琉歌百景51[大昔節その④仲節=なかぶし]
今日の誇らしゃや 何にぢゃなたてぃる 蕾でぃゆる花ぬ 露逢ゃたぐとぅ
詠み及び歌意は[御前風五節]1節目「かぢゃでぃ風」に同じ。乞う参照。
古典音楽中、最も所要時間の長い節。
“蕾でぃ花ぬ・・・・”の後に「サトゥヨ ティバ」。“露逢ゃたぐとぅ”の後に「ハイヤ イチャシュガ ンゾヨ ティバ」のはやし言葉が入り、前奏、間奏、後奏共に長く、発声面では「階越=けーぐし」という三線音・声の移行がある上に「突吟=ちちぢん」と称する技法がある。そして、古典音楽全体的には「かぢゃでぃ風」を序曲とし「仲節」を終曲とし位置付けている。文章法に言う「起承・転結」。ものごとの始めと終わりを重要視していて、このことを「ちびくち 当てぃ」といい、縁起としている。風習観念に立脚した演奏構成をして、めりはりをつけたと言えよう。
*仲節余話①
40年ほど前になろうか。
当時はまだ、古典音楽の放送音源はその道の方々にスタジオ入りしてもらい、テープに収録して使用していた。あるとき、名人とうたわれる野村流師範故幸地亀千代〈明治29年3月4日~昭和44年9月25日。1896~1969〉夫妻をお招きした。その収録予定曲の中に「仲節」はあった。30歳になったかどうかの私、自分では一端のプロデューサー・ディレクターのつもりでいて、マイクテストを終えて収録本番の段になって言った。
「幸地先生。スタジオには残響があります。歌い終えても私がOKのサインを出すまでは、静止していて下さい」
そして「仲節」は歌い出された。一名「長仲節」と言われるだけあって高く低く、ゆっくりゆったり重厚に歌はつづく。まだ古典音楽が何たるかを知らない私。三線の音、琴の調べが快く、スヤスヤと実に気持ちよく夢路に誘われてしまった。しばらくして技術担当者に「オイッ!終わったよッ!」と起こされて、マイクの前の幸地亀千代、ナエ夫妻を見ると、若僧の[しばし静止]を厳守、OKのサインを待って完全かつきっちりと固まっていた。その時の「仲節」は、他の曲と共にまとめ、ジャケットを故与那覇朝大画伯に描いてもらってLP盤にしたが・・・・。いまでも、この一枚のレコードを見るだけで背中に冷たいものが流れる。
*仲節余話②
那覇市安里の古典音楽研究所でのこと。師匠は、弟子と言っても上級者を相手に「仲節」の稽古を始めた。師匠の奥さんは[長い節]を心得ていて、茶や菓子の支度だけはしておいて、那覇市牧志の市場へ買い物に出かけた。それをすませて帰宅してみると「仲節」の稽古は、まだ延々と続いていた。
また戦前の話と聞くが、首里の古典音楽の大家、那覇市内の崇元寺付近から「仲節」を口ずさみながら徒歩で首里に向かった。前、間、後奏は口三線〈くちじゃんしん。口で三線の音を発すること〉。すると、歌い終えたときには首里観音堂の門前に達していた。
手元にある野村流音楽協会師範玉城宗吉氏による「仲節・清屋節」の所要時間は30分12秒ある〈うち清屋節2分19秒〉。好奇心に押されて私、崇元寺前から首里観音堂までをストップウォッチ片手に、実際に歩いてみた。ゴルフ歴40余年の脚力を活かし「仲節」のテンポを考慮しながらだ。松川・坂下からは登り勾配。タイム28分44秒。因みに復路は下りとあって25分05秒。
これらの話は「仲節」は、それほど長くゆったりした節であることを伝える余話として受けとめたい。
首里観音堂
「仲節」のチラシは「清屋節」
琉歌百景52[清屋節=ちゅらやーぶし]
あたい苧ぬ中ぐ 真白引ち晒るち 里があけず羽 御衣ゆすらに
〈あたいWUぬ なかぐ ましらふぃち さるち さとぅが あけずばに んすゆすらに〉
