ツトムさん家の写真日記。

写真いっぱいの楽しい日記です。(全面表示でご覧下さい)

第499回 秩父霊場巡礼の旅。 五番札所 語歌堂。

2010-03-30 22:18:42 | 旅行

2008 03 23(日)

秩父霊場巡礼の旅は五番札所の臨済宗小川山長興寺の語歌堂(ごかどう)へ・・・。
時刻は午後3時、山国秩父の日差しはすでに夕陽模様。

一番~四番札所までは混んでいましたが、時刻は遅いし離れた場所にある五番札所の語歌堂はほとんど人気(ひとけ)がありません。

木立も無くさっぱりとした境内、朱塗りの山門から入山。
 
語歌堂山門には「阿吽」(あうん)と「二王尊」の板額。二王尊とは怖い顔した仁王様なのでしょう・・・。
語歌堂に祀られているのは七観音の一尊に数えられる
准胝観世音菩薩。(じゅんていかんぜおんぼさつ)

マンガチックであまり怖くない仁王様ですが、不心得者が入らない様に手を突き出して入山禁止のポーズ。
 
語歌堂山門(仁王門)を通って境内へ・・・。

三間四面の堂々とした語歌堂。五色の幕が総開帳の華やかさを添えていました。


語歌堂正面に立てられた願い柱から本尊・准胝観世音を結ぶ「願い紐」を手にした筆者は読者皆様の御健勝を心からお祈り致しました。
 
准胝観世音のお手元に願い紐はちゃんと繋がっていましたから、願いは届いた事でしょう・・・。
五番札所・語歌堂の准胝観世音は別名「子返し観音」(行方不明になった娘探しに信濃からやって来た老婆が、ここの観音様に願を掛けると観音の霊験で娘と再会できました。)とも呼ばれ、坂東・西国・秩父の百観音の中でも珍しい貴重な観音様なのです。


語歌堂に掲げられた御詠歌額には「ちち母の めぐみもふかき 語歌堂 大慈大悲の 誓いたのもし」と・・・。 御詠歌額は文化年間に寄進され、願主は江戸の堺屋七兵衛。

語歌堂五香堂とも言われます。
ここの御詠歌に似ているのが和歌山県にある西国三十三観音の三番札所・風猛山粉河寺の御詠歌「父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や」。


普段は長興寺が管轄する無住寺なので、語歌堂の至る所に千社札が貼られ見苦しく悲惨な状態になっていました。
 
観音様が嘆いています、文化財の景観を損なう自分勝手な千社札貼りは止めてください!! 貼りたければ自分の家に沢山どうぞ・・・。

語歌堂にも“秩父三千女”さん寄進の大きな絵馬額が飾られて・・・。

「その昔、旅僧に化身した観音様がこの御堂を訪れ、長興寺の大檀家だった本間孫八と夜を徹して和歌を詠み語り合いました。 翌日の夜明けには旅の僧は見当たらず、ただ和歌を詠み合った記憶だけが孫八に残り、旅僧が観音菩薩の権化だったのではと思った孫八は御堂を語歌堂と名付けました。」・・・語歌堂の名前の由来ですが、旅の僧侶は観音様とか聖徳太子だったとかの説があります。

第五番札所になる語歌堂の霊場札は250mほど離れた長興寺の札所で受け付けています。


平成20年3月23日の秩父霊場巡りは五番の語歌堂まで、3月30日には六番札所から巡礼の旅を続けました・・・。

2010 03 30(火)記。  前橋市  最高気温10.7℃

おまけコーナー。

AKB48  桜の栞(PV調)


春なのに  柏原芳恵


第498回 秩父霊場巡礼の旅。 四番札所 高谷山金昌寺。

2010-03-26 20:47:55 | 旅行

2008 03 23(日)

前回掲載の秩父”山田の春祭り”のついでに一昨年の春に掲載した秩父霊場の続きをご覧下さい。

2008年3月23日(日)に巡った“秩父霊場”は第三番札所の岩本山常泉寺迄でした。⇒
ここクリック。

今回は第四番札所にあたる曹洞宗“高谷山金昌寺”(こうこくざんきんしょうじ)を訪問。

豪壮な趣きのする金昌寺山門、なにより人目を引くのは山門正面に吊り下げられた巨大な草鞋(わらじ)

2m超の大草鞋には人も仁王様も眼をむいてびっくり!!
札所一番の大きさを誇り、健脚と崇められる仁王様の大きな足よりも遥かに余る大きさです。(草鞋と仁王像はほぼ同じ高さ。)

 

大草鞋のある山門から入山し、観音堂へ続く長い石階段沿いには古びた石像が沢山並んで巡礼者を暖かくお出迎え・・・。

酒樽に乗り右手に酒徳利を持ち、大盃を頭に載せた地蔵尊は禁酒地蔵と呼ばれるユニークな石像。 江戸時代この地方にいた大酒呑みの名主が酒の上で大失敗をし、それからは断酒の誓いとすべくこの禁酒地蔵を寄進したそうです。(別名は酒呑羅漢。)
酒好きの貴方も禁酒地蔵の前で禁酒宣言しなさい!!

