旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
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私は琉球住民・パスポート

2015-03-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「本証明書添付の写真及び説明事項に該当する琉球住民(上原直彦)は、日本へ旅行するものであることを証明する」この証明書は発行から四年間有効である。
 琉球列島高等弁務官。

 本棚を整理していると、本の間から1970年10月発行のパスポートが出てきた。昭和45年。日本復帰2年前であり、この年、戦後初の国政参加、沖縄復帰準備委員会設置、日本の敗戦が決定的になった昭和20年3月、渡嘉敷島において、住民に集団自決を命令したと言われる同島駐屯海上挺身隊第三戦隊隊長赤松嘉次(50歳)が来沖。一方では名護町、羽地村、屋部村、屋我地村が合併して名護市成立。那覇では壷川~小禄間に1418メートルの那覇大橋完成。そして、外人車の交通事故がきっかけで、現沖縄市でコザ反米暴動事件が起きた。
 琉球住民の私は、母親の発案で姉手作りの腹巻をして、その中にパスポートをしっかりとはさんで鹿児島行き那覇丸の船客となった。
 「パスポートは命から2番目!肌身はなさず!」
 家族の切実な(愛の腹巻)だった。
 鹿児島埠頭。タラップを降り切って1歩を踏み出して私は泣いた。
 「これが生まれて初めて踏む祖国・母国の地なのだ!」。
 西鹿児島駅近くの旅館松本荘に旅装を解き、翌日の東京行きに備えて早目の布団にもぐった折り、また泣いた。駅を発着する夜汽車の汽笛を聞いて泣いた。
 “いつもいつも通る夜汽車 静かなひびききけば 遠い町を思いだす”
 小学校で教わった唱歌「夜汽車」を実感したからだ。
 「これが母なる国ニッポンの音だッ」。
 3度目の(泣き)は東海道本線の汽車の中。汽車に乗るのも初めてで興奮したが、琉球住民の若者の体力をしても長い汽車の旅の疲労はどうしようもなく、車窓を流れる景色、風景を楽しむ余裕はなく、ひたすら舟を漕いでいた。不十分な睡眠を意志力で払拭したのは車掌の車内アナウンス。
 「次は浜松~浜松~」
 「静岡だっ。富士山だっ」
 シャッキと覚醒して車窓の右左を注視、見逃すまいの態勢をとった。隣席のひとも、その辺りの人も富士山に興味を示さず、眠りこけているのか、酒を飲んでダベっていた。窓を開けようにも、乗車している汽車の黒煙が入るとかで、遠慮しなければならない。やがて、富士山を捉えることができた。琉球住民の若者の期待を裏切らない晴天。
“あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして かみなりさまを下に聞く 富士は日本一の山~”
 学校唱歌「ふじの山」通りの(お山)だった。憧れをもって見た絵葉書と寸分違わない美しさ。
 「とうとう自分は母なる国に身を置いているのだッ」。
 そう実感して泣き、腹巻のパスポートを服の上から強く押さえた。
 東京滞在4日間。銀座4丁目の琉球放送支社近くの旅館柳荘の世話になった。昼間はTBSラジオでの研修などで過ごし、夜は支社の先輩らと有楽町や日比谷のガード下の屋台、小料理屋の美酒に酔った。それでも就寝前は必ず腹巻の中のパスポートを握りしめた。時候は初秋。パスポートの感触は出張中、常に温かかった。
 母や姉の(パスポートは命から2番目!肌身はなすな!)。
 それを死守したたまもの(温もり)だった。

