2008 05 04(日・みどりの日)
日暮れと共にさきたま火祭りが開始されます。
さきたま古墳公園近くの延喜式神長名帳に載っている古社・前玉(さきたま)神社(浅間神社)でさきたま火祭りの御神火の採火が古式に則り厳かに行われます。
(広井画像)
舞錐(マイギリ・キリ状火熾し器)で採火された御神火は大きな素焼土器に移されて火祭り会場へ・・・。
夕方6時に前玉神社を出発した御神火行列は二子山古墳沿いに進みます。
御神火の後から“ニニギノ命”と“コノハナサクヤ姫”を載せた輦台(れんだい)が厳かに続きます。
輦台のコノハナサクヤ姫は古代衣装に身を包んだ現代風の可愛いお嬢さん。
御神火を高々と掲げた輦台行列はさきたま火祭り会場へ足早に向かいました。
陽も落ちた稲荷山古墳のシルエットを背景にさきたま火祭りのメインステージとなる竪穴式古代住居の産屋(うぶや)はスポットライトに輝いていました。
産屋の祭壇前に神官一同が集まり火祭りの安全と成功を祈願。
御神火と輦台の行列はさきたま古墳公園内の広いお祭り広場を一周してから産屋に到着。
産屋を中心にお祭り広場いっぱいに数百の松明(たいまつ)の輪が取り囲みます。
主役のニニギノ命とコノハナサクヤ姫が神官から差し出された御神火を二人で受継ぎます。
これからさきたま火祭りのクライマックスの開始!
古式衣装の似合うニニギノ命とコノハナサクヤ姫は御神火を真剣な表情で・・・。
ゆっくり厳粛に産屋に御神火を運びます。
約10万人の観客は水を打ったように咳一つ無く着火の瞬間を固唾を呑んで見守りました。
さきたま火祭りメインステージの産屋へ移し火(放火?)の瞬間!
正面を向いた唯一の出入り口から御神火は勢い良く燃え上がります。(産屋の中のコノハナサクヤ姫は如何に!?)
この産屋に火を放ち燃え上がらせるのを産屋炎上(うぶやえんじょう)と言います。
由来は、古事記で天照大神の孫「ニニギノ命」が大山津神の娘「コノハナサクヤ姫」と結婚し、一夜の交わりで身ごもった事をニニギ命に疑われたコノハヤサクヤ姫が「お腹の子が神の御子ならば、火の中でも無事に生まれます」と産屋に火を放ち、その産屋の猛火の中で海幸彦と山幸彦の双子を無事に出産したとの謂われがあります。
その故事に則って、さきたま火祭りの産屋炎上が豪華に繰広げられるのでした。
燃え盛る炎の中では海・山幸彦が無事産まれるでしょうか・・・。
灼熱・紅蓮の猛火の中からコノハナサクヤ姫が出でて、輦台の人となりました。
無事出産して己の疑惑を晴らしたコノハナサクヤ姫の輦台行列は炎上・崩壊する産屋を後にしました。
産屋炎上と共に近くの丸墓古墳と稲荷山古墳からオワケの臣を先頭に御神火の松明行列が降りてきました。(御神火降り。)
丸墓古墳・稲荷山古墳とも一筋の火竜の如く火が帯となって流れ下ります。
炎上つづく産屋に向かって稲荷山古墳からも無数の松明が降ります・・・。
古代武人衣装の松明行列は中央ステージに集結!
松明に囲まれたステージではさきたま火祭り終演のセレモニーの始まりです。
オワケの臣(国宝・金錯銘鉄剣を作った人)による終幕の御託宣があり無事古代ロマン“さきたま火祭り”の終幕となりました。
火祭り参加者全員のエィ エィ オ~の雄叫びと同時に盛大な打上げ花火!
現代ですね~、皆さんケイタイやデジカメで一斉に花火に向かってパチリ!