語意*あたい=屋敷内やそのごく近くにある畑。*苧=苧麻。沖縄語ではWU。繊維質の植物の皮のそれによって紡いだ糸。この歌の場合は芭蕉苧=バサーWU。*あけず=とんぼ。蜻蛉の古語。一般的にはアーケージュー。
歌意=アタイで植栽した芭蕉の繊維を真白に引き晒して糸にし、機〈はた〉に掛けて、愛しい夫、彼のためにトンボの羽のように薄く美しい着物にする布を織って差し上げよう。
正装用に織った芭蕉布は、どれだけ薄かったか。昔びとは「1厘銭かの穴から1反布が通った」と表現している。
芭蕉は熱帯アジア、アメリカ、アフリカなどが原産地。沖縄には繊維を採るリュウキュウバショウ〈糸芭蕉。俗に苧バサー〉、食用のバナナ〈実芭蕉。バサナイ〉のはかにサンジャクバナナ、マニラ糸芭蕉などが植栽されている。戦争もなく平和に治まっていた時代には、親戚筋や友人知人などの家庭に子や孫が生まれると、お祝いのしるしとして実芭蕉〈ミーバサー・芭蕉木=バサナイギー〉の苗を持参、屋敷内に植える習慣があった。バナナのように「ひと房に沢山の実がなりますように」という子孫繁栄の願いを込めたのである。「清屋」は、家庭円満、子孫繁栄。誇らしく幸せに満ち、見た目にも心やすまる清々しい家庭そのものをさしている。
教職あった平良景昭氏は、芭蕉布・藍染めの里として知られる大宜味村喜如嘉〈おおぎみそん きじょか〉がふるさと。一遍の詩を書いている。
糸芭蕉の柄は 白く冷たい 竹でしごいて 糸を引く
糸芭蕉の糸は ハーラ〈竹籠〉にためて ヤーマ〈糸車〉で紡いで 管に巻く
糸芭蕉の糸は 綛にみたして 機にとりつけ 筬に貫く
糸芭蕉の糸は ヒジキ〈横糸を通す小道具〉を通し 筬でたたいて 布を織る
糸芭蕉の袖は 黄トンボの羽 涼しい風が 吹いてくる
次号は2009年5月7日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
今日の誇らしゃや 何にぢゃなたてぃる 蕾でぃゆる花ぬ 露逢ゃたぐとぅ
詠み及び歌意は[御前風五節]1節目「かぢゃでぃ風」に同じ。乞う参照。
古典音楽中、最も所要時間の長い節。
“蕾でぃ花ぬ・・・・”の後に「サトゥヨ ティバ」。“露逢ゃたぐとぅ”の後に「ハイヤ イチャシュガ ンゾヨ ティバ」のはやし言葉が入り、前奏、間奏、後奏共に長く、発声面では「階越=けーぐし」という三線音・声の移行がある上に「突吟=ちちぢん」と称する技法がある。そして、古典音楽全体的には「かぢゃでぃ風」を序曲とし「仲節」を終曲とし位置付けている。文章法に言う「起承・転結」。ものごとの始めと終わりを重要視していて、このことを「ちびくち 当てぃ」といい、縁起としている。風習観念に立脚した演奏構成をして、めりはりをつけたと言えよう。
*仲節余話①
40年ほど前になろうか。
当時はまだ、古典音楽の放送音源はその道の方々にスタジオ入りしてもらい、テープに収録して使用していた。あるとき、名人とうたわれる野村流師範故幸地亀千代〈明治29年3月4日~昭和44年9月25日。1896~1969〉夫妻をお招きした。その収録予定曲の中に「仲節」はあった。30歳になったかどうかの私、自分では一端のプロデューサー・ディレクターのつもりでいて、マイクテストを終えて収録本番の段になって言った。
「幸地先生。スタジオには残響があります。歌い終えても私がOKのサインを出すまでは、静止していて下さい」
