2008 06 14(土)
館林花菖蒲園を楽しんでから歩いて向井千秋記念子ども科学館へ・・・。
向井千秋科学館の前に建っていた“田山花袋記念文学館”を先ずは訪問。
(館林市城町1-3.入場料210円)
田山花袋は明治4年12月13日に館林で生まれ、明治・大正期を代表する文学者の一人です。
本名を田山録弥。 父は十郎、母・てつの次男に生まれる。
田山家は山形から館林に移住し旧館林藩主・秋元家に仕え、田山家が明治19年に上京するまで館林に暮しました。
5歳で館林東学校に入学、かたわら館林藩儒者・吉田陋軒(ろうけん)に漢学を師事し、年少にして漢詩文を投稿するなど早くから文学者としての頭角を現しました。
田山花袋記念文学館内には花袋の作品や遺品など展示中。
居住していた部屋も再現されていました。
田山花袋は小説「蒲団」を発表し自然主義文学に多大な足跡を残し、「生」「縁」「妻」の三部作や「田舎教師」など多彩な小説を世に送り文学一筋の道を歩みました。
文学者として活躍していた頃の田山花袋翁も昭和5年5月13日に58歳の生涯を閉じます。
生前の写真と死後のデスマスク、深く考えさせられるものがあります・・・生きている内が華って。
田山花袋記念文学館の前にある“旧上毛モスリン事務所”の庭の一角に“田山花袋旧宅”が移築・保存されています。
田山花袋はこの家で7歳~14歳までの少年期を過ごしました。
この建物は5部屋を有し、江戸期の武家屋敷としての価値もあります。
内部も開放され、花袋が居住していた時代の机や長火鉢なども見られ、当時の様子が垣間見られます。
戦前の代表的な文学者・田山花袋を偲びつつ、現代の宇宙飛行士”向井千秋記念子ども科学館”へ・・・。
2008 06 30(月)記。 前橋市後 最高気温26℃
骨格から美女誕生アート。
2008 06 14(土)
6月は梅雨の時期、この季節に咲く花の一つに菖蒲があります。
近くにある花菖蒲の名所・伊勢崎市の“女堀花しょうぶ園”は昨年6月に投稿しましたので、今年は館林市花菖蒲園です。
館林と云えばツツジで有名ですが、この時期の花菖蒲も見応えがあります。
館林花菖蒲園は館林市つつじヶ岡第二公園の中にあります。
館林市民の憩いの場であるつつじヶ岡を取り囲む大きな城沼の湖面にも菖蒲が咲いていました。
ノンビリとしたボート遊びも初夏を感じさせる風景です。
城沼に流れる鶴生田川に架かる尾曳橋を渡ると館林花菖蒲園に到着。
横隣に無料P場が有りますから便利ですね。
園内は足が汚れずに鑑賞が出来るように木道が通っていました。
快晴の強い日差しを浴びて煌めくような輝きを放っています。
花菖蒲園のあちこちで写真撮影の姿が・・・。
色鮮やかな花菖蒲の数々、白・薄紫・ピンク・黄色と沢山の種類です。
この菖蒲園には270品種、40万株の花菖蒲が植えられています。
1955(昭30)に明治神宮から株分けした花菖蒲を城沼に植えたのが始まりと云われています。
今では約11万人の見物客がこの館林花菖蒲園を訪れるそうです。
花菖蒲園はツツジに次いでの館林名所となりました。
館林花菖蒲園は尾曳橋に通じる道路を挟み両側の二ヶ所に分かれています。
右奥に見える旧秋元別邸のある方がメインの花菖蒲園。
菖蒲園を散策していると、中央が何やらにぎやかです。
華やかな菅笠みたいなのを冠った人達が沢山花菖蒲の中に・・・。
急いで近づいて見ますと、手で菖蒲の花を摘み取る仕草は「花がら摘み」とか・・・。
本日のイベント“花摘み娘”なのでした。
茶摘み娘と似たような姿でカメラに向かって盛んにポーズを取っています。
花摘み娘の時間は10時~11時。 終了間際でしたが何とか数枚のショット。
花笠に館林紬(つむぎ)の衣装が良く似合う“花摘み娘”さんです。
花菖蒲をバックに8名の花摘み娘が笑顔で記念撮影。
花摘み娘の皆さんは若くて可愛いですね。
まだ、あどけなさの残る色気より喰い気ってなお年頃・・・?
広い館林花菖蒲園にはアズマ屋風な大きな休憩所があって便利です。
そぞろ園内を散策にながら花菖蒲を愛でました。
数は少ないですが、珍しい薄いピンクの花は大人気です。
対照的に濃い紫な花は大型の菖蒲花。 いろいろ沢山の種類が有りました。
花菖蒲園の一角に、最後の館林藩主・秋元氏が明治末期に建てた旧秋元別邸があります。
この期間はお休み所として無料で開放していました。
広い芝生の庭の片隅に男子ヌード像が・・・。
この銅像は「秋元春朝 投網の像」です。説明文には藩主・秋元氏の末裔の春朝(はるとも)氏は自然を大切にし慈しんだ粋人で村民町民に親しまれた人物とありました。
池で魚網を投げる姿を銅像にしたそうです。(大正8年 毛利教武 作。)
旧秋元別邸に上がり、抹茶を頂きながら休憩。(200円)
茶菓子には懐かしい“麦落雁”が・・・。お茶受けにとても良く合う上品な味ですね。
館林と云えば銘菓・麦落雁。 麦落雁と云えば三桝屋でしょうか。
旧秋元別邸でのんびり休んでいると、芝生の庭が騒がしく・・・
先ほどの花摘み娘が大勢の人に囲まれていました。
来園者のサービスに花菖蒲の種を配布していたのです。
私もなんとか二袋Get's ! 有難う御座います。
大人気で、アっという間に花の種は終了。
旧秋元別邸の庭で花菖蒲を背景に花摘み娘の記念写真です。
今回は7名で一人足りませんが、サボってデートにでも行ったのでしょうか?
