旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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連載・うたを描く=琉歌百景

2019-12-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「ヤッチー。琉歌を選定、もしくは詠んでください。版画で表現してみたいのです」。
 いつのころからか、ボクのことを「ヤッチー」と呼んでくれる画家・版画家名嘉睦念が言い出した。それはほんの雑談の折りだった。ものごとに乗り易い小生。
 「いいね、いいね」と、軽く同意したのがことの始まり。。半年も前のことになるか。小生は(軽く)だったが、彼は思いのほか(重く)とらえていて、そうそうに沖縄タイムス社編集局に持ち込み、連載を散りつけてきたのである。
 「琉歌をどう版画にするのか?」
 小生は小生で生来の(意地悪心)を疼かせて、内面描写の三八六を選び、数月分を書き、彼に渡した。そしてそれが具体化して、令和元年10月20日の連載開始となった。「瓢箪から駒」と言っては沖縄タイムス、名嘉睦念に対して失礼に当たるが、軽い気持ちでやらかした所業。けれども初めてみると、(なまはんかなことではない)ことに気づき、気合いを入れて取り組まなければならないと、考えを改めている。
 沖縄タイムス社及び名嘉睦念の了解を得て、掲載分を転載させていただくことにする。

 ※うたを描く『琉歌百景』。文・上原直彦。絵・名嘉睦念。その①。「やさしくなれる時間」。

 『誰が宿がやゆら 月ぬ夜ぬゆしが 弾くや三線ぬ 音ぬしゅらさ
 《たが やどぅがやゆら ちちぬゆぬゆしが ふぃくや さんしんぬ うとぅぬ しゅらさ

 月に誘われて散歩に出てみた。すると、どなたの住居か知らないが、三線の音が漏れ聞こえる。夜もすがら・・・・。つと立ち止まって耳を傾ける。吹く風よし。月の灯りよし。三線の音色よし。なんとも奥ゆかしく、その場を立ち退くことができなかった。
 漏れ聞こえる三線は一丁だったに違いない。複数丁ではにぎやかに過ぎる。では、奏でている歌・節は何か。古典音楽の「諸屯節=しゅどぅん」か、二揚りの「五節」か。島うたならば「下千鳥節」「なーくにー」「とぅばらーま」「伊良部とーがにー」などなどだろう。カチャーシー類では漏れ聞く人の歩調も速くなり「月に誘われて・・・」の情緒が薄くなるだろう。
 一般的に月を意識するのは「秋」とされるが、どうしてどうして、沖縄の月は四季を通して清かだ。
 ただ昨今は世の中が多種多様であるせいか「夜空を眺める」よりは「ウンチントゥー=うつむいて」していることのほうが多いような気がする。
 月夜は人をやさしくしてくれる。小生のようなガサツな男でも夜、ちょっと風を通そうとガラス戸を開ける。風とともに月明りが入ってこようものなら、部屋の電気やテレビなど光ものを消して1時間、2時間を夜空と付き合うことがある。過ごしてきた年月分というか「あの時この時」のことなぞを昨日のようによみがえらせながら、つと、涙ぐんだりする。その時の小生は客観的にみて真人間になっている。いとおしくなって自らを抱きしめたくなる。
 月を見上げて涙ぐむ老いの身の図は「絵」にはならないだろうが、そんな時間があってもよさそう・・・・なぞとひとり悦に入っている。

 ※うたを描く『琉歌百景』その②。「動かぬ絵画の雄弁さ」。

 『絵に描ちゃい置きば 面影やあしが 物言い楽しみぬねらん辛さ
 《ゐにかちゃゐ うきば うむかじや あしが むぬい たぬしみぬ ねらん ちらさ

 思いびとの似顔を描いて持っていれば、いつでも面影をしのぶことができる。一心同体感がある。けれども絵はしょせん絵。愛の言葉を交わすことはかなわない。表情も静止したまま・・・。会話の楽しみがない。それだけに恋しさ切なさは倍増すると詠んでいる。
 劇聖玉城朝薫の組踊「女物狂・一名人盗人」にも「覚書・人相書き」を読み上げる場面があるから、王府時代の士族社会の恋人たちの間では、互いに似顔絵をふところにしのばせ合うのがはやっていたやもしれない。
 昭和30年代に青春を過ごしたボクのころは、好きな人の写真をひそかに手に入れて手帳などにはさんで持ち歩いていたものだ。好きな女優のブロマイドを収集する遊びもはやっていたのも懐かしい。
 いまでは琉球舞踊界に名を刻んでいる女性、Kさんにはこんなエピソードがある。
 沖縄タイムス社主催の当時「芸術祭」と称していた「舞踊の部・新人賞の部」で「伊野波節」を踊った折り、紅型衣装の下のふところ深くに彼氏の写真をしのばせて踊った。同節の歌詞が「逢わん夜ぬ辛さ 他所に思みなちゃみ 恨みてぃん忍ぶ 恋ぬ慣れや」であってみれば、若いKさんの踊り心を一段と高揚、昇華させたに違いない。
 絵画については(〇)さへもまともに描けないボク。絵の描ける人を心底、リスペクトする。友人に画家が何人かいて、彼らからの仕入で絵画について能書きをたれることがある。ボクが絵画から感じ取ることができるのは「絵は口ほどにものを言う」。このことである。




