10月28日(土) さいたま市与野JR駅前で大正時代の仮装祭りがあると聞き、早速見物に・・・。
「第15回大正時代まつり」の説明書きでは、与野駅が大正1年11月1日(ぞろ目)に開業したのに因んで、毎年10月最終土曜日に大正時代の風俗を模した祭りを開催するとか。(一日のみ)
JR与野駅の西口商店街・お祭り会場で当日だけ有効な地域通貨が発行され、100円が大正時代の10銭に両替されます。
見物客の皆さんは10銭紙幣を使って商店や露店で飲食物を買ったり、フリーマーケットで使ったりしていました。(おつりは現金です。)
午前10過ぎから与野西口商店街通り(停車場通り)では、早々と各種のイベントが開かれて大盛況。
小中学生の演じる「鴻沼太鼓」はバチ捌きの迫力に加えて振り付けも面白かったです。
近くでは大正時代のミルクホールの女給さんでしょうか・・・。今ではメイド?
大正時代仮装行列の支度が着々と進行しています。
与野西口商店街の中ほどでは大道芸のコーナー。
南京玉簾のお姉さんが扇を開いてのけぞってイナバウァーとか迷演技!
「アっ さて、アっ さて、さて さて さては南京玉すだれ~ チョイと伸ばせば、浦島太郎さんの釣り竿が、お目に留まればおなぐさみ、お目に留まれば元へと返す・・・」ってリズムにのった口上を述べながら、玉すだれを伸ばしたり広げたり器用に使って上手なものですね。
2枚の簾を使って釣竿や家・旗や枝垂れ柳など、お見事!!
与野西口商店街の路上では他にも様々なイベントが・・・・。
最近さっぱり見なくなった手相・人相鑑定やバナナの叩き売りなど、懐かしい光景がいっぱいです。
子供も大人にも人気だったのは“あめ細工”。
カラフルな食紅(食用色素)を使って繊細な飴の芸術です。
昔しのあめ細工では鶴・亀・鶯などが一般的でしたが、今はドラエモン・ピカチューなどのキャラクターもの。
一個300円の出血サービスで細工職人は昼食も摂れずに大忙しです。
未来にも残したい風情ある職人芸ですね。
「与野・大正時代まつり」は本当に出し物が盛り沢山です。
オモシロ・可笑しく安来節おどり。腰つきと表情・仕草がとっても愛嬌タップリ!!
腰振りが一人前に出来るまでには3年掛かるそうですね。
路上を使用しての踊りだけでも阿波踊り・花笠踊り・など各地の踊り6~7演目で華やかな舞姿でした。
国道17号線の西友近くでは、ご婦人20人程の“大正琴”の大演奏です。
五線譜とは異なった楽譜を見ながら、流麗な手捌きで哀調を帯びた大正琴の音色を奏でていました。
大正10銭札で甘酒や焼きソバを食べ、大正琴の妙なる調べを聴きながら「大正時代まつり」仮装行列の時間を待ちました。
次回は与野・大正時代まつり仮装行列です。
2006 10 31(火)記。 前橋市 最高気温24℃ 無風
10月31日 ハロウィン 日本茶の日
10月11日 紅葉には少し早いが西上州・南牧村の山へハイキング。
場所は群馬県下仁田町の奥、南牧村の九十九谷(くじゅうくたに)。
紅葉と奇岩・怪石の群馬の名所では、妙義山がポピュラーですが、この南牧村・九十九谷は交通の不便さもあってか、群馬県の人もあまり知らない奇岩と紅葉の隠れた景勝地です。
普段はハイキングなど好まない妻も何故か行って見たいと云う。
何も無い辺鄙な場所ですから、早朝にオニギリを作ってでLet's go!!
初めに目指すは九十九谷手前の古刹・黒瀧山不動寺。
流石に遠いですね、カーナビも途中までの案内で終わりです。
でも、かろうじて寺の道路標識を発見して一安心。
黒瀧山・不動寺の駐車場に止めましたが、他には誰の車も無し。
駐車場から不動寺まで急な車道をテクテクと・・。
どえりゃ~辺鄙な所なのに立派な寺が忽然と現れてビックリ!
