旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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14回目の幕が開く

2015-04-20 00:10:00 | ノンジャンル
 4月29日夕刻6時30分。北村三郎・芝居塾「ばん」年1度の舞台若夏一番(芸)花盛りの幕は、沖縄市主催で開く。場所は沖縄市民小劇場“あしびなー”。
 芝居塾「ばん」とは言っても、役者養成所ではない。確かにはじめはそのつもりでいたが、公募していると集まったのは、沖縄口に興味を持つ素人ばかり。それならばと急遽方針を変えて「ことばの勉強会」として開塾。沖縄芝居の脚本、島うたの歌詞と成り立ち、古諺、慣用句、風俗習慣等々、とにかく沖縄に関する事柄をテキストにした座談形式の極めてラフな塾。それもオリジナル脚本をもって舞台をこなしてきた。
 因みに「ばん」とは、芝居の開幕閉幕を告げる(柝)を意味する。

 今回の演目を見てみよう。
 ※島うた。
 出演={島うた少女テン}4歳から16歳までの文字通り少女のユニット。
 “テン”には(天までとどけ!)の願いが込められ、また、三線の音“テン”に因む命名である。指導者は「ユイユイ」を歌った、20年前の少女、歌者山川まゆみ。メンバーは、高校を卒業すると“テン”からも卒業し、年長組のユニットを組ことになっている。歌声は幼いが三線の技術は(大したもの)と評判だ。客受けは、いかな名優でも子役には勝てないというが、少女たちも、まさにそれ。心がなごむ。

 ※落語。
 出演={南亭こったい・本名玉城智}。
 落語は、馴染みがいまひとつの話芸だが、しかし、近年になって愛好家が増えて、本職を目指すものも見受けられるようになった。沖縄の昔ばなしや面白ばなしを芝居塾「ばん」らしく、沖縄口と大和口二通りに語る実験も、これまでの公演で成してきた。今回の南亭こったいの演目は江戸ばなしの「花見酒」。
 花見の季節。酒好きの二人の男が酒屋から樽酒を借り受け、向島の花見どころへ担いで行き、ひと儲けをたくらむが、そこは酒好きの男二人、なにかと理屈をつけては1合飲み、2合飲みしているうちに、向島に着いた時は、売り物の酒は底をついていたというばかばかしい1席。

 ※古武術=舞方。
 出演=古武術集団{風之舞}。
 舞方(めーかた)は、豊年祭や綱引き行事に演じられる武の舞い。
 かつては各集落の催事の行列の先頭をきって成された。また、主会場になる“遊び庭=あしびなー”でも屈強な若者が棒や町奉行所役人が持った捕物具・十手のような琉球独特の武具“サイ”を遣って舞った。ただ舞うのではない。「かぢゃでぃ風節」に乗せて棒術の型を披露したり、別名「毛御前風=もう ぐじんふう」と称する早弾きに舞踊の手を交えて演じる空手舞いは圧巻。村祭りで(舞方)に選出される若者は、たちまち村中の娘たちの(憧れの男)になったという。若いころに舞方を演じ、娘たちに(モテた)と自称するご老体の詠み歌がある。

 ♪立ち出じり舞方 前に出じり舞方 若さ舞方ゆ 見ぶさあむぬ
 〈たちんじり めーかた めにんじり めーかた わかさ めーかたゆ みぶさあむぬ

 歌意=さあ!早く出よ舞方連!中央に出よ若者たち!むかしワシも演じた舞方!早く見せてくれ!老体に若い血がよみがえる!

 筆者もご老体のモテばなしを都度聞いてきた。たしかに男女問わず(血が騒ぐ)演目である。今回(モテ男)になるのは、風之舞山城健、玉城祐貴。歌三線大城貴幸(塾生)。

 ※琉球講談・音楽外伝「知念積高やんばる旅」。
 出演=八木政男。音曲大城貴幸。脚本・演出上原直彦。
 内容については先号で紹介した。
 講談という話芸はRBCiラジオの番組「芸能バラエティー・ふるさとバンザイ!」で生まれた語り芸と言えよう。沖縄口漫才もしかり。かつて劇団華やかなりしころ、前狂言と切り狂言の間に演じる(まどぅぬむん=幕間芸)として「せんする節」という滑稽ひとり芸はあったが、演台の前に坐り、歌三線を取り入れた形の語り芸・講談は放送から生まれたと思われる。
 80余歳のベテラン八木政男優と27歳の塾生大城貴幸の世代を越えた競演。見もの聞きものになるのは間違いない。
 そして演目は再び「島うた少女テン」の歌声で幕が下りる。

