旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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北村三郎・芝居塾「ばん」への誘い

2018-04-20 00:10:00 | ノンジャンル
 問=芝居塾「ばん」とは?

 答=(芝居)の二文字があるだけに、役者養成塾のように思われがちですが、そんなこちはない。たまたま開設時に沖縄芝居の役者北村三郎が中心人物だったため、彼の名前を被せた。もちろん、沖縄芝居や民俗芸能の見学やビデオなどによる勉強会と思っていただければよい。

 問=実技ができなくてもよいのか?
 
 答=もちろんです。実際(役者希望)は一人もいない。


 問=では、どんなことを?

 答=旧作、新作の沖縄芝居の脚本をテキストにすることもある。沖縄口で書かれた脚本には当然(忘れてならない沖縄語)が、詰められている。それを参考に言語、風俗史、発音等々を学習する場と、気軽に理解していい。人が集まると、それぞれの出身地の方言表現や、昔ながらの風俗習慣、諺、歌謡が聞けて結構、楽しくやっている。

 問=「シマくとぅば普及運動」の一環?

 答=そう言えるかもしれない。

 問=そもそも(ばん)とは?

 答=芝居の開幕、閉幕を告げる(拍子木)のこと。

 問=現在の塾生は?職業は?年齢は?

 答=20人ほど。元公務員、教員、主婦、芸能人、デイサービス職員等々。毎週木曜日午後7時から、沖縄市上地在(沖縄市文化センター・芸能館4階)の1室を教室としている。年齢も30代から80代の在塾生。住まいも糸満市、豊見城市、西原町、宜野湾市、沖縄市、嘉手納町、うるま市、読谷村とさまざまで、楽しく通っている。

 問=入塾方法と会費は?