花より団子じゃなくて、花には娘ッ子が一番!! ってね・・・。
ノンビリと館林花菖蒲園で遊んだ後、傍にある“向井千秋記念子ども科学館”の見学に向井ました。
2008 06 29(日)記。 前橋市 最高気温21℃
水滴アートをお楽しみ下さい。
2008 05 18(日)
日本に二ヶ所しかない龍岡城五稜郭を見学して幕末の動乱期の築城に想いを馳せた後、更に1Kmほど奥にある古社・新海三社神社へ・・・。
狭い市道に突如として巨大な鳥居が出現!!
木造両部形式の頑丈な造りの鳥居。
何故か朱塗りは施されていません。 鳥居からは中央に太いしめ縄が垂れ下がっていました。
大鳥居を過ぎて坂の車道を上ると、目的の新海三社神社が荒船山系に連なる丘陵の鬱蒼とした木立の中に見えてきました。
社務所脇に無料大P場があります。 「松平石見守乗利 天保6年8月再建」と彫られた大きな手水鉢で清め、石段を登ると正面に何も塗られていない拝殿があります。 拝殿に掲げられた扁額には「新海三社神社」。
拝殿の右隣には拝殿よりも大きな舞殿(神楽殿)が控えていました。
拝殿の裏側の一段高い処に新海三社陣神社の御神体を祀る二つの本殿が・・・。
本殿はキレイな朱漆が施されていました。
左奥が恵比寿様を祭る西本社、手前が健御名方命(たけみなかたのみこと・諏訪の祭神で佐久の祭神の父神様)を祭る中本社。
両本社併せて五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・子孫繁栄・大願成就・交通安全・・・何にでも効く神様です。
西・中本社の真ん中に、灯篭のような石があります。
名前は御魂代石(みたましろいし)と言うそうです。高さ150cmほどで、胴に龍刻があります。1358年(延文3年)と刻まれていた。 祭神が降臨する石との事です。
白木の質素な東本社の裏側に素晴しい三重塔がそびえていました。
新海三社神社の一番の名物・新海神社三重塔(国指定・重要文化財)です。
キハダ葺きの優美なソリを見せる屋根が昔の栄華を語っているようです。
新海神社三重塔を構成する木組みは無骨ながら堅牢な安定感を見る人に伝えます。
この三重塔は神宮寺の塔として1515年(永正12年)に建立。神宮寺は明治期の廃仏毀釈令で破壊されましたが、三重塔だけが新海三社神社の宝物庫として免れたそうです。(破壊されなければ七堂伽藍を備えた名刹だったでしょう。)
本来は神宮寺の中に新海三社神社が間借りしていたようです。
「軒先を貸して母屋を盗られる」ってこの事ですかね・・・。
三重塔から東本社に下ってP場への帰路には野仏の列がニコヤカに佇んでいました。
この新海三社神社の辺りが佐久地方では最初に開墾されたと云われています。
新田を開く⇒新開⇒しんかい⇒新海だそうです。
また、開はサクともいわれ佐久の語源とも・・・。
新海三社神社から大鳥居に戻って200mの近い場所に上宮寺がありました。
参道入口に十九夜塔?と彫られた大きな石碑。(十九夜燈でしょうか?)
無住寺でしょうか? トタン屋根の本堂にも誰もいません。
この上宮寺こそ新海三社神社に乗っ取られた神宮寺なのです。
現在の正式名は真言宗智山派・新海山上宮寺。(旧寺名は新海山上宮本願院神宮密寺 西暦600年頃の開山。本尊は阿弥陀如来。)
本来の場所から移動させられ、規模の小さなお寺になりました。
この上宮寺の見所は鐘楼に吊られた梵鐘です。
可哀相な鐘楼に吊られた小ぶりな梵鐘は南北朝初期(暦応元年(1238年)の作。
戦前は国指定の重要美術品だったとか・・・。現在は長野県宝です。
鐘楼の横に建つ小屋の中には金剛力士像(仁王像)が二体。
筋肉隆々の素晴しい肉体美の金剛力士像。オンボロ小屋には似つかわしくない迫力の像です。
風雨に晒されて全身に塗られた漆も剥げて痛ましいお姿です。
仁王像の高さは約260cm。 室町後期(西暦1500年頃)の京都慶派の流れを汲む仏師の作と思われます。 保存を切に願いたいものです。
夕刻まで臼田町周辺を探索してから佐久中込駅前の「鯉料理・三河屋」で夕食。
信州佐久に来たならヤッパ鯉料理ですね!
佐久の鯉料理は2006 10 24佐久市コスモス街道篇で一度紹介したので、今回は簡単な鯉夕食です。
川魚を好まない妻が注文したのは「鯉うま煮御膳」。
筆者も食したのは「鯉こく御膳」でした。平皿の小さな焼き魚は珍しい鮠(ハヤ)です。
やっぱり鯉は佐久に限りますね。 清流・千曲川で泳がせての鯉は泥臭さも無くて美味です。 第一に元気モリモリで体に精がつきますね。 昔は妊婦や出産後の栄養として鯉は重宝したものです。最近は店頭で見かけなくなったですね。
五月晴れの一日を充分に遊んでから胃袋に収まった佐久の鯉をお土産に帰路へ着きました。
2008 06 26(木)記。 前橋市 最高気温18℃
梅雨の季節は泥んこ車アート。
2008 05 18(日)
五稜郭といえば函館を思い浮かべますね。
ところが驚いた事に、信州佐久にも五稜郭があったのです!
