旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旗揚げ・いざッ出陣!真永座

2007-10-24 23:11:50 | ノンジャンル
★連載NO.311

 戦後の沖縄芝居は、昭和21年<1946>に再開された。
 琉球民政府文化部は、この年の9月26日と10月6日。公務員としての役者・音楽技能者の採用試験を行い、50名に資格証明書を交付。「郷土芸能の復活、継承、技能向上及び民衆慰安」を目的に松・竹・梅の3劇団を結成。松劇団<団長島袋光裕>は、石川市<現うるま市>を中心に中部地区。竹劇団<団長平良良勝>は羽地村田井等<現名護市>を拠点に北部地区。梅劇団<団長伊良波伊吉>を知念村<現南城市>に配置して南部地区と、それぞれ担当地区を決めて巡業。熱狂的歓迎を受けた。
 具志川村川田<現うるま市>の公演では「7000人の観客を集めた」という記録がある。もちろん、舞台とは名ばかりの上に客席も地面に筵やテントカバーを敷いての観劇。いわゆる(露天劇場)だったからこその収客数であるが、それ以上に、辛うじて命ひとつを守り得た島びとが、いかに心の安らぎを渇望していたかを知らなければならない。

 その後。民政府管轄下の3劇団は解散になり、芝居公演は自由興行時代に入った。
 宮古、八重山をふくむ各地に個人経営の劇場が建ち、最盛期には大小合わせて50前後の劇団が入れ替わり立ち替わり公演を打った。関係者との茶飲みばなしで拾った劇団名を順不同に記してみる。
 ◇乙姫劇団=団長上間郁子。名称通り女性だけの劇団。初代、2代目の死去によって解散。しかし、先年、同士が集い同劇団の看板女優兼城道子を団長に劇団「うない。WUNAI」を結成、活躍している。
 ◇大伸座<座長大宜見小太郎>。◇ときわ座<座長真喜志康忠>。◇翁長小次郎一座。◇ともえ座<座長平安座英太郎>。◇奥間英五郎劇団。◇与座劇団<座長与座朝明。現与座朝惟>。◇でいご座<仲田龍太郎、幸子>。◇みつわ座<座長松茂良興栄>。◇演技座<高安六郎>。◇新生座<座長金城幸盛>。◇新興劇団<団長中今信>。◇紅型座<顧問比嘉正義>。◇ゆたか座<座長親泊元清>。◇寿座<座長名城政助>。◇俳優座<座長久高将吉>。◇天川座<座長松田正次郎>。◇演舞座<座長島正太郎>。◇朝日座<座長吉之浦朝治>。◇おもと座<座長松村宏>。◇劇団潮<代表北村三郎>などなどなど。
 しかし、これら劇団も乱立気味の中、一方では映画全盛、テレビの普及。舞踊、音楽が独自の歩みを始めるなど、娯楽の多様化に伴い芝居公演は観客が激減。後退を余儀なくされていった。もちろん(沖縄芝居の灯を消すまい)と劇団を存続、芝居の道を歩んでいる役者達はいる。興味を示す若者も出てきて心強い。

 明治20年以降、大衆芸能として確立され、いまに続く沖縄芝居の現状は厳しい。
 「厳しいからこそ今、旗揚げするのだ。消滅を待つのは死ぬより辛いッ」
 そう決意して劇団を立ち上げる役者がいる。その名は仲嶺真永。
 仲嶺真永=昭和10年6月28日生。
 サイパンに生まれ育った彼の家の隣に劇場があり、今でも名優の名が高い渡嘉敷守良や伊良波伊吉らが公演していた。仲嶺真永の芸ごころは(門前の小僧)に芽生えた。
 戦後、引き揚げた沖縄は空前の芝居繁盛期。彼の芸ごころに本格的な火がつかないわけがない。親は猛反対したが、彼は迷わなかった。昭和28年<1953>。戦前から大二枚目の名を欲しいままにしていた平安山英太郎の「ともえ座」に入団。下積みからの役者修業。その後、劇団翁長小次郎一座、ときわ座などに移籍して芸を磨き、徐々に重要な役も付くようになった。また、芝居の現役から身を引き、舞踊界に「宮城流」を創設した宮城能造とその子息美能留から舞踊を習い、国内外の舞台も数多く踏んだ。だが(芸)だけでは生活がきつい。そこで下積み時代からこの方、好んでやってきた芝居の小道具作りの技術を活用。昭和46年<1971>2月、那覇市牧志・公設市場近くに「仲嶺芝居、舞踊小道具製作所」を設立している。


