ツトムさん家の写真日記。

写真いっぱいの楽しい日記です。(全面表示でご覧下さい)

第611回 日本三古碑 多賀城碑。

2011-07-29 16:13:28 | 旅行

2011 07  17(日)

最低最悪の祭り“六魂祭”でがっかりした夜は仙台市から車で20分程の多賀城市の国道45号線脇にある「ホテル ルートイン多賀城」に宿泊。
 

一見地震や津波の被害が全く感じられない風景ですが、ホテル一階は2mほどの海水がなだれ込んだそうで、4月中旬まで営業不能だったそうです。
フロント横の机に置かれていた被災当時の写真にその時の惨状が写されていました。
 

多賀城市HPから拝借した津波被災写真。 多賀城市の津波被災状況と写真は ⇒ ここクリック。


多賀城市を襲う地震と大津波の動画をご覧下さい。

東日本大震災 地震の瞬間 宮城県多賀城市 国道45号線



2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震 大津波(2)



太平洋沖地震 津波の時の多賀城市町前の様子


2011/3/22 45号線を多賀城から中野栄へ向かう


この日の目的地は日本三古碑の一つ“多賀城碑”の見学です。
ルートインの可愛いフロント嬢に多賀城碑までの近道を教えて貰い・・・出発!

国道45号線から横道に入った道筋にはうず高く積み上げられたガレキが延々と続き、大津波災害の甚大さに驚きます!!
 
ガレキが仕分けられている場所もありました。 手前に平たく積み上げられているのは畳、その奥にタイヤ、白い箱物は冷蔵庫などの白物家電でした。

目指す“多賀城碑”にはホテルから10分もかからずに到着。
多賀城市の平地より30mほどの高台に立つ“多賀城碑”は覆屋を含めて東日本大震災の被害は全くありません。
 
古碑の説明に親切なボランティアガイドの方々がいて(土日祝)不勉強な筆者にはとても有難かったです・・・感謝。

立派な石碑です、碑の表面は滑らか磨かれ刻まれた文字(碑文)はクッキリとして判読できる状態でした。
奈良時代の天平宝字6年(762年)に建立されたとは全く思えない程の良好な石碑で国の重要文化財に指定されています。
 
あまりの保存状態の良さに江戸時代に造られた石碑という贋物説が流布されましたが、近年の調査では本物説が有力です。

多賀城碑の最上部に「西」の文字は多賀城より西に位置する都に向かって建てられている印とか・・・。
「西」の下には11行140文字でこの地から各国までの距離や多賀城設置・修復など記され、この石碑は藤原朝獦(あさかり)により多賀城が修造された記念碑と云われています。(140文字って昔にもツイッターがあったのでしょうか?)
 
「京一千五百里・・・・・」などの刻み文字も容易に読み取ることが出来ました。
京は京都ではなく、この時代の京は奈良の都“平城京”のことを指すという。
当時の尺貫法で「一里」は535mですから、平城京まで800km強でほぼ正しい距離とのこと・・・。

石碑の表面が綺麗で文字も薬研彫りでクッキリとしているのは、この石碑が建てられて直ぐに、この地方が朝廷に反乱を起こし、大和の軍に鎮圧されたため、石碑が破壊されるのも防ぐ目的で地中に埋め置いたからとの説明でした。

多賀城碑はこの近くで産出するアルコース砂岩という風化に強い硬質な岩で造られています。


江戸時代初期に掘り出され(1660年頃説)野ざらしだった石碑は水戸光圀の教示(1695年)により仙台藩の四代藩主・伊達綱村が覆屋を建て収蔵したといわれます。

多賀城碑について熱心に説明するボランティアガイドの皆さんご苦労様です。


多賀城碑の直ぐ傍に立てられていたのは松尾芭蕉が「奥の細道」(1689年)で読んだ「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」俳句を刻んだ縦長の石碑。
ただし、覆屋が無かった時代に古碑を見物した芭蕉はこの地では句を読まず、芭蕉句碑に記された俳句は仙台で読んだものだそうです。
発掘された当時から「壺碑」(つぼのいしぶみ)と呼ばれ、「蝦夷地の奥」(東北地方)を表す歌枕にも使われていますが、本当の「壺碑」は多賀城碑とは別物と云われ現在のところ所在不明らしい・・・。
 
多賀城碑の高台から仙台市方面を望遠すると巨大な白衣観音様が・・・、ボランティアガイドさんの説明では真言宗の大観密寺が仙台市市制100周年(1989年)を記念して建立した“仙台大観音”(高さ100m)で、正式名称は仙台天道白衣大観音と云うそうです。
東日本大震災でも被害は無く、青空の下爽やかな御姿で迷える衆生を静かに見守っていました。

日本三古碑の一つ、多胡碑は ⇒ ここクリック。

2011 07 29(金)記。     前橋市 夕刻         最高気温31.5℃


おまけコーナー。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
壺石文 (山田久夫)
2021-06-17 15:07:35
多賀城碑は偽物です。多賀城碑出土地も多賀城跡ではありません。多賀城は賀美郡部内の城郭です。
続日本紀天平九年に大野東人が多賀柵から出羽国雄勝村経由で多賀柵に廻り還った事が記されています。後年に『城郭を置く事が記されています。それより13年前に多賀城が置かれている道理がありません。
神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任ぜられていません。多賀城碑に虚偽が記されています。多賀は名取以南十四郡から離れた場所です。多賀城碑は名取郡近くに埋もれていました。偽物故に変な所から江戸時代に発見されたのです。
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壺石文 (山田久夫)
2021-06-17 15:07:45
多賀城碑は偽物です。多賀城碑出土地も多賀城跡ではありません。多賀城は賀美郡部内の城郭です。
続日本紀天平九年に大野東人が多賀柵から出羽国雄勝村経由で多賀柵に廻り還った事が記されています。後年に『城郭を置く事が記されています。それより13年前に多賀城が置かれている道理がありません。
神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任ぜられていません。多賀城碑に虚偽が記されています。多賀は名取以南十四郡から離れた場所です。多賀城碑は名取郡近くに埋もれていました。偽物故に変な所から江戸時代に発見されたのです。
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