旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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嘉例吉・嘉例=かりゆし・かりー

2019-06-20 00:10:00 | ノンジャンル
 場所がどこであれ、宴の大小にかかわらず(座開き)の折りは、それなりに(飲み方始め!)の乾杯をする。
 音頭取りをするのは座の中の長老格か幹事の役目である。結婚披露宴のプログラムにも、仲人挨拶のあとは決まって(乾杯の発声)が組まれている。また、乾杯の発声を依頼された人は「人徳が認められた」として、滅多なことでは断らず、むしろ、歓んで引き受ける。嘉例吉事(かりゆしぐとぅ)だからだ。

 縁起がよいこと。また出来ごと。めでたいことを意味する「嘉例吉」は、古くから重んじられている習慣儀式。
 「かりゆし」という言葉に「嘉・例・吉」の漢字を当てたのは明治以降、沖縄学をよくする先生方で、沖縄独特の熟語と言われている。
 「かりゆし」を略して「かりー」なる言葉が日常、よく使われているが、「かりゆし・かりー!」を用いた言葉もいろいろ。

 ◇かりー付き(じき)。
 *特に祝い事の座に徳を付ける場合は歌三線・踊りの登場となり、沖縄の祝歌「かぢゃでぃ風節」の演奏・踊りで座開きとなる。その場合、それまで雑談していた参列者もピタリと私語をやめ、姿勢をただして、歌踊りに耳、目を傾ける。実に厳粛な瞬間である。
 今時の結婚披露宴でも、流行りのディスコティックな音楽で入場した新郎新婦が雛段に着席すると、ここだけは古式にのっとって親族や新郎新婦の友人たちが嘉例歌「かぢゃでぃ風節」を演奏し、踊る。これまでの慣例をきっちりと継承しているのは、微笑ましくも思える。それらを「かりー付きーん」という。この儀式に参加する者もまた、名誉なことと自認し、後々までの自慢、冥加にするあたりも嬉しい。

 ◇かりーなムン(物・できごと)。
 *他人にとっては大したモノではなくても、当人には何モノにも代えがたい宝物がある。これが「かりーなムン」である。
 40歳には三つ四つととどかない友人の女性。長男が5歳になった10月10日の名は大綱曳きの際、長男を連れて見学に行った。子ども連れのこと。大綱の中央では「子どもにとっては危険が伴う」と、東西に分かれてひく、東方に組して末尾を引いた。子どもが汗みどろになって引いたおかげで、東方が勝った。
 綱引きの後、大綱の枝綱(ゐだじな)を持ち帰れば(かりーが付く)と親から聞いたことを思い出し、彼女も5本ほどの(枝綱)をいまもって子ども部屋に保管しているという。たかだか、いや、持っていても何の使い道もない(藁くず)を捨てられないでいるのは豊年を祈願して引く大綱の枝綱のおかげで「息子も息災に育つ」との思い入れがあるからだろう。それが「かりーなムン」である。
 かく言うボクの部屋の本棚の横に額を入れた琉歌の文字がある。
 『名護親方いろは唄より』
 {年ぬ寄てぃてぃやゐ 徒に居るな 一事どぅんすりば 為どぅなゆる
 七十三祝の記念として、宮城嗣周師の自筆。
 (とぅしとぅたん てぃやい いたじらにWUるな ちゅくとぅどぅん すりば たみどぅなゆる

 訳=もう年だっ。何の役にも立たないっと決めつけて、日々を徒に生きてはならない。歳は歳なりに、自分が出来ることの一つも成せば、なんらかの(為・益)になる。
 宮城嗣周師はRBCiラジオの番組「ふるさとの古典」を22年間にわたり解説担当をなさった方で、不肖のボクに多くのことを教授して下さった恩師のひとり。師が73歳の成年祝いの折り、自らしたためて参列者に配られた書。「最近、歳のせいで仕事の手抜きをしたくなる」場合、目の前の1首というより、宮城嗣周師が「フユーするなっ=ずぼらをするなっ」と、叱責されているようで、気を引き締めることしばしば。この書もボクにとっては「かりーなムン」と言えなくもない。

 褒め言葉にも「かりーなムン」はある。
 昔は新築祝いでも嘉例吉を祈願して「かりー歌」を詠み、墨痕鮮やかに書いて縁起物とし贈った。家褒めの1首。

 『何時んくぬ宿や 嘉例吉どぅやゆる 子・孫でぃきてぃ 笑い福ゐ
 (いちん くぬやどぅや かりゆしどぅ やゆる くぁ・んまがでぃきてぃ わらいふくゐ

 訳=いつもお宅様はいいことずくめ。子や孫も優れ者に育ち、笑い声が絶えない。嘉例吉いっぱい。福々しいかぎりで羨ましい。

 原稿を書く手をゆるめて、ふと机の上に目をやると孫の女児がみどりの色紙で折った(鶴)が一羽。去年の敬老の日のプレゼント。外は雨である。


かやぶき・煉瓦・コンクリート

2019-06-10 00:10:00 | ノンジャンル
 近くの小学校に行ってみた。
 別段、用があってのことではないが、校庭から聞こえる児童たちの野球をしている歓声に引き寄せられてのこと。
 しばらくゲームの進行にこちらまで一喜一憂しているうちに気付いたことだが、グラウンドが立派なこと。校庭を囲むように建つ校舎の立派なこと。
 ボクらのころと言えば終戦直後のことで、まず、露天にはじまり、茅葺の即席教室に変わり、瓦葺の教室に入ったのは、中学校1年生になった時だった。もちろん、全校舎が瓦葺だったわけではない。依然として茅葺校舎も残っており、それを誰言うともなしに「馬小屋教室」と称していた。
 戦前からそうだったわけではない。コンクリート、煉瓦も導入されていた。