 
金昌寺山門裏の梅の花も早々と満開に咲き、地球温暖化の恩恵を享受!!

山門の二階部には「西国三十三所観世音」の木像・観世音菩薩様が33体・・・。
ここに参詣すれば西日本まで行かなくても済みますね。


壁も窓も無い吹き晒しの観音様は永久に難行苦行を強いられている様で実に可哀相・・・。

石段を登り、観音堂までの道筋の中間地点に比較的新しい御堂が建っていました。

 
内部には大きくて立派な観音立像、(杓杖を持っているので地蔵かも)堂外にも有り難い石仏などが並んでいます。

宝永六年(1709年)に再建された、三間四面で唐様式の観音堂には春の日に誘われた俄か巡礼者たちが熱心に堂内を拝見していました。



数百年経て苔生した石仏たちが並ぶ参道を観音堂へ・・・。


願い柱から紅白の願い紐が堂内へ繋がれ、人々の願い事を御本尊に届けます。


紅白の願い紐の上の壁に掲げられた扁額は中央に銅製の観音をはめ込んでいます。享保11年に江戸神田横大工町の観音講中が寄進奉納。
「あらたかに まいりておがむ かんぜおん 二世あんらくと たれもいのらん」と記された金昌寺の御詠歌額。

 
本尊は厨子に安置された十一面観世音菩薩(像高107cm 室町時代、行基の作)。良く見ると願い紐が右手に繋がっていました。

その昔、この観世音菩薩が巡礼娘に姿を変え、地元の極悪人・荒木丹下を改心させ仏門に帰依させたことから、金昌寺は荒木寺とか新木寺とも呼ばれ親しまれています。(奉納絵馬)

 
金昌寺観音堂の回廊右に安置されている石造の“子育観音像”は他では見られない写実的芸術作品です。(寛政四年に江戸の商人・吉野屋半左衛門の寄進。)

座って乳飲み子に乳房を含ませている観音様は母の慈愛そのもの、別に慈母観音とかマリア観音とか名付けられ、欧州のダビンチやミケランジェロの石像を彷彿させる技巧で創られています。(蓮台に3匹のカエルが刻まれている事から天使ミカエルに例えられ、隠れキリシタンが秘かに信仰したマリア様と言う説も・・・。)

亀の子地蔵の前では秩父霊場巡りツアー客に御遍路姿のガイドが丁寧に解説。

 
何か謂れがあるのでしょう・・・亀に乗った地蔵様の石像も珍しく人気を博していました。

金昌寺本堂の小高い裏山には近年に建てられた六角堂

 
六角堂の内部には金色の小さな「十六大善神像」が安置されています。

観音堂右手の墓地に懐かしい名前を発見!
胸像が建っているのは“荒船清十郎”の墓地。

 
衆議院予算委員会のロッキード事件質疑で「どこのコーチャンだか知りませんが・・・?」とトボケた元衆議院議長の荒船清十郎氏。 秩父地方は彼の金城湯池で大票田だったのですね。

四番札所高谷山金昌寺境内の至る所に石造りの野仏が置かれていました。
その数は全部で1319体とか・・・。


江戸時代に打ち続いた天災飢饉での犠牲者を弔うため、寛政元年に住職の古仙登嶽和尚が「石造千躰地蔵尊建立」の立願をし石像を造り始めたのが起源とされ、一時は三千八百体以上になったそうです。
今では石仏愛好家なら必ず一度は訪れる有名な寺なのです。

石像群の中には様々な仏たちも・・・十方百方に光を放つ光背を背にした石仏は「考える人」のロダン作かも・・・。

 

春の秩父路は霊場札所巡りが最適な季節です、皆様もメタボ防止にピクニック気分で出掛けられては如何でしょうか・・・。

2010 03 26(金)記。  前橋市 薄    最高気温12.4℃   

おまけコーナー。

本当の話「検察は自民の犬」 ⇒ ここクリック。

春のおとずれ - 小柳ルミ子

桜前線  小柳ルミ子
 


第497回 秩父“山田の春祭り” 下。

2010-03-23 23:23:23 | 旅行

2010 03 14(日)

