旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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言っていい事悪い事

2015-07-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「人の口には戸は立てられぬ」。「言いたい放題」「口だけなら首里城も建つ」。
 発言については「聞かなかったことにしよう」と、聞き流すことのできることと、そうはいかないこともある。
 沖縄の古諺。
 「聞かば聞ち所に捨てぃり=ちかば ちちどぅくるに してぃり」がある。
 あの人は、実はこうだそうな。この人は見た目とは異なり、外面菩薩内面夜叉なのよ!なぞと、とかく他人の欠点を真しなやかに吹聴したがる者が少なくない。それらは大抵、誤解や低俗な当てずッぽう、無責任な噂から発せられる(発言)がほとんどだ。下世話程度のことならば、笑ってすまされ、すぐに忘れるが、そのことで言われた人が著しく傷つくようなそれは、聞く側も心地よくない。そこで「聞かば聞ち所に捨てぃり」の考え方に切り替える。
 「人さまの悪い噂や真実かどうか定かではない不愉快ばなしは、聞いた場所に捨てよ。忘れよ。いつまでも心に留め置くと消化しない泥を体内に留め置くに似たり。精神衛生上よろしくない」としている。
 しかし、しかしである。
 聞き捨てならないこともある。
 6月26日。自民党本部で開かれた同党若手議員の勉強会における作家百田ナニガシの普天間基地に関する発言。
 「普天間基地の在所は、もともと無人の田畑地。米軍基地ができた後、儲けるために人とが集まってできた集落」
 「基地問題など日本政府の施策に批判的な地元新聞は潰してしまえ!」
 などの発言。その尻馬に乗って「テレビなどは広告料を封じ込めれば簡単に潰せる」とのたまう国会議員。「聞かば聞ち所に捨てぃり」を知っている沖縄人でも「聞き捨て」にはならないのである。一体、日本国をどうしたいがための(勉強会)だったのか。言いたい放題の(勉強)で、日本国はよくなるのだろうか。
 「ウルぬん手使いん=ウルぬん てぃーちかいん」を知らさなければならない。
 ウルは細かい砂、珊瑚の砂を意味する古語。沖縄の別名「ウルマ=珊瑚礁の島」のウルであり、鹿児島県与論島の観光キャッチフレーズ{パナウル=珊瑚の花砂の島}もそれである。また、宮古島には(砂川)と書いて(ウルカ)と称する地名も苗字もある。
 さて、「ウルぬん手使いん」だが。
 ウルのように、砂のように細かく小さく、取るに足りない(命)でも、その存在をないがしろにされると(命を守るために)古武術の空手を使い抵抗をするとしている。
 日米安保条約から見れば沖縄は「ウル」なのだろうか。日本国の最西南端に位置した沖縄は、中央からは(ウル)の位置づけなのだろうか。
 「沖縄からは東京は見えるが、東京からは沖縄は見えない」。
 またぞろ、そのことを実感する「言論の自由?」問題である。

 琉球国は明治政府によって(藩)に置き換えられ、明治12年(1879)4月4日「沖縄県」になった。以来、沖縄は他府県とは異なり、なにかと特別視されてきた。敗戦時から27年間は米国統治下に置かれアメリカ世を強いられ、日本復帰43年経った現在でも、それは色濃く持続している。国の中央とは、地方があって成り立っていると思うが、地方を無視した中央があっていいものかどうか・・・・。この理屈は稚拙に過ぎるだろうか。

 日本復帰間もなく詠まれた琉歌がある。

 ◇下ぬあてぃ上ん 成り立ちゅるたみし 下ぬ無ん上ぬ何役立ちゅが
 〈シムぬあてぃカミん なりたちゅる たみし シムぬねん カミぬ ぬやく たちゅが

 歌意=下人民があってはじめて、お上(政府)も成り立つ道理。国民を無視したお上が何の役に立つものか。たたないのである。
 さらに1首。
 
 ◇あたら我が沖縄 品物ぬ例ゐ 取ったい取らったい上に任かち
 〈あたら わがウチナー しなむんぬ たとぅゐ とぅたい とぅらったゐ カミにまかち

 歌意=愛する我が沖縄。日米にとっては品物同様のモノだろうか。極東の安全と平和のために米国統治下に置いたり、はたまた(沖縄が返還されない限り、日本の戦後は終わらない=佐藤栄作=と、取り戻したり、すべてお上任せ。沖縄の民意は完全無視。どこに自由と平和があろうか。
 この琉歌は当時、80歳の老女が詠んだものである。その老女は風狂の歌者・故嘉手苅林昌の母。彼もまた母親の詠歌の連作として、こう詠んでいる。
 