 「小道具1本にしぼって生きるつもりでいたが、カツラや刀。四ツ竹、パーランクーなどの鳴り物。それに獅子頭、髪飾り、花笠などを作っていると、これらの向こうに舞台が見えるのだよ。役者の性だね。この(舞台への想い)が、今回の劇団真永座立ち上げの動機だね」

 劇団真永座旗揚げ公演・日程。
 日時=2007年11月11日(日)。昼の部2時。夜の部6時。
 ところ=県立郷土劇場。
 出し物=琉球史劇「オヤケアカハチと豊見親王」。
 八木政男。北村三郎。平良進。宮城亀郁。久高将吉。玉木伸らベテラン、若手、新人の男優女優が出演する。


旗揚げ。
 戦国時代、新たに兵をあげることを意味したが、江戸時代になって芸能が盛んになったころ、芝居一座設立のおり、小屋周辺に(のぼり。旗を揚げた)ことから、演劇用語になった。また、事業を起こすことなどにも用いられていることばだ。
 劇団真永座。行く手はまさに戦場である。沖縄芝居の未来を拓けるか。いざッ出陣!

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女ごごろ・男ごころ・秋の空

2007-10-17 23:36:48 | ノンジャンル
★連載NO.310

 「キッ!クィーッ!」
 近くの雑木林の上を鷹が鳴きながら飛んでいる。宮古島には、すでにサシバが渡り、先日は900羽から1000羽が舞台に舞っていたそうな。秋めいてきた。
 サシバは、体長50センチ前後の中形の鷹。夏、シベリアや中国北部、日本では東北以南で繁殖。寒露<秋から初冬にかけて降る露>のころ、鹿児島県の佐多岬に集まり、北風の吹く晴れた日に群れをなして琉球列島沿いに南下する。そして島々で少し羽を休めた後、中国南部、インドネシア、フィリピン、ニューギニアなどへ渡って行く。かつては、沖縄県下いたる所で見られたサシバの群れも、殊に沖縄本島では、よくよく観察しなければ気がつかないほどに減少している。その年によって数に変動があるのは勿論だが、宮古島諸島の宮古島、伊良部島、来間島などでは数千羽、数万羽の飛来を確認した年もある。
 「長い夏も、もう終わりか・・・・」
 まだ半袖で十分な気温ながら、沖縄人は鷹渡ゐ<鷹の渡り>で秋がやってきたことを知るのである。
 このころは、大降りはしないまでも天候が変わりやすい。雨もまた、大粒のそれではなく、俗に言うこぬか雨。これを鷹ぬシーバイ<鷹の小便>と言い、不用意に濡れると風邪をひきやすい。鷹ハナフィチ<鷹風邪>と称するのがこれだ。昔から鷹渡ゐのころを大いに意識してきているのは、はっきりと季節の変わり目が認められるからだろう。

 「女ごころと秋の空・・・・か」
 いつもの溜まり場で、季節を感じながらそうつぶやいた私に、側からちょっと甲高いW女史の声が飛んできた。
 「何をおっしゃいます。それは女ごころではなく“男ごころと秋の空”ですよッ」
 W女史に何があったのだろうか。
 近頃は、女性に対して言葉を発すると平等・権利・セクハラ等々の意識がおぶさってくるのが煩わしく、目で笑って聞き流し言葉を継がなかった。W女子の目は、鷹の目になっていたに違いない。
 人間、心変わりすることは、ままあること。それを男が「女ごころ」と決めつけるのがW女史、得心がいかないらしい。心変わりは男・女平等に持ち合わせているモノ。鷹の目を光らせて訂正を求めるほどのことではあるまい。季節用語として「男女、一緒に楽しみましょうよ、秋の空を」と言ったら、それも男のエゴになるのだろうか。