前回の秩父“山田の春祭り”上。からの続編。

秩父市山田の恒持神社境内の一角では春の草花の展示即売会。
色とりどりの美しい花が咲き、一足先に春の到来を告げているようです。

 
その中に珍しい花が・・・黄色い花を咲かせた“黄花かたくり”。
普通のカタクリは白い花を咲かせますね。

午後の1時頃に山田地区の恒持神社から出立した祭り屋台は街中を御旅所へ向かってにぎやかに巡行。



華やかな屋台を支える裏方さん達の苦労は大変なものです・・・。

秩父地方ですから道路も平坦ではありません、なをのことが入ります。

勢子たちの元気な掛け声が雪を頂いた武甲山にコダマするようでした。



山田の春祭り屋台巡行動画をご覧下さい。

秩父山田の春祭り 2010年 3 CIMG7477・7478 ムービー.wmv


秩父の山々を代表する武甲山に祭り屋台が良く似合います。


恒持神社の境内で奉納された屋台の稚児舞が路上の数箇所で演じられていました。
 
本組が曳く屋台では「菊づくし」「子守」の舞が披露されました。

秩父山田の春祭り屋台巡行での舞姿をご覧下さい。


秩父山田の春祭り 2010年 4 CIMG7460・7461・7471 ムービー.wmv


春間近な秩父の青空に「ホーリャイ ホーリャイ」と掛け声も高らかに・・・。
割り竹に桜色和紙を飾り付けた花笠が枝垂れて揺れ、春祭りに一層の華やかさを感じさせます。



まだ寒い秩父地方に早くも春の訪れを告げる、一番最初の行事“山田の春祭り”の屋台巡行は賑やかな“秩父屋台囃子”の音曲を鳴り響かせて目的地の御旅所“八坂神社”へ・・・。

上り坂は力を合わせて“ホーリャイ ホーリャイ・・・・・”と江戸時代から受け継がれた祭り屋台を曳く光景は山国秩父の歳時記の一章を垣間見るようでした。

山田の春祭り屋台巡行動画をご覧下さい。

秩父山田の春祭り 2010年 5 CIMG7492・7497 ムービー.wmv


巡行途中で花笠山車は2台の屋台と「ホーリャイ」の掛け声合戦をしながら見送ります。


山田の春祭り、町辻での掛け声合戦動画をお楽しみ下さい。

秩父山田の春祭り 2010年 6 CIMG7512・7514 ムービー.wmv


巡行道中の途中でまた稚児舞を奉納します。演目は「越後獅子」。
 

山田の春祭り屋台巡行中の越後獅子をご覧下さい。

秩父山田の春祭り 2010年 7 CIMG7527・7533・7532 ムービー.wmv


屋台で奉納舞が御披露されている間、舞台下を見ると数本のネギが・・・。
車輪係員が車輪と軸受けに何やら細工を施しています。

 
車輪と車軸の僅かな隙間に細い竹棒を使ってネギを差し込んでいました。

ネギで何をしているのか?って、 答えは潤滑油の代わりにネギを使っているのです。
その昔、油脂類がとても貴重だったのでネギヌメリを潤滑剤の代用として使っていた名残だそうです。
ネギ
・・・生活の知恵”って凄いものですね・・・。

午後の西陽が屋台の見返り幕を照らしながら巡行は進みます。

 

目的地の御旅所への路傍には先日降ったが日中でも溶けずに・・・。
山間地の秩父らしい長閑な祭り風景が見られます。



屋台の“上乗り”と呼ばれる着飾った男たちは綱引き勢子と呼吸を合わせて力強く“ホーリャイ”“ホーリャイ”・・・。


恒持神社から約2時間掛けて、午後3時過ぎに山田高篠地区に鎮座する御旅所の八坂神社へ無事到着。


小さな八坂神社では神職たちによる御旅所神事が厳かに行われました。

一本歯の高下駄で歩き通した朱天狗も春の日差しを浴びて一休み・・・。

山田の春祭り 八坂神社からの帰路動画をご覧下さい。


秩父山田の春祭り 2010年 8 八坂神社 CIMG7651・7655 ムービー.wmv



その後、祭り屋台は御旅所の八坂神社から引き返し、八坂神社での神事を終えた神官たちも太鼓を打ち鳴らしながら神輿と一緒に出立地の恒持神社へ・・・。
 
春とは言え、午後4時半過ぎにはじんわりと冷え込んできた秩父を後にして帰宅の途へ・・・。

夜には、暫らく途絶えていた山田の春祭り花火が盛大に打ち上げられたそうです。

山田の春祭り”の花火大会をお楽しみ下さい。(ben3602255様動画を転載。感謝!)