切り立った岩壁の下に大きな山門もあり、その手前には天然記念物の「黒瀧大杉」の巨木が屹立しています。
断崖絶壁に沿った横長の広い境内には山門・宿坊・鐘楼・不動堂・大雄宝殿・開山堂などの堂塔伽藍が並び、その奥に真っ黒な断崖から流れ落ちる黒瀧泉や天女窟があります。
今は深山幽谷の只中にある静寂な黒瀧山・不動寺ですが、江戸時代には五代将軍・徳川綱吉(犬公方)が潮音禅師を座主とする不動寺に帰依し、黄檗山黒瀧派本山・不動寺は最盛期には末寺を全国に1200寺以上擁して隆盛を誇っていたそうです。
宗派が禅宗の黄檗宗ですから、精進食の普茶料理が名物。
開山は1300年前で、僧・行基が自ら彫った秘仏・金躰不動明王をご本尊とする山岳信仰の霊場です。
不動寺の可愛い娘さんから「九十九谷は見晴し岩の下を巻いて行って下さい、判りづらいから充分注意して・・・」とご丁寧なガイドがありました。(行けば判るだろうと、適当に聞き流したのが後悔の元になります。)
九十九谷までのコースは不動寺の横から犬に吠えられながらの登り坂、暫くは杉林の杣道を上ります。
登り詰めると黒瀧峠の案内板、真っ直ぐ下ると不動寺とは正反対の上底瀬の集落に行き着きますが、左に折れて九十九谷方面へ・・。
ほどなく足のすくむ怖い岩場が出てきました。
両側が切り立った断崖絶壁!!
世に言う馬の背どころではありません、これが登山で言う「ナイフ・リッジ。」です。超狭い岩尾根で人一人がやっと通れる幅だけの道を上がったり下がったり。
鉄鎖すがり付きながら切り立った岩場をつたわって進むと、眼下には霊山・黒瀧山と中腹の不動寺が、又、遥か霞んで妙義山に似た岩峰・鹿岳(かなだけ)も望めます。
鉄鎖と鉄梯子で岩場を幾つもよじ登り、苦労の甲斐あってやっと第一ポイントの見晴し岩に到着。
御嶽神社の分神の小さな石造りお社が頂上にポツンと・・・。
さえぎる物は何も無い360度の大パノラマ!!
西上州と秩父の山並みが薄い秋靄に包まれていました。
空気が澄めば富士山も見えますよ。
写真の奥には上底瀬集落がひっそりと佇んでいました。
不動寺の娘さんに注意されたばかりなのに、見晴し岩から九十九谷への道が判らず、あちらこちら・ウロウロ迷い「八甲田山・死の彷徨」が思い出され、仕方なく先ほど通った黒瀧峠へバックしました。
黒瀧峠から上底瀬へ下り、秋の野花や石碑など見ながら九十九谷へのルートを探しました。
日頃の行いが良いのか、運よく英会話のNOVAじゃなく農婆に教えて貰って下底瀬からの九十九谷ルートに入る。
またまた杉林の中を登って行きます。 登りの小道が次第に細くなって最後は跡形も無く消えてしまい、それからは道無き杉林の中をヤブ漕ぎしながら上部の尾根稜線めざし・・・。
やっとの思いで尾根道に到達、しばし歩いて鷹ノ巣岩(上写真)で遅めの昼食です。
その後予定していた反対側から何とか九十九谷の上部に辿り着きホットひと安心。
下の後方には歩いて来た上・下底瀬集落が小さく見え、風化・侵食作用で奇怪に造形された岩壁が谷一面に広がっています。
でも、一番の見所九十九谷の岩上の恐ろしいこと!!
頼りになる手摺りも鎖も全くありません! 両側は落ちれば生還期し難く、確実な死があるのみ!
仕方なしに絶壁の上を慎重に恐る恐る歩伏状態で進みました。
喜んでハイキングに来た妻も腰が抜けそうになり「二度と九十九谷には来ない!! ハイキングもヤメた。」・・・って。
そうでしょうボヤク気持ちは解かりますね、道に迷って杉林をヤブ漕ぎして、疲れた挙句に恐怖心を煽る岩壁の上部を這うのですから。
奇岩の九十九谷からの景色をゆっくり見ている余裕も無く、
やっとのことで、恐怖の九十九谷を抜けて、7~8分程で午前に一度来た見晴し岩に再度到着。
迷ってなんと遠回りした事でしょう。 (7分のところを底瀬集落まで下りて反対側から登って2時間30分。) 「後悔先に立たず」ってホント!