花火が打上げられる下を松明の行列は整然と会場を後にし、絢爛豪華な「さきたま火祭り」は壮大な古代ロマンを胸に残し終幕となりました
古代衣装の武人とスリーショット! 次回は筆者も参加したいです・・・。
さきたま火祭りは煌々と夜空を染め上げる炎の下、参加人員約500名の熱演で本当に見応えのある素晴しい火祭りでした。
ぜひ読者の皆様にも行田市のさきたま古墳公園と火祭りをお奨めいたします。(古代蓮の里や名物・フライも・・・。)
2008 05 31(土)記。 前橋市 小 最高気温15℃
いやされたい方は・・・ネコカラ イルカの「ニャごり雪」。
5月31日 世界禁煙デー。 Thomas herbrich スモークアート
2008 05 04(日)
5月4日みどりの日に埼玉の行田市で大規模な火祭りが行われました。
“古代のロマンと神話への誘い”と題した“さきたま火祭り”です。
場所は名物のフライで有名な行田市の埼玉地区にあるさきたま古墳公園。
そばには「埼玉県名発祥の地」という石碑もあります。(さきたま⇒さいたま)
近くのポピー畑の中に広い無料P場があって便利。
古代国家については西の「大和の国」、と東の「日本(ひのもと)の国」があったそうです。
その「日本の国」ではないかと云われるのが行田市のさきたま古墳群の地区なのです。
さきたま古墳公園だけでも円墳1基、前方後円墳8基、周辺の古墳群を併せると50基以上にもなる我国では稀な一大古墳地帯です。(昭13年 国指定史跡)
午後4時半に到着し、火祭り開始までは幾つかの古墳に登って古代に想いを馳せます。
火祭りの旗が立っている小山は前方後円墳の稲荷山古墳の前方部。
後円部頂上には木棺を囲って保護した礫槨があり、そこから出土した副葬品の鉄剣が埼玉県最初の国宝・金錯銘鉄剣です。(鉄剣に刻まれた115文字。)
稲荷山古墳からの古墳お祭り広場。 沢山の人達が火祭りに来ています。
紅白幕のステージでは数々のイベントが賑やかに行われていました。
ステージ腰幕には「さきたま古墳群 めざせ世界遺産」のフレーズも・・・。
若々しいダンスパフォーマンスや武蔵あばれ太鼓の打ち鳴らす勇壮な合戦太鼓など・・・。
稲荷山古墳の手前には本格的な古代住居が建っていました。
この古代住居がさきたま火祭りのメイン舞台となります。
古代神話の世界からニニギノ命とコノハナサクヤ姫の壮絶なロマン物語が再現されるのです。
古代住居の横には丸墓古墳。 丸墓古墳は日本最大の円墳と云われています。
頂上までの階段は急傾斜ですが、19mの高さの頂上からの眺めは素晴しいものがあります。
戦国時代には上杉謙信や石田三成が丸墓古墳に陣を構え忍城(おしじょう・関東七名城の一つ)の攻略にあたったそうです。
さきたま火祭りに使用される古代住居は産屋と言い、建築には数百万円の費用とか・・・。
古代住居前には五穀・魚や酒など供えられた祭壇もあり準備万端でした。
夕闇も迫り、稲荷山古墳と丸墓古墳から一般人は下ろされ、各所に赤々と篝火が焚かれて“さきたま火祭り”の本番は間近となってきました。
次回はさきたま火祭りの産屋炎上と御神火行列の巻です。
2008 05 27(火)記。 前橋市 最古気温28℃
いやされたい方は・・・ネコカラ 香西かおり「無言坂」をクリック。
2008 04 27(日)
第25回全国都市緑化ぐんまフェアの会場を追い求めて太田市へ・・・。
群馬県太田市北部の上強戸町の丘陵地帯南斜面が鮮やかな桜色に染まっていました。
北関東自動車道の下の農道に駐車し、太田市北部運動公園の会場目指してだらだら坂を上ります。(係員が沢山いて誘導します)
案内に従って舗装道から左に折れると目の前に広大な芝桜の園!!(見晴らしの丘)
パンフに広さでは本州最大で19haの面積に100万株の芝桜が植えられているそうです。
昨年までは雑木林だったところに都市緑化ぐんまフェアのために芝桜を植えたのです。
ピクニック気分で散策しながら見て廻りました。
ココは妖精の森と名づけられた一角ですが、ほとんどの樹木が切り取られ、妖精も住めない環境破壊にはいささか呆れましたね。
疎らな木立の中に木造の小屋がありました。 芝桜公園の案内小屋と思いきや、中には飲料の自販機だけ。
丘陵の高い場所に上ると芝桜が眼が眩しいくらいの鮮やかさで迫ってきます。
一番高い場所には子供達が喜びそうな風を利用したおもちゃ。
題して「サウンドオブジェ」とか・・・ そよ風にカラコロと軽快な音を立てて回っていました。
総合案内所のある管理棟の側にはテント売店が並んでいます。
太田市の町おこし名物はなんと云っても“ヤキソバ”です。
ヤキソバの売店だけでも沢山出店していました。
太田市へ来たなら、昼食にはヤキソバですね。 早速買いました。(一食200円の格安ヤキソバ) 味はご想像に任せます。
総合案内所の前には3個の“巨大な盆景”?・・・
これは「世界らん展日本大賞2007ディスプレイ部門最優秀賞作品」とか・・・。
高さ6m程もある盆景は深山幽谷を表現しているそうです。
頂上から滝を流した姿は迫力満点でした。
総合案内所のある中央広場では「ハワイフラフェスティバル」が開催中。
群馬県内から沢山のフラダンス好きなおばちゃん達が踊る順番を楽しみにしていました。
みなさん楽しそうにステップを踏んで体をくねらせて踊り、観客の喝采を浴びていました。
中央広場の奥にも芝桜が植え込まれていました。本当に広い芝桜公園です。
緩やかなピラミッド状の丘は「憩いの丘」の展望台。
高い憩いの丘からの眺望は抜群です。
本州一の広さと言うだけあって、五月晴れのしたアップダウンのある会場を全部を廻ると良い運動になります。
メタボの人にはお奨めの芝桜公園です。
昨年訪ねた秩父市羊山公園の芝桜の丘も素晴しく広かったですが、ここ太田市のは更に広いのです。
この広さで本州一番なら日本一は何処に在るのでしょうか? 北海道、九州?
