ツトムさん家の写真日記。

写真いっぱいの楽しい日記です。(全面表示でご覧下さい)

第757回 塚原卜伝 墓地。

2013-01-30 12:00:00 | 旅行

2012 12 29(土)


茨城県鹿嶋市須賀にある“塚原卜伝の墓”を訪問。
北浦近くの田園地帯の中、小高い丘陵の麓に「剣豪 塚原卜伝先生墓地 入口」の立派な石柱が立ち、背後の山裾の竹林に囲まれた場所に墓所らしき建屋が見えます。(石柱の前は無料P場になっています)
 

平成元年に行われた“塚原卜伝生誕500年記念祭”で整備された墓所参道(平2年3月完工)の石段を上がり墓地へ・・・。
  
剣聖・塚原卜伝の墓石は昔風な銅葺きの覆屋の中に在りました。
墓所の左右に立てられた石灯篭には「武徳昂揚」と刻まれ、剣に生きた卜伝の人徳を偲びます。

塚原卜伝は延徳元年(1489年)鹿島神宮神職の卜部吉川家の二男として生まれ、廻国修行し剣の道を究め、この近くの草庵で83歳の生涯を全うしました。 (平均寿命45歳ほどの時代としては極めて長命です。)
墓所には無駄を一切廃した素朴な墓石が置かれていました。
 
墓石には2名の戒名が刻まれ、向かって右が卜伝の戒名「寶剣高珍居士」、左に記されていたのが妻の妙(たえ)の戒名「仁直妙宥大姉」。
戒名連名の墓石ですから生前は相思相愛の仲の良い夫婦だった事が判ります。
卜伝の位牌は近くの長吉寺に納められているそうです。

その昔、この地にあった塚原家の菩提寺“梅香寺”(火災焼失)の僧侶たちの墓も敷地内に点在していました。
下中画像は吉川家に伝わる「塚原卜伝」の肖像画。 右は鹿嶋市のキャンペーンキャラクター「ぼくでん」。
   
墓所に掲げられた説明文。 
剣聖 塚原卜伝の墓 塚原卜伝は、今から五百年以上前の延徳元年(1489)に常陸の国一之宮鹿島神宮の神職である卜部家吉川左京覚賢(あきかた)の二男(幼名は朝孝)として誕生、幼少の頃に沼尾の塚原城主・塚原土佐守安幹(やすもと)の養子となり、のちに元服して塚原新右衛門高幹と名乗ります。 幼少の頃から実父に鹿島の太刀、師の松本備前守に天真正伝香取神道流を学び、永正二年(1505)には、十六歳で廻国修行の旅に出て、十四年間腕を磨き、初めて真剣勝負や戦場の戦いを経験します 。 永正十五年に帰国すると、鹿島神宮に千日籠もって精神修養に励みました。やがて悟りを得た僕伝は、大永三年(1523)に二回目の廻国修行に出かけ、天文元年(1532)に戻ると塚原城主となり、妙を妻に迎えます。 しかし、短い結婚生活で妻が亡くなると、城を養子に譲り三回目の修行に出かけます。 京では、時の将軍足利義輝や伊勢の北畠具教(とものり)など多くの大名や武人に剣を教え、十一年後、鹿島に戻ります。 三回目の修行から戻った卜伝は、塚原城近くの草庵に棲み、弟子たちに剣を指南しながら、元亀二年(1571)八十三歳の生涯を閉じました。 親子が、兄弟が、血で血を争う戦国時代にあって、「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」(活人剣)と平和思想をもって生ぬいた卜伝を、いつしか人々は剣聖の名でたたえました。』 鹿嶋市史跡第一号 昭和四十六年十月二十日指定 

塚原卜伝 ⇒ http://city.kashima.ibaraki.jp/info/detail.php?no=3391


同時代に生きたもう一人の剣聖・上泉伊勢守秀綱http://blog.goo.ne.jp/ttmida/e/01afe9d9bd1ec358fc3861885829363d

2013 01 30(水)記。            前橋市      最高気温 10.4℃     最低気温 -0.2℃


おまけコーナー。

50年前に失くした自転車が木になっていた!
Helen Puz Finds Bicycle She Lost Over 50 Years Ago Swallowed By Tree


目の錯覚を起こす不思議な画像。
http://hamusoku.com/archives/7676309.html

「ウォールマート」にやってきた奇人変人。
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51809534.html

「コップ半分の水」の例え話。
http://labaq.com/archives/51777561.html


第756回 塚原卜伝 生誕の地。 龍神社。 鹿島アントラーズ栄光の碑。

2013-01-25 20:00:00 | 旅行

2013 01 03(木)

鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の東国三社詣での途中、鹿嶋市にある剣豪にして兵法家“塚原卜伝”の生誕地を訪問。

昨夜(24日)8時からNHKテレビの「木曜時代劇」で放映され始めた「塚原卜伝」は茨城県鹿嶋市の出身。
元は鹿島神宮神官の卜部吉川家に生まれ、幼くして塚原家の養子になり塚原新右衛門高幹として家名を継ぐことになります。