 昔。ある王のころ。
 王には側室のほかに愛女がいた。沖縄女性にしては、稀なる色白美人。長く連れ添った渋扇ぬ色<しぶおうじぬ いる。浅黒い肌の意>の側室とは比べものにならない美形。王は溺愛した。
 彼女が(髪飾りが欲しい)と言えば、すぐにお抱えの金細工師<くがに じぇーく>に打たせて与え、飲みかけのお茶でも(国王さまぁ。飲んでぇ~)と、鼻にかかった甘い声で差し出されると王は(ああ、よしよし)と目を細めて飲む。また、彼女が城下の実家へ行くのに、国王専用の御輿<うくし。4人担ぎの駕籠>に(乗って行ってもいい~?)と言えば、それも許した。
 ところが、王の前にいまひとりの女性が現れた。世話役として召し抱えた女官である。これがまた、愛女の上をいく美形。王はすっかり心奪われ、日夜片時も彼女をはなさなかった。そうなると先の愛女が疎ましくなる。それどころか、それまでの愛は憎しみに変わった。
 「あの女ッ!身分不相応な髪飾りを勝手に打たせて私物化した。国王たるワシに、己の飲みかけの茶を飲ませおったッ。なんたる無礼ッ。その上、たかだか宿下がりに国王専用の御興を出した。許せんッ。即刻、島流しにせいッ」
 男に甘え過ぎた報いは下った。
 この昔ばなしは、溺愛、盲愛は真実の愛ではないこと。傲慢、贅沢は身を滅ぼす。このことを説いた小話。男も女も他愛もない感情で浮いたり沈んだりするということだろう。
(変わりやすい)のは「女ごころと秋の空」「男ごころと秋の空」いずれもよくなってきた。個人の有り様によりけりだ。
 んッ?またぞろW女史の声が聞こえる。
 「何を勝手に低次元の解釈をしているのよッ。女性の地位について真剣に考えてよッ」
 そんな空耳にギクッとしながら、サシバが連れてきた秋の日の中にいる・・・。

 胴一人物言い<どぅちゅい むぬいい。独白>=うちのカミさんなぞ、飲み物1口、菓子1口、かならず飲み、かじってから私に渡す。一家の主ながら、島流しにできないでいる自分。そこかしこに、人生の秋風が吹いている。




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霊験あらたか・ビジュル神

2007-10-11 15:25:17 | ノンジャンル
★連載NO.309

 「息子がニービチ<結婚>をした。すぐにンマガ<孫>が抱けると期待していたのに、4年経ってもシルシがない。しかし、息子夫婦は仕事の都合もあって、沖縄市泡瀬のビジュルの近くに新築移転したとたん、嫁は懐妊。初孫を抱くことができた。ビジュル神は実に(まささ あみしぇーん)。霊験あらたかだ」
 初老のKさんは、真顔で話しビジュルに長々と合掌した。

 ビジュル信仰は各地にあって、確認されているだけでも120個体は下らないとされている。大きさもさまざまで15センチほどのものから、1メートルくらいの自然石を信仰する習俗があるのだ。
 由来。
 昔々その昔。集落近くの海浜に人形<ひとがた>の石が漂流した。
 「石が波に浮き、海を渡って来るとはッ。しかも人形をしている。これは、この島にミルク世<弥勒世。平和な世>をもたらす御神加那志の使者に違いない」
 と、丁重に拾い上げて集落のそれなりの所に祀ったのが始まり。
 ビジュルの由来ばなしは、所によって多少、内容を異にしているが、大抵は(漂着)で共通している。海の彼方にあって、この島に果報・幸福をもたらす理想郷ニライ・カナイ信仰とも結びついているようだ。土の上から出現したとする伝承も1部にはある。
 五穀豊穣。子孫繁栄。航海安全。天災回避。雨乞い。夫婦円満。家内安全。商売繁盛。良縁成就。最近では、学力向上などなどなど。これだけ叶えて下さるビジュルは、やはり参拝せざるをえまい。丁寧な地域では、祠を建てて安置しているが終戦この方、区画整理や宅地造成などによって、かつての集落形態も変貌。いまは、集落はずれの雑木林にポツンと残されたビジュルもある。「ビジュル」のほかに、古語としてのビンジルはじめ、ビンジリ、ビジリ、ビンジュル、ビジュンとも呼称されている。