 ところで。
 戦後、沖縄におけるパスポート第1号は誰が取得したか。
 沖縄を占領した米軍は「戦時刑法」を公布して、米軍の安全と占領政策遂行のために沖縄全域と本土はじめ外国との交渉を断ち、沖縄は完全に孤立状態になった。公用以外、一般人の出入域を認めなかったのである。
 しかし、昭和23年(1948)8月。オランダのアムステルダムで開催される万国キリスト協会議への出席招待状を民政府文化部を通して受け取った牧師比嘉善雄は渡航許可を願い出た。民政府文化部長当山正堅の尽力があって、比嘉牧師はパスポートを取得することになるが、これは比嘉牧師が戦前、米国留学の経験があったのが、パスポート入手に有利な作用をしたと言われる。
 発行されたパスポートは粗末なもので英文タイプと日本文で書かれた表紙に(琉球列島米国軍政本部旅行証明書)とある。表紙をめくると、
 「沖縄人比嘉善雄は、東京及び米国を経て万国キリスト教会議に出席し、帰路米国で1ヶ年勉強すべくアムステルダムへ旅行するに付き、琉球列島軍政府副長官は外国のその筋の諸機関に対し、通路を支障なく旅行せしめ、かつ必要な保護援助を与えられるよう要請する」と書かれている。

 個人的には、パスポートには夢と希望がある。グローバルな夢がある。けれども昨今はどうだ。イスラム国?のテロ、虐殺、誘拐などが多発し、平和国家を自認するニッポンから、かの地への渡航が規制されたり、パスポート取得が危ぶまれたりしている。なんとキナ臭く、不穏な情勢になったことか。
 「いかにすべき」。
 平凡人の私なぞ、思考の及ぶところではないが、国が集団的自衛権なぞという軍事権を発動して戦争に走った時、またぞろ「琉球住民」に戻されるのは、米軍基地を強行設置されている沖縄人ではなかろうか。
 いや、日本一の富士山もその美しさの原型をとどめ置くことができるかどうか・・・・。老婆心であってほしい。



琉球の二大画家・自了・殷元良

2015-03-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「クレヨンや絵具の無駄だッ。お前は絵なぞ描くなッ!」。
 小学校高学年、中学生にして兄にそう言われ、見放された以来、絵らしきものを描いたことのない小生である。描きたいと思っても丸ひとつ、まともな円形になってくれないのである。どうしても(丸)を描かなければならない状況に追い込まれた折りは、上着のボタンを画用紙の上に置いて、その周囲を鉛筆でなぞったり、大きめの円形は茶碗や缶詰のフチのお世話になった。
 そのころの夏休みの宿題が何よりも苦痛で、それでも真面目に取り組むのだが、入手困難なクレヨン、水彩絵具を浪費するばかり。
 「お前は絵なぞ描くなッ」。
 この宣告は(納得)以外の何ものでもなく、何の反論も懇願もなく了解する素直さであった、それまでは努力をして宿題の図画にも立ち向かってみたのだが、提出するたびに先生は、
 「上原クンのこの絵は何だと思うか?」と、黒板に貼り、みんなの審美眼を問うて教室中の爆笑を誘っていた。大人になって知る川柳“猫でない証拠に竹を描いて置き”そのもであった。昭和20年代の上原少年。それでも「描けないものは描けない」と自認して爆笑の仲間入りして、一緒に笑ていたのだから、先生にとっては(反省)を知らない、始末に困る少年だったに違いない。
そのせいだろう。いまではイラスト、漫画など、とにかく(何をかいたか)判別できる(絵)を描ける人には一目も二目も置く。いや、尊敬している。先日も某所の所在地への道順を問われて、手元の紙に描いてやったのだが、相手を混乱させるばかり。相手は「方向だけは分かりました。通りの人に尋ねながら行きます」と、小生の行為をむげにして出掛けて行った。