白い芝桜の中に紅一点の花・・・。
帰りがけに菜の花が咲くピクニックの丘から見晴らしの丘を眺めて、第25回全国都市緑化ぐんまフェア太田市会場を後にしました。
100万本の芝桜会場の今年の期間は4月5日(土)~5月11日(日)まで。
来年は芝付きが更に良くなって充実した見応えのある芝桜公園になると思います。
読者の皆様も来年は太田市の芝桜公園へ眼の保養に行かれては如何でしょうか・・・。
2008 05 23(金)記。 前橋市 最高気温31℃
(蛇足) 近年、全国各地に芝桜公園が出来ました、見ては美しくて楽しいのですが元の大切な森林を大規模に伐採して造るのです。 自然破壊そのもので緑化に反していると思いますが・・・。
2008 04 23(水)
第25回全国都市緑化ぐんまフェアの敷島公園会場。
敷島公園は前橋市の奥庭として県・市民に親しまれている緑深い公園です。
広大な敷地内には前橋市民に飲み水を供給している前橋敷島浄水場があり、戦前に建設された巨大な水道タンク(配水塔・文化庁指定の歴史的文化財)がひと際眼につきます。
前橋の水道水は主に敷島公園の地下から汲み上げた天然地下水ですから安全と美味はこの上なしで、全国水道水百選の一つになっている名水です。
水道タンクを横に見ながら進むと、県営の陸上競技場や野球場などのスポーツ施設があります。
敷島公園中央部の松林にある広い池には貸しボートなどもあり、前橋市民の憩いの場となっています。
敷島公園池を背景にした広い松林の中が「都市緑化フェア敷島公園会場」。
松林の中をキレイに整備し、色とりどりの草花が植えられています。
この日は平日でしたので花見物人は少なく、天気にも恵まれ絶好の花日和!
こぼれんばかりの八重桜の下で樹上ハウスに遊ぶ親子も見られました。
所々に遊具など設置され子供たちも充分に楽しめる公園です。
都市緑化フェア敷島公園会場にはチューリップを中心に西洋から来た花々が展示されています。
前橋の駅前通りから群馬県庁にかけて、約2000本のチューリップが切られる事件がありましたので、花監視人が公園内を巡回していました。
(チューリップ切取り男の映像。)
花の見物には説明は不要です・・・ごゆっくりとご観賞ください。
松林の中に植えられたチューリップは30品種5万株と淡紫のムスカリー1万球。
敷島公園の緑濃い松林からのこぼれ陽がチューリップを一層鮮やかに引き立たせていました。
この前橋市敷島公園は日本で最初に林間学校が開校された場所です。
敷島公園内から前橋バラ園へ通じる小径の脇に「林間学校発祥の地」石碑があります。
1921年(大正10) 前橋市専任学校医・狩野壽平翁が学童の体力向上のため夏季に敷島公園内の松林で林間学校を開設したのが全国の林間学校の始まりとなりました。
狩野翁の精神はその後、高原学校や臨海学校などに発展的に引き継がれてゆきます。
広大な松林の中でお弁当を頂き幸せな気分に包まれた花日和の一日でした。
2008 05 22(木)記。 前橋市 最高気温27℃
2008 04 05(土)
第25回全国都市緑化ぐんまフェアが群馬県で開催中。
群馬フェアの開催テーマは「花、緑そして平和 ~利根川の大地から~」
フェアの愛称は「花と緑のシンフォニーぐんま2008」
開催期間は2008年3月29日(土)~6月8日(日)。
4月5日の午後3時頃から草花見物に前橋公園会場へ・・・。
都市緑化フェアの花を観る前に前橋公園の児童公園“るなぱーく”に寄ってみました。(入場無料)
桜が満開の下で元気な子供達の声を聞き童心に帰りながら・・・。
前橋中央公園のミニSL・回転昇降飛行塔やメリーゴーランドなどは有難い事に全て一回10円です。
筆者が小学校の頃から全く値段が上がっていませんね。
全国的にみても約50年余も10円で通している遊園地は他には無いそうです。
物価の上昇から考えて100円でも安いくらいですが、たったの10円とは表彰ものです。
前橋児童公園からトンネルをくぐって隣の池のある和風庭園へ・・・。
満開の桜木の奥には明治17年に建てられた大きな木造の臨江閣があります。
和風庭園から沢山の見物客と共に前橋公園の第25回全国都市緑化フェア会場へ・・・。
ここは昔の前橋競輪場があった敷地。
池に沿って建てられたのは数寄屋造りの迎賓館、後方には巨大なグリーンドームです。
広大な前橋公園会場には様々な草花が模様を描いて配置されていました。
草花の一つ一つに親切に名前が付けられ、植物の勉強に・・・。
清々しい清流の流れる「遥かな尾瀬コーナー」には尾瀬定番の水芭蕉。
この緑化フェアに合わせて開花させたのでしょうか? ちょうど見頃の水芭蕉です。
「山間の喜びコーナー」では今を盛りと菜の花づくめ・・・。
近くでは手湯・足湯コーナー「いで湯のまほろば」があります。 5日は水上温泉からの給湯でした。群馬の有名10温泉からの温泉が一週間ごとに運ばれてきます。
水仙の花も満開でした。(たぶん、しぼんだら花は時々替えるのでしょうね。)
花で満たされた前橋会場「なごみの庭ゾーン」と高層な群馬県庁。
午後の4時30分頃ですので人が少なくなってきました。
前橋公園会場の横を流れる利根川の放水路の両側にある桜並木は見事な咲きっぷりでした。
結構な巨桜の並木ですから見応えがあります。
尖った白テント張りの前橋中央ステージでは連日イベントが催されているそうです。
この日は遅かったので終了してしまいました。
こちらは「自然の記憶ゾーン」。中央の「幸の池」を取り囲むような草花の配置です。
芝生の上では三々五々小パーティーですね。
前橋中央公園の幸の池は鶴が羽ばたいている形をしています。
群馬県の形が鶴が舞っている様なところから・・・。
向かい側の高い土手は旧前橋城(厩橋城)の石垣の一部分で花で飾られている場所は利根川だったところです。
