ツトムさん家の写真日記。

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第495回 日本三大古碑 多胡碑。

2010-03-10 18:24:03 | 旅行

2010 03 07(日)

群馬県民に長く親しまれる“上毛かるた”の項で「昔を語る 多胡の古碑」と詠まれている古代碑の見学。

本日は群馬県多野郡吉井町池にある“多胡碑”(たごひ・国特別史跡)が年に一度の一般公開日。
春は三月と言うのに朝から冷たい小雨がそぼ降って・・・。

上信山岳地帯から流れ下る鏑川(かぶらがわ)沿いの「吉井いしぶみの里公園」の中に建つ“多胡碑記念館”脇にひっそりと佇む多胡碑に今日は大勢の人達が見学に来ていました。


3月7日午前10時から覆屋の扉が開かれ、内部の古碑が年に一度の公開になりました。

何故に今日なのか? 多胡碑の碑文に「和銅四年三月九日」(西暦711年)と刻まれていますので、毎年三月九日に一番近い日曜日を公開日としたそうです。
(来年は和銅四年から1300年になり、盛大な記念式を行う予定)

鉄筋コンクリート製の覆屋の真ん中に日本三大古碑で有名な“多胡碑”が鎮座。
地震にも耐えうるコンクリの台座に建てられた重量感溢れる石碑です。
(戦後にコンクリート台座で固定し、原状から大きく損なわれてしまったので、多胡碑は国宝にも重文にも指定されなかった由。)

開扉と同時に隣接の多胡碑記念館の職員による丁寧な解説が行われました。

頭頂部の宝形造りの笠石と碑文が刻まれた方柱石(碑身)ともに、この場所から南へ直線距離にして約6Km離れた牛伏山から産出する牛伏砂岩(通称 多胡石)で造られています。


多胡碑のサイズは重量1372kg 全高152cm 笠石幅88cm(碑身 高1125cm  幅60cm)。

多胡碑の碑身4面の左右・裏面の3面は荒い石ノミの痕のみで、正面だけに文字が彫られています。
この多胡碑は新しい郡として多胡郡を創設したことを記した建郡記念碑なのです。

砂岩碑としては比較的に良く保存されていましたが、碑文には読み難い部分もありますので、、多胡碑記念館に展示されていた墨拓本も合わせてご覧下さい。

 
一文字6~14cm。、6行80文字北魏六朝楷書(りくちょうかいしょ)風文字で記されています。

碑文の文字は古来から金石文(きんせきぶん・岩石や金属などに刻まれた文字)の模範とされ、中国清朝時代の中国楷書大辞典「楷法溯源」(かいほうさくげん)に多胡碑の中から39文字が手本として採択されたほど、おおらかな格調ある書体として多胡碑は内外に名を知られていました。

多胡碑文の内容は「弁官(朝廷の役所)から上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の内から三百戸を分け一つの郡と成立させ、(ひつじ)に給う(委ねる・統治させる。)。郡名は多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)に宣言す。 (署名人は)左中弁正五位下多治比真人(げたじひのまひと) 太政官の二品穂積親王(ほづみのみこ)、左大臣の正二位石上尊(いそのかみのみこと)、右大臣の正二位藤原尊(ふじわらのみこと・藤原不比等のこと)」

この碑文は“続日本紀”(しょくにほんき)に記されている和銅四年三月辛亥(六日)の「上野国(こうずけのくに)甘良(かんら)郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおやけ)・緑野(みどの)郡の武美(むみ)・片岡(かたおか)郡の山等(やまな・山名)の六郷を割って、別に多胡(たご)郡を置く」という記事と多胡碑の碑文とが合致しているとの事。