老人たちの忘年会

2019-12-10 00:11:00 | ノンジャンル
 誰が言い出したでもなく「ちょい悪おやじ」を張ってった(老人たち)が集まって忘年会を持つという。「いまさら忘年会でもあるまいっ」。ニタリ小さな笑いをしたが、久しぶりに逢う古馴染みとの(一杯っ)を楽しみに出かけた。(一杯っ)とはいっても、もう若いころのようにはいかない。したがって、体の都合にあわせた飲み物をそれぞれ前にして、あとはカラオケということになった。
 繁華街を少し離れたところで、これまた初老の女性が娘と二人でやっているスナック。懐かしいメロディーが、当時の映画の白黒の映像が映し出されるカラオケなのがいい。老人たちの青春日記のページ重ね合わせての選曲ができて、何かホッとする。当時の銀幕のスターになり切れるのもいい。
 その夜、老人たちが選んだ(歌)のいくつかを拾ってみよう。

 ※「風」=唄/はしだ・のりひことシューベルツ。
 ♪人は誰もただ一人旅に出て 人は誰でもふるさとを振りかえる
  ちょっぴり寂しくて振りかえるが そこにはただ風が吹いているだけ
  人はだれも人生につまずいて 人は誰も夢破れ振りかえる


 遠くの丘の上にクリスマスの灯りが見える。街中の賑わいとは裏腹に、その灯りは、ひっそりと点っている。少し風も吹いてきたようだ。「今年も暮れていくなぁ・・・・。柄にもなくしんみりと往く年をふり返ってみる。
 あれやこれやで慌ただしかった気もするし、過ぎて見れば、それほどのこともなかったような気もする。「これでまあ、よくここまでやってきたものだ」と、初めて気付いて、ひとり苦笑いするより術はない。
 当てはないけれども、ボクもジングルベルで賑わう街の中に身を紛らわせてみようかと、やおら腰を浮かせかけたが、直ぐに「よそうっ。今夜はひとり、吹く風と語らう・・・・と思い直して部屋のガラス戸を開け、入ってくる冷たい風を頬に受ける。
 ◇ともかくあなた任せの年の暮れ。そう詠んだ俳句の人がある。ここへきてこの句を思い出すなぞ、ボクも相当数、年の暮れを過ごしてきたことの証だろう。
 少し風が強く、冷たくなってきた。ぼんやり丘の上の灯りを見ていると風邪を引きそうだ。ガラス戸を閉め、ウィスキーのお湯割りでも呑んで温まることにしよう。

 ♪プラタナスの枯葉舞う冬の道で プラタナスの散る音に振りかえる
  帰っておいでとふり返っても そこにはただ風が吹いているだけ
  人は誰も恋をした切なさに 人は誰も耐えきれず振りかえる


 「老人たちの忘年会」は、どうなっただろう。
 カラオケ小休止の態。「Sクンはどうした?」「誘ったが持病の腰痛がまた、暴れ出したらしい」「あれは突然、来襲するからなぁ。よしっ!Sクンの代わりに、彼が得意な「星の流れに」をボクが唄おう。
 ひとりが再びマイクを取る。

 ◇『星の流れに』唄/菊池章子。
 ♪星の流れに 身を占って 何処をねぐらの 今日の宿
  すさむ心で いるのじゃないが 泣けて涙も 涸れ果てた
  こんな女に誰がした

 「こんな女に誰がした~」。
 今では夫婦喧嘩の愚痴ことばにもならないだろうが、早熟だったのか「こんな女に誰がした」の本当の意味を知った折には、少年ながら胸が詰まり、以来、この歌を唇に乗せることをはばかった。「こんな女」とは、終戦直後、夢を打ちひしがれ、生活苦に迫られ、アメリカ兵に春を売っていた女性を指す。口にするのも悲しいが「パンパン」とも称した。好んでそうなった人はひとりもいない。すべて戦争・敗戦のなせること・・・・。

 ♪煙草ふかして 口笛吹いて あてもない夜の さすらいに 
  人は見返る わが身はほそる町の灯影の 侘しさよ
  こんな女に誰がした


 終戦直後の沖縄にもそうした「悲しい女性たち」がいた。
 周辺の大人たちからは白い目で見られていた。けれども、大人たちから敬遠されていたせいか、その女性たちは少年少女にはやさしく、アメリカ兵から貰ったであろうチューインガムやクラッカーをくれた。
 ボクもその少年少女のひとりであった。その女性たちは申し合わせたようにパーマネントをかけ、赤や黄色のリボンを結び、派手な服装をしていたように記憶している。中には、いまにしては「中年の女性」もいて、彼女がぬっている口紅が、やたら赤かったのも侘しい。それでも彼女がくれるアメリカ製のキャンディーは美味しかった。ボクはこの歌を反戦歌として捉えている。
 戦争が残すのは庶民の「不幸」しかないと、つくづく思われる。