そして「仲節」は歌い出された。一名「長仲節」と言われるだけあって高く低く、ゆっくりゆったり重厚に歌はつづく。まだ古典音楽が何たるかを知らない私。三線の音、琴の調べが快く、スヤスヤと実に気持ちよく夢路に誘われてしまった。しばらくして技術担当者に「オイッ!終わったよッ!」と起こされて、マイクの前の幸地亀千代、ナエ夫妻を見ると、若僧の[しばし静止]を厳守、OKのサインを待って完全かつきっちりと固まっていた。その時の「仲節」は、他の曲と共にまとめ、ジャケットを故与那覇朝大画伯に描いてもらってLP盤にしたが・・・・。いまでも、この一枚のレコードを見るだけで背中に冷たいものが流れる。
*仲節余話②
那覇市安里の古典音楽研究所でのこと。師匠は、弟子と言っても上級者を相手に「仲節」の稽古を始めた。師匠の奥さんは[長い節]を心得ていて、茶や菓子の支度だけはしておいて、那覇市牧志の市場へ買い物に出かけた。それをすませて帰宅してみると「仲節」の稽古は、まだ延々と続いていた。
また戦前の話と聞くが、首里の古典音楽の大家、那覇市内の崇元寺付近から「仲節」を口ずさみながら徒歩で首里に向かった。前、間、後奏は口三線〈くちじゃんしん。口で三線の音を発すること〉。すると、歌い終えたときには首里観音堂の門前に達していた。
手元にある野村流音楽協会師範玉城宗吉氏による「仲節・清屋節」の所要時間は30分12秒ある〈うち清屋節2分19秒〉。好奇心に押されて私、崇元寺前から首里観音堂までをストップウォッチ片手に、実際に歩いてみた。ゴルフ歴40余年の脚力を活かし「仲節」のテンポを考慮しながらだ。松川・坂下からは登り勾配。タイム28分44秒。因みに復路は下りとあって25分05秒。
これらの話は「仲節」は、それほど長くゆったりした節であることを伝える余話として受けとめたい。
首里観音堂
「仲節」のチラシは「清屋節」
琉歌百景52[清屋節=ちゅらやーぶし]
あたい苧ぬ中ぐ 真白引ち晒るち 里があけず羽 御衣ゆすらに
〈あたいWUぬ なかぐ ましらふぃち さるち さとぅが あけずばに んすゆすらに〉
語意*あたい=屋敷内やそのごく近くにある畑。*苧=苧麻。沖縄語ではWU。繊維質の植物の皮のそれによって紡いだ糸。この歌の場合は芭蕉苧=バサーWU。*あけず=とんぼ。蜻蛉の古語。一般的にはアーケージュー。
歌意=アタイで植栽した芭蕉の繊維を真白に引き晒して糸にし、機〈はた〉に掛けて、愛しい夫、彼のためにトンボの羽のように薄く美しい着物にする布を織って差し上げよう。
正装用に織った芭蕉布は、どれだけ薄かったか。昔びとは「1厘銭かの穴から1反布が通った」と表現している。
芭蕉は熱帯アジア、アメリカ、アフリカなどが原産地。沖縄には繊維を採るリュウキュウバショウ〈糸芭蕉。俗に苧バサー〉、食用のバナナ〈実芭蕉。バサナイ〉のはかにサンジャクバナナ、マニラ糸芭蕉などが植栽されている。戦争もなく平和に治まっていた時代には、親戚筋や友人知人などの家庭に子や孫が生まれると、お祝いのしるしとして実芭蕉〈ミーバサー・芭蕉木=バサナイギー〉の苗を持参、屋敷内に植える習慣があった。バナナのように「ひと房に沢山の実がなりますように」という子孫繁栄の願いを込めたのである。「清屋」は、家庭円満、子孫繁栄。誇らしく幸せに満ち、見た目にも心やすまる清々しい家庭そのものをさしている。
教職あった平良景昭氏は、芭蕉布・藍染めの里として知られる大宜味村喜如嘉〈おおぎみそん きじょか〉がふるさと。一遍の詩を書いている。
糸芭蕉の柄は 白く冷たい 竹でしごいて 糸を引く
糸芭蕉の糸は ハーラ〈竹籠〉にためて ヤーマ〈糸車〉で紡いで 管に巻く
糸芭蕉の糸は 綛にみたして 機にとりつけ 筬に貫く
糸芭蕉の糸は ヒジキ〈横糸を通す小道具〉を通し 筬でたたいて 布を織る
糸芭蕉の袖は 黄トンボの羽 涼しい風が 吹いてくる
次号は2009年5月7日発刊です!
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