黒滝峠までの帰り道の途中も、ご覧のとおり鎖場とナイフリッジの連続です。
でも、紅葉には少し早かったが、天気は良く、無風状態で最高のハイキング日和。 普段は馴染みの薄い西上州の山並みも鮮やかに眼に焼きつきました。
帰りに不動寺の娘さんに「道に迷うから九十九谷への標識板を作ってね。」と云ったら、「やっぱり迷いましたか!?」・・・だって。
ハイキング好きでスリルを求めたい人にはオススメです。
2006 10 27(金)記。 前橋市 のち薄
最高気温20℃
10月27日 テディベアの日 読書の日
9月24日(日) 秋咲く花の中で一番好きな花・コスモスを観賞に妻とで出発。
蒟蒻と下仁田ネギで有名な群馬県下仁田町を通過して、国道254号線は山岳地帯に入ります。
きつい勾配ですが良く整備された坂道を上って行くと、眼前に航空母艦の様な巨大岩山の“荒船山”(標高1422m)が迫ってきました。
高さ200mほどの垂直岩壁が人を拒絶するかの様に超然とそそり立っています。
横目で荒船山を見ながら254号線を辿って、神津牧場の下から群馬と長野の県境の“内山トンネル”を抜けて長野県へ。
昔の内山峠越えから比べると、内山トンネルが開通してから、長野・佐久方面へは楽に短時間で行くことが出来るようになりました。
内山トンネルから5~6分も車で走れば、そこは一面のお花畑!!
佐久市自慢のコスモス街道の入口に到着です。
国道の両側に満開のコスモスが秋の陽を浴びて輝いていました。
コスモスって華やかさの中に可憐さも漂っていて綺麗な花ですね~。
コスモスとは古代ギリシャ語で「美しい」という意味だそうです。
佐久市に向かってを進めると、右手に岩峰の名所「内山峡」が見えてきます。
奇岩・怪石が爽やかな秋空に聳えていました。
ローソク岩・傘岩・お姫岩など、それぞれの岩に名前が付いています。 (上写真は屏風岩)
佐久市のコスモス街道は全長9Kmに亘って満開の秋桜で輝いていました。
コスモス街道の中間にはコスモス祭り広場があり、地元農産物の直売中でした。
広場中央の展望台からは一面のカラフルなコスモス畑が観賞できます。
近くには休憩小屋もあって、長野名産・野沢菜や茶菓子も無料サービス!
折角、佐久市まで来たからには、佐久の鯉太郎で有名な鯉を食べに佐久市・野沢地区へ。
佐久の鯉料理店で一番と云われる創業大正13年の料亭「花月」で昼食にしました。
「花月」の鯉料理には雪・松・竹のランクがあり、お手頃な竹コースを注文。
料理の最初に出されたのが“鯉の鱗煎餅”。(写真・下左)
煎餅とは云っても鱗に薄い衣を付けて油で揚げた品です。普通なら捨てる鱗ですが、アイディア活かした上手な廃物利用です。カルシュームたっぷり!!
鯉の鱗に生臭さは全く無く、塩が振りかけてあり、ちょっとしたオツマミです。
鯉料理・竹コース(2840円)は写真のとおり、鯉の洗い・鯉の甘露煮・鯉こく等の鯉尽くし。
鯉の泥臭さが全く無いので、女将に聞いたところ、「鯉は千曲川の清流で飼って、泥臭を抜いてから調理する」との事。 確かに爽やかな鯉の味でした。
私は川魚が大好きですから、全部完食!! 女性には竹コースでも量が多くて・・・。
年に一度くらいは鯉料理を食べたいものですね。
鯉料亭・「花月」の前には成田山薬師寺と云う古刹があり、その山門脇に変わった名の地蔵尊がありました。
その名も“ぴんころ地蔵”!!
名前のとおり生きている間はピンピン元気で、死ぬ時はコロッとですね。
読者の皆さんも病気で長く寝込んで、周りに迷惑を掛けない様に写真の“ぴんころ地蔵”を拝んでコロッと逝きましょう・・・ね! (ぴんころ地蔵の本名は長寿地蔵尊)
パステルカラーのコスモス街道で眼を、また美味・鯉料理で食欲の秋を満喫した楽しい一日でした。
佐久市内を少し見物してから長野県側の荒船山を眺めながら帰路へ・・・。
「コスモス街道」 狩人
2006 10 24(火)記。 前橋市 気温15℃ 12月上旬の寒さ。
10月24日 国際連合の日 暗黒の木曜日(1929年この日から株の大暴落)
トリコロール記念日(フランス三色国旗)
10月14日(土) 夜の川越祭り(宵山)
1648年(慶安元年)に始まったとされる川越祭りの華は宵山で行われる「曳っかわせ」です。
華麗な山車のお囃子の競演「曳っかわせ」は市内中心部の主な辻(交差点)で、夜の7時30分頃から賑やかに始まります。
その前に江戸時代の町火消しの装束をした、イナセな若衆達が見事な梯子乗りをご披露。
鳶口で支えただけの不安定な揺れる梯子の上で、見事なパフォーマンス。
川越市内は昔ながらの狭い道路なので、明治期からの山車には車輪のついた台車(せいご台)とその上の舞台(囃子台)が360度水平に回転するような仕掛けになっています。(川越式山車)
狭い場所では便利な機能です、それまでの山車には無かったので明治文明開化の賜物でしょうかね?