日本にある五稜郭は函館市とここ佐久市のたった二ヶ所だけの貴重遺蹟。
五稜郭のその名は龍岡城五稜郭!!
場所は前回までに紹介した臼田町を通る小海線臼田駅から1300m東の地点。(龍岡城駅もあります。) 地名は佐久市臼田町田口字龍岡。
“臼田小満祭・きつねの嫁入り”のお祭り本部で臼田町付近の名所として2~3ヶ所案内された内の一つです。
臼田小満祭の余韻も覚めやらぬ内にLet's go! 田園風景になか車で5分も掛らずに到着。
五稜郭の外周には駐車場も立派な休憩所も完備しているので安心です。
早速、龍岡城五稜郭を見学に・・・。
函館の五稜郭と比較すると小ぶりな城郭の佇まいですが、堀も石垣も立派に残っていました。
花が咲いたらキレイでしょうね、見事な水蓮がお堀の水面を埋め尽くしている場所も・・・。
五稜郭特有の星形先端堡の石積みです。 石垣最上部の石は堀にせり出す構造で武者返しと呼ばれています。
延々と続く堀と石垣の保存状態が良好なのには驚きです。
信州佐久の片田舎にこの様な立派な五稜郭があったとは・・・! 日本にはまだまだ知らない名所・旧蹟があるものですね。
龍岡城五稜郭正面口の堀に架かる大手橋の脇には「史蹟 龍岡城址」の古びた石碑が建っています。
石碑は昭和10年11月3日建立とあります。横には昭和9年に国の史跡に指定されたと彫られていました。
龍岡城五稜郭の見取り図ですが、右上の堀はありませんが中央部の建物以外は当時のままの状態で保存されています。
五稜郭大手門に架かる大手橋の横に大給 恒翁の顕彰碑がありました。
大給 恒(おぎゅう ゆずる 1839~1910)翁は松平乗謨(のりかた)とも云われ、祖を徳川家と同じにする三河の名門・幕臣。(幕末には老中・陸軍総裁などの要職を歴任。)
大給 恒翁はこの地・龍岡に星型稜堡形式による西洋式城郭の龍岡城五稜郭を築き(1864年元治元年~1867年未完)、敷地内に本丸御殿を建築して龍岡城としました。(天守閣は当初から有りません。)
大政奉還の後明治期には日本赤十字社の創設に多大な尽力を奉げ、その功績を讃えこの大給 恒銅像碑が建てられました。
龍岡城五稜郭の敷地内には田口小学校と田口神社が有ります、本丸御殿などの城建築物は明治政府によって売却・破壊されました。
広い校庭の片隅に大きな木造の建物がありました。
往時を語る唯一の遺構である御台所です。
御台所だけは校舎として使用する為に少し移動し、残されて現在に到っているそうです。
内部の見学は事前に佐久市教育委員会に連絡しないと見る事が出来ません。
残念でしたが、隙間から見たところではガラクタばかりで台所の面影はありませんでした。
御台所建物の横に珍しい樹木があります。
根元の石標には「化石木(原名)メタセコイア」。 石標は大正6年の卒業生が建てました。
生きている化石と云われるメタセコイアは細い樹木でしたが、幹は硬くて石のようでした。樹齢は不明です。
五稜郭が佐久市臼田町に存在していたとは全く知りませんでした。
偶然ですが、見学出来て見聞が広がり幸せの一語の龍岡城五稜郭と言えます。
次回は佐久市臼田町の古社・新海三社神社と上宮寺。
2008 06 24(火)記。 前橋市 最高気温30℃
ヘンな場所に隠す万引き女の動画。
2008 05 18(日)
佐久市臼田町 ”臼田小満祭”(うすだこまんさい・小満は二十四節気の一つ、5月21日)のきつねの嫁入り道中も途中で事故も無くお祭り会場へ到着。
お祭り会場には大太鼓小太鼓が威勢良く打ち鳴らされて「きつねの結婚式」の前触れを演出・・・。
若い衆は白キツネにお化粧を施して名物“小満太鼓”を披露して盛り上げていました。
程なくして”小満祭きつねの嫁入り結婚式”が開始されました。(14:30)
会場ステージが壊れるほどの大キツネ達が並びます。
新郎・新婦キツネも神妙な顔つきに・・・。
ステージ上から「キツネ結婚の誓い」を面白おかしく朗読。
結婚後の新居は稲荷山のキツネ穴に構えるとか・・・。
神主役の大タヌキ(失礼・・キツネでした。)が祝詞の後、御幣を振るってきつねの結婚を清めて祝福します。
ステージ上では小キツネたちも賑やかに結婚式に参列・・・。
きつねの結婚式はいよいよ佳境に入り、三々九度で固めの儀式が行われました。
大盃になみなみと一升の日本酒が注がれます。
最初にキツネの新郎が大盃の酒を数回に分けてなんとか飲み干しました。
三々九度ですから、次は新婦の番になりました。
同じ大盃に新郎の時と同じ様に一升の日本酒!
きつねの新婦は一気に大杯を飲み干し、喝采を浴びていました。
凄い酒豪揃いですね。陽の燦燦とさす昼間からの一升酒ですから驚きです。
昨年はこの酒で倒れて救急車を呼んだとか・・・。 見事な呑みっぷりに拍手!!
今年は救急車のお世話になる事も無く、小満祭きつねの嫁入りも楽しい結婚式をもってつつが無く終了しました。(15:00)
きつねの結婚式のお祝いに粋の良い「小満太鼓」の演奏が続き、きつねの嫁入り道中はその後、稲荷山の稲荷神社に詣でて目出度く全ての幕引きとなりました・・・。
可愛いキツネちゃんと記念にパチリ!!
