2012 04 05(木)
水戸弘道館近辺の名所散策。
弘道館裏に鎮座する“弘道館 鹿島神宮”を参拝。立派な鹿島鳥居横の「弘道館学生警鐘」(弘道館生に時を知らせる)は東日本大震災で倒壊!
土台の基壇だけが空しく取り残され、横には鐘楼瓦礫が積み上げられていました。早く再建される事を願うばかりです。、
更に弘道館で学ぶ学生のため学識と道徳の神と崇められる孔子を祀った「孔子廟」も地震で破損し、修復中で見学出来ず。
孔子廟横の林に置かれた本社の鹿島神宮になぞった“要石”(かなめいし)を見学。
水戸藩第九代藩主・徳川斉昭公(烈公)自筆になる歌碑で「行末毛富美奈太賀幣曾蜻島大和之道存要那里家流」と刻まれています。
(行く末も ふみなたがへそ あきつしま やまとのみちそ かなめなりける) 「大和の道こそ日本人が実践すべきものである」という意味。
「弘道館 鹿島神宮」社殿の右手前に八角型の堂宇“八卦堂”が建っていました。
八卦堂の外面は地震の痕跡は見られませんが、内部中央に置かれた「弘道館記碑」は激しい揺れに前面の刻字部が大きく崩壊。
弘道館記碑は弘道館を創建した徳川斉昭公の弘道館の教育基本方針を刻んだ高さ約3.1m 幅1.9mの石碑。
鹿島神宮から弘道館に勧進された“弘道館 鹿島神宮”の社殿。 白梅が香る烈公お手植えの御神木の「鈴梅」。
水戸藩校の弘道館から徒歩で「大手橋」を渡り、かつての空堀を眼下にして旧水戸城へ・・・。
途中に建てられていた銅像・石碑は、左から水戸初代藩主“徳川頼房公”(家康の十一男)。
石碑は昭和天皇が昭和21年11月に戦災状況視察に水戸市を訪れた時に詠んだ「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちおとも たかくきこえて」の歌碑と奥には「茨城百景」碑。
書物を手にした銅像は安積湛泊(覚兵衛)翁。大日本史の執筆・編纂に尽力し、史学研究の彰考館総裁として活躍、当時としては稀な82歳まで存命した学者です。
水戸市第二中学校に建てられた「彰考館跡碑」と「大日本史編纂之地碑」。
この地に建てられた彰考館で光圀公の命により明暦3年(1657年)から水戸藩の学者たちが250年の歳月をかけて大日本史を執筆・編集していたのです。
余談ですが、大日本史の作成にあたり、各地に派遣されていた中の佐々介三郎なる人が調査事項を記事にして送り、それらを編集・校正していたのが安積覚兵衛で、水戸黄門物語に登場する格さん助さんは実は記者と編集者の間柄ってことになるらしいです。
水戸城は廃城になって久しく、今は学校地区になって本丸も隅櫓も有りません。(天守閣は最初から作られていません。)
唯一、水戸城の名残を残すのは水戸第一高校敷地内の立つ「薬医門」のみ。
立派な総門で水戸城の表門(正門)として佐竹氏時代(1591~1602年)の創建と言われています。
太い柱や棟木で作られた堂々たる風格を漂わせる安土・桃山調の三間一戸の薬医門。
脇扉を取付けた門柱の太さには驚かされます。
この豪壮さ故、400余年の風雪や震災にもびくともせずに耐えられた事と思われました。
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2012 04 30(月)記。 前橋市 最高気温22.8℃ 最低気温15.7℃
おまけコーナー。
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ルームランナーで変な歩き方をする犬。
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