少子化・人口減の現代と違って、古代はこの地域の人口が増えたでしょうね。

因みに、多胡郡とは胡人(こじん・中国西域のウイグル人)が多く住む地区の意味でこの周辺にはシルクロードや中国からの渡来人が沢山来ていた事が推測出来ます。

多胡碑文は平らに整えられた岩石の表面に断面が字形をした丸底彫り(V字形の薬研彫り説もある)で彫られています。

碑文(上画像)の最初の行に刻まれた「(上)野國片岡郡緑(野郡)」のの文字がかんむりにと書いた極めて珍しい字で、異体文字と言うそうです。

現在の群馬県多野郡は多胡郡と緑野郡が合併し、一字づつ取り出して創られたのです。

次々に詰め掛ける沢山の見学者たちは熱心に説明を聴いて、それぞれが古代に想いを馳せていました。


日本三大古碑の一つ、多胡碑の勉強になる解説と質問・応答は一回10分ほどで終了しました。(公開日の説明は何回も行われます。)

多胡碑見学の後、多胡碑覆屋の周辺に点在する多胡碑を詠んだ歌碑を拝見。
左の歌碑「玉かしは 書残したる かみつけに うづもれぬ名ぞ いまもかがやく」 陸奥出羽按察使 前中納言有長(綾小路有長)。
  
中央歌碑「万代(よろずよ)も いかでつきせじ 名にしあう ほまれぞのこる 多胡の碑(いしぶみ)」 藤原寛一(地元吉井町の歌人)。
右歌碑「深草の うちに埋もれし 石文の 世にめづらるゝ 時は来にけり」 揖取素彦。
揖取素彦(かとりもとひこ)は初代群馬県令(県知事)、妻は吉田松陰の妹で多胡碑の保存管理に尽力しました。

多胡碑の直ぐ近くに建つ多胡碑記念館横のテントでは寒い中、ボランティアの方々による心尽くしのサービスがありました。

 
寒いので甘酒かと思ったら、なんと熱々のなめこ汁!!
ヘルシー満点のなめこ汁を有難く頂いて大感激・大感謝の公開日でした。

折角ですから多胡碑記念館にも入館。


有難い事に多胡碑公開を記念して本日は入館料は無料!(通常入館料200円)

多胡碑や吉井町のパンフなど頂戴してから館内を見学です。

古代史の勉強になる様々な展示物がありました。
中国古銅器で祝宴などで使用された酒杯の(しゃく)や甲骨文字、また、九州の志賀島で発掘された金印(漢委奴国王)の実物大複製品など・・・。

多胡碑記念館ですから、やはり、古碑に関する展示物がメインです。


左から日本最古(646年)の石碑「宇治橋断碑」、薬師寺の仏足石仏足石歌碑山ノ上碑。(全てレプリカ。)

下の笠石が載った石碑が日本三古碑の一つ、国宝「那須国造碑」(なすのくにのみやつこのひ 全高 約150cm、レプリカ)。
場所は栃木県那須郡湯津上村(現在は大田原市)の笠石神社。刻字は多胡碑と同じく北魏様式です。
 
右上が日本三古碑の一つ、宮城県多賀城市市川にある国重要文化財の多賀城碑(たがじょうひ 全高186cm、レプリカ)。
刻まれた碑文には中国で書聖と謳われる王義之(おうぎし)系の六朝楷書文字が用いられています。

館内の一室では複製の多胡碑を使って碑文の説明が行われていました。


特にの字がめると記した異体文字の話と、多胡郡の郡司に任命され、この地と奈良の都を一日で往復したという羊太夫伝説の話には皆さん興味を示していました。

多胡郡の郡司に任命される羊太夫伝説についてはここクリック。

羊太夫の慰霊祭と言われる”富岡市 大島の火祭り”もご覧下さい ⇒ ここクリック。

多胡碑記念館を一巡し、帰り際に記念館の庭で見かけた古墳です。
手前は粘土槨円墳の片山1号古墳。左後方の黒い葺石壁の古墳は南高原1号古墳(共に移築です)

 
南高原古墳には巨石が使用された横穴石室があり、古代の豪族の権力の大きさが偲ばれます。

多胡碑や多胡碑記念館を見学し、大変に勉強になった多胡碑見学の一日となりました。
古代史に興味ある方、古代ロマンに浸ってみたい方、ぜひ吉井町にある日本三古碑の多胡碑を訪ねられては如何でしょうか・・・。

2010 03 10(水)記。  前橋市 早朝まで後、小後、 積雪7~10cm 最高気温4.8℃ 寒い春!


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