信州佐久の臼田町に伝わる“小満祭 きつねの嫁入り道中”は昨年9月30日に行われた“みのわの里のきつねの嫁入り”とは一味違う陽気で愉快な趣があります。
信州へ行かれた時には臼田町でお楽しみ下さい。
次回は“五稜郭”の見学です。
2008 06 23(月)記。 前橋市後 最高気温23℃
6月23日 沖縄戦慰霊の日。(謹んで哀悼の意を表します。)
2008 05 18(日)
臼田町の龍岡藩北国出兵行列も一段落した12時40分から、八十二銀行臼田支店前の小満祭特設ステージでは三味線の演奏が始まりました。
演奏者は津軽三味線の名手「スパー三味線ボーイ・YUTAI(ユータイ)」。
まだ17歳のYUTAI君の弾く津軽三味線の素晴しさには感動でした。
見事なバチさばき!太棹を捌いての繊細な指使い! 津軽三味線全国大会で連続優勝に輝いた名人だそうです。(小満祭には毎年出演しますから出身地かも。)
30分ほどYUTAI君の津軽三味線を楽しんでから臼田の中心街へ・・・。
露店の数では信州一の評判の通り、道路の両側には露店のオンパレード!
なんでも500店の露店が軒を並べると云います。
商店街の中程にある佐久総合病院でも小満祭に併せて“佐久病院祭”を開催中。
スリランカ義援金を募っていたサリー姿の美しいお嬢さんは看護婦さんでしょうか?
歳をとってボケたらこんなお嬢さんに看護して貰いたいな~~って。
佐久総合病院の前庭では子供達に大人気の“クレヨンしんちゃん”です。
「まつざか先生が幼稚園をやめちゃうぞ~」の場面ですね・・・。
にぎやかな佐久病院祭を後にして商店街を進むと、造り酒屋「橘倉酒造」が酒蔵内部を開放して「きつくら開蔵・遊蔵楽酒」という試飲会を開催中。
この試飲会で飲んだお酒が飛び切りの味! 何杯でもいけちゃいますが、酔わないように敷地内から湧き出す美味しい仕込み水で喉を潤して・・・。
酒蔵の見学をしてから、試飲した美味のお酒・発泡日本酒「信濃旅情」(180ml 400円)を2本購入。
まるでシャンパンを味わっている感覚の低アルコール発泡酒。 少し値は張りますがお奨めの逸品です。
蔵主・井手家本宅のシャクナゲが咲く庭園を見物し、ほんのりとほろ酔い気分で橘倉酒造を出ると、前の道路にはきつね姿の人たちが・・・。
これが臼田のきつねの嫁入り道中の始まりでした。
きつねのお婿さんは顔を真っ白に塗ったバカ殿様風。お嫁さんは牛車ならぬ人力大八車に乗って・・・。
見なきゃ良かった、きつねのお嫁さん! これはどう見たって雄タヌキだよ。
臼田の稲荷山に住んでるキツネって凄いんだ~! 長く見てると眼が腐るかも・・・。
古刹・弥勒寺前で小休止するお供のきつねでお口(眼)直し願います。
嫁入り道中の後半には若いピチピチ雌きつねが続きます。
丸顔きつねでも可愛いから許せますね。
五月晴れの下、きつねの嫁入り道中はお祭りステージにノンビリと向かいます。
途中で次第にキツネも増えてきました。
タヌキそのものの神主様もお出ましになり、陽気な「きつねの嫁入り道中」になりました。
軽い上り坂は大タヌキが重い嫁入り車は後ろから押さないと前には進めません。
幼い小ギツネの道中もあってなかなか面白いきつねの嫁入りですね。
きつねの嫁入り道中の途中で観客に祭寄進銭のお願いです。
愉快な嫁入り道中を楽しませて貰ったお礼に金一封を奉納しました。
お返しに頂いたのはお目出度い紅白の御餅。 その場で食したら薄甘味で美味しかった・・・。
次回は「きつねの嫁入り結婚式」の巻。
2008 06 18(木)記。 前橋市 最高気温26℃
懐かしいフラワーロックの新型動画。
2008 05 18(日)
佐久市臼田町の稲荷山見物を終り、千曲川に架かる臼田橋のたもとに戻ると「小満祭名物ゴーちゃん きつねうどん」の看板が・・・。
小満祭を記念して値段は300円と格安!! 時刻も昼時なので早速鈴木食堂へ。
300円にしては上出来のきつねうどんです。 ご丁寧に油揚げにはキツネの焼印が!
なによりも朝採り新鮮レタスが無料で食べ放題なのが有り難い!!
きつねうどんをパクついていると店の外が急に騒がしく・・・。
食べかけキツネうどんをそのままにして外に見に行きました。
小海線臼田駅方面から鼓笛隊を先頭に武士団の行列のお出ましです。
地元の龍岡藩が官軍(岩倉具定総督の率いる東山道軍)の一翼を担って日本海の北陸・越後地方へ幕府軍討伐(戊辰戦争・長岡戦争)に出兵した時の行列を再現した“龍岡藩 北越出兵”行列でした。(臼田駅12時出陣)
臼田駅から出陣早々なのに学生が演じる鉄砲隊の私語の多いダレ気味な行進が気に掛ります。これでは龍岡藩は負け戦かも・・・。(真面目にやれ~ッ!)