 ◇戦世ん終わてぃ 弥勒世が思みば 国ぬゆさゆさぬ果てぃや 無らん
 〈いくさゆん うわてぃ みるくゆが とぅみば くにぬ ゆさゆさぬ はてぃや ねらん

 歌意=沖縄戦も終結し、日本復帰も叶った。これからは平和の時代を迎える!と期待したものだが、それは見事に裏切られ基地の島化された沖縄。国はユサユサと揺れに揺れて、いまだキナ臭い!どうなることやら・・・・。
 主義主張は多々。言論の自由もあらねばならない。われわれも多角的な「勉強会」を開いて楽手しなければならない。そしてそれは、命を尊ぶことを根源とした平和希求の「勉強会」であらねばならない。ウルの小生が、ちょっと力み過ぎたか・・・・。外から飛行音が聞こえる。どこへ行くのか今日もオスプレイが北の方へ向かって飛んでいる。



夜遊びは非行のはじまりか?

2015-07-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「夜遊びは非行の始まりです。みんなで愛のひと声を掛けて帰宅させましょう」。
 ラジオ局によっても異なるようだが、午後6時15分ほど前になると、決まってこのアナウンスが流れる。陽はまだ明るく、遠くの瓦屋根の上のシーサーの姿も確認できる。近くの小学校の校庭では、にわかチーム対抗の野球が白熱!これからがクライマックスというところだが、校内放送が試合中止を促す。
 「よい子のみなさん。お家へ帰る時間です。お家の人が待っています。早めに帰宅しましょう」。
 野球は即座に中止。選手たちは敵味方こぞって後片付けに取り掛かる。実に統制のとれた行動だ。
 「なんと素直な子たちだろう」。
 私は例によって、ひとり問答をする。
 □陽はまだ高いのだから、もう少し遊ばせてやりたいな。
 ■いやいや、そうはいかないよ。近頃は子どもたちを巻き込んだ事件事故は多発しているし、親御さんたちは、子どもが帰宅するまで気がかりだろうからな。
 ■オレたちの少年時代の夏場。陽のある内に帰宅したことがあったかい?
 ■そう言えば・・・記憶にないな。早めに帰宅するとおふくろは、オレの額に手を当てて“風邪?”といい、なんでもないと判断すると“もう少し外で遊んでおいで“いま忙しいから”と背中を押していたものだがなあ。
 □夕刻、外で遊んでいる子は少なくなった。学校がすむと、その足で学習塾へ向かう子のほうが多い、校内放送に促される子たちは塾には行っていないのか。それとも行ってはいるが(野球の日)を意識的に設定しているのか。そうだとすると(子どもの世界)もせわしなくなったものだ。
 ■沖縄は子どもを含めて(夜型)と言われるが、是正されつつあるのかな。