TV時代劇「塚原卜伝」で主役の卜伝を演じるのは男優の堺 雅人さん。
故郷の鹿島から武者修行の旅に「鹿島立ち」し、数々の戦や武芸試合を闘いながら剣聖と呼ばれるまでの剣豪ドラマ。
  
JR鹿島神宮駅(オレンジ色の場所)から3~4分坂を上がった坂道の途中に「剣豪 塚原卜伝生誕之地」があります。
この場所は見晴らしも良く「茨城百景」の一つに選定されています。

生誕の地は駅から鹿島神宮へ行く道の途中で、周りはマンションなどの住宅街の一角。

鹿島神宮と同じく北向きに“塚原卜伝”の立派な銅像が建てられていました。(平成4年建立)
 

剣聖といわれるだけあって、銅像・塚原卜伝の表情は穏和ながら真剣な眼差し!
例年に無く寒いこの冬の北風にも平然と耐えている姿が心を打ちます。
  
正面から見ると背後の現代風なマンションが非常に邪魔で、古武士の佇まいとは違和感が大です。
背後に常緑樹木などでタイル壁面を隠せないものでしょうか?

塚原卜伝の詳細は ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8D%9C%E4%BC%9D

囲炉裏端で食事中の塚原卜伝は宮本武蔵の不意打ちに合いますが、とっさに鍋蓋で防ぎ武蔵を倒したという伝説の絵図。

四六時中神経を研ぎ澄ませていなければ生きられませんから剣聖とは辛いものですね・・・。

塚原卜伝像が立つ広場には数々の石碑が建てられていました。
左から、塚原卜伝顕彰古碑。      剣聖塚原卜伝生誕500年祭記念碑。       北茨城市出身の詩人・野口雨情の歌碑。
  

塚原卜伝生誕地を後に、坂道を鹿島神宮表参道方向へ上ります。

鹿島神宮門前商店街の一角に鹿島神宮の火防を司る“龗神社”(龗=龍・りゅう、雨冠りに龍)が鎮座。
高龗神(たかおかみのかみ)と闇龗神(くらおかみのかみ)の二龍神を祭っています。
 
鹿島神宮御手洗の御神水を守護する火災除けの神。
昔の消防ポンプのことは龍吐水と言い、龍神は火除けの神として尊崇され、家内安全・商売繁盛・安産子育ての神社でもあります。

その龗神社近くの交差点に置かれていたのが、“鹿島アントラーズ 栄光の碑”。
大きな石製サッカーボールと鹿島アントラーズの輝かしい歴史と数々のタイトルなどを刻んだプレートです。


次回は“塚原卜伝の墓所”を訪ねます。


2013 01 25(金)記。     前橋市       最高気温 7.9℃      最低気温 -1.4℃


おまけコーナー。

シャッフルしたカップの中のボールを当てるネコ。
Kido's First Shell Game



寒い日は羊に乗って散歩するネコ。
Cat on Sheep FUNNY



「おはよ~」と返事する猫マーヤ。


第755回 鹿島神宮 下。

2013-01-22 12:00:00 | 旅行

2012 11 22(木)


前回の御手洗池から奥宮に戻り、分岐辻の石標碑を右奥に進みます。

ここ奥宮を訪れた小林一茶は「大なへ(大地震)に びくともせぬや 松の花」と詠んでいます。 

鹿島の森木立の中に石碑が2個、大きな石碑は武甕槌大神(たけみかづちおおかみ)が大ナマズの頭を踏み押さえ、地震防止をしている図。 
 

江戸時代も大地震が多発したので鹿島神宮の要石にまつわる「鯰絵」が大流行しました。
   

消防防災博物館の「世相をあらわす地震鯰絵」が面白い。
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R204&ac2=R20407&ac3=1262&Page=hpd_view

昔の言い伝えでは、地震を起こすのは“龍”又は“大蛇”で、後世(江戸初期)になって“鯰”(ナマズ)に替わったそうです。

森の奥に進むと“要石”や道標・句碑などのある神域があります。
 
江戸時代の文化14年5月26日鹿島へ詣でた小林一茶が詠んだ俳句「大地震(おおなえ)に びくともせぬや 松の花」

これからは地震が起きないように要石を礼拝します。石柵に囲まれた神域の中央に“要石”の上部がわずかに顔を覗かせていました。
香取神宮の要石が形だったのに対し、こちらの要石の頂きは形、お賽銭硬貨が少しは載り易いと思います。
  
地表に出ているのは直径30cmほど、この下地中深く岩盤となって奥州まで続いているそうです。
水戸光圀公が家臣に命じて七日七夜掘らせても掘り出すことが出来なかったと伝えられている要石。

「ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿島の神の あらむかぎりは」。

古来幾多の人々が訪れ祈った“要石”、周囲には石碑・句碑が散在しています。
左は「太々神楽」の道標、常夜灯だったのでしょうか? 灯明を入れる火袋の部分が無く、笠が中台に接しています。
  
中画像は松尾芭蕉の「枯枝に 鴉(カラス)のとまりけり 穐(あき 秋)の暮れ」句碑。
右は明治27年3月に奉納された孝阿が詠んだ「あら連ふ里 かしまの森能(の) 要石 動かぬ国乃 志須め(鎮め)なる奈理」の歌碑。(草書体漢字と平仮名で刻まれていますので不正確かも・・?)