 答=入塾の意思表示のみ。維持費として年会費1万円。資料代月1000円。「来るもの拒まず、去るもの追わず」がモットー。あなたも入塾してみてはいかが。
 
 ~~~沖縄人ながら、わたしは沖縄口が使えません。

 答=使えないから(使える分)の言葉をひとつづつ仕入れるのですよ(笑)。

 こうして開塾して18年を経た。
 塾長北村三郎がここしばらく病気療養のため休塾しているが、放送人上原直彦が学長?と称して仕切っている。琉歌の詠み方の基本を勉強したり、塾生自前の琉歌を馴染みの節に乗せて歌い合ったり、結構ラフな空間を維持している。

 問=毎年、発表会・公演を?

 答=はい。学習した方言を活かして春に開催。素人芝居だが懸命に演じている。「ばん」公演の特長は、演目のほとんどがオリジナルということ。脚本も自前。したがって1回こっきりの上演という贅沢さ(笑)。

 問=今回は5月1日(火)午後7時。沖縄市民小劇場あしびなー。「日々好日・春一番」と題していますね。内容は?

 答=まず、塾生全員で那覇の三大祭りのひとつ「ジュリ馬行列」で開幕。あとは、ほとんどオリジナル。

 問=例えば?

 答=(本人思い込み)の「歌謡スター?登場」。金城睦治(小学校教諭)「ハッファバレイ=南洋慕情」。上間かな恵(佐喜眞美術館学芸員)「ひとりごと」。福原兼治(元沖縄市消防本部)「裏通りの女」など。これらの歌謡曲は上原直彦作詞・前川守賢作曲によるもので、本公演のために作られた。余談ながら「ばん塾生」になると歌手並みに自分だけのオリジナル曲が持てる(笑)。琉球舞踊家座喜味米子の「ハードロック生演奏」、舞扇をスチールギターに持ちかえての熱演。それに歌者前川守賢構成・自演による「島うたバラエティー」などなど。

 問=今回のテーマは?

 答=大仰なそれは考えていない。強いて言えば「遊び美らさ・シンカ清らさ」かな。例年ならば一人芝居、琉球講談など「語りもの」をプログラムしてきたが、今回は(観ての楽しさ・聞いての楽しさ)を前面に出したつもり。いまひとつ演目を。東京・池袋出身の加賀谷球黄、沖縄に住まいを移して数年。古典音楽家大湾清之師匠に師事して琉球横笛(ふぁんそう)を学んでいるが「琉球音楽を学習する上での沖縄口の重要性を感じた」とのことで去年「ばん」に入塾。大城貴幸(客員)の「特牛節」、當間清子の「遊び仲風節」の伴奏をつとめる。

 問=入塾申し込みは?

 答=期間はあえて決めてはいない。木曜日の午後7時に沖縄市文化センター芸能館4階に直接くれば、その日から塾生。とにかく「沖縄口の勉強会」が「ばん塾」。

 ある調査によれば「自分に存在価値を見出しているか」と問いに対してアメリカなど欧米人は85%前後が「見出している」と答えている。けれども日本人は44%程度。日本人が美徳とする(謙虚)がそうさせるのかもの知れない。
 そこで「ばん塾」にくれば、多種多様な人と交歓することで、自分では認識しなかった「自分の存在価値・存在理由」を見出し、日常の意識改革の糸口を発見することだろう。
 これまた大法螺を吹いたものだ。よろしければ5月1日の公演を覗いて観て、自分の存在価値を判断していただきたい。いずれにせよ塾生のモットーは「和」である。

 ※お知らせ‼
 ばん塾公演 
 日時:5月1日(火)午後7時開演 
 場所:沖縄市民小劇場あしびなー
 料金:2,000円
   

4月・世替わりの月

2018-04-10 00:10:00 | ノンジャンル
 4月は世替わりの月だ。
 *1日=米軍、沖縄本島上陸(1945年)。琉球政府成立。
 *2日=読谷村チビチリガマで住民、日本兵の集団自決(1945年)。
 *3日=遠洋航海の琉球漁船、日章旗掲揚ができないため、不審船として狙撃され死傷者。「球陽丸事件」(1962年)。
 *4日=明治政府。琉球藩を廃して、沖縄県とする(1879年)。
 *7日=「ひめゆりの塔」除幕(1946年)。
 *9日=日本軍司令部、軍人軍属に沖縄方言使用禁止を命令(1945年)。
 *瀬長亀次郎人民党書記長、刑務所出所歓迎に1万人参加(1956年)。
 *12日=中国武装漁船団100隻が尖閣諸島で操業(1978年)。
 *日米間で普天間基地全面返還合意(1996年)。
 *15日=通貨切替。旧日本円から軍票B円へ(1946年)。
 *18日=米従軍記者アーニー・パイル、伊江島で戦死(1945年)。
 *20日=最後の琉球切手発行(1972年)。
 *22日=最高裁が渡嘉敷島の集団自決に日本軍関与を認めた判決(2011年)。
 *23日=沖縄市市長に東門美津子当選。沖縄初の女性首長誕生(2006年)。
 *第44回全国植樹祭開催。天皇初来沖(1993年)。
 *28日=サンフランシスコ講和条約発効。本土は独立。沖縄・奄美は米国統治下に(1952年)。
 *祖国復帰協議会結成(1960年)。
 *米民政府、祝祭日に限り、学校での日の丸掲揚を許可(1953年)。

 列記しているうちに、敗戦の年6歳だった(あの日あの頃)がよみがえってきた。幼年だったからこそ戦禍を奇跡的に生き延びた親兄弟や運命を共にした人びとと共同体を組んで時勢を、いや、保護されて今日まで息災にしていると思うと、胸が詰まってくる。
 衣食住の「衣」は、世界の国のキリスト教団体から贈られてくる「救援物資」で間に合わせ「食」は、軍政府が管轄する配給所の配給と鉄条網の向こうにいる米軍兵士に(ギブミー)を連呼して入手するモノ。それに軍作業と称する基地労働者が基地内から戦果(無断持ち出し)の缶詰など主にした食料品で補い(住)は、捕虜地の旧家や民政府が建てた避難住宅・企画ハウスで雨露をしのいだ。
 少年の舌を驚かせたのは米製で種々の缶詰。それ欲しさに幾度、米軍基地の鉄条網にすがり(ギブミー)を叫んだことか・・・・・。

 缶詰と云えば(いきなり昨日今日の話になる)。久しぶりに(缶詰)に関するニュースに接し、感慨深いものを覚えた。いわく。
 県内で「カツオ缶詰」の輸入が急増している。沖縄地区税関によると、2017年の輸入量は前年比4.2倍の317トン、輸入額は5倍の2億3200万円と、いずれも過去最高を記録した。従来はほとんど本土経由で運ばれていたが、物流コスト軽減を目的に近年は海外からの直輸入が増えているという。