 ♪飢えていまごろ 妹はどこに ひと目逢いたい お母さん
  ルージュ哀しや 唇かめば 闇の夜風も 泣いて吹く 
  こんな女に誰がした


 老人たちの忘年会はまだ続いている。


徳之島の歌・ちゅっきゃり節

2019-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 鹿児島県奄美大島本島には幾度か「歌探しの旅」をしているが、その離島である徳之島には、1度も渡ってない。「徳之島ちゅっきゃり節」という、昔から沖縄では歌劇などにも用いられ、親しまれている(歌)がありながら・・・。かつて琉球の地内であったという親しさで、徳之島への足を後回しにしたような気がする。

 『徳之島』
 沖縄のはるか北部に位置する奄美大島諸島中、2番目に大きい島である。周囲81.1キロ。面積248.25㎢。鹿児島県大島郡に属し、徳之島、伊仙(いせん)、天城(あまぎ)の3町からなっている。島の中央を井之川岳連峰(644.8m)や天城岳連峰(533.00m)が南北にはしり、その周囲を台地が取り巻き、他の島にはない平地と水源を併せ持っている。地質は北部が主に火成岩、南部は琉球石灰岩の隆起サンゴ礁からなる。
 また、山間部にはリュウキュウイノシシやハブ。特別天然記念物アマミノクロウサギなどが生息。ソテツやバショウなどの亜熱帯植物が自生している。基幹産業はサトウキビ栽培。
 歴史的には696年(文武3)「続日本紀」に初めて登場するという。1263年(弘長3)には、琉球北山王に従ったと「琉球王代記」にあり、その時代を「ハナンユ=那覇ぬ世」と称している。しかし、1609年(慶長14)以降は薩摩藩に属し、明治維新を経て今日にいたっている。

 「徳之島ちゅっきゃり節」という流行り唄。歌詞を替えて沖縄でも盛んに唄われてきたひと節がある。

 ♪徳之島ちゅっきゃり節 たっきゃりなさだなや~
  ちゅっきゃりやカナが為 ちゅっきゃり我が為どぅ~と唄い出す。
 

 語意=ちゅっきゃりは数詞で「ひと切れ」の意。
 歌意=我が徳之島のちゅっきゃり節を(たっきゃり=ふた切れ)にできないものだろうか。上の句のひと切れはカナ女のために、下の句のふた切れ目は自分が持ち、ひとつある歌節をふたつにして唄い合いたい。

 ♪我ったり談合小しゅてぃ名瀬かい逃んぎろや
  名瀬や島近かきゃり 鹿児島逃んぎろや


 歌意=好き合っている二人。談合・相談して徳之島から、奄美本島の名瀬に、手に手を取って逃げようか。
 いえいえ!名瀬は海を隔てているとはいえ、島が近いから、いっそ鹿児島に逃げよう。
 男女の掛け歌になっている。
 どうしてこの恋人たち、駆け落ちしようとしたかというと、明治時代の日露戦争の折り、徳之島のある集落のひとりの青年が「徴兵検査」を拒否。上の句を詠んだところ、彼女が下の句を返したというエピソードがある一方、日露戦争の終わりごろ、若者たちの間で即興歌として流行ったという話もある。

 ♪ヨネや拝みんしょうら ぬが夕び参うらんたんちょ
  雨降てぃ風ぬ吹ち 傘小持たらんだな


 歌意=今夜はよく来れましたね。でも、夕べはどうして来なかったの?
雨が降り風が強くて雨傘が差せなかった。

 ♪行けよ鶴嶺丸 また来よ日高丸 今度ぬ下りや我きゃカナ乗せ来よ

 歌意=鶴嶺丸、日高丸。いずれも鹿児島・徳之島間の定期船。「行ってらっしゃい鶴嶺丸!」。「また来てね日高丸」。今度の下り便には、私の愛しい人を乗せてきてね。
 切なく、叫ぶように、また、むせび泣くように唄われるひと節は、聴き応えがある。

 横道にそれるが・・・・。徳之島は「闘牛の島」でもある。
 闘牛は奄美諸島の方言では「ウシトロン」・沖縄口では「ウシオーラシェー」と称する。古くからなされていた農村の伝統的な娯楽のひとつ。ウシナー(牛庭・闘牛場)に2頭の猛牛が登場。男たちが鼻綱を握り「ハーイヤッ」などの矢声(ヤグィ)をかけながら、角を突き合わせて勝負を決める。逃げた牛の負けとなる。双方いずれも退かない場合は(引き分け)の決まり手もある。
 すり鉢状のウシナーができたのは明治18年(1885)ごろとされ、豊年祭など農耕行事の重要な催事であったため、見物は無料だったが、昭和9年(1934)読谷村に県下に名をとどろかせる楚辺アコーという強い牛がいて、これに徳之島の牛・ワナ号が挑戦するとあって前評判が上々。入場料を取ることになった。これが興行としての近代闘牛のさきがけとされている。
 サトウキビの島、闘牛の島、島うたの島・・・・それだけで魅力十分。旅ごころをくすぐる。