幸の池の鶴銅像が建っている場所が県都・前橋市の位置なのです。
前橋公園の「自然の記憶ゾーン」の中心部の俯瞰画像です。日中でしたらもっと鮮やかでしたでしょう・・・。
時期になると幸の池の手前にも花菖蒲が咲き乱れることでしょう・・・。
前橋城の石垣を上ると「花いきいきゾーン」です。
真ん中にある盛り上がった花壇は上毛(群馬県)三山(赤城・榛名・妙義)モチーフにしています。
その周辺には群馬県の各市町村の名所をテーマにした花壇があります。
富岡市からは世界遺産に申請中の赤レンガの富岡製糸場。
右隣には藤岡市の特産品「藤岡瓦」の巨大鬼瓦など、各自治体が特色を出して展示しています。
鮮やかな草花は目と心の保養に役立ちます、6月8日迄に前橋市の緑化フェア会場へぜひどうぞ・・・。
2008 05 21(水)記。 前橋市 最高気温27℃
2008 04 29(火・昭和の日)
上田市街での真田合戦を見物した後、原町通り沿いにある「池波正太郎・真田太平記館」へ行きました。
途中のイベント広場で無料入館券を有り難く頂き・・・。
時代物作家・池波正太郎を記念して上田市の中心部に建てられた「真田太平記館」は故池波正太郎氏の著作物(真田太平記や鬼平犯科帳・仕掛け人藤枝梅安など・・)や池波氏自身が描いた原稿・絵画・挿し絵(若い頃、画家を志望。)などの貴重な作品が沢山展示されていました。
真田太平記館の展示物は全て撮影禁止です。
館内には真田太平記の登場する草の者(忍者)の活躍する抜け穴で、真っ暗な忍者洞窟「忍忍洞」などあり子供気分に浸れます。
真田太平記館の外観は純和風造り。 中庭に通じる小路は白壁と石積の壁が美しい。
真田太平記館の前は今は原町通りですが、昔は五街道に次ぐ重要な“北国街道”だったそうです。
上田市の商店街にあるマンホール蓋までも真田六文銭。
上田と云えば真田、真田と云えば上田でしょうか・・・。
上田城二の丸跡にある山本 鼎(かなえ)記念館も訪問しました。
内部には山本画伯の絵画・彫刻・版画などが展示されています。
山本絵画は農民・農村を主題にした農民美術ですから生活に根ざした重いものがありました。
上田市のスタンプラリーの三ヶ所(上田城櫓・市立博物館・山本記念館)はすべてゴム印押し完了。
山本 鼎記念館の横に上田市立博物館が在ります。
銅像は世界で最初に人工癌を作った偉人の山極勝三郎博士です。
台座には「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」と人工癌が出来たときの俳句が刻まれています。
山極博士は曲川の俳号をもつ俳人としても有名でした。
多大な業績により戦前の昭和5年に勲一等旭日瑞宝章を受賞しました。
コールタールをウサギの耳に塗って癌を発生させ、ノーベル賞候補にもなった偉大な医博。
山極博士より2年前に人工癌を作ったとしてデンマークのフィビガーがノーベル賞を受賞しますが、後年になってフィビガーのは癌では無かった事が判明しました。
山極博士の人工癌が世界最初と高い評価を得ることになりました。
コールタールで黒色に癌化したウサギの耳のホルマリン漬け標本。
山極勝三郎博士の偉業を称えた東京大学医学部の解剖台記念碑。(碑文は佐々木信綱氏)
博士は山本勝三郎として生まれ。代々上田藩の範医を勤める家柄の山極家を継ぎ、上田中学から東大医学部を卒業。
後に、ドイツへ留学し癌の研究に没頭し「癌刺激説」の影響を受けてコールタール実験へと業績を伸ばしました。
上田市は偉い人物が沢山輩出しているのですね・・・。
上田市立博物館にはまだまだ数多くの収蔵品がありました。
やはり、戦国時代の真田家由来からの貴重な品々が興味を引きます。
掛け軸は甲斐武田家の重臣を描いた「武田二十四将図」。一番上に武田信玄公、下から二段目の左の二人が真田家の武将です。
真田昌幸公の武具甲冑も展示されています。六文銭の佩楯と丸三日月の前立て飾りが目立ちます。
真田家紋として名高い六文銭(六連銭)は「仏教の説話にある六地蔵に供えるため死者の棺に入れる六連銭」から“不惜身命”を信条とする武士に相応しいとして定められた。
(三途の川の渡し賃が六文だったという説もあります。)
収蔵品の中には絵画も沢山あります。
下の絵は「真田犬伏密談図」。
下野国犬伏(栃木県佐野市)の陣中で石田三成の密書を受け、関が原の戦では豊臣方に付くか、徳川に味方するかで密談する真田父子(左から信幸・信繁(幸村)・昌幸)。
父・昌幸と次男・信繁(幸村)は豊臣方へ。嫡男・真田信幸は徳川陣に加担することになり、武勲を上げて生き残り真田信之と改名し真田家を存続させる事になります。
第二次上田戦役で城櫓から指揮を執る真田昌幸(右)と信繁。
真田軍はこの戦いで三万余の徳川秀忠軍を上田城に釘付けにし、関が原への参戦を不可能にする功績を挙げますが、石田光成率いる西軍は徳川に破れ敗退する事になります。
真田昌幸・信繁(幸村)親子は家康から死罪を受けそうになります。
徳川方に味方した長男・真田信幸の必死の嘆願により紀州(和歌山県)九度山へ流罪となりますがそこを抜け出し、後に大阪冬・夏の陣で大活躍して真田の武名を不朽のものとしました。
上田市立博物館に所蔵の鎧兜の数々・・・。
江戸時代に上田藩を治めた仙石家の金幣馬印と黒縅しの鎧具足。
後に上田地方を領した松平家に伝わる家康から拝領した甲冑。
胴具足には三つ葉葵の紋所。
兜の飾りが面白い! フィギア世代に受けそうなネコ耳みたいな猫耳兜です。
上田市立博物館にはまだ沢山の貴重な品が展示されていました。
上田城や真田太平記館、市立博物館等々見所いっぱいの上田の郷へぜひ足を伸ばしては如何でしょうか・・・。
2008 05 17(土)記。 前橋市 後
最高気温25℃
(上田市立博物館からの借用画像に感謝!)