さすが大殿を始めとする重臣・腰元の大人達は整然とキマッてました。
世話人がぴったり張り付いて凄く邪魔! 子供の行列じゃないから離れていて欲しいものです。
可愛い腰元団を最後部に“北越出兵行列”は臼田橋を渡って小満祭り会場へ・・・。
鈴木食堂に戻って食べかけの「小満祭 きつねうどん」を急いでかっ込み、又追いかける事にしました。
千曲川の臼田橋を再度渡ると、通行止めの国道141号には別の鼓笛隊。
手に持つ横断幕には「天理教少年会 佐久しらかば鼓笛隊」と・・・。
宗教には関係なくリズミカルな演奏を耳にしながら臼田町中心部のお祭り会場へ。
再び龍岡藩北越出兵行列と八十二銀行臼田支店前で遭遇。又もや邪魔な世話役がウロウロ・・・。
出陣する鉄砲隊が鉄砲を引きずってはいけません。こんなダラケタ行列は見たことがありません! 小満祭り本番のきつねの嫁入り道中が思いやられます・・・。
男子学生とは対照的に行列で頑張ったのが女子衆(おなごしゅう)です。
何時もにこやかに覚悟を心に秘めての出陣行列・・・。
五月晴れの強い日差しの下、一番のご苦労は和服でカツラ姿の腰元たちでした。
列を乱すことも無く、薄っすらと汗を滲ませながら静々と北越出兵行列の殿(しんがり)を努めておりました。(臼田の女性はエライ!)
次回は臼田小満祭・きつねの嫁入り道中。
2008 06 18(水)記。 前橋市 最高気温28℃
ねこ百態動画。
2008 05 18(日)
久し振りに信州・佐久地方へ日帰り小旅しました。
佐久と言えば「佐久の鯉太郎」で有名な、美味しくって体に良い鯉料理ですね。
第一の目的は佐久市臼田町の小満祭見物ですが、鯉料理も期待しての佐久行きです。
前橋市からで国道254号を走ります。
群馬県側は曇り空、期待した荒船山の絶壁は雲海に阻まれて見えません。
(2006 10 24記事の佐久市コスモス街道篇を参照。)
群馬と長野の県境にある、内山トンネルを越えると空は見違えるように快晴・・。
青空の下、佐久市へ向かう途中に民家の側に聳える断崖が見えてきました。
このあたり一帯はごつごつした奇岩怪石の連なる内山峡と云う名の景勝地、車を止めて撮影小休止です。
内山峡は地震の崩落が心配されるような巨岩石の連続!
この辺りから秋にはコスモスが乱れ咲く“コスモス街道”になり、直に佐久市に入ります。
佐久市中込町から国道141号を南下すると直ぐに目的地の臼田町。
JR小海線龍岡駅近くの臼田中学校の臨時駐車場へ・・・。
臼田中学校の校舎前にある岩石標本を集めた「岩石園」には世界の様々な岩石見本が丁寧に並べられて大変参考になりました。
JR小海線・臼田駅から西へ千曲川に架かる臼田橋までの約200mの道路には地元幼稚園児が描いた可愛いパパ・ママ画が延々と・・・。
臼田駅方向から清流・千曲川を渡った地点に“臼田小満祭”の祭神を奉る稲荷山がありました。
京の伏見稲荷と同様な紅い鳥居が稲荷山の上方に幾重にも重なって・・・。(鳥居は130基)
稲荷山鳥居の下には臼田小満祭宣伝用ハリボテの大きな白キツネがドデ~ンと鎮座!
赤鳥居をくぐりながら急な階段を登ると、眼下には小満祭の露店で賑わう臼田市街地が・・・。
臼田稲荷山の山腹には小広場があり、正面に小さな稲荷神社のお社。
その横の神楽殿では既にお神楽が舞われていました。
街の露店に客を取られてか、ちょっと寂しい数の見物人です。
神楽殿横には演目など、無形文化財の社中も・・・。
翁やヒョットコや狐がおどけた所作で舞う“稲荷山”。
神楽殿が暗いのと正面の柱とカメラマンが邪魔で撮影し難し。
後半は“八岐大蛇退治”(やまたのおろちたいじ)のお神楽が続きます。
八の峰と八の谷にまたがるほどの巨大な大蛇!
八つの頭と八つの尾をもった怪物大蛇を見事に退治したのは素盞鳴尊(スサノオノミコト)。
大蛇の尾を切り裂き取り出した剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)でしょうか?
後に妻となる櫛名田比売(クシナダヒメ)と舞いながらハッピーエンド!
お神楽を楽しんでから、更に稲荷山を登りました。(麓から山頂までの高低差約50m)
驚いたことに臼田稲荷山頂上にはキツネならぬ巨大なロケット!!
このロケット形タワーは近くに大きなパラボラアンテナが立つ臼田宇宙空間観測所があるからでしょうか?
名前はコスモタワー。 高さは約35m。上部に二段の展望室があり、カシオペア座や双子座などの四星座像がロケット外周に飾られて、“星の町・うすだ”のシンボルになっています。
最上部展望室からの眺望は素晴しい!
春霞にうっすらと煙る臼田町の中央を穏やかに流れるのは藤村が「千曲川旅情の詩」で詠った千曲川。
臼田町の稲荷山お神楽とコスモタワーで散歩しながら時間を潰して、これからが“臼田小満祭”の本番開始となります。
2008 06 17(火)記。 前橋市 最高気温29℃
2008 05 10(土)
前橋市上泉町の桂萱中学校体育館で行われた上泉伊勢守生誕五百年祭は中休みは挟んで、午後3時から記念式典第二部の開催となりました。
最初に上泉伊勢守生誕五百年祭実行委員会会長・渡辺善衛氏の伊勢守500年祭の意義と銅像建立の説明とご挨拶。
続いて高木政夫・前橋市市長の祝辞と前橋市出身の上泉伊勢守をもっと広く認知され町おこしに活用するよう努力との話。
来賓として演壇に立った山形県米沢市から立派な市長・安部三十郎氏(54歳)が伊勢守の話題にかこつけて、さり気なく米沢市のアピールをした軽妙洒脱な講演で観衆を沸かせていました。
来賓の挨拶・講演も終盤となり、米沢市から駆けつけた上泉伊勢守から16代目子孫・上泉一治氏が「伊勢守は1570(元亀1年)の足利義輝将軍上覧試合に続いて、正親町天皇の前で天覧試合を行った功で従四位下に叙せられた事は、征夷大将軍・足利義輝や織田信長が同じ従四位下だった事からして、いかに伊勢守の剣技と人格・人望が高かったか・・。」との上泉伊勢守の講話。
続いて、剣聖・伊勢守の編み出した新陰流を引き継いだ柳生新陰流代22世宗家・柳生厳信(耕一)氏の剣術の基礎を築いた新陰流剣法と柳生新陰流についての詳しい講演がありました。(全国各地で講演しているのでしょう、手馴れたお話が聴衆を魅了していました。)
柳生厳信氏は伊勢守が考案した袋竹刀と旧来使われた木刀を比較しながらの丁寧な講演でした。
いよいよ柳生新陰流演武の人達の入場!