 手前味噌になるが・・・・。
 芝居塾「ばん」とはそうした集団である。実際に15名の塾生は70代から20代まで。職業もそれぞれ。ただ(ことばの学習)(沖縄学習)を接点とし、15年の時を刻んできた。世代の異なりはまた、いいもので戦前、戦後ばなしを後輩に、現代の流行なぞを後輩から教わる。「ラビュー」とは、「アイラブユー」の略語であることを私自身、若い塾生から仕入れて、得意気?に連発している。
 今回の公演はたまたま客員中心になっているが、まずはご覧になって(うちなぁ)を感じていただきたい。そして(うちなぁ)に心を寄せたい方は入塾しませんか。ことばの勉強遊びをしましょう。入塾要領、公演前売りチケットなどについてのお問い合わせは。
(有)キャンパス TEL:098-932-3801までお願いいたします。

 北村三郎・芝居j塾「ばん」公演
 日時:4月29日(水)昭和の日 
    午後6時30分開演
 場所:沖縄市民小劇場 あしびなー
 料金:2,000円


講談・知念積高“やんばる旅”

2015-04-10 00:10:00 | ノンジャンル
 物語のあらすじはこうだ。
 すでに宮廷音楽家として名を馳せていた知念積高(ちねん せっこう)1761~1828はあるとき、愛用の三線を携えてひとり、やんばる旅を試みた。やんばるとは、(山原)と書き本島北部を指す。
 さらなる歌心を求めての旅であった。
 住まいする首里から浦添~宜野湾~北谷を経て比謝矼を渡り読谷山間切喜名村に達した折には、陽は中天より西にある。
 「さて、どうしたものか。このまま先へ歩を進めるべきか。喜名村に宿をとるべきか。それとも恩納間切山田村を通り、多幸山を越えて、その先の仲泊村までは足を伸ばそう。多幸山にはフェーレー(追剥)が出没するというが、盗られるものはなし。陽は暮れようが、夜の山越えもまた風流。歌の(わび・さび)を感応するにはいいのかも知れない」。
 やがて知念積高は多幸山に入った。樹木鬱蒼(昼なお暗き)と評される多幸山の暮色は夜の闇に変わりつつある。鼻歌をお供に山の中腹まで来たとき、果たして、フェーレーに遭遇した。フェーレーどもは、焚き火を焚いて、近隣の民家から盗んできた仔牛をさばいて焼き、酒鬢を前に飲み喰らっている。
 間の悪さに知念積高は、彼らの目に触れないよう気を配りながら、そっと通り過ぎようとしたが、そこはフェーレー。酒盛りをしながらも見張り役を置いていた。知念積高は捕えられてしまった。
 「ワシたちの悪さの現場を見られたからには、この者を生かしておくわけにはいかない。縄を打て!酒盛りがすんだら首をはねてやろう」。
 松の根元に括られた知念積高は観念をした。そして言った。
 「お前たちの手に掛かって果てるのも運命。命乞いはすまい。しかし、私は音楽を探究する者。この世の別れにひと節歌わせてほしい」。
 「何っ?酔狂な奴!やがて首をはねられる者が歌三線となっ!よかろう。酒盛りには歌三線はつきもの!さあ、縄を解いてやれ!」。
 かくて縄を解かれた知念積高は三線を取り、チンダミ(調弦)をし、歌持ち(うたむち・前奏)を弾いた。本調子の名曲「仲間節」である。