2008 04 29(火・昭和の日)
上田市の街中には到る処に真田まつり幟り旗が立てられて・・・。
上田市内の海野町と原町の交差する中央二丁目交差点で“真田まつり”を見物。
武者行列が到着するまでは御神輿などで祭りを盛り上げていました。
上田駅方面から武者行列が陸続と到着。
午後2時から上田決戦劇「決戦!真田軍VS徳川軍」の始まりです。(司会者は立川談慶)
真田十勇士の幟り旗が続きます。戦場で華々しい戦果を挙げた真田緋縅し甲冑部隊も整然と隊列を組んで登場!
女子部隊の先頭には真田幸村公の奥方・竹林院(利世殿)も加わっています。
真田子供部隊も緋縅しの鎧兜の出で立ちで胸を張って・・・。
豊臣方から派遣された「大阪甲冑隊」の面々は幾多の戦場を駆け巡った勇壮な面魂です。
御大将・真田安房守昌幸公(九度町長)は乗馬姿で指揮を執ります。
真田昌幸公の奥方・寒松院(山手殿)も真田家存亡を賭けた闘いに凛々しいお姿で戦場へ・・・。
上田城を守備する女子長刀隊は襷(たすき)掛けで城を枕に決死の討死覚悟!
天下にその名を轟かした真田十勇士が最後に戦場に到着、決戦の機運が間近に迫ります。
真田武者行列も無事に終了、真田幸隆・真田昌幸・真田幸村(信繁)の三将は床机に着座にて観戦。
戦機が熟したとき、重々しく法螺貝が響き渡り、徳川秀忠の軍勢の襲来を伝えていました。
両軍の緒戦は真田・徳川の忍者同士の斬り合い戦が中央交差点の戦場で・・・。
真田忍者・猿飛佐助や霧隠才蔵たちの力闘により徳川忍者・服部半蔵一派は手傷を負って逃げ帰ります。
真田・徳川両軍の武将による決戦がそこかしこで繰広げられていました。
真田子供部隊の猛攻撃も開始され、しだいに徳川軍の敗色が濃厚に・・・。
徳川秀忠を主将に頂く徳川軍は上田城を攻略出来ずに日時を費やし、東西両軍が死闘を演じた天下分け目の関が原決戦の間に合わず父君・家康から叱責・謹慎とされる結果となります。
無事、徳川秀忠軍を打ち破り、大喜びで勝鬨の声を挙げる真田の勇者たち・・・
天正13年(1585)の第一次上田合戦と慶長5年(1600)の第二次上田合戦の両戦闘で徳川の大軍を上田城に引き付け、真田昌幸・信繁(幸村)親子は地の利と智略を縦横に駆使して大勝を遂げ、真田の武名を天下に知らしめたのでした。
“第26回 真田まつり”も恙無く終了。 真田の殿様たち(右から二番目・真田幸隆公は真田家子孫・真田 徹氏)もにこやかに記念撮影です。
入道姿の猛将も若い長刀女子隊に囲まれて武勇談でしょうか・・?
真田忍者・猿飛佐助と霧隠才蔵は女性に大人気です。 なんと云ってもイケメンはモテますね・・・。 忍びの者の殺陣仕草はサマになっていました。
一方で観客を沸かせたのは真田十勇士の三好兄弟。体も声もずば抜けて大きい豪傑!(適任ですね。)
”真田まつり”の記念に筆者も上田一番の美形とツーショット! 可愛い美丈夫でしょう・・・。
交差点に陣取って真剣に太鼓を打ち鳴らし、勇壮な雰囲気に盛り上げた真田陣太鼓の皆様に感謝の拍手・・・!
