旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

琉歌百景・二揚五節その③

2009-05-28 17:03:00 | ノンジャンル
 琉歌百景62[二揚五節その③散山節=さんやまぶし]

 symbol7誠やか実か 我肝ふりぶりとぅ 寝覚み驚きぬ 夢ぬ心地
 〈まくとぅかや じちか わちむ ふりぶりとぅ にざみ うどぅるちぬ ゆみぬ くくち〉

 第二尚氏王統18代・尚育王〈しょう いく。1813~1847〉の冊封式が行われた1838年。重陽の宴で演じられた久手堅親雲上〈くでけんぺーちん。生没年不詳。ぺーちんは官位名〉作・組踊「大川敵討=おおかわてぃちうち。一名忠孝婦人」に用いられた歌詞。以来「工工四」に記載されている。したがって、歌詞の背景は「大川敵討」の筋立てと場面に通じなければ、歌意を理解するには遠くなる。主君を討たれた主人公は、妻子と離散の身。しかし、やがて妻子と出逢うことになるが、その場面で歌われる。
 語意*我肝ふりぶり=茫然としたさま。*寝覚み驚ち=起き際の予期せぬ衝撃。
 歌意=突然のこの出来事は本当に現実か。寝起きに衝撃的なことを知り、ただただ意識朦朧、茫然自失。夢の中をさまよっている心地。
 いささか意訳に過ぎるのは、小生の文章力の拙さ。乞う容赦。
 「散山」という節名すら、まだ理解していない。「算山」と記した記録もあり、伊江島の地名、奄美大島の地名など諸説がある上に恩納村恩納、久米島町字仲里、糸満市真栄平の祭祀歌「臼太鼓=うすでーく。うしでーく」にも「さんやま」の語があって、とかく難解を極めている。遊び唄にも「さんやま」をみることができる。



 琉歌百景63
 
 symbol7さんやまぬ胡弓小 あいん鳴る胡弓小 夜中から後どぅ ふきる胡弓小
 〈さんやまぬ くちょぐぁ ゆなかから あとぅどぅ ふきる くちょぐぁ〉

 語意*胡弓〈くうちょう〉。三線と共に中国から伝来した三絃楽器。全長約70㎝。棹は黒檀。黒木。胴は椰子の実などをくりぬいて作る。垂直に立て馬の尾毛を張った弓で弾く。*ふきる・ふきーん=〈小鳥が〉さえずるの形容。転じて歌う。
 歌意=遊び所サンヤマから胡弓の音が聞こえる。なんとよく鳴る胡弓だろう。しかもそれは夜半過ぎになると、音色いよいよ冴えて鳥がさえずるようだ。遊びこころをかき立てる。
 さらに奄美大島にも類似する1首がある。

琉歌百景64

 symbol7サンギヤマぬ胡弓小 一里から響ゆむ 一里から聞ちどぅ 我んや来おた
 〈サンギヤマぬ くちょぐぁ いちりから とぅゆむ いちりから ちちどぅ わんや きおた〉

 歌意=キミたちがサンギヤマで弾く胡弓の音は、一里先までよく響き聞こえる。その音色に誘われてオレは、一里の道をものともせずやってきたよ。歌遊びの仲間に入れておくれ。

 古老の話によれば、かつて毛遊び〈野遊び〉の楽器の主役は胡弓だったが、音色に華やかさがなく繊細なため、一方の自在に歌が乗せられる三線にその座をゆずることになったそうな。胡弓の哀調おびた音質がらしてわかるような気もする。
 


さて。
「散山節」は、肉親や極めて近しい人などとの惜別、死別を内容とする歌詞が多く、たとえ名人上手でも祝宴では歌ってはならないとされている。縁起に叶わない。
 また、演奏技術も容易ではなく、殊に節入り・思い入れの情感表現が難しい。「二揚五節は、古典音楽の花」とされながらも、まだ修行中の弟子たちは「干瀬節」「子持節」「仲風節=なかふう ぶし」「述懷節=しゅっくぇー ぶし」の4節は公に歌っても「散山節」は遠慮する。つまり、このひと節は「師匠たまし=師匠の領分。分野」として位置づけ、師匠に歌ってもらってそれを幾度も聞いて真髄を会得するようにしたという。歌三線も弾き歌えるからと言って、なんでもどこでも歌えばよいものではない。
 「散山」には「本=むとぅ。もと」の付く小曲がある。