20100314『山田の春祭り』~夜の花火~6~



山田の春祭り行事と共に山深い秩父地方にも待ち焦がれたの季節が訪れます・・・。

こちらのサイトにも山田春祭りの画像・動画が多数有ります。⇒ ここクリック。

2010 03 24(水)記。 前橋市時々  最高気温13.3℃

おまけコーナー。


「春よ、来い」 浜崎あゆみ

「ふるさとは春です」 浦部雅美


第496回 秩父“山田の春祭り” 上。

2010-03-18 21:59:12 | 旅行

2010 03 14(日)

秩父路に春を告げる行事“秩父山田の春祭り”の見物。

国道140号線を走って秩父市の北東に位置する秩父市山田地区へ・・・。
祭り会場への通り道は全面通行禁止!
車は臨時P場に指定された高篠中学校校庭に止めで祭り場まで徒歩です。(P場代500円)

高篠中学から西方にくっきりと望めたのは日本二百名山の一つで秩父を代表する
(標高1304m)。 山腹には4日前に降ったが岩肌に白く残っていました。
 
高篠中学から約1Km程の場所に祭りの出発神社である恒持神社(つねもちじんじゃ)が鎮座。

恒持神社の境内には露店が出て、朝から沢山の人達が集まって賑やかなこと。

社殿前には鮮やかな屋台が勢ぞろいし華やいだ雰囲気に・・・。

午前10時過ぎから神楽殿では神代御神楽「白髭大神」が舞われていました。
 
神楽鈴と古剣を携えた白髭大神神楽の厳かな舞姿に見惚れ・・・。
木製手すりに取付けられた鉄釜は賽銭入れでした。

11時頃から恒持神社拝殿前で地元の代議士など名士達が参列し、山田春祭りの式典が開始になります。

 
神官による祝詞の奏上と榊の御祓いで恒持神社春例大祭の神事が厳かに始まりました。

儀式の最中は恒持神社境内に据えられた笠鉾などを見物。

 
秩父市の恒持神社春例大祭(山田の春祭り)で先頭に巡行するのは華やかな花笠鉾
この笠鉾は珍しい三段笠鉾!! 普通は略式の一段の笠鉾ですが、山田春祭りで曳かれるのは三段積み笠鉾。 江戸時代に製作されたそうで、正式な笠鉾は三段形式なのだそうです。
花笠の内部まで色彩彫刻が施されていたのには驚きでした。



笠鉾の横に並んだ屋台を見学、「目出鯛」を豪華な刺繍で飾った見返り幕が陽を浴びて輝いていました。

舞台付きの屋台山車は内外共に豪華そのものです。

 
極彩色に彩られた透かし彫りの破風飾り彫刻の見事さ・・・。

神楽殿の横に据えられた二台目の屋台も鮮やかな姿で巡行の開始を待っていました。



最後に出発する屋台の彫刻もカラフルで素晴しいの一語に尽きます。
 
朱赤の地に竜虎の刺繍の見返り幕も一見の価値ありです。

天井まで絵が描かれた丁寧な造りの屋台。


屋台の天井画は全て花鳥風月の風流な図柄。

参会者全員で恒持神社に拝礼し、山田の春祭りの開始となります。



屋台巡行に先立って各屋台では稚児舞が奉納されました。

先ずは、花笠を手にしたあどけない女児による長唄の「菊づくし」が舞われます。

続いて清元で「子守」の舞。



たいへん上手な踊り児で、日頃の練習の成果が出ていました。


続いてもう一台の屋台でも稚児舞が奉納されていました。

長唄の「越後獅子」に合わせて獅子頭を付けた角兵衛獅子が舞います。

「越後獅子」の小太鼓舞の次は長い白布を振る芸。



流石は越後獅子、体を仰け反らしながら布を振る「布晒しの舞」を巧みに踊っていました。(川水で布をさらす・洗う仕草。)

スケートの荒川静香選手がトリノオリンピックで演じたイナバウアーを思い出しました。

秩父春祭り、「越後獅子舞」動画をお楽しみください。

秩父山田の春祭り 2010年 1 CIMG7408 ムービー.wmv


屋台で子供たちが演ずる奉納舞を堪能した後、いよいよ恒持神社から上組(大棚)の花笠鉾を先頭に屋台巡行に旅立ちます。


山組(中山田)が曳き廻す屋台は威勢の良い勢子たちの掛け声でイザ出陣・・・。


こちらは最後に出発する本組(荒木)の豪華屋台。


恒持神社から屋台巡行出発の動画をご覧下さい。

秩父山田の春祭り 2010年 2 CIMG7410・7417・7419 ムービー.wmv


五穀豊穣厄除けを祈念する祭り「山田の春祭り」の屋台巡行は恒持神社から御旅所の八坂神社へ賑やかに繰り出して行きました。



秩父の小鹿野町で昨年4月に行われた「小鹿野春祭り」もご覧下さい。⇒ ここクリック。

次回は山田の春祭り巡行編です。

2010 03 18(木)記。 前橋市夕方から  最高気温13℃

おまけコーナー。

正しい?赤ちゃんの作り方。(風船じゃないんだから・・・。)

Como Hacer un Bebe | How to make a baby


第495回 日本三大古碑 多胡碑。

2010-03-10 18:24:03 | 旅行

2010 03 07(日)