 ここに沖縄タイムス社が実施した「子どもの健康アンケート」の調査の纏めがある。対象は就学前の幼児から小学生・中学生の児童生徒。アンケートは就寝時間、夜間外出、朝食、野菜摂取、登校方法などの生活習慣を聞く質問と自由記述の7問。228人から回答を得た。
 *子どもは夜9時までに就寝。
  はい=72人(32%) いいえ=156人(68%)
 *子どもを連れて夜8時以降に居酒屋やレストラン、スーパーに出掛けることが月1回以上ある。
  はい=71人(31%) いいえ=157人(69%)
 この②項目について識者は「沖縄の夜型社会を反映しているといえる」と指摘している。
 自由記述には時間管理に関する意見が多く「親は共働き、子どもは習い事や宿題で9時就寝は難しい」「帰宅後は風呂、夕食、宿題で精いっぱい」など、多忙な日程をやりくりするのに四苦八苦する家庭の姿が浮かび上がった。
 毎日、朝食を摂る子は98%。野菜を食べる子は90%と高く、夕食を家族と一緒に食べる子は68%だった。
 自由記述で最も多かったのは(食に関して)で、「野菜をなかなか食べてくれない」「お菓子の過剰摂取が気になる」など。
 徒歩登校している子は、54%。外で遊ぶ機会が減り、スマートフォンやゲームに熱中して、睡眠時間が減ったり、姿勢や視力が悪くなっていると懸念する声も多い。
 この「子ども健康調査」結果について専門家は、夜型社会の影響を指摘した上で、つぎのようにまとめている。
 「子連れで出掛けざるをえない人もいる。(こうあるべきだ)とお題目を唱えるだけではだめで、実行できない人にノウハウを伝えたり、支援するシステムをつくることが必要」。

 またぞろひとり問答。
 ○何時何分という時刻は全国同じでも、日の出日の入りに時差がある(夜間)をどう括ろうか?関東方面と沖縄では夏場は2~3時間。冬場は4時間ほどの時差があるという。
 ●夜型も仕方ない・・・・とは言わないが、子どもの世界は確かに大人顔負けの(ゆとりのなさ)だものな。ひところ論じられた(ゆとり教育)は、どうなっているのだろう。
 ○昨今のニッポンは(ゆとり教育)を推進する(ゆとり)を失っている。そこへいくと我らの少年時代はよかった!と言うより楽しかった。宿題は親や兄弟が手伝ってくれたし、夏の夜は「試胆会」と称する肝試し会やキジムナー遊び。冬の夜は拍子木を打ちつつ火の用心の夜回りもあったしな。
 ●それを言っちゃあおしまいよ。“昔はよかった”は禁句!禁句!若者たちに敬遠どころか嫌われる。
 ○子どもばかりでなく我ら爺にも、ゆとりがなくなった。楽しい夜遊びをしたいなあ。子どもたちにもさせたいな。

 人生を諦めたわけではないが時代は移った。
 平成2年生まれの青年に(昭和のはなし)をしたら「昔のことは分かりません」と返答された。
 なるほど。26歳には昭和は昔だ。唇が寒くなって口をつぐんでしまったことだが、かえって「夜遊びの楽しさ」を教えてくれた先輩たちの声と顔が懐かしく思える。この際、思いっきり夜遊びをして、飛行老年!不良老人になってやろうか。



うちなぁ口を学ぶ・沖縄

2015-07-01 00:10:00 | ノンジャンル
 各地の自治体、あるいは個人の(方言教室・講座)が開かれて、小・中学生から6,70歳までが懸命に受講している。県もまた9月18日を「しまくとぅばの日」と条例で制定。連絡協議会も立ち上げて普及に努めている。
 けれども、なぜ(うちなぁ口・沖縄方言)が、希薄になったのだろうか。
 言うまでもない。
 明治12年4月4日。琉球国・琉球藩から日本国の1県となった折り「共通語を日常語とすべし」という国の教育方針に始まると言えるだろう。それは沖縄のみにとどまらず、他府県も同様であった。各地方にあった日常語では、全国一律の教育に都合がよくない。そこで共通語励行をせざるを得なかったのだが、長い歴史の中で十二分にコミニュケーションが取れていた地方語を即、共通語に移行するのは至難。なかなか共通語は徹底されずに時代は流れた。
 「胴なぁ達ぁ 島ぬ言葉失いねぇー 親失なたしとぉ同むんどぅなぁたぁシマぬクトゥバうしないねぇー うやうしなたしとぉ ゐぬむん」。
 つまり、自分たちの地方語を失ったら、親を失ったのと同じだ!として、共通語励行に抵抗した御仁も実際にいたという。その地方の文化は、その地方語が育んだからだろう。また一方には、地方人は地方の言葉で語ったときに真に自由であると言い切った学者もいる。
 事実、沖縄では戦前まで「学校では共通語、家庭ではうちなぁ口」という習慣が昭和20年の終戦まで続いたのがほとんどである。学校教師や公務員などは例外かも知れないが・・・・。
 本土からきたある医師。うちなぁ口を知らず、共通語で診察したために、「くぬ医者ぁ 何んでぃが言ちょおら分からん、我ぁ病ぇや ゆくん悪しくなとぉーん。くぬ医者ねぇー掛かんなよぉくぬイサぁ ぬーんでぃが いちょうら わからん。わぁヤンメーや ゆくんアシクなとぉーん。あぬイサねぇーかかんなよぉ」。
 (この医者の話は、何と言っているかわからない。この医者にはかかるな!診せるな!)の風評が立ち(本日休診)を余儀なくされたという珍事もあった。