 その小生が{琉球の2大画家・自了と殷元良」について書く。しかし、これは資料に基づいて記すもの。信用して目を通していただきたい。
 ◇自了は画号。実名を城間清豊=ぐすくませいほう(1614~1644)先天的な聾唖者だったが頭脳明晰、性格明朗、探究心旺盛。独自で絵画を習得し、王府お抱えの絵師に取りたてられた人物である。
 冊封使(さっぽうし)という琉球と中国の外交を司った中国の高官連は、首里城内で自了の作品に見入り、自国の高名な画家を引き合いにして大絶賛したという。
 自了の作品「白沢之図」「竹林七賢」「野国青毛名馬図」「仙人図」「高仕逍遥図」「松下三仙図」「李白観瀑図」などが、戦前の沖縄博物館に収蔵されていたそうだが、戦火を逃れることができたかどうか。現県立博物館・美術館に問い合わせてみよう。
 一方。
 ◇殷元良=いんげんりょう。本名座間味庸昌=さまみようしょう(1718~1767)。首里生まれ、6,7歳にして絵画の才能を発揮。12歳にして城中に召された。
 独白(クレヨン、絵の具を無駄にした上原少年とは大違い・・・・)。
 城中においては宮廷画家山口宗季(そうき)に師事。本格的に精進した。画号を殷元良と称するに至った。長じるにしたがって絵師のみにとどまらず王府の要職にも登用され、1752年には琉球から中国への外交高官「進貢使」の一員として随行している。画風は花鳥、山水画は中国絵画の技法に近く、日本画の影響も随所にみられるという。
 代表作のひとつとされる「神猫図」は、沖縄戦で焼失されたが、現存してしているのは「雪中キジ之図」「花鳥図」「鶉図」「山水図」「寿老人」等々。中でも「山水図」は1754年、中国滞在中に{描いた作品という。
 殷元良が活躍した尚敬王・尚穆王(しょうぼく)代は、琉球文化が開花した時代である。それだけに明治後年、殷元良を主人公にした芝居が舞台に掛り、好評を博した。
 劇中、国王に所望されて「鴉之図」を描いた。しかし、描き上げた鴉には目が描かれていない。両方とも白眼。
 「これは如何にッ!目のない鴉は不吉!即刻、目を入れよっ」。
 国王に命じられた殷元良は、2本の絵筆にたっぷりと墨を含ませ、手裏剣よろしく「鴉之図」に投げつけた。墨筆は寸分違わず鴉図の目に命中。すると絵の中の鴉は命を吹き込まれて、画面から飛び立ち、城庭の老木の枝に止まり(カァ)と一声鳴くという場面があって、観客を唸らせた。

 絵画は時代を雄弁に語る。
 戦前の児童生徒は学校でも日章旗(日の丸)旭日旗(海軍旗)戦闘機、戦車、軍馬の絵描きを奨励されたそうな。
 「朝顔が好きだった」。
 ある少年は、図画の時間に朝顔を描いたところ、
 「小国民とは言え、かかる国体の時勢に軟弱な絵を描くとはけしからんッ!」。
 烈火のごとく怒る教師にミンチャンバー(顔面平手打ち・びんた)を喰らったそうな。
 昨今の沖縄の少年少女たちは、平和をテーマに理想とする自然を描いている。もちろん基地なども、彼らの感覚で描いている。それらはすべて「平和希求」である。彼らに米軍基地やミサイルや自衛隊の絵を描くよう強制する時代になってはならない。

 「クレヨン、絵の具が無駄!」。
 こんな小生が今回は「絵」を書いたのか。小学生の孫の年賀状にカラーペンで(爺の顔)が描かれていたからである。



“燦”の琉歌

2015-03-01 00:10:00 | ノンジャンル
 燦=さん・あざやか。あきらか。きらびやか。ひかりかがやくさま。
 RBCiラジオ生放送企画「ゆかる日まさる日さんしんの日」は3月4日午前11時45分から午後9時まで実施。その年のテーマを1字で表す漢字を選定しているが、23回目の1文字は“燦”。
 内憂外患。年明けから沖縄は多くの問題を抱えている。それらに対処して、負けずに生き抜くには、県民1人ひとりの(心の燦)が不可欠」。
 そこまで大仰ではないが、とかく伝統文化のひとつ(三線ロマン)を通して“燦”を共有しようというのが、選定理由としている。

 「燦の1文字を織り込んで琉歌を7首詠んでほしい。それを大書してメインステージに掲示して、シーンによって観客ともども歌いたい」。
 まったくの無茶ぶりである。心・花・情・和・輪などなどなら、ある程度の三八八のの詠歌は捻り出せるが“燦”は難しい。けれども、スタッフの演出意図は汲まなければならない。古今惨憺。間に合わせはしたが・・・・。大目に見逃していただいて詠んでみた。“燦の意”だけを笑感していただきたい。