群馬県民に長く親しまれる“上毛かるた”の項で「昔を語る 多胡の古碑」と詠まれている古代碑の見学。

本日は群馬県多野郡吉井町池にある“多胡碑”(たごひ・国特別史跡)が年に一度の一般公開日。
春は三月と言うのに朝から冷たい小雨がそぼ降って・・・。

上信山岳地帯から流れ下る鏑川(かぶらがわ)沿いの「吉井いしぶみの里公園」の中に建つ“多胡碑記念館”脇にひっそりと佇む多胡碑に今日は大勢の人達が見学に来ていました。


3月7日午前10時から覆屋の扉が開かれ、内部の古碑が年に一度の公開になりました。

何故に今日なのか? 多胡碑の碑文に「和銅四年三月九日」(西暦711年)と刻まれていますので、毎年三月九日に一番近い日曜日を公開日としたそうです。
(来年は和銅四年から1300年になり、盛大な記念式を行う予定)

鉄筋コンクリート製の覆屋の真ん中に日本三大古碑で有名な“多胡碑”が鎮座。
地震にも耐えうるコンクリの台座に建てられた重量感溢れる石碑です。
(戦後にコンクリート台座で固定し、原状から大きく損なわれてしまったので、多胡碑は国宝にも重文にも指定されなかった由。)

開扉と同時に隣接の多胡碑記念館の職員による丁寧な解説が行われました。

頭頂部の宝形造りの笠石と碑文が刻まれた方柱石(碑身)ともに、この場所から南へ直線距離にして約6Km離れた牛伏山から産出する牛伏砂岩(通称 多胡石)で造られています。


多胡碑のサイズは重量1372kg 全高152cm 笠石幅88cm(碑身 高1125cm  幅60cm)。

多胡碑の碑身4面の左右・裏面の3面は荒い石ノミの痕のみで、正面だけに文字が彫られています。
この多胡碑は新しい郡として多胡郡を創設したことを記した建郡記念碑なのです。

砂岩碑としては比較的に良く保存されていましたが、碑文には読み難い部分もありますので、、多胡碑記念館に展示されていた墨拓本も合わせてご覧下さい。

 
一文字6~14cm。、6行80文字北魏六朝楷書(りくちょうかいしょ)風文字で記されています。

碑文の文字は古来から金石文(きんせきぶん・岩石や金属などに刻まれた文字)の模範とされ、中国清朝時代の中国楷書大辞典「楷法溯源」(かいほうさくげん)に多胡碑の中から39文字が手本として採択されたほど、おおらかな格調ある書体として多胡碑は内外に名を知られていました。

多胡碑文の内容は「弁官(朝廷の役所)から上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の内から三百戸を分け一つの郡と成立させ、(ひつじ)に給う(委ねる・統治させる。)。郡名は多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)に宣言す。 (署名人は)左中弁正五位下多治比真人(げたじひのまひと) 太政官の二品穂積親王(ほづみのみこ)、左大臣の正二位石上尊(いそのかみのみこと)、右大臣の正二位藤原尊(ふじわらのみこと・藤原不比等のこと)」

この碑文は“続日本紀”(しょくにほんき)に記されている和銅四年三月辛亥(六日)の「上野国(こうずけのくに)甘良(かんら)郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおやけ)・緑野(みどの)郡の武美(むみ)・片岡(かたおか)郡の山等(やまな・山名)の六郷を割って、別に多胡(たご)郡を置く」という記事と多胡碑の碑文とが合致しているとの事。

少子化・人口減の現代と違って、古代はこの地域の人口が増えたでしょうね。

因みに、多胡郡とは胡人(こじん・中国西域のウイグル人)が多く住む地区の意味でこの周辺にはシルクロードや中国からの渡来人が沢山来ていた事が推測出来ます。

多胡碑文は平らに整えられた岩石の表面に断面が字形をした丸底彫り(V字形の薬研彫り説もある)で彫られています。

碑文(上画像)の最初の行に刻まれた「(上)野國片岡郡緑(野郡)」のの文字がかんむりにと書いた極めて珍しい字で、異体文字と言うそうです。

現在の群馬県多野郡は多胡郡と緑野郡が合併し、一字づつ取り出して創られたのです。

次々に詰め掛ける沢山の見学者たちは熱心に説明を聴いて、それぞれが古代に想いを馳せていました。


日本三大古碑の一つ、多胡碑の勉強になる解説と質問・応答は一回10分ほどで終了しました。(公開日の説明は何回も行われます。)

多胡碑見学の後、多胡碑覆屋の周辺に点在する多胡碑を詠んだ歌碑を拝見。
左の歌碑「玉かしは 書残したる かみつけに うづもれぬ名ぞ いまもかがやく」 陸奥出羽按察使 前中納言有長(綾小路有長)。
  