奥宮・御手洗・要石を拝見した後、本宮社殿の相向かいにある「宝物館」を見物。


館内には骨董好きが喜びそうな国宝級の“お宝”が沢山陳列されていました。
鎧兜・刀剣などに混じって「悪路王の首」なる奇怪な面、平安時代に坂上田村麻呂が奥州征伐で殺害した悪路王の首を寛文年間に木製で復元した面で、寛文4年(1664年)に奥州の藤原満清が奉納したそうです。
  

刀剣コーナーでは国宝の「金銅黒漆塗平文太刀」(俗称・直刀)が大切に保存されています。
長さ2.25mの直刀で奈良時代の製作と云われ、鉄製では最古最大の刀剣で、鹿島神宮の神剣で「韴霊剣」(ふつのみたまのつるぎ)と呼ばれています。
 
全長は3mもあり、長すぎて実戦用ではありませんから、儀式用の刀だったと思われます。

神宮のお宝を拝見し、直ぐ横の御札授与所に立ち寄り各種縁起物など品定め。


絵馬付き鏑矢は破魔矢、「お喰い初めの石」なる不思議な小石もありました。                       
「お喰い初めの石」は生後百日に一生食べ物に困らないようにと願う儀式「お喰い初め」で歯が丈夫になるように祝膳に添えられる霊石。
 
この石は先に訪ねた要石の霊力で清められています。

表参道を戻りながら左右の森に鎮座する摂社末社を参拝。
須賀社・熊野社・津東西社・祝詞社の四社と、その奥に坂戸神社・沼尾神社の遥拝所などあります。
 

倒壊した二の鳥居の近くには“銚場の稲荷様”と呼ばれ、商売繁盛で親しまれている稲荷大明神があります。
銚場とは直会(なおらい・宴席)をする場所のことで、昔はこの場所で祭典の後の直会を行っていたそうです。
  
二の鳥居の横に建つ石碑には「霰(あられ)降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に われは来にしを」(万葉集・大舎人部千文)の歌。(霰降りは鹿島の枕詞 霰が降る音がかしましい事から)
「鹿島の神に武運を祈願して、防人として戦いに来たのです。」との意味かも・・・・。これが“鹿島立ち”の元になった歌だそうです。
東国からの防人は鹿島神宮に武運長久を祈願してから任地に赴きました。それを“鹿島立ち”といいます。

戦前戦中はこの短歌と“鹿島立ち”が戦意高揚のために利用喧伝されました。
鹿島神宮香取神宮も共に戦(いくさ)の神様を祭る社やしろ)だったのですね、共産党支那の征伐をお願い致しましょう・・・。

次回は鹿島神宮ゆかりの剣聖“塚原卜伝”。


2013 01 22(火)記。    前橋市       最高気温 12.7℃      最低気温 2.0℃


おまけコーナー。

2013年1月20日 午前2時42分頃、爆発音とともに関東の空を照らした流れ星。(埼玉県深谷市と寄居町の境付近)


ブルガリヤの野党党首演説中に暗殺未遂!(弾丸不発)
演説中の党首の頭に銃突き付ける、ブルガリア


 


第754回 鹿島神宮 中。

2013-01-18 12:00:00 | 旅行

2012 11 22(木)


前回に引き続いて、“鹿島神宮”の奥参道と奥宮・御手洗など参拝。

本社殿の前に見えるのは仮殿(重文・元和4年1618年建立)と高房社(右 摂社)、仮殿は本殿修理の時に使用されました。
高房社は常陸国二の宮・静神社の祭神(建葉槌命)を祀り、昔は本殿参拝の前にこの社を拝すのが作法だったそうです。
  
仮殿の正面に立つ大杉の中程からが寄生繁茂した珍しい樹木も見られます。
奥参道入口、敷石の両側に旧東神門の礎石が残り、ここから奥社までは約300mの樹木鬱蒼とした奥参道が続く。

奥参道に沿って巨木の杉木立が続き、その奥は“鹿島の樹叢(じゅそう)”と呼ばれる広大な森林が広がっています。
 

途中の左側で見たのは「さざれ石」、君が代の歌に出てくるサザレ石。 その脇に神獣の鹿を囲った「鹿園」があります。
この地は大昔は「香島」と言われていましたが、鹿を神の使いと崇めたので養老年間頃から鹿島と呼ばれるようになったとか・・・。
 