 ♪我が身ちでぃんちどぅ 他所ぬ上や知ゆる 無理しるな浮世 情ばかい
 〈わがみ チディんちどぅ ゆすぬうぃや しゆる むりしるな うちゆ なさきばかい

 *チディ=つねる。
 歌意=我が身をつねって初めて他所さまの痛さを知る。人生、無理な生き方をしてはならない。浮世は(情)でもって成り立っている。
 名人知念積高の歌三線は高く低く朗々と多幸山の闇を包んだ。いや、フェーレーどもの心をも温かく包んだ。中には涙を流している者もいる。よほど心の底に沁みたのだろう。歌い終わって瞑目する知念積高の前に両手をついたフェーレーの頭(かしら。頭目)らしき者は神妙に言った。これまた両目に光るものがある。
 「恐れ入りました。これまで悪さばかりをして、歌三線を聴いてもなんら感じるものはなかったが、貴方さまのそれに接して、いままで旅人を脅し、物品を奪い、世間に背を向け、心休まることのない暮らしをしてきましたが、貴方さまの歌にある(情)を失念していました。歌三線がどうわれわれの邪心を払っていれたのか判りませんが、実に心を洗われました。(情)を持つことが、こんなに心を落ち着かせるものかを悟りました。今日限りフェーレー稼業を辞めて皆、親元に帰ります。元の百姓に還ります」。
 これを聞いた知念積高。フェーレーたちの輪の中に入り、東の空が白むまであの歌この歌を歌ったという。

 これは創作ばなしである。
 琉球音楽外伝・講談「知念積高やんばる旅」と題して舞台に乗せた。作・演出上原直彦。口演八木政男。地謡(初演)歌三線・野村流師範玉栄昌治。琴・筝曲保存会師範知名文子。
 この講談・話芸がひさしぶりに披露される。
 4月29日。午後6時半、沖縄市民小劇場あしびなーにおける北村三郎・芝居塾「ばん」の公演の演目のひとつである。口演は名優八木政男。地謡は琉球古典音楽安冨祖流教師で塾生の若手大城貴幸。
 語り芸の面白さと沖縄口の妙味が遺憾なく発揮される。

 講談は日本特有の話芸。講談という名称は明治以降ものだが、江戸時代には(講釈)と言い戦国時代の豪傑ばなし、伝記もの、記録ものを判り易く語り聞かせた。現在でも寄席で成されている。
 沖縄の芸能史には(講談芸)は記されていない。しかし、昭和29年民間放送として開局した琉球放送ラジオの番組表には「琉球講談」の文字を見ることができる。演じたのは戦前からの名優平良良勝。地謡はこれまた戦後の琉球古典音楽界に大きく名を刻まれる野村流師範幸地亀千代。
 最初の作品は平良良勝自らの筆による「護佐丸忠誠録」。言うに及ばず、琉球王国時代、天下を狙う勝連按司・阿麻和利の策略により、謀反人の汚名を着て討ち死にする護佐丸の心中を描いたもの。また、花衛仲島の名花と評判され、多くの琉歌を詠み恩納ナビ女、北谷モウシ女とともに琉球三大女流歌人のひとり吉屋チル女(ゆしやチル)の短く薄幸の生涯を描いた「吉屋物語」などがある。この作品では女優我如古安子を起用。(ふたりの講談?)になっている。この形式は平良良勝、我如古安子が初めて。のちに北村三郎、仲嶺真永によって(ふたり講談)は3作品ほど試みられている。

 4月29日(水)午後6時半。沖縄市民小劇場あしびなーに来ませんか。琉球講談を楽しみましょう。

  

そして・・・・歌が生まれた

2015-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 その店(冨久屋)は首里城下、龍潭の斜め向かい、旧中城御殿(なかぐすく うどぅん)の東側石垣に沿って路地を入ると、すぐ右側にある小料理屋。
 店主が作る琉球料理が売りもので、もちろん泡盛もビールも飲める。
 首里城がライトアップされた頃(冨久屋)に顔を揃えたのは八重山の歌者大工哲弘、苗子夫婦と文筆家宮里千里、写真家国吉和夫、会社社長平隆司、音楽プロデューサー備瀬善勝、放送屋上原直彦。そして歌者松田弘一、徳原清文、前川守賢、山川まゆみなどなど。
 これと言った吟味事があるわけではなく、ただ声掛け合っての酒小ぁ飲めー(さきぐぁ ぬめー)にすぎない。すぐにグラスがカチッと鳴り、ウメーシ(お箸)を働かせ、ひとしきり近況を語り、政治批判を成し、文化論を戦わせ、それに飽きたところで歌三線になった。
 と言って歌者がこれだけいると、並々の歌座にはならない。誰彼なく即興の作詞をし、誰かが曲を付け、誰それに歌わせるという(歌遊び)になる。それは戯れ歌であり、エロ歌であり、真面目に情うたであったり、大和口の小唄、演歌とジャンルを選ばない。この面々が集まると、いつでもこうだから馴れたものだ。歌詞を書く用紙は卓上のナフキンで十分。その日は店主が気を利かせてまっさらの紙数枚とボールペンを3本ほど差し出してくれた。
 それぞれがシンガーソングライター気分を満喫する。
 上原もおだてに乗ってペンを取り、ひとくさり詠んだ。