模範試合を演じる方々の手には上泉伊勢守が作り上げた袋竹刀が・・・。
この袋竹刀が使われるまでは、硬い木刀の試合稽古で怪我人や死者が続出・・・。
上泉伊勢守は一本の竹を8~6に割り赤漆を塗った皮袋に入れて、叩かれてもケガしない安全な練習武具にしました。
それまでの稽古では木刀の寸止めでしたが、袋竹刀の使用により完全に打ち込めるようになり、以降の剣術の発展に大きく寄与し、この袋竹刀から現在の剣道で使用する竹刀に発展したのです。
午後3時45分から、特別演武「柳生新陰流兵法」が開始!
体育館の滑る板床の上ですが、上手に色々な構え・型を披露していました。
試合の打ち合いでは模範演技とはいえ、真剣そのもので館内は静まり返っていました。
「柳生新陰流兵法」試合の最後に、柳生新陰流代22世宗家・柳生耕一(厳信)氏が登場!
さすが柳生新陰流22世宗家ですね、56歳とは思えないキビキビとした動作で柳生新陰流の模範演武を・・・。
体育館を揺るがす大声を出しての裂帛の気合!! 新陰流恐るべし!
楽しく勉強にもなった上泉伊勢守生誕五百年祭記念式典も午後4時10分に無事終了・・・。
小雨降る中、近くの上泉城跡地に立つ上泉伊勢守秀綱公の墓所へ・・・。
上泉城跡地の一角に建つ曹洞宗・恵雲山西林寺の墓地に上泉伊勢守秀綱公の墓所があります。 (西林寺は伊勢守銅像のある上泉町自治会館の西隣り。)
小雨に濡れた大きな石板碑には「剣聖 上泉伊勢守藤原信綱 顕彰之碑」と刻まれています。(伊勢守秀綱は武田信玄から一字を授けられ、信綱と名を変更。)
上泉伊勢守の墓は雨天で無ければかなり明るい墓所です。
卒塔婆の前の縦細の墓石が上泉伊勢守秀綱公の墓。
天下にその人有りと知られ、柳生石舟斎・宝蔵院胤栄や丸目蔵人など大勢の弟子達に剣の道を教え、新陰流を全国に広めた剣聖・上泉伊勢守秀綱公の墓所も生誕五百年祭で何故か嬉しそうに華やいでいました。
( 立派な剣聖・上泉伊勢守銅像が見つけにくい自治会館P場に設置されて寂しそう・・・。 上泉町皆様の浄財での地元建立のコダワリは判かりますが、この場所では訪ねる人も少なくなります。 前橋市と協議し前橋駅前か商店街とか中央公園などに移設して多くの人々に伊勢守の遺徳を偲んで頂いては如何でしょうか・・・。 )
2008 06 15(日)記。 前橋市 最高気温29℃
2008 05 10(土)
上泉伊勢守秀綱生誕500年記念祭は上泉町自治会館から場所を移して近くの前橋市上泉町の桂萱(かいがや)中学校体育館で記念式典が午後1時30分から開催されました。
屋外での銅像除幕式終了後、ついに小雨が降り出し体育館内での式典で皆さん大助かり・・・。 (記念式典参加者 約800名)
式典アトラクション第一部では上泉伊勢守が考案した袋竹刀を使っての八木節「上泉伊勢守」が上泉町睦会の皆さんによって最初に演じられました。
八木節独特の空樽を叩いての演奏は手馴れたお得意の調子囃子。
その後の演目の剣舞「新陰流の詩」は新陰流剣舞詩舞連合会の意気の合った熱演です。 さすがキマッてますね・・・。
真剣を使っての剣舞に会場は水を打った様な静けさ・・・。
メリハリの利いた剣舞の後は武術にピッタリの詩吟の朗唱になりました。
曲目は心彰流愛詩吟道会が詠う「葉隠(はがくれ)」。
今どきの若いお嬢様たちが詩吟をするって頼もしいですね~。
詩吟の堂々たる詠いっぷりに併せて舞台では居合い抜きから始まる真剣の剣舞が披露されました。
鋭い太刀さばきで剣舞「剣聖・上泉伊勢守」を演じたのは岳心流日本詩吟岳心会温優岳心会様。(ちょっと名が長い気もしますが・・?)
可愛い歌手の岡田しのぶ嬢も再び登場出演です。
こぶしの利いた美声で唄った曲目は「剣聖・上泉伊勢守」と「越後恋唄」。
午前とは別な華やかな和装姿で熱唱!!