 ◇太陽ん燦々とぅ 三昧ん燦々とぅ 今日ぬ佳る日 共に遊ば
 〈ティダんさんさんとぅ サミんさんさんとぅ きゆぬゆかるひに とぅむにあしば

 ◇黒木蛇皮張いに 三筋糸掛きてぃ 燦々とぅ心 繋じ置かな
 〈くるち じゃひばいに みすじとぅ かきてぃ さんさんとぅ くくる ちなじうかな

 ◇燦々とぅ響ゆむ まさる日ゆでむぬ 目眉打ち開らち 盛かてぃなびら
 〈さんさんとぅ とぅゆむ まさるひゆでむぬ みまゆ うちふぃらち さかてぃなびら

 ◇沖縄三線や 何時ん燦々とぅ 島ぬ上ゆ照らす 神ぬ恵み
 〈うちなサンシンや いちん さんさんとぅ シマぬうぃゆ てぃらす かみぬみぐみ

 ◇燦々とぅ音色 世界に轟かち 弥勒我が沖縄 誇てぃなびら
 〈さんさんとぅ にいる しけに とぅどぅるかち ミルクわがうちなぁ ふくてぃなびら

 ◇今日ん燦々とぅ 明日ん明々とぅ 三線ぬ音色 民とぅ共に
 〈きゆんさんさんとぅ あちゃん あかあかとぅ さんしんぬ うとぅぐぃ たみとぅ とぅむぬ

 ◇天ぬん 走い巡ぐてぃ 海んまた渡てぃ 光表する 花ぬ沖縄
 〈てぃぬん はいみぐてぃ うみんまた わたてぃ ひかり あらわする はなぬうちなぁ

 “燦”“燦々”をそのまま使った琉歌は、これまで私の目には止まっていない。大抵は太陽がそれを代表し、晴れ晴れ・明々などに置き換えられて表現してきている。共通語を制定するまで各地方語、語数が少なく、その地方によって見た目、感じたままで名詞、形容詞などを日常語としてきている。
 沖縄語の場合、日本語方言の中でも(特異)と言い切っていいだろう。しかも、日本語が50音から成っているのに対して沖縄語は基本的に30音である。現在のように共通語が言語の主流になったため(沖縄口は難しい)と言われる所似ではなかろうか。そのことは各地方とも同様なことと思われる。
 待て!待て。
 またぞろ悪い癖の屁理屈が出た。容赦・・・・。
 お詫びに“燦の琉歌”に用いた沖縄語の語意を記せていただく。

 ◇遊=娯楽的(遊び)ももちろんだが、祭事・祭祀の場合、心をひとつにするさまを表す。神遊びがその最たる語。
 ◇黒木蛇皮張い=三線の別称。ただし(蛇皮)は普通の蛇皮ではない。ましてハブ皮でもない。ニシキヘビを指す。現在でも主にベトナム産を張っている。ここにも中国・東南アジアとの交易の歴史を知ることができる。
 ◇響ゆむ=響き渡る。広く知らされるさま。古謡にもあって、誇りのさまを表す。
 ◇弥勒=弥勒菩薩。転じて(弥勒菩薩に守護された)平和・五穀豊穣を意味する。八重山の雇用「弥勒節」では“弥勒世=みるくゆう・平和の世=に続けて、神の世=カンぬユウ=を被せて(平和の世界)を切望している。仏教の伝来とともに使用された言葉であることは言うまでもない。

 “燦の琉歌”。
 これをどう三線に乗せて歌おうか。
 3月4日の「ゆかる日まさる日さんしんの日」の出演者である古参の歌者松田弘一、徳原清文、神谷幸一の軽快なバチさばきで披露する。会場も一体になって手拍子、囃子が加わり賑わう。

 レギュラー番組はもちろんのことだが「第23回・ゆかる日まさる日さんしんの日」の生放送はラジコプレミアム・システムで全国で聴取することができる。その方法については、RBCiラジオのHP(ラジコ)で検索。
 沖縄中の三線が一斉に鳴ると、沖縄はティーダ燦々!はもう春である。