 ビジュル例祭は陰暦9月9日<今年は10月18日>。奄美大島・竜郷町や徳之島天城町のジンズルガナシ例祭も日を同じくしている。
 沖縄市泡瀬の場合、この日、区域の長老、有志がビジュル前に集合。この1年の加護による無病息災、平穏無事を感謝し、これからの1年のそれを祈願する。年末ではなく、この時期を区切りとしているのは、豊かなる収穫を報告するためによるものと考えられている。泡瀬区では、本尊前での神事・儀式を行った後、区内6カ所の御嶽<うたき。拝所>を巡礼。ビジュル前に戻って舞踊や民俗芸能が奉納されて賑わう。かつては、年内に子を授かった夫婦、家族が「ビジュルメー=ビジュル詣で」をしていたが、最近はそれらに関わらず、老若男女が馳走を持参して参拝。ビジュル前庭に筵やシートを敷いて歓談。陽射しがやわらかくなった秋の日を楽しむようになっている。

 初孫をみたKさんの話に戻る。
 「ワシが聞いた泡瀬ビジュルの由来はこうだ。昔、高原<たかはら>なる村の男が浜辺の木陰で休憩していると、波打ち際に何やら流れ着いているのを見つけた。人形<ひとがた>の石である。神秘なそれを感じて村に持ち帰り祀った。それから、しばらく時がたってのある日、盲目の老婆が霊石ビジュルの目と思われる部分をなでて(モノが見えるようにして下さい)と嘆願すると、その日のうちに見えるようになった。また、足の悪い男が(普通に歩けるように)と祈ると、これも帰路につくころには完治。元通り働くことができた。さらにまた、子宝にさずかれないミートゥンダ<夫婦>は、(シブイ=冬瓜=のようにまるまるとした子を授けて下さい)と懇願すると、その通り元気な男児を産んだ。はたまた、20歳になってもニービチ<結婚>話のない娘は(容姿は問いません。働き者の男に出会えますように)と、手を合わせた。これも、時を置かず叶った。ほんとうに、いいことづくめだよビジュルさまはッ」
 Kさんは、自分が見届けてきたかのようにひとつひとつ熱っぽく語った。
 「トゥジ<刀自。妻>と、うまく別れられるようにと願掛けしたWUTU<夫>はいないか」
 ふと、日ごろ胸中に芽生えては消える感情をKさんに投げかけてみた。
 「ビジュル神は、そのような不遜な事柄には無関心。仮に願い出たとしてもそれは却下されるだろう。でも、ビジュル神は罰は与えないよ。離婚なぞは、夫婦の問題。離婚を考えるようでは、男も女も埒<らち>のあかない人生を歩むことになる」
 グサッと胸に刺さる返事が返ってきた。ビジュル神はあくまでも前向きな人間のための<神>なのだ。
 心洗われて、悟りのようなものを感じた私は、何を祈るともなく心を空にして合掌していた。信じるものは救われる。



中城安里

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ユーフルヤー文化

2007-10-04 12:21:48 | ノンジャンル
★連載NO.308

 表通りから住宅地に目をやると、煙を吐いている煙突が目に入った。
 懐かしさを覚えて、その下に行ってみると「ユーフルヤー。銭湯」があった。沖縄市に2軒あるうちの1軒「越来湯」。駐車場が広いのは、車でやってくる入浴者が多くなったためで、入口番台では昔ながらに入浴用品を販売している。
  