唄に合わせた振付けポーズもバッチリ決めて満場の拍手喝采を浴びていました。
可愛い唄声に上泉伊勢守も草葉の陰でさぞかし喜んでくれたでしょうね。
ここで中休み、この後、記念式典は後半の第二部「柳生新陰流兵法」の演舞に・・・続く。
2008 06 12(木)記。 前橋市後 最高気温23℃
2008 05 10(土)
剣道の達人で剣聖と謳われた上泉伊勢守秀綱公の誕生五百年を記念する催しがありました。
場所は群馬県前橋市上泉町1168番地の上泉町自治会館。
現在の利根川の支流で前橋市市街地の北部を流れる桃の木川(旧利根川)の北岸にあります。
(利根川・広瀬川・桃の木川の各サイクリングロードはお奨めの長距離自転車コース。)
生憎の深い曇天模様ですが、自治会館には朝から沢山の上泉伊勢守ファンや地元の伊勢守縁の皆様が500名ほど詰め掛けていました。
午前11時15分から渡辺善衛(生誕祭委員会長) ・高木前橋市長・群馬県知事・柳生宗家や銅像の関係者など多数が見守る中、役員・田村武夫氏の司会により上泉伊勢守の銅像除幕式が厳かに行われました。
上泉伊勢守秀綱公銅像は地元・上泉町の1000余名の浄財・約1800万円により、前橋市出身の彫刻家・桑原秀栄氏に依頼して建立されました。
上泉伊勢守が老成したような風貌の大胡神社神主の顕彰祝詞で除幕式は無事終了です。
銅像・上泉伊勢守の剣術の立ち姿は無心に剣を下段に構えた「無形の位(むけいのくらい)」と言います。( 銅像部は2.15m 七尺。 台座を含めた全高3.75m )
先に攻撃する事無く、相手の出方を待って対処する姿勢で、人を殺傷するのを避ける剣術を完成させた事から伊勢守の剣術は“活人剣”(かつにんけん)と云われました。 攻撃主体の剣法は「殺人剣」(さつにんけん)。
同様に防御を旨とする武術では群馬県吉井町の“馬庭念流”も有名です。
上泉伊勢守秀綱公は京都一色氏の流れをくむ上泉武蔵守義綱の次男(幼名・源五郎秀長)として前橋市上泉で産まれ(永正5年・1508年)、長兄の早逝により戦乱の時代に家督を継ぎ、大胡城主・上泉城主となります。
その後、伊勢守は上杉方の箕輪城主・長野業盛の家臣となりますが、武田軍による七度の猛攻で箕輪城は落城し、武田軍に上泉城を明け渡します。 ( 戦国絵巻・箕輪城攻防戦 ) ( みのわの里きつねの嫁入り )
“上野国一本槍”と武勇を謳われた上泉伊勢守は武田信玄からの再三の仕官要請も退けて、諸国巡歴の武者修行に出て剣術の修行一筋に邁進する事に・・・。
幼い頃は父から文武諸芸百般を習いますが、武術は「赤城の小天狗」といわれる程の天才的な腕前だったと云われています。
日本剣術の基礎・新陰流を編み出し、幕府御用剣道「柳生新陰流」のルーツとなった上泉伊勢守秀綱、銅像の引締まった尊顔から強い意志と慈愛に満ちた剣達人の面影が・・・。
上泉伊勢守銅像除幕式に引き続き、生誕500年記念祭のアトラクションです。
三人で激しく舞い踊る“上泉獅子舞”(獅子頭は伊勢守の寄贈とか・・)に続いては上州名物“八木節”の奉納。
上泉伊勢守に因んで八木節には剣術の殺陣所作が取り入れられています。
上泉伊勢守が考案した「袋竹刀」を使って打合う剣道風な踊り仕草が見所です。
アトラクションは更に続いて、演歌歌手・岡田しのぶさんの登場で会場は大いに盛り上がりました。
歌手・岡田しのぶが御披露した唄はこの日の為に創られた演歌で、曲名はそのものずばりの“剣聖・上泉伊勢守”といいます。
若い娘と演歌好きな筆者も皆様の御迷惑顧みずにツーショット!
上泉伊勢守一代記を唄う岡田しのぶ嬢も途中の振付けに剣道の所作ポーズなど入れ、銅像除幕式の場を盛り上げていました。
上泉伊勢守銅像除幕式が一通り終わった後、会場に設置されたテントでは有り難いことに昼食の無料提供です。
本日は御目出度いのでお赤飯! 前橋名物“トントン汁”(豚汁)、群馬名物“焼き饅頭”、“コンニャクおでん”など・・・。
昼食を挟んで午後の1時30分から近くの桂萱(かいがや)中学校体育館で上泉伊勢守生誕500年の記念式典が開催されました。
(上泉伊勢守500年祭委員会HP)
次回は上泉伊勢守生誕500年記念式典です。
2008 06 10(火)記。 前橋市 最高気温29℃・・暑!
2008 05 05(月・子供の日)
坂戸市の名刹・永源寺の“釈尊降誕祭”のメインイベント・高尾太夫花魁(おいらん)道中が曇天の下、予定時刻より30分遅れの1時半に第一回目が始まりました。
おいらん道中の見物は新潟県分水町のおいらん道中以来久し振りでした。
おいらん道中の先頭は粋の良い木遣節の棟梁たち・・・。
続いて手に金棒を持ち、長襦袢を片肌脱ぎにして黄色いタッツケ袴のイナセな手古舞姿の娘さん。
花魁道中にはヨチヨチ歩きの可愛いみどり(稚児)の行列が後ろに続きます。
幼い禿(かむろ)の後から、おもむろに主役の高尾太夫の登場!!
口を真一文字に結んだ幇間(ほうかん)の肩に左手をのせた高尾太夫役は坂戸市観光親善大使の中川嬢・・・。
カツラと衣装で約30Kgの重量とか、大変な重労働なのですね。
今日は釈尊降誕祭ですから、甘茶堂に立寄って釈迦像に甘茶をかけて祝います。
可愛い高尾太夫に甘茶を注がれて、お釈迦さまもさぞかし喜んだことでしょう。
見物人で混雑する永源寺境内の露店街を縫うように花魁道中は進みました。
花魁道中を見ていると江戸時代の色街・吉原遊郭にタイムスリップしたような錯覚を覚えます。
高尾太夫の後姿も絢爛豪華の一語です。
重い三本歯の高下駄を静々と外八文字に引き回しての太夫道中仕草に皆さんうっとりと見とれていました。
高尾太夫の後に続くのは新造さん達と舞妓たち、太夫の世話をする見習い女郎です。
永源寺山門付近のアズマ屋で僧侶たちから小さな冊子を受取る儀式。
高尾太夫の過去帳でしょうか? 菩提を弔う何かでしょうか?