中央歌碑「万代(よろずよ)も いかでつきせじ 名にしあう ほまれぞのこる 多胡の碑(いしぶみ)」 藤原寛一(地元吉井町の歌人)。
右歌碑「深草の うちに埋もれし 石文の 世にめづらるゝ 時は来にけり」 揖取素彦。
揖取素彦(かとりもとひこ)は初代群馬県令(県知事)、妻は吉田松陰の妹で多胡碑の保存管理に尽力しました。

多胡碑の直ぐ近くに建つ多胡碑記念館横のテントでは寒い中、ボランティアの方々による心尽くしのサービスがありました。

 
寒いので甘酒かと思ったら、なんと熱々のなめこ汁!!
ヘルシー満点のなめこ汁を有難く頂いて大感激・大感謝の公開日でした。

折角ですから多胡碑記念館にも入館。


有難い事に多胡碑公開を記念して本日は入館料は無料!(通常入館料200円)

多胡碑や吉井町のパンフなど頂戴してから館内を見学です。

古代史の勉強になる様々な展示物がありました。
中国古銅器で祝宴などで使用された酒杯の(しゃく)や甲骨文字、また、九州の志賀島で発掘された金印(漢委奴国王)の実物大複製品など・・・。

多胡碑記念館ですから、やはり、古碑に関する展示物がメインです。


左から日本最古(646年)の石碑「宇治橋断碑」、薬師寺の仏足石仏足石歌碑山ノ上碑。(全てレプリカ。)

下の笠石が載った石碑が日本三古碑の一つ、国宝「那須国造碑」(なすのくにのみやつこのひ 全高 約150cm、レプリカ)。
場所は栃木県那須郡湯津上村(現在は大田原市)の笠石神社。刻字は多胡碑と同じく北魏様式です。
 
右上が日本三古碑の一つ、宮城県多賀城市市川にある国重要文化財の多賀城碑(たがじょうひ 全高186cm、レプリカ)。
刻まれた碑文には中国で書聖と謳われる王義之(おうぎし)系の六朝楷書文字が用いられています。

館内の一室では複製の多胡碑を使って碑文の説明が行われていました。


特にの字がめると記した異体文字の話と、多胡郡の郡司に任命され、この地と奈良の都を一日で往復したという羊太夫伝説の話には皆さん興味を示していました。

多胡郡の郡司に任命される羊太夫伝説についてはここクリック。

羊太夫の慰霊祭と言われる”富岡市 大島の火祭り”もご覧下さい ⇒ ここクリック。

多胡碑記念館を一巡し、帰り際に記念館の庭で見かけた古墳です。
手前は粘土槨円墳の片山1号古墳。左後方の黒い葺石壁の古墳は南高原1号古墳(共に移築です)

 
南高原古墳には巨石が使用された横穴石室があり、古代の豪族の権力の大きさが偲ばれます。

多胡碑や多胡碑記念館を見学し、大変に勉強になった多胡碑見学の一日となりました。
古代史に興味ある方、古代ロマンに浸ってみたい方、ぜひ吉井町にある日本三古碑の多胡碑を訪ねられては如何でしょうか・・・。

2010 03 10(水)記。  前橋市 早朝まで後、小後、 積雪7~10cm 最高気温4.8℃ 寒い春!


おまけコーナー。

世界最大「ピタゴラ装置」(Rube Goldberg Machine)

OK Go - This Too Shall Pass - Rube Goldberg Machine version


第494回 新町ひな祭り 下 於菊稲荷と雛祭り。

2010-03-05 12:12:12 | 旅行

2010 02 27(土)

新町ひな祭り”見物のついでに、新町行在所から100m程奥に建つ古社“於菊稲荷神社”(おきくいなりじんじゃ)に参拝。
京都の伏見稲荷よろしく、広い境内には真っ赤な鳥居が幾重にも並び、参拝人を本殿へ誘います。

 
鳥居の左手にある水屋(手水舎・文政6年1823年創建)は一見の価値があります。
瓦葺水屋の軒先の透かし彫り彫刻の精緻さも驚きますが、一枚岩の大きな水鉢(水盤)の見事なこと!!


水鉢正面に彫られた冰香(ひょうこう)と云う伸びやかな文字!
江戸時代の文人(狂歌師)大田蜀山人の狂歌に「詩は詩仏、画は文晁、芸者は小万に狂歌こそ我。」と詠われ、書画芸術にも造詣が深かった漢詩人・大窪詩仏の銘入り水鉢
脚足にも獅子や牡丹など丁寧に彫られた重厚な作品です。


新町の於菊稲荷神社は1582年(天正10年)8月、小田原の北条氏政と豊臣方の厩橋(前橋)城主滝川一益が付近を流れる神流川の河原で対戦した時、北条氏がこの稲荷神社に戦勝祈願を行い、その甲斐あって大勝利を収めた北条氏は当時小さな祠だったのを立派な社殿に再建し直したそうです。

その後、幾多の災禍に合い現在は小規模な社殿になっていますが、霊験は新たかと言われ、特に開運縁結びには効能が高いと信仰を集めています。
 
於菊稲荷の拝殿には摩訶不思議な雛人形が飾られていました。

近くによって良く見ると・・・、ナ、なんと、狐のお雛様!!