 琉歌百景65[本散山節」
 
 symbol7近さ頼るがきてぃ 油断どぅん するな 梅ぬ葉や花ぬ 匂いや知らん
 〈ちかさ たるがきてぃ ゆだんどぅん するな んみぬふぁや はなぬ にうぃや しらん〉

 語意*たるがき=頼みにすること。
 歌意=最も身近にあるもの。すぐ手の届く所にあるからと安心、あるいは当たり前にあるからと頼り切って油断してはならない。たとえば、梅の葉は花とひとつ枝にありながら、花の咲くころは散り落ちて、香しい匂いを知ることができない。今あるうちに己の行く末を見極めよ。
 会者定離の仏語から“何時までもあると思うな親と金”の俗語まで、あらゆることに通ずる教訓歌。


次号は2009年6月4日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com




琉歌百景・二揚五節その②

2009-05-21 17:34:00 | ノンジャンル
 琉歌百景60[二揚五節その②子持節=くぁむちゃーぶし]

 symbol7誰ゆ恨みとてぃ 鳴ちゅが浜千鳥 逢わんちりなさや 我身ん共に
 〈たゆる うらみとてぃ なちゅが はまちどぅり あわん ちりなさや わみん とぅむに〉
 歌意=浜千鳥よ。誰を恨んで鳴いているのか。お前も親鳥とはぐれてしまったのか。寂しかろう。つれなかろう。その悲哀は私も同じ。愛しい人に二度と逢えない身なのだ。共に泣こう。
 「愛しい人」を「恋人」と解釈する向きもあるが、一方にはこの場合「愛児」を指し、その愛児を失った親の心情を詠んだとするのが定説化している。恋歌が「子持節」では違和感があるというのが「愛児節」の理由のひとつと聞いている。

 sakura挿話その①
 昔、大里間切与那原村〈現与那原町〉に、屋比久〈やびく〉某という「子持節」をよくする歌者がいた。これを伝え聞いた琉球音楽中興の祖・知念積高〈ちねん せっこう〉は、弟子を引き連れて屋比久を訪ねて謡いを所望した。屋比久は承知したものの、なかなか三線を取ろうとはしない。それどころか、つと席を立つと一刻・・・・姿を見せない。やがて知念の前に戻った屋比久は、悲痛な面持ちで「子持節」を歌った。切々とした歌声は悲哀感を通り越して、鬼気せまるものがある。歌い終えた屋比久に、知念は言った。
 「貴公は聞きしに優る名人だ」
 すると屋比久は、顔を伏せたまま言った。
 「大師匠に対し、先ほどは無言の中座をお許しください。実は私奴、過日に年端もいかないひとり息子を失いました。子持節の所望を受けて愛児のことが思い出され、失礼を省みず、先ほどは、居たたまれなく墓参に行ったしだい。平にお許しを・・・・」
 そのとき、屋比久が三線に乗せた歌詞は次の1首だったという。

 琉歌百景61

 symbol7我謝とぅ与那原ぬ 浜に鳴く千鳥 聞きば面影ぬ まさてぃ立ちゅさ
 〈がじゃとぅ ゆなばるぬ はまになく ちどぅり ちきば うむかじぬ まさてぃ たちゅさ〉
 我謝は与那原と隣接する地名〈現西原町〉。この一帯の東は遠浅の海。千鳥をはじめ、渡り鳥の飛来地として知られている。
 歌意=我謝や与那原の浜に夜な夜な鳴く千鳥の声を聞くにつけ、もう二度と逢えない人のことが偲ばれて悲しい。
 まさに屋比久の境遇そのもの。彼の熱唱が真に迫ったのは無理からぬこと。以来、知念積高は弟子たちに言い聞かせた。
 「思い入れのない歌唱は、仏作って魂を入れずの類。よくよく心得よ」