2008 05 15(木)記。 前橋市 最高気温24℃
2008 04 29(火・昭和の日)
旧跡・上田城の見学の後、城北側の市営陸上競技場へ・・・。
上田城から陸上競技場へなだらかに下る坂道には八重桜が今を盛りと鮮やかに咲き誇っていました。
武将の持つ「上田三代の里・上田城」の立派な幟旗手ぬぐいは無料配布です。
家に飾ると縁起が良いと云われます。但し、頂戴するまでには長蛇の列・・・。 近くでは忍者鍋が無料で食べられます。
運良く、競技場の屋根付きメインスタンドに席を確保! 五月晴れの強い日差しにも係わらず爽やかな見物ができます。
午前11時30分、徐々に武者行列の参加者たちが入場してきました。
絵付き六文銭の幟旗は真田十勇士の組・・・。
勇壮な武士団は赤幟に赤備甲冑の真田兵団。
陸上競技場の中央に真田軍団は勢揃いです。総員500名余と見受けられました。
真田の赤威し甲冑に身を固めた真田左衛門佐信繁(幸村)公の役目は上田市長・母袋創一氏。
上田市長の挨拶で“第26回 真田まつり”の幕開けとなりました。
真田一族はもとより和歌山県九度山町など真田家縁の地からも応援が馳せ参じていました。真田安房守昌幸公の役は九度山町長・岡本 章氏。
上田市長が片手を高く揚げ、出陣の鬨の声を上げて第26回 真田まつり「出陣式」を宣言します。
カラフルな絵付き六文銭を持つは真田十勇士(上田商工会議所青年部)。
左から穴山小助、由利鎌之助、筧十郎、海野六郎、禰(根)津甚八。
望月六郎次、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好為(伊)三入道。と・・講談本でお馴染みの真田十勇士の面々も出陣にを今や遅しと待ち構えていました。
“第26回 真田まつり”も主役達が勢揃いし、武者祭りのムードも最高潮に達しました。
“真田まつり”の武将紹介のあと、“上田城築城祝宴”のご披露となります。
今年は上田城下の房山村に奈良時代から伝わるという“房山獅子舞”の入場です。
房山獅子は雌獅子と云われ、隣村の常田村の“常田獅子舞”は雄獅子とのこと。
三つ頭獅子舞も交えて交互に獅子舞を披露するそうです。
七夕みたいな笹(ささら)を持った児が先導します。 獅子舞の禰宜を演ずる「金烏帽子朱天狗」が続きます。
真田武士軍団の御前にて“房山獅子舞”を華麗に踊っていました。
朱天狗は猿田彦命の仕草を真似て、右手に五色紙の御幣、左手に鈴を携えての力演!
三匹の獅子も鳥の黒羽根を付けた重い獅子頭で激しい獅子舞おどりを舞っていました。
脇では赤と黒の獅子頭毛に朱鬼面を被った獅子舞たちが踊りながら撞木を振って鉦を叩きます。
いよいよ、上田城築城祝宴の一番の華・・・火縄銃の演武になりました。
マントを着けて伴天連甲冑の出で立ちの火縄銃隊隊長の命令一下、隊員は射撃配置に着きます。
真田軍団・火縄銃隊は参加総勢16名。 まずは火縄銃の火薬を銃身に詰めます。
耳を劈く轟音と共に片膝つきの一斉射撃が開始されます。
続いて火縄銃より大型の大筒の発射!!
順番に発射しますが、口径が大きいだけあってド迫力の轟音が会場内に響き渡りました。
この他にも大勢で打ち鳴らす勇壮なリズムの真田陣太鼓の披露や、
忍者・猿飛佐助と徳川の忍びの者・服部半蔵の立ち回りなど盛り沢山な催しです。
上田城下の陸上競技場では真田一族が大活躍していた時代を彷彿とさせる時代絵巻が繰広げられ、盛んに大観衆の耳目を集めていました。
祝宴も最高潮になった頃、陸上競技場を望む小高い城石垣の上に狼煙を挙げながら敵兵(徳川兵)が出現します。
真田信繁(幸村)公の下知のもと、真田軍団は敵を追い求めて競技場から進軍を開始します。
この後、真田武者行列は上田城から上田市中心街を華やかに練り歩きました。
次回は上田市街での合戦模様です。
2008 05 13(火)記。 前橋市 最高気温17℃。
2008 04 29(火・昭和の日)
今日の旅は春まだ浅い信濃路へ・・・。
信州上田市で“上田城・真田まつり”が催されるので、温暖化には申し訳有りませんがを駆って上田市へ・・・。
信越高速道から残雪を戴いた雄峰・浅間山を望みながら走ります。
到着した上田市街はお祭りムードで一色・・、市役所の近くにある堀割に囲まれた上田高校(旧藩主邸)にお願いして駐車させて頂きました。
八重の桜と旧藩主邸の彩が優雅さを見せています。
上田高校から徒歩で3~4分の場所にある、二の丸橋から上田城内へ・・・。
普段は上田城大手門(東虎口櫓門)の前が無料P場になっています。(祭り中はP場は閉鎖。)
最近改修された大手門や両脇の二層二階入母屋造りの櫓が陽を浴びて戦国の面影を映していました。
城門に向かって左が南櫓、右は北櫓。(北・南・西櫓は江戸時代の寛永の頃の城主・仙石忠正の改築によるもの。)
城門の側では豪傑揃いで有名な「真田十勇士」の記念撮影用ボードが・・・。
中央の智将・真田幸村公には「一意専心」の文字。
「他に気を散らさず、一つの事だけに専念する。」という意味でしょうか?(ブログに邁進しろってこと・・。)
大手門をくぐると先方に真田神社の石鳥居が見えてきました。