 沖縄で始めてコンクリート建築がなされたのは、大正13年(1924)の金武村(現・町)金武小学校校舎と大宜味村役場であったと(県史)にある。
 設計、建築指導にあったのは、国頭郡役所建築技手・清村勉。
 県庁役人もコンクリートの建物を見たことがない人が多く、わざわざ模型を作り、コンクリート建物の特性を説明。白蟻や台風被害に対する耐久性などを強調して、建築許可を得たという。
 しかし、一部地域住民から4角形のコンクリート建ては、大型の(お墓)に見えたかして「子どもたちを墓の中に閉じ込めるのは、如何なものかっ」と、建築反対の声も上がったという。
 今日のように生コンクリートもなく、ブロックもない時代のこと。砂とセメントをかき混ぜる作業から、手押し車での運搬、バケツによる流し込みなど、すべて人力により完成をみた。この金武小学校は当時、現在の宜野座村にあり、大宜味村役場とともに「珍しい校舎、役場が落成したそうな」と、近隣からは手弁当を持って(見学)にくる人も多かった。

 大正13年には煉瓦建ての校舎も登場する。
 沖縄に教育制度が施行されたのは明治13年(1880)のこと。
 島尻郡に10校、首里に3校、伊江島に1校が設立された。
 小禄間切(現・那覇市)では、小禄尋常小学校が開校をみているが、「織物の里」として知られる地の利を活かして同地特産の琉球絣(染織、織機等)を婦女子に継承させるべく、実業補習学校を小禄小学校の敷地内に設立を計画。同校は明治41年(1908)、糸満村(現・市)をふくむ15ケ村の(組合立)となり「島尻郡女子工業徒弟学校」と改称、実績をつんできたが、組合が解散の憂き目をみて「小禄村立女子工業学校」を名乗ることになった。
 このころから(手に職を持つ)女子の意識が高くなり、工業学校は、女学校とともに各地の女子の(憧れ校)になり、社会的にも認知されるようになる。
 それに伴い恒久校舎建設を計画した行政は、煉瓦の先進地である台湾に関係議員団を派遣して調査。遂に大正13年、総工費5万円をかけて、赤煉瓦2階建てを完成。これが沖縄における初の(煉瓦造り)。
 ちなみに煉瓦は沖縄刑務所入所者が焼き、セメントは「浅野セメント」を使用したと県史にある。

 あのころ新築ともてはやされた学校施設はじめ、ほとんどの建造物が老朽化して改築、新築がなされている。一般の住居もまたしかりである。
 終戦直後の我が家は、まず、捕虜収容地のひとつ石川市(現・うるま市)の1区5班に落ち着いた。同地の茅葺の旧家を半分に仕切り、これまた戦火に追われて同地に着いた(幸地さん一家)とともに住いしていた。
 そのころのことを歌った「敗戦数え唄・一名石川数え唄」の中でも、『戦争が終わってアメリカ世になった。交通もトラック、ジープ、バスなどが走って、那覇との往来も便利になった。軍作業にも就き易いし皆、県令に働いてコンクリート建て、ブロック家屋も建てましょう。造りましょう』とある。軍作業とは、米軍基地で働くことだが、中でも基地づくり、建築現場に派遣された者は(儲け頭)とされ、いち早く自分の家を持つことができた。なにしろ、ベニヤ板、2×4角材、ノコギリ、ハンマー、釘などかが(戦果)として入手できたからだ。当時、もてはやされた職業は1位に軍用トラックのドライバー、2位に通訳、3位にメスホール勤め(軍用食堂)、4位にPX(軍用酒保・軍用売店)と順位付けられた。
 儲け損なったのは文化人、教職員。生き方として常識を逸脱することを成すわけにはいかないから、米軍基地の物資を無許可で黙って持ち出す(戦果上ぎやー・無断持ち出し)になれなかったせいだ。
 事実「娘を嫁にやるなら通訳かトラックドライバー」という言葉が公然と言われた時代だった。