 sakura挿話その②
 知念積高〈1761~1826〉は無系の平民だったが、首里の古典音楽家豊原朝典〈とよはら ちょうでん。1740~1803〉に師事。歌三線に卓越した才能を発揮して公式の場でその技能を披露した。そのことに対して王府は[歌氏=かうじ]の家譜を与えている。期待に違わず知念積高は研鑽を重ね[知念流]を名乗るまでに至る。さらに知念積高はそこにとどまらず、安富祖正元〈あふそ せいげん。1785~1865。後の野村流の祖〉を育て、古典音楽の奥義を伝授して琉球音楽を確率した。なお、古典曲163節を芭蕉紙に記した「工工四」を残したとされるが、その所在は明らかではない。
 その知念積高が修行中のころ、家の営みの一切は妻に任せて、自らは歌三線ひと筋の日々を送っていた。家計が楽なわけがない。妻は日を夜につないで糸を紡ぎ、布を織って糊口をしのいでいたが、我慢も極に達したかして夫積高に言った。
 「いかに歌三線の名が上がったにしても、暮らしの足しにはなりません。いま少し暮らし向きを考えていただけませんか」
 妻の言い分の正しさを十分承知しながらも積高は、ひと言も言葉を返さず、おもむろに愛用の三線を取ると歌い出した。
 symbol7誰ゆ恨みとてぃ 鳴ちゅが浜千鳥 逢わんちりなさや 我身ん共に
 「子持節」である。その歌声は朗々と切々と何時もより思い入れが深い。魂を奪われた妻は思った。[この人は、生来の歌者なのだ。それに気づかず愚痴をこぼした妻としての自分が恥ずかしい]。そして、言った。
 「あなたは歌の道に生まれついているのです。暮らしのことは懸念なさいますな。私が何とでもしましょう。あなたは歌三線ひと筋に精進なさいませ」
 この内助の功があって、知念積高は第一人者になった。

 【蛇足】
 名人達人には、こうした挿話が生まれる。いい気になった私は、我が側近の者に何度かこの挿話をするのだが[男の勝手な理屈]とでも思っているのか、まるで耳を貸そうとはしない。現代には、山内一豊の妻・知念積高の妻は、もう存在しないということか。
 話を戻そう。

 「子持節」は、殊に思い入れを第一とするだけに、田里朝直〈たさと ちょうちょく。1703~1773〉作・組踊「大城崩=うふぐしく くじり」では、7句も繰り返す、つまり連句が用いられていて、これを「長子持節」と称している。“我謝とぅ与那原ぬ”の上句は、ここから出ている。



次号は2009年5月28日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


琉歌百景・二揚五節

2009-05-11 20:38:00 | ノンジャンル
 「二揚=にあぎ」
 三線の調絃の基本【本調子】の中絃〈なかぢる〉を1音揚げた調子である。洋楽的音階にすると、本調子の解放絃の音は男絃〈WUぢる〉、中絃〈なかぢる〉、女絃〈みーぢる〉順にド・ファ・ド。二揚調子はド・ソ・ドになる。野村流工工四=くんくんし=上中下巻及び拾遺集204曲中、二揚節は主に下巻と拾遺集に多く38節ほどある。
 その中でも「二揚五節=にあぎ いちふし」は【古典音楽の花】と称され、殊に劇構成の芸能・組踊に多用されている。心理描写を必要とする組踊では「二揚」に乗せた歌詞が台詞同様、語るがごとく謡われ、場面を盛り上げるからだ。俗に組踊は「観に行く」のではなく「聴きに行く」と言われるのは、このことに理由がある。また、歌う人の声質や表現力によって、それぞれの個性が味わえるのも「二揚五節」の特長と言える。

 琉歌百景57[二揚五節その①干瀬節=ふぃし ぶし]
 symbol7里とぅみば何故でぃ いやで言み御宿 冬ぬ夜ぬゆしが 互に語やびら
 〈さとぅ とぅみば ぬゆでぃ いやでいゅみ うやどぅ ふゆぬゆぬ ゆしが たげに かたやびら〉
 琉歌の基本体八八八六音ではなく、八八八八音になっていることに気づく。これは玉城朝薫〈たまぐすく ちょうくん=1684~1734〉作・組踊「執心鐘入=しゅうしん かにいり=一名・中城若松=なかぐしく わかまち」の中で用いられたからだ。
 中城間切安仁屋村〈なかぐすくまぢり あにやむら〉から首里への道中、夜陰に迷った主人公若松は、ある一軒家に一夜の宿を頼む。そこには、女ひとりが住まいしている。美少年若松に魅せられた女は夜中、若松に言い寄った。
 歌意=〈あなたは、近隣に聞こえた評判の高いお方〉。何故に一夜の宿乞いを“嫌”と断りましょうや。どうぞ心置きなくお泊まり下さい。そして、長い冬の夜もすがら互いに語り合いましょう。
 ところが、ウブな若者は女の求愛を振り切って宿を出て、首里郊外・末吉の寺に逃げ込む。なおも追いすがる執念は、遂に女を鬼に変えてしまう。最終的には、寺の座主の法力に救われるが、げに恐ろしきは女の執念を描いた物語である。「執心鐘入」の上演以降、この歌詞が表立っているが節名にもなっている、つまり「本歌」とされる詠歌がある。場所は海浜。深更まで語らう男女が、別れの時を惜しむ1首がそれ。