人々が集まって提灯を掲げて、ナニやら賑やかな様子です。
”真田まつり”の先発部隊の御神輿が真田神社で御祓いをうけて威勢良い勢子に担がれて出てきました。 イナセなフンドシ姿もお祭り気分を盛り上げてますね。
大手門の横に建っている北櫓へ入る時に観た枝垂桜は見事な咲きっぷりです。
北櫓・南櫓と入って内部の展示物を見学しました。
丁度、大手門から御神輿が街中に出て行くところを上から見た写真です。
頑丈な梁・柱で構築された櫓は幾多の歳月を経ても狂いを生じませんね。
見事な武具は江戸時代の藩主・松平家に代々伝わる甲冑で、江戸中期の作とか。
真田家と云えば旗印はなんと云っても六文銭。(六連銭とも云い、真田一族のルーツで古代から東信濃の豪族・海野家に伝わる家紋。)
武勇を持って知られる真田家の智略に富んだ闘いの象徴紋です。
北櫓の一角には中央に上田城を築き真田家の基礎を築いた真田昌幸、右に大阪の陣で大活躍の信繁(幸村)、左に大阪城で若くして自刃した幸昌(大助)の三代人形像が展示。
有名な真田幸村の嫡男・真田幸昌(大助)についてはここクリック。
城門・櫓から下りて、城内の本丸跡地の横にある真田神社を参拝・・・。
真田神社の神鏡の真上に真田幸村公の絵画が飾ってあります。
死後には神様に奉られたのでしょうね。真田大明神でしょうか?
真田神社本殿のそばには大きな井戸があり、通称は真田井戸と呼ばれています。
この真田井戸の内部には城外の太郎山の砦に通じる抜け穴が掘ってあり、籠城戦のとき外部との連絡や兵糧を運び入れる目的で造られたそうです。
真田井戸を見物して、更に奥に歩を進めます。
堅牢に積み上げられた石垣が古城の風格を偲ばせていました。
真田安房守昌幸が上田城を築城した時(1583年天正11年)は、信州・小県を中心とする東信濃地方と上野国(群馬県)北部の吾妻・沼田地方を領有する約6万5千石の小大名でしたが、領国に相応しない立派な平城(ひらじろ)を上田の地に建てたのは、主家と仰いだ武田家が滅亡したのち徳川・北条・上杉の強大大名に挟まれ、真田家存亡を賭けた防衛・戦略上からの必要性からでした。
城内の一番奥に「西櫓」がひとり佇むように建っていました。北・南櫓と違って西櫓は立ち入り禁止。高い城壁の上にある西櫓からの景色は格別なものがあります。
西櫓の高い外壁の下側は昔し千曲川が流れ、この場所を尼ヶ淵と呼ばれていたので上田城は別名「尼ヶ淵城」とも云われました。
帰りの大手門脇で巨大な城壁石を見学。
真田幸村の父・昌幸が上田城築城の際に城の2Km北にある太郎山(海抜1160m。)から掘り出して大手門脇に据え付けたとの謂われのある巨石で「真田石」(縦横3m大)と名付けられています。
徳川方に付き真田家を存続させた真田信之(旧名・信幸 昌幸の嫡男、幸村の兄)が松代に移封されたとき、この巨石を家宝として持って行こうとしましたが、微動だにしなかったと言伝えられている上田城の要石(かなめいし)です。
ゴールデンウィークの最中ですね五月晴れの空の下、上田城のお濠には鯉のぼりが元気良く泳いで・・いませんでした。
風も無くぶら下った鯉のぼりは見ようによっては目刺し・頬刺し状態の干物魚か・・・。
次回は真田まつり真田武者行列の巻です。
2008 05 09(金)記。 前橋市 のち
最高気温24℃
2008 04 13(日)
小幡の名庭・楽山園からの出陣式も無事終わり、武者行列はいよいよ小幡の中心部にある桜並木へ・・・。
小幡の桜並木は街中を縦断する雄川堰(名水百選の一つ)に沿って400m程の長さに植えられています。
鎧兜に身を固めた戦国武士の演ずる武者行列は桜並木の下を約2時間ほど往復して練り歩きます。
桜並木の石畳を踏みしめて武者行列は川筋に沿いながら下って行きました。
あいにく曇天の空模様ですが、美女武者は馬上に凛々しいお姿を・・・。
小幡のオバタリアンか熟女軍団しょうか? 桜の花散る中を楽しそうな長刀行列です。
こちらは長刀少女隊、チョッピリとハニカミながらの行進。
途中の桜花の下で刀剣を突き上げてエイ、エイ、オ~!っと勝鬨の雄叫びをあげ気合を入れてました。
武者達は小幡の桜並木の途中にある古社・小幡八幡宮へ戦捷祈願に参拝を・・・。
鬱蒼とした杉木立に囲まれた小幡八幡神社の楼門から石段を上ると正面に拝殿・本殿が現れます。
武者行列の主役連が社殿前に陣取り、厳かに「祈願文」を奉読。
小幡の発展と武者行列の無事・参加者の健勝を厳かに祈願していました。
最近は小幡の武者行列も国際色豊かになってきましたね。
白・黒・黄色と各国の人達が鉄砲足軽に扮して仲良く国際親善を・・・。
仲良く平和が一番ですね。
小幡神社の境内で武者行列は小休止。 可愛い長刀少女隊にポーズを決めて貰いました。
小幡神社での祈願を終えて、武者行列は再び雄川堰沿いの桜並木の下を練り歩きます。
今度はゆるい上り勾配の行進になりました。 重い甲冑ですからお察し申し上げます。
細い三日月の飾り前立ては伊達政宗公でしょうか? 戦国武将のサマになっていますね。
立派な鎧兜で身を固めた武将達の雄姿が続々と登場しました。
全身真っ黒な黒威しの武者は「スターウォーズ」に登場するシスの暗黒卿・ダースベイダーか・・・?