 戦後70年の歳月は徐々に共通語を推進してきている。
 大和世に蒔かれた共通語は、アメリカ世になって加速的に普及した。政治、経済、教育などすべてが共通語でなければならなくなった。それはそれで大いによいわけで、うちなぁ口に固辞していては沖縄の今があったかどうか。が・・・・ここへきて「うちなぁ口を復活させよう」と、県民は真剣に考えてきている。沖縄文化を語るときに、共通語だけでは伝わらないからだ。大和世、アメリカ世の歴史の中から、このことを学習したのも確かである。
 さかのぼれば、大和世になった明治にも共通語講習はいち早く実施されている。沖縄で「うちなぁ口」を習得するのではなく「やまとぅ口」を学習した。「会話伝習所」がそれである。

 ◇会話伝習所。
 廃藩置県の翌年。明治13年〈1880〉2月。教員養成が急務とされて県庁内に設置された。しかしそれは同年6月に創設された沖縄県師範学校に吸収されている。これは沖縄だけでなく、師範学校の設置に先立って他府県にも伝習所、講習所、養成所の名称で教員速成機関が設けられた。ただ沖縄の場合「伝習所」の上に「会話」を被せたところに特色がある。当時、沖縄には共通語を自由に話せる人がほとんどなく、まずは「会話」の「伝習」から始めた。これまでの琉球時代は、一部の王府官人を除いては、まったく「大和口」教育は成されておらず、その上、地域語が多く、それを是正するために「会話」から付けなければならなかったのである。入所、入学者は旧来の学校所(がっこうじゅ)に在籍した優秀な若者。「全国一律の教育を実施するにあたり、まず教員養成をすることを目的」に、県学務部職員が教師を務めた。
 教科書は、急遽作成した「沖縄対話」と称する1冊。内容の1部を見てみよう。

 ◇貴方ハ東京ノ言葉ガ出来マスカ。
 ◆ナカナカヨクハ話セマセヌ。
 ◇誰ニ御習ヒナサレマシタ。
 ◆此頃、伝習所デ習フテオリマス。
 こうした会話文を沖縄方言と対比させての学習。
 就学期間は4ヵ月だったが、新制度の学校教育の第1歩機関としては特記すべきではなかろうか。

 これはいま、沖縄語を共通語に訳して学習している。なにか妙な気持になるのだが・・・・100年前に失ったモノを復活させるには、やはり100年の、いや、それ以上の時が必要だろう。いまがその元年と言えよう。

 ◇大和口すしん 楽やあいびらん 御汝・我んしちょてぃ 暮らしぶさぬ
 〈やまとぅぐち すしん らくや あいびらん ウンジュ・ワンしちょてぃ くらしぶさぬ
 標準語励行の最中詠まれた琉歌である。
 歌意=いやはや、大和口を習って使うのも楽ではありません。これまでのように、方言で呼び合って暮らしたいものだ。
 世替わりは日常会話も替えてしまうということか。
 しかし、少なくなりつつあるが、沖縄各地の方言はいきいきとして生きて島びとの心を伝え交わしている。願わくば、いま少し復活させて沖縄を語りたい。伝えたい。