さざれ石や鹿園がある一帯は、神仏習合時代には鹿島山金蓮院神宮寺があった場所で、親鸞上人も度々訪れたそうです。

奥参道の途中に見られるのは末社の熱田社、スサノウ命と稲田姫を祭ります。  
鹿島神宮奥宮と柿麿・虎杖の句碑と「右ハかなめ石」「左ハみたらし」と刻まれた道標石碑、江戸時代の雰囲気が伝わる場所です。
 
句碑には「月花に 和らぎしや 常陸帯」柿麿。 「鶯や 神楽拍子に なれて鳴く」虎杖。

鹿島神宮奥宮は慶長10年(1605年)徳川家康が奉献し、現在の本殿の場所に鎮座していたそうです。
14年後に二代将軍・徳川秀忠が現在の本社殿を寄進したのでこの地に遷座して奥宮となりました。
 
小さいながらも荘厳の趣が感じられる奥宮。 奥宮も北向きに建てられた社殿です。
鹿島神宮を参拝した折に松雄芭蕉が詠んだ「此松の 実生せし代や 神の秋」の細長い句碑も近くにあります。
石製の句碑上部の空間には投句箱が置かれていたのでしょうか?

扉以外は白木造りの質素な社殿、いかにも霊験がありそうです。 
奥宮前から分岐辻を左に向かい、200m程の距離にある御手洗(みたらし)へ下ります。
 

御手洗池の横にある湧水茶店「一休」で一休み、御手洗の水で作った「おでん」を注文すると赤米のご飯が嬉しいサービス!
 

大昔から参拝者が身を清めた御手洗は旱魃時でも絶えることなく清水(毎日約450kL)が湧き出し、一年中水温(12℃前後)が変化しないそうです。

また、御手洗池は大人でも子供でも水位が胸の乳を越えないと言われ、鹿島七不思議の一つです。(子供は立ち、大人は屈むから・・?)

御手洗池の真上に張り出した霊木の巨樹が不思議な威圧感を与え、神秘的な風情を醸します。 水上鳥居の奥が湧水口
 

御手洗が流れ出す湧水口、雨が少ないせいか水量が細い感じもしました。 清水は背後の山が浅いので美味しい味とは云えません。
 
傍に松露庵雪才が詠んだ「涼しさや 神代のままの 水の色」の古句碑。

石標は「御手洗〇」、〇は川か池かも・・。最下部文字が判読出来ません。 透明に澄みわたり清涼感漂う御手洗池
  
鹿島神宮といえば剣聖・塚原卜伝、この地で剣の奥儀を極め、「一の太刀」を編み出しました。

御手洗池で今年は1月20日(日)に「鹿島神宮大寒禊」が行われます。(大寒禊=だいかんみそぎ)
大寒禊については下記ページを参照下さい。
http://wadaphoto.jp/maturi/kasima3.htm

池の近くには石碑や摂社・末社が木立の中に数多く見られます。
御手洗からなだらかに下る参道を歩いて鹿島神宮の裏入口へ・・・。
 
裏参道の鳥居が見当たらず、かつての石鳥居の基壇に土が盛られ寂しい光景。
東日本大震災で倒壊した鳥居の名残と思われます。

裏の鳥居と御手洗の位置から推測すると、現在の裏参道から入り御手洗で身を清め、坂道を上って社殿に向うのが本来の参拝順序だったのではと感じましたが・・・。

次回は、鹿島神宮の要石・宝物殿・摂社など拝見。


2013 01 18(金)記。       前橋市        最高気温 4.0℃    最低気温 -2.6℃

おまけコーナー。

突然雪ダルマが動いたら・・・。
Funny - Funny Scary Snowman Prank - Season 3 Episode 4



美しすぎる雪の結晶。(ロシア・モスクワ)

http://thesuperslice.com/2012/12/07/macro-snowflake-photography-andrew-osokin/


第753回 鹿島神宮 上。

2013-01-15 22:00:00 | 旅行

2012 11 22(木)

晩秋の一日、北関東自動車道を突っ走り、常陸国(茨城県)の一之宮“鹿島神宮”を参拝。

先ず向かったのは霞ヶ浦北浦に面して建てられた"鹿島神宮 第一の鳥居”。
建っている場所の北浦湖畔の大船津一帯を見渡したが、鳥居らしき物は見当たりません。

散歩中の方に尋ねると、3.11地震の後に撤去して今は無くなってしまったとの事。
確かに鳥居があった場所は新しいアスファルトで塞がれていました。(右は在りし日の一之鳥居、画像は拝借。)
 
いつの日にか第一の鳥居は大船津の水上に建てられるそうです。(厳島神社の鳥居風かも・・)

昔の絵図では水の中に建てられていますから、先祖返りになる訳ですね。


一之鳥居の場所から約4kmにある“鹿島神宮”境内入口の近くの無料P場に駐車し、250mほど参道商店街をを石像など見ながら歩きます。
 
参道商店街の突き当たりの境内入口にあるべき第二之鳥居が見当らず、なにか間が抜けた感じ・・・。
総御影石造りで日本一の大きさ(高10m 幅15m)を誇った二之鳥居のあった地点には細い苗木が左右に2本植えられていました。
  
3.11地震であえなく倒壊、今度は境内の樹木を用材にして鹿島形の木造鳥居を建てる予定(2014年完成)とか。(中央画像が完成図)
立派な第二之鳥居が建つように祈りつつ境内へ進みます。

石畳の参道の両側に終了した「菊花展」の葦簾(よしず)小屋が立ち並び、その後ろに石灯篭(常夜灯)が列をなしています。
地震の時に倒れなかったのか疑問に思いながら参道を歩いて行きます。
 
手水舎でこんこんと湧き出す清水で心身を清めて参拝の準備OK.