 フロを表わすシマ言葉に「ユーフル」がある。漢字を当てると「湯風呂」。
 夏の長い沖縄では、わざわざ湯を沸かすまでもなく身を清めることができた。日常的にはミジアミー<水浴び、水風呂>で十分であった。このミジアミーに対して湯を用いての入浴をユーフル<湯風呂>。そして、有料の湯屋をユーフルヤー<湯風呂屋。銭湯>としている。
 沖縄にユーフルヤーが登場したのは、尚貞王代<1680>頃。王府評定所記録には、すでに湯屋利用に関する心得・注意事項が記されている。これを裏付ける地名が那覇にあった。現在では、知る人も少なくなったが、現那覇市西町在の真教寺門前から北一帯を「ユーヤーぬメー。湯屋の前」と称した。大衆浴場があったからだ。
 湯屋は、どうやら上方<京都、大阪を中心とした近畿地方>から入ってきたらしく、1713年の記録「那覇由来記」に、「昔、此所ニ、日本上方ノ者来タリ。浴室ヲ立テ有リシナリ。故ニカク名ツケタリトゾ」とあり、湯屋が存在したことを明記してある。
 家庭風呂は、首里那覇でもごく1部のウェーキンチュ<富豪>に限られていた明治期。その31年<1898>ごろには、ユーフルヤーは10数軒を数え、那覇湯屋営業人組合が定めた入浴料は、◇男=1銭2厘。但し、14歳以下1銭。◇女=1銭。但し、12歳以下8厘。◇1日1回、月極めにて30銭。とある。
 時は移り、大正5年<1916>12月9日付けの琉球新報の紙面に、那覇区湯屋同業組合が載せた「値上げ広告」を見ることができる。◇大人3銭。中人2銭。小人1銭。湯札10枚で25銭。
 明治31年の(月極め料金)は、大正5年には(湯札)と称する回数券に変わり、通貨価値をふくめ、時代の推移を知ることができる。

 戦後、20年代30年代の入浴料はどうだったか。いま、手もとに資料がなく記憶に頼るほかないが、昭和23年<1948>7月から昭和33年<1958>までの10年、米軍政下で流通したB軍票<B円>の頃は、1,2円ではなかったのか。
 そのころ少年だった私の場合、湯はドラム缶に焚き家族順々に入っていた。近くに銭湯が2,3軒あるにはあったが(有料)のそこには、そうそう行かせてもらえない。夏場は井戸端や川、海辺の湧水での水浴びがほとんど。米軍基地流れの固形洗濯石鹸を数ヶ所の水浴び場近くの草むらに隠して置いて、悪童ども連れ立って行き、それを泡立たせて身を清めていた。
 たまに銭湯に行かせてもらうときの楽しみは、スーミー<のぞき。盗み見>だった。
 何をスーミするか。もちろん、男湯のお隣の浴場である。沖縄の銭湯の番台は浴場の外にあって、湯屋番も表を向いて座っている。料金を取り、今風に言えば使い捨ての安全カミソリや乙姫マーク、椿マークの土製の髪洗い粉、手拭い、石鹸などを売る。大和のように脱衣場を見張ることはしない。しなくても、誰も他人のものには手を触れない。番をする必要はなかった。少年たちは争うようにして服を脱ぎ、早々に身体を洗い、あとは誰かの意思が働いたともなく、仕切り板壁の向こうの(禁断の園)をスーミーするのに精神を集中させた。大人は、そばにいても少年たちの行為なぞ気にしない。むしろ(こっちの方がよく見えるよ)と目で知らせて、特等席ならぬ(特等隙間)を教えてくれた。しかも、(大人のモノとは、これだッ)と、自分の男性自身をまともに見せもした。「男子は、そうこうして成長し、立派な大人になっていくものだ」と言わんばかりの青少年育成、教育的指導現場だったように思える。

 昭和40年<1964>、那覇市内にあった120軒のユーフルヤーは、昭和56年6月には27軒に激減。全島<復帰前の呼称>でも74軒。家庭風呂の普及もあったが、当時のオイルショックが大きく影響した。那覇市は営業所に助成金を出して存続を図ったが、歯止めにはならなかった。
 現在はどうか。県福祉保健部・平成19年3月31日現在。公衆浴場のうち、普通浴場に属する銭湯は、公営1。私営12。内訳=うるま市、宜野湾市、糸満市、久米島町、中城村、読谷村にそれぞれ1軒。沖縄市、石垣市2軒。那覇市3軒である。

 那覇市楚辺に「ハイカラ湯」という銭湯があり、那覇ではかなり有名であった。
 琉球新報社社会部に籍を置いて間もなく、月給B軍票<通称B円>の1600円だった。昭和33年<1958>。私は20歳になった。成人式の日<式典はなかったが>、当時の編集局長池宮城秀意氏から、紅白の饅頭とハイカラ湯の無料入浴券を5枚ほど手渡された。祝儀物の饅頭はよしとして、(二十歳の祝に何故、無料入浴券)だったのか。そのナゾは、いまだに解けていない。

次号は2007年10月11日発刊です!

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