 いま、学校の外から見る校舎のみならず、教育施設も最新機材を導入して、充実していると聞く、嬉しいかぎりである。
 
 小学校に立ち寄っただけなのに、ボクは時間を逆回しして遠いところまで住ってしまった。(帰ろう)。野球に熱中する子どもたちの元気な声は、まだ続いている。


せっかち・のんびり

2019-06-01 00:10:00 | ノンジャンル
 例えば「急がば回れ」という。沖縄口で言えば「急じゅる中、ようんなぁ=いすじゅる なぁか ようんなぁ」というところか。
 「急がば回れ」。なにごとも急ぐあまりに見落としがあったかしてしくじりをする例がすくなくない。したがって、少しぐらい遠回りしても安全な道を選んだほうが、結局は早く目的地に着き、得策であるとしている。
 このところ高齢者による交通事故・それも死亡事故が多発している中「わたしは事故を起こしたことがない」と自慢する古女房に、「はいはい。あなたは運転上手です。念には念を入れよで、どんなに急いでいても近道を走れ」と注意する。けれども、運転免許を取得していない夫が言うのだから、いささか説得力に欠けるきらいがある。

 「ようんなぁどぅ いすじゅんどぉっ」。
 少年の頃、学校が近場にあったことが災いして、登校時間ぎりぎりまで寝坊をし、飛び鳥があとを濁すようにして家を飛び出す折りに、背中を追ってきたおふくろの金切り声である。
 (急いでいるからこそ、ゆっくり(注意をして)ゆっくり行くのよっ)
 実際に登校下校時の交通事故が取り沙汰された時代で「もろもろのことから児童生徒を守ろうと「沖縄子どもを守る会」が結成された。

 急ぐ。
 大抵のことは急いではならないが、どんなことにも例外はある。ひねり過ぎとも思われるがギリシャには次の諺がある。
 『急いでよいのは三つだけ。死者を葬ること、客に扉を開くこと、娘を結婚させること』。
 死者を葬ることを急ぐ。未練・名残りを惜しむのは人情だがそうはいかないのが亡骸の始末。二つ目の「客に扉を開く」は、玄関に訪問者のチャイムがなる。家人は「は~い」と返事をしながらも、髪を整えたり、口紅を気にしたりして訪問者を待たせることがある。急ぎべきはまず、ドアを開けること。待たせては失礼にあたるだろう。また、娘はぐずぐずしていると嫁に行きそびれることがあるとして、この三つを「急ぐべきこと」としているようだ。
 一般的にはものごとは急いでなすべきではない事例が多いが、場合によっては急いだ方がよいことを具体的に示して、いわゆる(物尽くし)に近い形で意外なモノを並べて印象を強めたものと思われる。
 同様に急ぐことを戒めながら、急ぐべきを指摘した(諺)も諸外国にはある。

 ◇『急いでいいのは疫病と喧嘩から逃げることと蚤をとる時だけだ』。
 ◇『急いでよい時はないが、蚤を潰す時と他人の女房と寝る時だけは別だ』。

 人の性格も「せっかち・のんびり」の型がある。
 ボクといえば、どちらかというと「せっかち」のほうだろう。殊に「待ち合わせ」に弱い。5分や10分までは、イライラしながらも時間を刻めるが、それ以上は待てない。「コーヒーでも飲みながら待てばいい」と、簡単に遅れた相手に言い訳されるが、これがまたイライラを増長させる。厄介な性格だと反省もするのだが・・・・。友人はこれをさして「イライラは早死のもとだよ。のんびり行こうよ」と諭してくれる。けれども、なかなかその理屈にはついていけない。

 諺は得てして急ぐことに否定的だが、緊急の場合は当然別であり、他人がどうなろうとかまってはいられない場合もあるにはある。そうした事態をなるべく避け、集団のまとまりを保つためには、いつも「のんびり」を決め込んでいるわけにもいかない。「早いモノ勝ち」なる慣用句も活用しなければならない。
 『延びてぃ徳取り=ぬびてぃ とぅくとぅり』も心掛けなければならない。
 性急に結論を急がず辛抱も肝要。「待てば海路の日和あり」に類似するが、人さまを追い込まず、その人がいい方策を導き出すまで気長に待ってやれば結果的に自分は徳(人徳)を得ることになるとしている。
 人の性格をひと言で表現する場合、「あぬ人ぉ延びぬ有ん」「くぬ人ぉ延びぬ無ん」と言う。この場合の「延び=ぬび」は「気持ちの余裕」を意味し「気持ちに余裕がある人かない人かの判断ことばとする。

 待て。
 例によってまたぞろ、したり顔して、無い蘊蓄をとうとうと述べているのは、外は雨・・・。外出には適さないから部屋で「のんびり」を決め込むしかないせいだろう。沖縄は梅雨の最中。沖縄には「露=ちゆ」という言葉はあっても「梅雨」に当たる方言がない。梅雨入りを「雨ぬ節入り=あみぬ しちいり」としている。
 ふとガラス窓をみると親指ほどのチンナン(蝸牛)がお腹で這っている。「どこからどのようにしてボクの目の丈まで這い上がってきたのだろう?」じっと観察していると「せっかち」が引っ込み「のんびり」が心のそこいらに居座っているのに気付いた。とたんに大きな欠伸が出た。その息をガラス戸の向こう側のチンナンにかけてカーテンを閉めた。