手水舎の横に格調ある大きな楼門、水戸黄門様の父で水戸初代藩主・徳川頼房公が寄進した朱塗り楼門。(寛永11年・1634年)
日本三大楼門の一つ、他は熊本神社と筥崎八幡宮と言われています。
 
威風堂々とした壮麗な構えの楼門、掲げられた扁額は東郷平八郎の筆になります。(香取神宮楼門額も東郷元帥筆)

楼門に控える“随神像”と裏側に置かれた奇妙なオブジェ御幣。
輪切りした板材に金や赤の点や稲妻マークなど・・・何か謂れがありそうな摩訶不思議な御幣物体、
  

楼門の右脇に立つ巨大な杉は二郎杉(樹齢700年余)、社殿後方の御神木に次ぐ神木です。
二郎杉の下に見られる石碑は松尾芭蕉が詠んだ「名月や 鶴脛高き 遠干潟」を刻んだ句碑。
  
二郎杉の根元にある絵馬掛に奉納されていたのは絵馬ならぬ絵鹿、さすがアントラーズの地元と感心します。
鹿は奈良の春日大社と同じく鹿島神宮の御神獣でもあるのです。

鹿島神宮の拝殿、その奥に本殿(修復中)、社殿の後ろに見えるのが御神木(樹齢1200年?)です。

神社としては珍しく社殿が北向きに建てられています。
その昔、蝦夷征定の最前線基地として北に睨みを効かせていたのでしょう・・・。

昇殿参拝者の背中越しに旅の無事を祈念し二拝二柏手一拝。 
祭神は武甕槌大神(たけみかづちおおかみ)、本殿内の祭神は東を向いているそうですから横顔を拝む事になります。
本殿・幣殿は修理カヴァーで全く見えませんので裏手へ回ります。
 

本殿裏の一見目立たない神域に木柵で囲まれた摩訶不思議なものが・・・?
 
木柵の中央に鎮座していたのは"鏡石”と言われる御霊石、平たい円盤状で直径7~80cmほど、鏡石の由来・由緒は判然としません。
名前から石表面はピカピカに磨き上げられ、陽光を反射させていたのか?顔を映して楽しんでいたのか・・・それとも、ここで祭祀を執り行った磐座なのか、三種の神器の八咫鏡の原型か・・・? 想像に興味が尽きません。

晩秋午前の鹿島神宮、拝殿前の石鳥居は三之鳥居(仁慈門)。楼門は西からの入口なので社殿と直角になります。
拝殿・幣殿・本殿などの社殿は元和5年に徳川二代将軍・秀忠が寄進、国の重要文化財に指定されています。
 
社殿両翼に置かれた唐金(青銅)灯篭の見事さを眼に焼き付けて、奥参道を経て鹿島神宮奥宮へ向かいました。

(昨年の画像ですが、初詣気分でご覧下さい。)


2013 01 15(火)記。     前橋市      最高気温 5.7℃     最低気温 -0.6℃


おまけコーナー。

正月料理に飽きたら、蚊ハンバーグ。(アフリカ・ビクトリア湖。 牛肉の8倍のタンパク質)
Mosquito hamburgers from Africa


第752回 初詣 香取神宮。 要石。

2013-01-11 20:00:00 | 旅行

2013 01 03(木)


一月三日午後4時頃に千葉県香取市香取に鎮座する下総一之宮“香取神宮”を参拝。
前回掲載の息栖神社と近隣の鹿島神宮と共に「東国三社」に名を連ねる古社。

冬の夕暮れも近いと云うのに凄い数の初詣客、車の駐車場はどこも満杯、民間のP場は一律1000円とボッタクリ状態!
何とか無料の場所を確保し、名物「草だんご」を販売する土産店などが立ち並ぶ参道を進みました。
  
大きな朱塗り第二鳥居の手前にある立派な「香取神宮」石柱も露店のテントで隠され存在感がありません。

なだらかな坂道の参道は露店ので埋め尽くされ、立ち並ぶ石灯籠は立つ瀬がありません。


ダルマ屋・熊手屋など正月に相応しい縁起物が威勢の良い掛け声で売られていました。
 

3.11の大地震にも耐えた石造りの第三鳥居をくぐると頃から参拝者の行列になり、ノロノロ歩行で行列のまま総門へ・・・。
 

総門の真後ろで、大きな一枚岩をくり貫いた水盤のある手水舎で急いで手口をすすぎ参拝の準備OK.


