旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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花盛り・琉球舞踊会その⑤

2010-11-03 23:59:00 | ノンジャンル
 戦後の娯楽の中心は映画だった。
 琉球舞踊も芝居公演の演目として大衆に支持されていたが、芝居公演の行く先には不安がつきまとっていた。先見の明があった舞台役者の中には、戦前から身につけていた舞踊のみに専念し、研究所を設立して〔舞踊家〕に転身する人が出始めた。それは昭和27年頃には顕著になるが、教習料は〔礼金〕という慎ましやかな納め方。しかし、一方ではチケット制を採用して、手ほどきを受けるたびにチケットを切る研究所もあった。これを憂慮した主だった舞踊家連は昭和32年<1957>「琉球舞踊研究所連盟」を設立して〔正統なる継承・普及〕に当たった。同連盟はやがて解消。「琉球芸能連盟へと発展した」と、名優故宮城能造<明治39年~平成元年・1906~1989>は、沖縄タイムス連載「私の戦後史」に記している。
 回数券制は戦前も成されていた。ところが、芸能における現金の遣り取りは〔卑しい行為〕とされる社会通念があって公表をひかえていたが戦後、アメリカ世という時代の転換の中でそれを一掃。〔琉球舞踊を正しく継承しよう〕とする気運が高まり、教習料制が採用され今日に至っている。これもアメリカンデモクラシーのひとつだろう。

 大道勇著「琉球手帳=初心者から上級者までの琉球舞踊解説書」から、2009年10月現在の〔舞踊家名簿〕を紹介する。流派・研究所・道場・会等は五十音順としている。
      
        踊り:仲嶺真永

 ☆玉城流
 ※敏風会家元=宮里敏子<那覇市>
 *敏風栄乃会会主=渡嘉敷栄子*敏風貞寿乃会会主=渡慶次貞子<那覇市>*敏風真文の会会主=真栄田文子<那覇市>*敏風利美の会会主=安次嶺利美<那覇市>*敏風直和会会主=阿波根直子<那覇市>*敏風摂舞会会主=中村米子<兵庫県尼崎市>*敏風末広の会会主=前底裕子<那覇市>*敏風会師範=外間智子<豊見城市>*敏風会師範=天久和子<浦添市>*敏風会師範=島袋ゆかり<那覇市>*敏風会師範=花城静子<南風原市>*敏風会師範=与座喜美子<那覇市>*敏風会師範=譜久村悦子<北谷町>*敏風会師範=佐和田君枝<那覇市>*敏風会師範=嘉陽田早苗<那覇市>*敏風会師範=城間末子<那覇市>*敏風会師範=松田勝江<浦添市>*敏風会師範=津波古アキ<那覇市>*敏風会師範=玉城美奈子<浦添市>*敏風会師範=堀川久美<那覇市>*敏風会師範=大底紀子<那覇市>*敏風会師範=知念みさこ〈与那原町〉*敏風会師範=高良美江子〈豊見城市〉*敏風会師範=山下安子<鹿児島県大島郡和泊町>*敏風会師範=上間悦子<那覇市>*敏風会師範=国分多喜子<沖縄市>*敏風会師範=宮里加代子<うるま市>*敏風会師範=高安京子<宜野湾市>

 ※琉扇會宗家=平田行正〔琉舞・組踊道場〕*二代目家元=平田智之<那覇市>
 *琉扇よしの會會主=浜元良美<糸満市>*琉扇京乃會會主=伊禮京子<糸満市>*琉扇伊登姿乃會會主=西 伊登子<鹿児島県大島郡知名町>*琉扇湖泉の會會主=湖城静子<糸満市>*琉扇城之會會主=城田盛順<那覇市>*琉扇華実會會主=座安栄子<那覇市>*琉扇八千代乃會會主=神田千代子<沖縄市>*琉扇會師範=具志堅朝堅<糸満市>*琉扇會師範=安谷屋智子<糸満市>

 ※渡嘉敷流 あけぼの乃会会主=花岡勝子<那覇市>*師範=白兼とよ子<那覇市>

 ※八嘩流家元=真栄田千加子<那覇市>
 *餘音春の会会主=友寄春美<宜野湾市>*餘音の会師範=仲里左斗子<うるま市>
 *餘音の会師範=友寄とみ子*餘音の会師範=砂川サヨ子<那覇市>*餘音の会師範=大内章代<那覇市>

 ※舞芸の会さら *会主=座喜味正子<沖縄市>*会主=座喜味米子<沖縄市>

 ※真境名本流 始祖=真境名由康 二代目家元=真境名由苗<ハワイ州ホノルル>
 *師範=真境名律弘<北中城村>*師範=真境名愛子<カリフォルニア州>*師範=真境名千代子<那覇市>*師範=真境名迪子<那覇市>*師範=真境名秀子<北中城村>*師範=真境名あき<浦添市>*師範=真境名英美<沖縄市>

 ※真南風流・真紀の会家元=神村真紀子<浦添市>
 *真紀の会師範=宮城美佐子<浦添市>*美ら萌の会会主=金城博惠<那覇市>*美ら紅の会会主=金城惠美子<那覇市>

 ※道扇流 家元=金城道枝<那覇市>
 *道扇会師範=赤嶺光子<那覇市>*道扇会師範=新屋敷孝子<豊見城市>*道扇会師範=儀保政彦<南風原町>*藤代乃会会主=藤戸絹代<那覇市>*武美の会会主=武富美智子<浦添市>

 稽古事は、幼少の頃から始めるに越したことはない。
 しかし、五十の手習い・六十の手習いもまたいい。もっともその道のみに生きるには、五十、六十はちと遅かろう。舞踊研究所・道場をしばしば訪問することがあるが、中年の入門者も少なくない。その人たちは家元・会主・師範を目指しているのではなく、琉球舞踊を観るだけでなく〔踊る立場から親しむ〕ために勤しんでいる。「あわよくば、新人賞でも受けてみようかしら」と、にっこり笑ったある婦人がいた。瞳が澄んでいた。モノを始めるのに〔遅い〕は決してない。
 
 〔舞踊家名簿〕は、次週11月11日号につづく。

     


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