こんなの変わり雛見たことありません!!
ナニこれ珍百景!!ですね。 楽しいアイデアに驚くやら感心するやら・・・。


狐ひな人形の上を見上げると、そこには大きな奉納絵馬
左は「かむろつき遊女参詣図」(狩野源信 画) 右隣りは「武者絵図」(石川梅英 画)

 
右上の鳥居のある絵馬は「遊女参詣図」(狩野美信 画)
遊女達が通るのは於菊稲荷神社の唐銅製大鳥居、昔の栄華が偲ばれます。



於菊神社の由来をご一読ください。

天下太平の徳川の時代、中山道新町宿も往来多くして栄え、宿場の一角には沢山の妓楼が軒を連ねていました。
その一つの大黒屋に越後から売られた於菊という娼妓がおりました。於菊は美しい上に気立てが良く、新町宿で一番の売れっ妓と評判でした。


於菊は稲荷神社を毎日のようにお参りする熱心な信者でした。また、子供好きな優しい性格で神社境内で遊ぶ子供達に菓子を配ったり、一緒に遊んだりして子供や親達からもたいそう慕われていました。

ある時、風邪をこじらせた於菊は足腰立たぬ病となり、妓楼から追い出されてしまいますが、心配した子供やその親達が稲荷神社に小さな小屋を建て3年に亘り看病につとめました。

ある夜半、病に伏せる於菊の枕元に稲荷霊が現れました。それから不思議とたちまち悪病が全快し、於菊はもちろん人々も稲荷信仰のお蔭と感謝したそうです。

病から全快した於菊は報恩のために一生涯稲荷に奉仕し、人々の為に尽くす事を決意して稲荷神社巫女となりました。

巫女になった於菊には次第に神の霊が移り、神秘的な霊力が備わるようになりました。
於菊の話す言霊は天候や災害などを的中させたりし、困っている人々を大いに救う様になります。
それからは、人々は「困った事は稲荷神社の於菊に聞け。」と於菊に絶大な信頼を置くようになり、稲荷神社は「於菊の稲荷」、「稲荷の於菊」と呼ばれ、以来“於菊稲荷神社”と親しまれ尊崇される様になりました。

その後、於菊稲荷神社はたいそう栄え、江戸後期には最も隆盛を極めます。
近郷近在は元より江戸、京大阪、長崎など全国から参拝者を集め、中には文人墨客、力士、歌舞伎俳優、名僧や遊女達など数多がここ於菊稲荷神社に参詣する名高い神社になったそうです。


社殿に多数掲げられた遊女達の奉納絵馬はその当時の様子を物語っていました。

誠に有り難い於菊稲荷神社に深々と頭を垂れて読者皆様の御幸運をお祈り致しました。

於菊稲荷の後は新町の商店に飾られた雛人形を見物します。
行在所の向かい側にある酢屋製菓の七段飾りの内裏雛

  
なかなか美しい優雅な顔立ちのお内裏様たちです。

こちらは小林呉服店の雛人形

反射するのでガラス戸を開けて撮影です。


内裏雛は大正14年の作。
この他にもかなり古い人形が沢山並んでいました。


アクザワ電気店の店頭には手作りの雛人形が飾られて・・・。

豪華過ぎずにほのぼの感がうれしい春のお雛様

新町商工会事務所のショーウインドウにも雛飾りが・・・。
 
かなりの時代物の人形たちが集められています。


ガラス越に立派な御殿雛飾りも見られます。

優雅な古色雛人形は大正初期の作品。お姫様の冠が豪華です。
 
五月は端午の節句の鐘馗様かと見間違うような武者人形なども・・・。

よほど保存状態が良かったのでしょう、あまり退色せず美麗な衣装のお雛様

新町商工会のショーウインドウでは明治・大正・昭和の雛人形が楽しめます。

新町ひな祭りを散策中、街角に一人たたずむ閻魔堂を発見!
 
閻魔堂の中には怒っているのか、笑っているのか判断しかねる閻魔様。
ひな祭りですから、たぶん、怖い顔をしながら微笑んでいるのだと思いますが・・・。


新町ひな祭りのパンフに従ってぶらぶらと歩いて高田家具店へ。
 
綺麗な五段飾りの雛人形が 商品の家具に囲まれていました。

次に訪ねた店舗は時計の「ひうが」とカバンの「サトウ」。
 
「ひうが」では精巧な置時計に混じって華麗な内裏雛が飾られていました。

カバン店サトウでは店内の中央に雛壇が・・・。
 
ひな壇飾りの横ではつるし雛の販売中。
変わったところでは魚のつるし雛「鯛の下げ飾り」(1000円)は珍品ですね。


カバン「サトウ」に飾られたひな壇人形は見てきた中では一番豪華でした。

バブルの最中に購入した由、内裏雛の前に並んだ小さな雪洞にまで灯りが点ってバブリーな佇まいです。
約20年前のバブル経済って何だったのでしょうか?不景気な今では夢まぼろしを見たような・・・。