 ♪何時からが互げに 友兄弟なたし 寄らてぃ語らゆる 佳かる今宵
 〈いちからが たげに どぅしちょうでぇ なたし ゆらてぃ かたらゆる ゆかるくゆい

 この面々、何時頃からこうも親しい兄弟付き合いをするようになったのだろう。またぞろ寄り合って語る今宵はまさに佳日。快なり!という訳だ。
 この拙い1首を見て「ぼくが曲をつけましょう。そして山川まゆみに歌わせましょう」と乗ってきたのは前川守賢。
 そうなると2首3首と詠まなければならない。しかも歌い手を指定されると、この場合(山川まゆみの気持ち)なって詠まなければならない。楽しい苦吟を強いられた。

 ♪うみシージャ方に かなさ我ねさりてぃ 孵でぃ果報どぅやゆる 歩でぃなゃびら
 〈うみしーじゃかたに かなさわねさりてぃ しでぃがふうどぅやゆる あゆでぃなゃびら

 歌意=(わたくし山川まゆみは)先輩たちに可愛がられている。なんと生まれた果報を得ていることか。このことを常に存念して(歌の道)を歩んで参ります。

 山川まゆみ。
 昭和51年8月13日生まれ。集まった面々の中では1番年下。
 平成元年。小学校6年生のみぎり、親戚筋に結婚祝儀があり、余興程度に三線を取ったことだが、これが彼女の心に響き、知人に介して上江州由孝民謡教室に入って、この道を歩むようになった。
 平成4年。当時、フジテレビの人気子ども番組「ひらけポンキッキ!」に起用されて全国ネットに乗り、一躍民謡界のアイドルになった。坂田英世作詞、知名定男作曲「ユイユイ」がそれである。以降、ユニット「ゆいゆいシスターズ」を結成。平成7年、県立芸術大学に進み、平成11年卒業。平成21年、所属する琉球民謡音楽協会の師範免許を得たのを機に与那原町で「三線教室」を開設。成人はもちろん、主に4,5歳の幼女から中学生までの女児を指導して、ユニット「島うた少女・テン」を名乗って県内外の催事に参加している。

 ♪なまや道半ば 良し悪しん知らん 手引ちゃい連りてぃ 習らち給ぼり
 〈なまや みちなかば ゆしあしんしらん てぃふぃちゃい ちりてぃ ならちたぼり
 
 歌意=歌の道はまだまだ道半ばの私。(先輩方)手を引いて下さり、諸事万端、指導して下さいますように。

 1番の歌詞を前川守賢に渡し、10分は経っただろうか。
 前川=はいっ!曲は付けましたよ。あとの歌詞はまだですか!
 上原=急かすな!曲は1番に付ければ何番まででも繰り返せばいいが、歌詞はそうはいかない!作曲者よりは作詞家の方がエライんだぞっ。
 そううそぶきながら三八六に無い頭をひねる。

 ♪三線ぬ綾ゆ 歌に織ゐ上ぎてぃ 我が命思むてぃ 肌に掛きら
 〈さんしんぬアヤゆ うたに WUゐあぎてぃ わがいぬち とぅむてぃ はだにかきら

 歌意=三線が綾なす音を縦糸にし、歌を横糸にして歌い、その歌布を我が命として、何時までも肌に掛けていよう。

 ますは前川が手本を示して山川は稽古しばし。面々はそれを聞き覚え、山川の歌に合わせて斉唱するにいたった。
 歌遊び。宴が盛り上がったのは言を待たない。

 さてさて、それから半年・・・・。
 山川まゆみが(この歌をレコーディングしたい。タイトルを付けてほしい)と言ってきた。これまた即座に付けた。人さまの耳に届くのも、そう遠くはなさそうだ。仲間内の飲み会。そして、歌が生まれた。節名「さんしんの綾節」。