旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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天下の秋を知る・琉歌

2018-10-10 00:10:00 | ノンジャンル
 *桐一葉落ちて天下の秋を知る。
 詩歌の好きだった兄直政に教わって知った句。確か中学3年のころの秋だったと記憶する。四季の移ろいに関心を持ったのもその句が発端だったのかも知れない。
 ♪秋の夕日に照る山紅葉~
 ♪夕空晴れて秋風吹き~
 学校唱歌で知る秋が、ぐっと身近に感じられたものだ。
 四季がはっきりしている本土では紅葉、夕風などなどで秋を敏感に感じ取るようだが、南の島ではどうか。日没の早まり、7月後半から発生し始める台風が25号を名乗り終えたころ、秋という言葉を口にし出すようになるのが常だ。

 琉球歌謡の場合「秋」は「四季口説=節口説=しき くどぅち・しち くどぅち」の中で、

 ♪秋は尾花が打ち招く 園の真垣に咲く菊の 花のいろいろ珍しや。錦、更紗と思うばかりに、秋の野原は千草色めく~

 と表現。また「道輪口説=みちわ くどぅち=別名・秋の踊り」は、

 ♪空も長月初めころかや 四方の紅葉を染める時雨に濡れて雄鹿の 鳴くも寂しき 折りを告げ来る。雁の初音に心浮かれて共に打ち連れ 出ずる野原のキキョウ苅萱 萩の錦を来ても見よとや招く尾花が 袖に夕風~

(まだつづくが・・・・)。このように和文でつづられ、歌三線で表される。和文は1700年代から琉球歌謡に多用される。お察しの通りこの頃に本土の能・狂言が導入されて音曲、台詞、所作を組み合わせた演劇的独自の芸能「組踊」が誕生。また、三八六句の琉歌体に対して、上句は七五、下句は八六の「仲風調」の詠歌が生れている。

 1969年7月1日・沖縄風土記社発行。島袋盛敏著「琉歌集(定価7弗)」の分類「四季」の吟詠の部には春の部67首。夏の部43首。秋の部52首。冬の部28首が収められている。詠者が明確なもの、詠み人知らずと沖縄の秋の捉え方もそれぞれ。その中からいくつかの琉歌を拾い、直ぐそこにきた(おきなわの秋)を見つけてみよう。

 ◇暑さ涼まちゃる 手に馴りし扇 余所になち暮らす 秋になたさ
 《あちさ しだまちゃる てぃになりし おうじ ゆすになち くらす あちに なたさ
 詠み人=城間恒模。
 
 歌意=長い夏の間涼風を生み、片時も手放すこともできなかったクバ扇。気がついてみれば、それを使わなくても暮らせるいい時候になった。我が家にも秋がやってきたようだ。
 クバ(棕櫚)の木の葉を広げ、乾燥させて作るクバ扇。ひところはどこの家庭にも2個や3個はあったものだが、このごろはルームクーラーに主役の座を明け渡して、とんと見かけなくなった。それでも、かつての夏の必需品だったクバ扇は民芸品としてその専門の店頭にある。

 ◇秋毎にウトゥジャ 今日ぬぐとぅ揃てぃ互に眺みらな庭ぬ小菊
 《あちぐとぅにウトゥジャ きゆぬぐとぅ するてぃ ながみらな にわぬ くぢく
 詠み人=小禄按司朝恒。
 
 歌意=秋が来るたびに弟たちよ。今宵のように我が家に集まって、私が丹精込めて育てた庭の小菊を眺めようではないか。やがて月も顔を見せるだろう。
 ウトゥジャウトゥジャンダとも言い、兄弟の(弟)の名称。妹はWUナヰ。兄はヤッチーヤチメー。姉はンーメー。秋の花もいろいろだが、沖縄のそれの代表のひとつは小菊だったようだ。殊に首里城下に屋敷を構える士族や那覇の富豪は競って豪邸を建て、庭園を誇り、季節ごとに花の品評会を催したという。いずれにせよ秋の月、秋の花を兄弟姉妹寄り合って楽しむとは風流だ。

 ◇情ねん雲や 情あてぃ風ぬ 吹ち払らてぃ給り 後ぬ今宵
 《なさきねん くむや なさきあてぃ かじぬ ふちはらてぃ たぼり あとぅぬ くゆゐ
 詠み人=太田朝明。

 「後の今宵」とは、旧暦八月十五夜に対して旧暦九月十五夜を指す。そのころは秋風も本格的に感じられ、月もいよいよ冴える。因みに今年の「後ぬ今宵」は10月23日。「二十四節季の「霜降」でもある。
 歌意=せっかくの名月というのに今宵は雲が多い。その風流を知らない情ない雲は、情ある風よ、吹き払っておくれ。友輩集い名月の出を楽しみに待っているのだから。

 こうした猛暑からの解放を期待している人々の心情に後押しされて「おきなわの秋」は、里へ下りつつある。つと見ると部屋のクーラーは27度を示し、肌に快い。
 「いましばらく頑張っておくれ」と声を掛けめくっていた「琉歌集」のページをとじる。
 ‟覚書して 捨てられぬ 扇かな”也有。


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