時計の「ひうが」の相向かいで商いする「たいこ焼きのとみや」の店内を拝見。

商売物のお菓子類に並んでお雛様が陳列棚に飾られていました。

大雑把に新町ひな祭りを紹介しましたが、拝見した店舗は極めて少数、約60店舗が新町ひな祭りに参加しています。皆様も来春に訪問されては如何でしょうか・・・。

2010 03 05(金)記。  前橋市時々  最高気温11℃

おまけコーナー。

骨格から美女誕生 ⇒ ここクリック。


第493回 新町ひな祭り 上 行在所。

2010-03-02 19:19:19 | 旅行

2010 02 27(土)

27日は昨夜までの天気予報で「終日雨模様」と言っていたのとは裏腹に朝から快晴!!(最近の天気予報は当たりませんね。)
暇つぶしに近場の“ひな祭り”見物に前橋市の直ぐ南に位置し、江戸時代の五街道の一つであった中山道の宿場町として栄えた新町へ・・・。


新町商店街の中央にある広場“行在所公園”にはひな祭りのイベント売店のテントが張られ、晴天のもと見物客や地元の人達が三々五々訪れていました。
 
ブランチ宜しく、小腹満たしに表面全体に甘味噌を塗った上州名物“焼きまんじゅう”(150円)と新町商工会のご婦人たちお薦めの“甘酒”(100円)を円錐屋根の休憩所で頂きます。
(今年の2月28日と3月3日は甘酒の無料サービスデーとか。)


口の周りにべた着いた焼きまんじゅうの甘味噌を舌先で舐めながら、行在所公園に隣接する“新町行在所”へ・・・。 (行在所 ⇒ あんざいしょ)

新町ひな祭りメイン会場の一つにもなっている“新町行在所”は明治11年の秋に北陸・東海地方を巡幸した明治天皇が新町で宿泊した建物・施設とか。

旧中山道に面した木造瓦葺平屋の建物です。

南向きの日当たりの良い主座敷には緋毛氈に並べられた沢山の雛人形たちが日向ぼっこ。

主に七段飾り雛人形が見易い様に、濡れ縁廊下に沿ってL字形に配置されていました。

 
かなり時代物の御殿雛も春の陽を浴びて晴れやかそうに・・・。

七段飾りの最上部には風格ある内裏雛、お姫雛や三人官女たちが丸顔ですから近年のものかも知れませんね。


古い由緒ある行在所の家屋に春を告げる雛人形は良く似合います。


艶やかな雛人形は、何故か見る人の心を和ませて・・・。


可愛らしい木目込み作りの雛人形
見る人の気持ちが純真な幼子に戻ったりして・・・。



ひな人形見物の若い気分とは裏腹に、近頃の体力は「おまえ百まで、わしゃ九十九まで、共に白髪が生えるまで・・・」てな具合で、最近は長寿を寿ぐ高砂人形が気になったりします。
(蛇足ですが、翁たちが手にしている箒と熊手の由来は、百・・ひゃく・・はく・・箒 九十九まで・・くまで・・熊手。)



新町ひな祭り会場行在所雛人形などを見て歩いて丁度正午過ぎ。
昼食を食べにJR新町駅前通りにある喫茶店「トムソン」に入店しました。



この喫茶店“トムソン”の店内にも内裏雛が飾られていました。

レジ横の狭い通路に飾られた立派な内裏雛、店主の話では、今年の「新町ひな祭り」に展示されている雛人形では一番古いお雛様とのこと。

作られたのは明治時代の中期らしく、扇と杓が無く衣装も退色気味ですが、全体の保存状態は大むね良好で、この内裏雛が今年の「新町ひな祭り」ポスターを飾っています。


風格ある優雅な顔立ちの内裏雛を眺めながら喫茶店トムソンでスパゲティーセットなどで昼食を・・・。


新町ひな祭り”は「新町まちづくり塾」が主催して今年で4回目、今年は2月7日から3月3日までの期間中に加盟店の約60店舗で雛人形を飾り、新町の町おこしに一役買っています。

明日の3日は「お琴演奏会」「アマチュアバンド生演奏」や地場名産品直売など盛り沢山の楽しいイベントが催されます、読者の皆様も奮ってご参加ください。


次回は新町ひな祭り 下 商店の雛飾り於菊稲荷神社

2010 03 02(火)記。  前橋市のち、小  最高気温8.2℃

おまけコーナー。


イモ虫なネコ



同じ姿勢を続ける頑固なネコ。 Why people don't walk cats.