 琉歌百景58
 symbol7干瀬に居る鳥や 満潮恨みゆい 我身や暁ぬ 鶏どぅ恨む
 〈ふぃしにWUる とぅゐや みちす うらみゆい わみや あかちちぬ とぅゐどぅ うらむ〉
 語意*干瀬=海岸の岩礁。満潮時には波に隠れる。
 歌意=干潮時に羽を休めた海鳥だが、満潮になると飛び立たざるを得ない。寄せる波が恨めしいに違いない。わたしが恨むのは、ふたりの逢瀬の別れを促す暁の一番鶏。なんと無情な・・・・・。
 曲節が哀調を帯び切々としているため、他にも「干瀬節に適している」とされる歌詞が50首余りある。詠歌の心得のある文人、粋人たちは恋や物の哀れを主題に「干瀬節に適した歌」を好んで詠んだということだろう。また、現代の声楽家もそれぞれ、その時・その場に適した歌詞を選んで熱唱している。野村流古典音楽協会師範・人間国宝島袋正雄氏は、次の1首がお好みのようだ。



 琉歌百景59
 symbol7とぅてぃん思み切らば ままなゆみ二人 一期義理ぬ上に 居らじゆいか
 〈とぅてぃん うみちらば ままなゆみ ふたゐ いちぐ ぢりぬうぃに WUらじゆいか〉
 語意*とぅてぃん=いっそのこと。*まま=自由。ままなゆんは〈男女が〉縁を結ぶこと。恋愛の自由が認められなかった昔、それに反発して一大決心を告げる男の心情を詠んでいる。
 歌意=いっそのこと!思い切って一緒になろうではないか。義理や観念に縛られた一生を過ごすよりは、不義と言われても愛をまっとうしよう。

 また、野村流古典音楽保存会師範・玉栄昌治〈1920~2007〉氏は、次の歌詞をよく歌った。

 item1情あり童花ん一盛ゐ 散りてぃ後求める 人や居らん
 〈なさきあり わらび はなん ふぃとぅぢゃかい ちりてぃあとぅ とぅめる ふぃとぅや WUらん〉
 語意*童=この場合、若い女性。乙女。*とぅめる=探す。求める。
 歌意=花の乙女よ。情愛を尽くしておくれ。咲き乱れる花々にも時節があるように、若いときは短い。散った花を求める人はいない。乙女花に浮かれて無駄に散らさないよう心得たほうがよくはないか。
 一見、説教風にも受け取れるが、今風に言う内向的な[告白]と解釈したほうが「干瀬節」的と思える。歌詞の選び方にも表現者の性格がうかがえて興味深い。