すし詰めの参拝行列は国指定重要文化財の楼門へ・・・。
元禄13年(1700年)に造営された楼門は一見鉄筋コンクリートと見間違うほど頑丈な造り、大地震にも平然として揺るぎません。
  
楼上の額は東郷平八郎元帥の筆。 行列の人混みの中から撮った楼門の門守神(番人)“随身様”(竹内宿彌)。

楼門から香取神宮拝殿までも押すな押すなの人混み! 今年の干支は「」、宝船の舳先(へさき)に座して御宝を愛読者へ運びます。
 

「お札・御守り授与所」も臨時に数ヶ所設置され大賑わい。
神前ですから列を乱す人もなく、整然と並んで拝殿(昭和13年築)へ・・・。


香取神宮の拝殿・本殿は屋根の葺き替え中、真新しい桧皮葺(ひわだぶき)の屋根は夏までに完成とか・・・。
 
真後ろの本殿(重要文化財、元禄13年造営)は全体が作業布で覆われて全く見えません。

修復中の社殿では落ち着きませんので、横に建つ“旧拝殿”を参拝、落ち着いた風情が素晴しい。
この建物も楼門・本殿と同じ元禄13年の造営、県の有形文化財に指定されています。
 
社殿周辺を散策。
根元から三本に分かれた珍しい“三本杉”、源頼義公が参拝の折「天下泰平・社頭繁栄・子孫長久」の願を掛けたところ、杉が根元から三岐したと云う謂われのある大杉です。

注連縄で囲った中にピラミッド状に高く盛り上げた砂は「ひもろぎ」(神籬・神様が降臨する場所)。
「立砂(盛砂)」とも呼ばれ、お清めの盛塩の由来になったもの。 
神社名から名付けられた元自衛艦“かとり”の錨も片隅に奉納されていました。
 

総門から少し下った木々の囲まれた場所には、地震を押さえると云う“要石”があります。
香取神宮の要石は形、茨城県の“鹿島神宮”の要石と双璧の鎮石(鎮地震石)。
香取神宮の要石は地震を起こす大ナマズの尾を押さえ込むとされています。(鹿島神宮要石は鯰の頭を抑える)
近年の大地震など、この要石は役割を自覚していないのでしょう・・・。
 
この地方は太古からの地震多発地帯だったので要石なる物が尊崇される様になったと思われます。
投げた硬貨が要石にのると大幸運が訪れるとか・・・、凸形ですから超難しいですね。

要石の近くに見えたのは“護国神社”、昭和21年創建で国難に殉じた近隣の魂を祀っています。
 
強欲China(支那)に尖閣諸島を盗られない様に祈念して、前橋市への帰路に着きました。

神宮の名に恥じない荘厳華麗な香取神宮の初詣で、今年は良い年に成りますように・・・。


2006年8月掲載の香取神宮。
http://blog.goo.ne.jp/ttmida/e/ec4e51d426bffb74fa4c993ac097c978



2013 01 11(金)記。    前橋市       最高気温 6.0℃      最低気温 -0.9℃


おまけコーナー。




“大人になれない”大人たちの画像。
http://hamusoku.com/archives/7669532.html

完全一致な画像。⇒ ここクリック。

直前の瞬間画像。、
http://hijikisokuhou.doorblog.jp/archives/6834939.html

ハリウッドで使われている銃がスゴイ!
http://labaq.com/archives/51774674.html


第750回 初詣 息栖神社。

2013-01-08 22:00:00 | 旅行

2013 01 03(木)


新春2回目の初詣は茨城県神栖市息栖2882に鎮座する“息栖神社”を参拝。(息栖=いきす)

息栖神社は日本最古の神社の一つとも謂われ、鹿島神宮の最初の社殿は息栖神社の境内林からの樹木で建築された由緒ある古社です。
また、鹿島神宮香取神宮を合わせ東国三社の一つに数えられる名社で、その昔には関東以北の住民で“お伊勢参り”をなした人達が感謝の“伊勢お礼参り”(「下三宮詣り」)に訪れた神社の一社でもあります。

息栖神社の一之鳥居”から拝見、霞ヶ浦と北浦から流れ来る常陸利根川畔にどっしりと建つ一之鳥居は御影石製。
よく見ると一之大鳥居の下左右に半ば隠れるように小さな鳥居が2柱立っています。
 
左右の鳥居を恐る恐る・恭しく拝見いたしました。
水上から見て左鳥居が男甕井、 右の小さな鳥居が女甕井。

息栖神社の古図。 第一之鳥居は海の中にあり船を使っての参拝風景が見て取れます。
社殿まで約300m、参道の両側には商家や宿屋などで賑わっていた様子が判ります。

古図にも水上鳥居の前左右に男甕井と女甕井が描かれています。

一之大鳥居の下両側には大きさの異なる石鳥居、手前が一番小さく左端は中位の鳥居。
それぞれの鳥居は井戸状の水中に柱が立てられています、
手前の井戸が「女甕之井」、左隅の鳥居の下が「男甕之井」。