永源寺の山門近くまで花魁道中は行き、再び本堂に向かって引返します。
午後三時からの二回目おいらん道中では手古舞さんの一人が体調不良で欠員で二人の手古舞でした。
5~8歳程のみどりも胸に両手を当てて頑張っていました。
提灯持ちと煙草盆持ち、そして太夫の座布団運びも禿(かむろ)の御役目。これも吉原遊郭の仕来りなのでしょう・・・。
永源寺山門近くから折り返した花魁道中、傘持ちの後ろは黒い衣装の新造さん。
新造に続いては華やかな舞妓さんたちです。
豪華絢爛の高尾太夫花魁道中は大勢の人達の見守る中、ゆっくりと永源寺本堂から高尾太夫の墓へ向かいました。
花魁道中に引き続き、夕方の7時から釈迦堂(本堂)ではロウソクを明々と灯した“灯明供養”が厳かに開催され、今日一日の“釈迦降誕祭”の幕となります。
永源寺“釈迦降誕祭”の高尾太夫花魁道中は総勢33名で繰広げられる江戸情緒タップリの吉原遊郭絵巻、この地方の農繁期を前にした「遊び仕舞い」として江戸時代から続く行事。
読者の皆様にお奨めできる楽しいお祭りです。
永源寺HP. 永源寺の花魁道中動画。
2008 06 06(金)記。 前橋市 最高気温28℃
2008 05 05(月・子供の日)
埼玉県で江戸情緒豊な花魁(おいらん)道中が見られるというので、坂戸市へ・・・。
五日は子供の日なのに天気は朝から何時降ってもおかしくない曇天!
坂戸市民文化会館の無料P場に車を止め・・・。
おいらん道中の会場は坂戸市の中央部にある名刹・永源寺。
坂戸市の道の両側に沢山の露店がたって大賑わいです。
農機具・刃物や野菜の苗など農家必需品もあって長閑な露店市。
曹洞宗長渓山永源寺の広い境内にも所狭しと露店が立並び参詣の善男善女でごった返していました。
鯉のぼりの左は本堂ではありません、大鐘殿と言います。
右手奥には鐘楼が有り、誰でも自由に鐘を撞くことができます。
永源寺の五月五日は「釈尊降誕祭」です。普通の寺院では4月8日ですが。
大鐘殿の前にある釈迦甘茶堂には沢山の人だかり・・・。
善男善女が楽しそうに甘茶をかけて釈迦尊の誕生を祝っていました。
永源寺は通称「坂戸のお釈迦さま」として無病息災・家内安全・商売繁盛など霊験あらたかで関東一円に知られています。
広い境内には千手観音や弥勒菩薩など数々の石仏があります。
手を清める洗心と彫られた一枚岩の水盤は重厚で見事なものです。
参道の正面に本堂と見間違う立派な大鐘殿。
大鐘殿法堂の内陣は豪華な天蓋・撞幡など垂れ下がり煌びやかな装いです。
大きくて真っ白な象がありましたが釈尊降誕祭にお釈迦様を乗せてきた聖象でしょうか?
大鐘殿から見た本堂。 小振りに見えますが大きな木造建築です。
長渓山永源寺本堂奥に祀られた小さな御釈迦様。(嶋田忠政が寄進した中国伝来の誕生仏。)
見えにくいですが、釈迦像の後ろ影の手が上下を示し、「天上天下、唯我独尊」のポーズをしています。
永源寺大鐘殿の裏手には花魁道中ゆかりのお墓が訪れる人も少なくひっそりと・・・。
永源寺に寺領を寄進した旗本・嶋田家累代の墓が整然と並んでいました。
提灯文字では第二代嶋田出雲守忠政は北町奉行に任ぜられていたとか・・。
嶋田家の墓の右横に本日の祭りの主役の高尾太夫の墓があります。
北町奉行嶋田忠政の五男で旗本・嶋田権三郎利直が財力・権力にモノをいわせる仙台藩主・伊達綱宗と奪い合って口説き落とした吉原三浦屋の名妓・二代目高尾太夫の物語は有名なお話です。(浪人・重三郎説や綱宗の惨殺説など多数有り、墓も複数有ります。)
伊達家の手を逃れて二人は坂戸郷に来たそうです。 高尾太夫は萬治3年に亡くなったので「萬治高尾」とも言われています。
権三郎は高尾亡き後、仏門に入り僧・道哲と名乗り、晩年まで高尾太夫の菩提を弔ったそうです。(二代目高尾は京の吉野太夫と並び称された小股の切れ上がった名芸妓。伊達殿様が入れあげ仙台藩の財政を傾けたので仙台高尾とも呼ばれた。)
おいらん道中開始までは永源寺本堂前でイナセな若衆の梯子のり芸が披露されていました。
高い梯子の上での見事な体さばきにヤンヤの喝采です。
威勢の良い太鼓は「武蔵国坂戸郷・さかど太鼓」!
現代風な娘さんも愛嬌を振りまきながら元気良く熱演・・。
高尾太夫花魁(おいらん)道中開始のムードが次第に盛り上がってきました。
次回は高尾太夫花魁道中本番の巻。
2008 06 04(水)記。 前橋市 最高気温22℃
6月4日 虫歯の日(歯の衛生週間) 虫の日