前後を武将達に守られた菅笠(市女笠)旅姿の姫小町が武者行列に華を添えていました。
武者行列の一行は桜の散花を踏みながら甘楽町総合公園(お祭り広場)へ向かいました。
小幡桜祭りの準備も着々と・・・。 新調なった山車の上には織田信雄公の山車人形像。
運動公園の桜の下、武者行列の全員が勢揃いして華やかな雰囲気です。
武者行列に参加の面々には此処で野点の席が設けられます。
裏千家を学んでいる女子高生の点てる御点前を頂戴して、無事に武者行列のお開きとなりました。
その後、甘楽町総合公園の特設ステージでは火縄銃や殺陣の演武、抜刀術、荒船太鼓、小幡花見音頭など盛り沢山のイベントが開催され、観客を大いに魅了していました。
曇り空の天候で写真の発色はイマイチでしたが、城下町小幡郷で行われた桜祭り・武者行列の華やかな時代絵巻の雰囲気がお伝え出来たかと思います。
様々な武将・甲冑や少年少女隊など見られ、楽しい武者行列の一日となりました。
読者の皆様も来年の桜祭り武者行列を見物に甘楽町小幡へ是非どうぞ・・・。
2008 05 07(水)記。 前橋市 最高気温30.5℃。 ばか暑!!
2008 04 13(日)
平地の桜が終わる時期、群馬県甘楽町の丘陵地区に位置する小幡町で桜まつりと武者行列が13日に行われました。
“第24回城下町小幡さくら祭り「武者行列」”と名付けられたお祭りは小幡の街の桜並木の下を2時間に亘って練り歩きます。
早速、車を飛ばして武者行列の見物に・・・。
甘楽町・町営の小幡物産センターに無料P場を確保。
案内の人に武者行列出陣式会場への道を教えて貰い、散歩を兼ねて徒歩で7~8分行きました。
清流・雄川に沿った遊歩道「せせらぎの路」を進むと、両岸に今を盛りに満開の桜が・・・。
白・薄紅や濃紅色の多彩な色の桜花が我が世を謳歌するように競って咲いていました。
小幡の桜に関しては昨春の4月12日号に掲載していますのでご覧下さい。
武者行列出陣式は“楽山園”で挙行されました。
楽山園は江戸時代に築かれた名園で国の名勝庭園に指定されています。
楽山園には子供からジジ・ババまで幅広い年代層の人たちが武者に扮して集結中・・・。
甘楽町の町長挨拶に引き続いて武者総大将の出陣の儀式。
エイ、エイ、オ~ と三度鬨の声を盛大に挙げてイザ出陣!!
いよいよ老若男女混成部隊の武者行列の出陣・・・。
織田家の家紋を染め抜いた旗指し物を高く掲げ、見事に隊列を組んで出発を待ちます。
勇ましい上州女性の長刀(なぎなた)隊の出陣! 「カカァ天下と空っ風」でしょうか?
甘楽町の重臣たちは煌びやかな出で立ちで武者行列に臨みます。
黒い陣笠を被った足軽の吹く法螺貝が今にも振り出しそうな曇り空に響き渡り、武者行列を鼓舞していました。
総大将はここ小幡郷の領主をしていた織田上総守信雄(かずさのかみのぶかつ)公。(信勝は信長の次男)
兜の前立てに織田家の家紋・織田木瓜をいただき、馬上に颯爽とした武者姿をご披露!(小幡郷の織田家七代の墓に関しては昨春4月14日号を参照。)
総大将より立派な大鎧装束の武者もいましたが、重いのにすべて徒歩での行進でご苦労様です。
全身を朱具足に身を固めた武者は赤備えで名高い武田軍からの援軍参加でしょうか?
顔も朱塗りの面を被り、参加武者の中では一番の迫力!!
若い女性も多数の参加でした。 お女中役に扮した少女も長刀を揃えて“イザ、出陣!”
更に小さな子達は小冠者で武具は腰に差した護身の小刀のみ。
武者行列の隊列は名庭・楽山園を出陣して小幡の武家屋敷通りを行進します。
若い小町娘たちは菅笠姿。京の時代祭りを彷彿とさせる雅な出で立ち・・・。
一番人気の女武者 見参! 馬上で揺られて少し緊張気味です。
目線をお願いして、ウルルに撮れた必殺の一枚です。(www......)
鎧兜に身を固めた武者たちが小幡の桜並木へ歩を進めて行きます。
次回は「城下町小幡の桜並木武者行列」の巻です。
2008 05 03(土・憲法記念日)記。 前橋市 のち
最高気温25℃
5月3日 憲法記念日 人類の理想、世界に冠たる平和憲法を護りましょう!!