この水は「忍潮井」(おしおい)と名付けられた真水の井戸。
水底には大甕(かめ)が沈みナニやら謂れのありそうな神秘的な雰囲気です。
下左画像は「女甕の井」といわれる壷土器形、下右画像が「男甕の井」と云われ銚子形の甕が埋められています。
大昔、海の沖洲に建てられていた神社が現在の地に移った時、この男女二甕が取り残されてしまいました。
甕たちは三日三夜泣き悲しんだ後に神社を追いかけて海を渡り、息栖神社のこの場所に移動したとの言伝えがあります。
 
その昔(西暦194年 神巧皇后3年)、息栖神社の土地が海(香取の海)に囲まれていた時代、この場所からだけ海水を押しのけ真水が湧出していたので押潮井(おしおい・忍潮井)と呼ばれた不思議な井戸なのです、
伊勢の「明星井(あけぼののい)」と伏見の「直井(なおい)」と共に“日本三霊水”として珍重されています。

息栖神社一之鳥居近くの常陸利根川畔から遠望するとくっきりと霊峰・筑波山の山塊が・・・。


水辺の第一之鳥居から真直ぐに約300mで息栖神社第二之鳥居。(3.11地震を耐えました)
「東国三社息栖神社」の石柱を拝見して二之鳥居をくぐります。二之鳥居から振り返ると遠方に第一之鳥居です。
  
第二之鳥居付近には神社無料P場があり便利です。

息栖神社二之鳥居を入ると左側に商売繁盛の稲荷神社。参道に並んだ狐様が出迎えてくれます。
 

二之鳥居から神門に至る参道脇には沢山の大石灯篭、両側は鬱蒼とした木々が生茂る広大な境内杜
 

手水舎で身を清めて朱塗りの御神門に向かいます。


御神門から拝殿への途中に近郷の若衆が力比べを競った“力石”が置かれていました。
50貫余と云いますから188kgほどの重さでしょうか? 筆者の力ではビクともしません。
 
その脇に貞享4年(1687年)に参拝に訪れた時に詠んだ松尾芭蕉の古句碑「この里は 気吹戸主の 風寒し」が建てられています。
気吹戸主(いぶきとぬし)は息栖神社の祭神(清浄・蘇生・発展の神)、「この神域に入ると気吹戸主の霊で心身ともに清くなり、風が吹き抜ける様な清清しさに浸れる」と言う意味らしい。

参道脇の境内社、左は鹿島神宮ほか三社を合祀、右が香取神宮ほか四社を合祀しています。
 
今年の干支は年、息栖神社の巳年絵馬は開運招福、デフレ・インフレ無き好景気を願います。

応神天皇の御代(270~310年)創建と伝えられる息栖神社は主祭神・岐神(くなどのかみ)、副祭神に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と住吉三神を祀り、厄除招福・海上安全を祈願する神社。
巨大な灯篭の背後に鎮座していた江戸時代築の木造社殿は昭和35年に焼失、現在は鉄筋コンクリートで防火仕様の社殿。
望むなら木造建築の社殿を拝見したかった・・・。
  

本殿もコンクリート製で少し味気ない雰囲気。     
本殿の横に置かれていた四角石は火災焼失前の社殿礎石、創建以来本殿の基礎石として使用されていたそうです。
 

境内には沢山の歌碑や句碑が見られます。平安鎌倉時代に詠まれた句に、この地は「鹿島潟沖洲の森」「沖洲の津」などと記され、いつしかナマって息栖となったそうです。
 

社殿脇に立つ二股の巨杉は樹齢千年を超える御神木、「息栖の夫婦杉」とも呼ばれます。
  
御札御守り授与所の前の立派な樹は昭和5年に三笠宮が植えた「宮桜」、春の開花が楽しみです。

鹿島神宮と香取神宮の中間に位置する東国三社の息栖神社、潮来・鹿嶋地区遊覧の折にはぜひ参拝したい古社です。


2013 01 08(火)記。    前橋市       最高気温 10.2℃     最低気温 -0.8℃


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第749回 初詣 二の宮赤城神社

2013-01-04 12:00:00 | 旅行

2013 01 01(火・元旦)


平成25年の1月1日、前橋市から大胡町経由で赤城山中腹に鎮座する"赤城神社本宮(三夜沢地区、上野国[群馬県]二の宮)へ初詣に向かいましたが、赤城神社手前の約500mから大渋滞。
車窓から御神体である赤城山を遥拝した後、赤城神社の里宮にあたる二之宮赤城神社へ参拝所を変更です。


延喜式内社・上野国十二社“二之宮赤城神社”の位置は前橋市二の宮町886.

