ むむち にゅびゅが>
 *百気=むむち。百の気。百の息。転じて充実した気。満足の気。歓喜の心情。
 歌意=愛し合うふたりの逢瀬の時はまたたく間に過ぎ、やがて明けの雲が立つ。いまお別れしたら、ああ、また何時逢えるのか。今夜のような歓びを共にし、愛の命を延ばすのはいつの日か。それを思えば身も細るばかりで時が惜しい。明雲が恨めしくてならない。
 「にゃ」は「また。再び」の接頭語。

 「瓦屋節」には、別の1種がある。
 1617年、薩摩を経て琉球に帰化した朝鮮の陶工張献功<ちょう けんこう>は、仲地麗伸<なかち れいしん>を名乗り、那覇・湧田村<わくたむら。現泉崎>に居住。屋根瓦はじめとする陶芸の技術伝授、普及を任務した。国王尚寧<しょうねい=1564~1620・9・19>は、張献功の労に報いるため、献功が見染めた女性を彼の側に置くことにした。しかし、その女性には夫や子があった。それでも王命とあっては背くこと叶わない。彼女は、瓦屋<からやー。窯場>のある丘の頂上から、夫や子のいる豊見城間切嘉数村<とぅみぐしくまじり かかじむら>に思いを馳せて夫・子を忍ぶ日々を過ごしていた。その心情を詠んだのが次の1首。

 琉歌百景○42
 ♪瓦屋つぢ登てぃ 真南向かてぃ見りば 島の浦どぅ見ゆる 里や見らん
 <からやちぢ ぬぶてぃ まふぇ んかてぃ みりば シマぬらどぅ みゆる さとぅや みらん>
 この場合のシマはアイランドではなく、自分の生まれ在所。故郷の意。
 歌意=窯場のある丘の頂上に登り、真南の方角を見れば、はっきりとわが家の辺り、シマの入り江が見える。けれども、愛しい夫、わが子の姿を見ることはできない。断腸の思い・・・・。
 当時の窯場は、泉崎の東から国場<こくば>にかけて幾つか設置されていたというが、女性のシマを小禄間切当間村<うるくまじり とうまむら。現那覇市>とする説もある。なお「暁節」のチラシは普通“惜しむ夜や更きてぃ・・・・”が用いられる。


 チラシは、別に御供<うとぅむ>とも言い、重厚で長い古歌・本曲の後にその情緒と内容をさらに深めるために付けられる小曲のこと。必ずしも同時に詠まれたものではなく、古典音楽が確立された後、宮廷の音楽家たちによって成されたと思われる。
 この形式は庶民の遊び唄にも取り入れられ、例えば「なーくにー」に「汀間節=てぃーまぶし」「かいされー」「あかやもう。あかやまー」「海のチンボーラー」などを付けるのがそれである。

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