 県内ではマグロ缶とともに、チャンプルーの具材によく使われるカツオ缶。
 家計調査によると、2016年の1世帯あたりの魚介缶詰の支出額は、全国平均の2.3倍の4859円。長い間全国一を維持しており、同地区税関は「アメリカサイズされた食文化の影響」としている。輸入動向をみると、2013年から輸入量・金額とも増加し、2017年に急増。カツオ缶は今も多くが県外経由で運ばれており、消費量はさらに大きいとみられる。
 地区税関の調べでは、1部の業者が物流コストを低減するため、直輸入に切り替えているという。地区税関は「チャンプルーの具材としてカツオを含む魚介の缶詰は欠かせないため、今後も輸入は堅調に推移していく」とみている。

 「缶詰は終戦直後を経験した沖縄人にとって忘却できない食材」
 そう言い切る人もいる。それぞれが、それぞれの居住地で飢餓をしのいだ貴重品だったからだろう。「缶詰太り」という言葉が日常語になっていたのもそのころだ。食糧難の折りでも(戦果)による缶詰は不足することがない。毎食事、コンビーフ缶など、栄養満点のそれを食していると人間、哀しいかな(肥満)を余儀なくされるものらしい。
 そのことを証明した(数え唄)がある。
 捕虜収容地のひとつ、現うるま市石川に生まれた「石川小唄」がそれである。作者は歯科医師小那覇全孝(芸名舞天・ぶうてん)。
 「石川小唄」の1部にこうある。

 ♪痩せたお方は あんまりいない いないはずだよ缶詰太り 娘のクンダ(ふくらはぎ)は太る一方 鏡水大根素足で逃げるじゃないかいナ~

 鏡水は(カガンヂ)と云い、現那覇市小禄在・自衛隊那覇駐屯地内にあった集落。かつて大根の名産地。
 
 現在私は、缶詰はほとんど食さないが、たまさか口にしても「あのころの米製の種々缶詰の方が美味だったような気がする」と、つぶやいてしまう。
 戦争後遺症?に違いない。


島を離れる・・・・卒業式・進学

2018-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 僕の小学校、中学校は、家から徒歩で3分ほどのところにあった。
 カンカンカン!米軍製の空ガスボンベが告げる始業の音を聞いて、駆けて行けば、1時間目に間に合った。昭和20年前半のことである。
 しかし、高校は集落から小高い丘をひとつ越えて行かなければならなかった。路線バスが走ってはいたが「親は何のためにお前に両足を与えて生んだっ」と怒鳴る兄がいて、よっぽどのことがないかぎり、バス通学は許されなかった。
 それは貧しさというよりも、学校が30分では行ける近場にあったからである。
 いま、離島の子たちは小学校、中学校を卒業しても、島に高校がなく、親元を離れて、沖縄本島の高校に進まなければならない。バス通学が制限された僕なぞとは異なる(15歳の独立)を強いられている。

 この春、高校進学のために島を離れるいくつかの離島の子らの卒業式を覗いてみよう。

 {南大東島}
 南大東中学校第70期卒業式は14人。全員が高校進学を決めていて、15年を過ごした(ふるさと)を後にする。
 「届けこの想い。響けこの歌、愛する島を誇りに、はばたけ15の春」をテーマに、島びとこぞって卒業式を挙行、一人ひとりがスピーチをした。
 「島のことは決して忘れない。挫折しそうになったら、島の風景や島びとや親を思い出して頑張る」。
 「誇れる島があるから、どんな困難も乗り越えられる」
 純粋な決意に両親や教員も熱い涙でエールを送った。

 {北大東島}
 ここも第70期の卒業生6人を送り出した。
 「高校では、新しい友達をたくさんつくりたい」
 「将来の夢は消防士。体力をつけたい」
 「高校では部活と勉強の文武両道を目指す」
 すでに(人生設計)を成している。

 {粟国島}
 小中学校生11人。
 「ランドセルを背負って小学校入学から9年。喧嘩もしたけど、みんなで楽しく過ごせた。父母には感謝の気持ち以外にない。15年間育ててくれてありがとう」」
 「島の暮らしでは、人とのつながりの大切さを学んだ。いつも一緒にいた同級生もほとんど違う高校に進むが、みんな目標を持って頑張りたい」。

 {渡名喜島}
 卒業生4人。
 「両親や地域の人たちに感謝している。いまほど(感謝)の意味を理解したことはない。これからも迷惑をかけることがあるかも知れない。応援してほしい」。
 同小中学校は、小学校卒業生が2人。島を出て行く中学卒業生4人とは、兄弟姉妹同様育った仲。真珠の涙を見せる子もいて、島中が優しさに包まれた。
 「人生は、分かれ道と上り下りのある峠の連続のようなもの。迷ったらゆっくり考え、自分で決めて前へ進んでほしい。夢の実現に向かって歩み続けてほしい」とは、先生たちの(贈る言葉)。

 {座間味村}
 中学校卒業生は同校70期生6人。
 卒業式会場にいた弟に向けて「島を離れるが、自分に代わって家族をまもってほしい」と呼び掛けるしっかり者や、涙に言葉を遮られ、在校生や参列者から励まされる子もいて、地域の人たちは、幼いころから見守ってきた子らの門出を祝った。卒業生代表は「不安はあるが、仲間と過ごした島での楽しい時を胸に成長したい」と謝辞を述べ、会場からの拍手を浴びた。
 卒業生6人は、村内の公共施設に合宿。料理や洗濯など身の回りのことを自分でできるよう実習して、独立する(15の春)に備えた。

 これら島を離れて高校進学をする子らは、先に本島や本土に出た兄弟や親戚宅に同居するか、下宿、アパート暮らしをすることになろうが、すでに独立心は都会の子よりも確立されているようだ。

 僕の中学校卒業、高校進学のころはどうだったか。
 「高校に行ったら演劇部を作ろう。いや、文芸部にしよう」なぞと、生活感のないことばかりを(悪ガキ)仲間と語り合っていた。なかには「高校生になったら、煙草を吸ってもいいんだよね」などと抜かす奴もいた。そいつはいま、40年近く勤めた警察畑を20年前に定年退職して、盆栽と地域の老人活動を楽しんでいる。
 ‟夢の花ひとつ求めて卒業す