次号は2009年5月21日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


琉歌百景・大昔節五節その⑤

2009-05-04 20:18:00 | ノンジャンル
 琉歌百景53[大昔節五節その⑤十七八節=じゅうしちはちぶし]
 symbol7夕すじみなりば あいち居らりらん 玉黄金使ぬ にゃ来ら思みば
 〈ゆすじみに なりば あいち WUらりらん たまくがに ちけぬ にゃちゅら とぅみば〉
 語意*夕すじみ=夕間暮れ。黄昏。*あいち=不安感。心穏やかでない様。落着いておれない様子。*玉黄金使=大事な使者。これらの語意には諸説がある。
 歌意=夕間暮れになると心穏やかでいられない。お迎えを知らせる大事な使者が、もうすぐ来ると思えば・・・・。
 仏教的悟りの心境を詠んだとされる。したがって[夕間暮れ・黄昏]は人生の終焉を実感、あの世からのお迎えを深く意識し、いささか不安を覚えながらも、極楽往生を信じる老境を詠んだとされる。節名の「十七八」は年齢ではなく、浄土三部経の中の仏説無量尋経・巻上[弥陀四十八願]中の「十七願・十八願]のことと言われる。
 浄土宗と真宗には、四十八願から成る「無量尋経」があり、すべての人々を極楽浄土に導く仏典としている。
 十七願=たとゐ、われ仏となるを得んとき、十方世界の無量の諸仏ことごとく咨嗟〈しさ〉して、わが名を称えずんば正覚を取らじ。
 意訳=仏に導かれてその世を得たとき、計り知れないほど、すべての仏はため息をついて嘆く。したがってその際、弥陀の名を称えよ。そうしなければ悟りを開くことは叶わない。
 十八願=たとゐ、われ仏となるを得んとき、十方の衆生、至心に信楽〈しんぎょう〉して、わが国に生れんと欲して及至十念せん。もし生れずんば正覚を取らじ。
 意訳=仏に導かれてその世を得たとき、四方八方そしてあらゆる方角ある者、極楽を望むならば十念称名・南無阿弥陀仏を十回称えよ。もし、仏界に生まれなければ正しい悟りは得られない。信ずることが生であり死である。
 つまり、仏心を知れば死は恐れるに足りないということだろうが、浅学の小生には、これ以上の意訳は荷が重過ぎる。
 また、この節は仏縁歌ではなく恋歌とする説もあり、いまなお研究者の間で議論されている。チラシは[本花風節]

  

 琉歌百景54[本花風節=むとぅ はなふうぶし]
 symbol7三重城に登てぃ 打ち招く扇 またん巡り来てぃ 結ぶ御縁
 〈みぐしくに ぬぶてぃ うちまにく あうじ またん みぐりちてぃ むしぶ ぐゐん〉
 三重城〈みーぐしく〉は、那覇の西・那覇港の北岸西端にあり、1554年に建築された屋良座森城〈やらぢゃ むいぐしく〉に遅れて建築されたため「新城=みーぐしく」の意味も兼ねている。居城ではなく、近海を往来する外国船の監視など、港湾の治安を守る砦の役割を果たした。近年は遙拝所、あるいは出船入船の送迎場として那覇の名所となっていて、いまに続いている。かつて船送りの人たちは手に手に飾り扇やティーサージ〈手布〉を持ち、頭上高く打ち振り、船上の人を見送った。昔の船旅は風頼みの帆船。天候によっては、そのまま長の別れになるかも知れない危険を伴う。首里那覇では「ミッチャぬ祝=三日の祝」と称し、船出から3日目に旅の無事を祈る宴席を設けたくらいだ。
 歌意=三重城に登って扇を振り、手招きの所作をするのは、別れを告げているのではない。いずれまた、無事に帰還して、これまでのように縁を結ぶことを切望するからである。
 「十七八節」のチラシに「本花風節」を置いたのは「いま、この身は世を去ろうとも、再び生まれ変わって愛する人と縁を結ぼう」という想念を、死出の旅の船出に例えたとされる。かつての音楽家たちは「十七八節」を仏典歌と位置づけて脈絡したのではなかろうか。
 俗語にも「十七八節」がある。

  

 琉歌百景55 
 symbol7十七八頃や 夕間暮どぅ待ちゅる 夕ん暮りてぃ給ぼり 我自由さびら
 〈じゅうしちはちぐるや ゆまんぐぃどぅ まちゅる ゆんくりてぃ たぼり わじゆ さびら〉
 歌意=十七八の年頃は毎日、日没を待ちかねる。太陽よ、早く西の海に沈んで下さい。暗くなったら、われら若者の自由の天地。心行くまで遊びたい。
 また、「花風」にもジュリ小風と呼ばれるひと節がある。

 琉歌百景56
 symbol7三重城に登てぃ 手布持ちゃぎりば 走船ぬ慣れや 一目どぅ見ゆる
 〈みぐしくに ぬぶてぃ てぃさじ むちゃぎりば はやふにぬ なれや ちゅみどぅ みゆる〉
 歌意=愛しい人が海路、旅に出る。慣例通り三重城に登り手布を振って見送りをしたことだが、別れを惜しむ私の想いとは裏腹に船出は遠く、彼の姿は一目、あっという間に
沖合に出て、そして見えなくなった。あゝ、なんと切ないことか。
 本来、宮廷で歌われたこの歌が、歌詞を変えて遊郭で大はやり。宮廷音楽を重んずる古典音楽家たちは元歌を「本花風節」、流行り歌を「ジュリグヮー風=遊女風」の「花風」と区別したという俗説がある。

次号は2009年5月14日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com