12時20分に神社駐車場に到着、最上部の笠木に黒色屋根を戴く珍しい中山鳥居と周囲の石碑など拝見。
  
戦勝祝いに建てた「日露戦役記念碑」や昭和の敗戦後に建てられた「平和祈念の碑」なども見らる。

前橋市重要文化財の梵鐘(元和9年・1623年造)を吊るした鐘楼を横目に杉木立に囲まれた長い参道が続きます。
江戸時代までは神仏習合で赤城山神宮寺とも呼ばれ、境内には寺の名残が多く点在します。
  

参道から神域境内へは朱塗りの「神代橋」を渡ります。 橋の右脇に置かれていたのは昔し使用された石の太鼓橋の一部。
  

神代橋を渡ると“神門”(随神門)、門の右脇に1mほどの神名石柱、天照大神・埴安姫命・少彦名命・大己貴命・倉稲魂神などの名が刻まれています。
  

神門内の左右には二体の随神(身)様. お寺の山門で警護する仁王様と同じ役目なのでしょう。
向って左は櫛石(岩)窓神(くしいわまど)、右は豊石(岩)窓神(とよいわまど)。
 

神門をくぐると正面に“赤城神社拝殿”、元日の初詣客の少ない時を狙って撮影しました。



拝殿上に掲げられた「二宮赤城神社」の扁額。 
御祭神としては大己貴命や大物主命など多数の神が祭られています。
内部には正月のお供え物が並べられ華やいだ雰囲気・・・。
 
拝殿内には前橋城主・酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)公などが奉納した絵馬があります。

二之宮赤城神社で鎌倉時代から舞われる「式三番叟」を描いた奉納絵額。



前橋藩主・酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の奉納になる一対の絵馬。
 

大胡城主・牧野駿河守忠成が大阪夏の陣での戦勝祈願で奉納した絵馬。
 
拝殿には見応えがある絵馬や算額など奉納されています。

赤城神社本殿は大きな覆屋根の下で風雨から保護されています。
 

境内には様々な社・祠などが建っています。
茅葺き屋根は神興社(神仏習合時代は十二天社と呼ばれた)。 茅葺き屋根を赤いトタンで覆った日枝社
 

左から収蔵庫、中央は神楽殿、右は舞台殿。 神楽殿では初春奉納神楽が舞われていました。


神楽殿では太々神楽・雅楽・式三番叟などが演じられ、厳かな舞やオカメ・ヒョットコが登場するおどけた演目もあります。
 

二之宮赤城神社”の境内に鎮座する摂社・末社。
学問の神様“天満宮”とか火防の神様“秋葉神社”なども境内社です。
 

社殿後方には夥しい数の石碑や境内社の石祠などもあります。  “二の宮赤城神社宝塔”は文化財に指定されています。
 

かなりの年代物で風化劣化が著しい石碑なども境内の各所に置かれています。
  

文化財指定の「塔心礎跡」、神仏習合時代の仏塔の中心礎石。 地上露出面は餅つきの石臼を大きくした形状の礎石です。
 

絵馬御守りなどの縁起物を求める参拝客も多く、正月ならではの賑わいです。
  

元旦の爽やかな陽差しを浴び、厳かな由緒正しい“二之宮赤城神社”を参拝し、愛読者皆様の御健勝を祈念致しました。



二之宮赤城神社の由緒などの詳細は ⇒ ここクリック。


2013 01 04(金)記。     前橋市        最高気温 4.5℃     最低気温 -2.4℃


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芸術食品! 細工かまぼこ 海老(えび)  富山県 .wmv

 

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第748回 平成25年 御年賀。

2013-01-01 00:00:00 | 写真・旅行・日記・コラム

2013 01 01(火)


新年明けましておめでとう御座います

ツトムさん家の写真日記」御愛読のほど、今年も宜しくお願い申し上げます。



新春早々に神社仏閣を参拝し、御愛読者の益々の御発展と御健勝を祈念してきました。
  

今年の長い正月休暇は旅に出ても寒くて疲れるだけなので、家で旨い肴(さかな)とビールなどでのんびり過ごそうと思ったら・・・・。
  
呑んだビールのデザインが粋すぎて夢と妄想がふくらんだ・・・!
ふて寝して見た夢はいつも“”な夢ばかり・・・でも、夢がHなのは平和な証拠なんだって。
  

だけど、最近は近隣の国に大切な国土を奪われそうなんで、寒いなか雪合戦で体を鍛えて戦争の準備怠りなしなのだ~。
 

今年も内憂外患の一年になりそうです、読者の皆様も体と財布だけは大切にし、暖かくして健やかにお過ごし下さい。

「欲しがりません、勝つまでは!」 「富国強兵」 「撃滅!支那・南朝鮮」 「備えあれば憂いなし」。

核武装で国土防衛を・・・!


2013 01 01(火)記。    前橋市      最高気温 10.5℃    最低気温 -1.3℃ ?


「日の出」の代わりに“地球の出”をご覧下さい。
「かぐや」HDTVによる満地球の出(2008年9月30日)


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超強烈!!ねこパンチ。
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マフラーで生きる気力を失う猫。
Jak obezw�・adni�・ kota! How to immobilize a crazy cat!




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