左下の写真では囃子台が40度程回転しているのが判るかと思います。
お囃子台の回転を止めるときは、右上の写真のように木の楔(白い紐付き)を囃子台とせいご台との間に打ち込み固定します。
お囃子台の上では江戸・神田囃子を受け継いだお囃子にのって、各種のお面を着けたひょうきんな踊りが舞われていました。
おどけたひょっとこ面と妖気ただよう白髭天狐です。
オカメに獅子舞さらにお猿や猩猩と昔し懐かしいものたちが続々と・・・。
川越のメイン通りでも特設舞台で踊りなどの演技が行われてお祭りムードを盛り上げていました。
真っ白に化粧した江戸小町風の綺麗どころが勢ぞろい、猛烈なカメラフラッシュを浴びて超人気。
緋縮緬の上衣を右肩にひっかけ、吉原つなぎに黄八丈袴装束、粋な姿の手古舞が見物人にからかわれ、右のお嬢さんは笑いを必死でこらえていました。
お箸が転んでも可笑しい年頃っていいですね。若い証拠ですから~。
川越祭り・祭り本部前の連雀町交差点でお囃子合戦の「曳っかわせ」を見ることにしましたが、たどり着くまで猛烈な混雑で撮影には苦労しました。
仲町から連雀町への通りでは2台の山車の曳っかわせでなかなか道を譲りません。
祭り本部前の連雀町交差点には夜が更けると共に次第に山車が集り、お囃子合戦が激しく交わされます。(判別しずらいですが、写真では5台の山車が集結)
「曳っかわせ」では山車曳きの勢子たちがソーレ・ソーレと威勢の良い声を掛けながら提灯を高く持ち上げ、また、囃子台からは互いに負けずと笛・太鼓と面踊りの合戦が繰り広げられます。
囃子手・面踊り手・曳き手が一体になって祭りが盛り上がり、川越祭り・宵山(曳っかわせ)の熱気も最高潮に達しました。
江戸様式の豪華な山車が15台集まっての「宵山の山車揃い」とお囃子「曳っかわせ」の賑やかな川越祭り、読者の皆様にはぜひ致します。
※ 名優・藤岡琢也さんのご冥福を慎んでお祈り申し上げます。
2006 10 20(金) 薄 最高気温26℃
10月20日 頭髪の日 リサイクルの日 新聞広告の日
10月14日(土) 埼玉県・川越市の川越祭り。
ご存知の様に、川越は古い昔しの建物を多く残している、江戸時代の風情たっぷりの町です。(川越藩17万石)
代表的な建築物では春日の局で名高い“喜多院”や“本丸御殿”“時の鐘”“蔵造り町並”など有り、江戸の面影が沢山残っていて別名「小江戸」と呼ばれています。
川越祭りは「川越・氷川神社」の秋季例大祭(神幸祭)として行われるお祭りで、華やかな山車が勢揃いし、「関東三大祭」の一つとして有名。
川越祭りは10月14日・15日の両日に亘って開催される豪華な山車絵巻が見所と言えるでしょう。
特に14日の“宵山”は祭りの圧巻で、街角に数台の山車が集まって、互いにお囃子合戦(曳っかわせ)を繰り広げられます。
昔はお囃子の“曳っかわせ”で負けた山車が相手の山車に道を譲ったそうです。
現在の”曳っかわせ”では勝負なしの儀礼囃子で、山車はそれそれ別方向に向かいます。
無用な争いで遺恨を残さ無いようにした智恵でしょうね。
高速道の川越インターで下り、直ぐに川越市街地に到着。
各学校が臨時駐車場になっていましたが、なるべく祭り会場の近くにと思って、”札の辻”そばのお寺に無断駐車して祭り行きです。
午後3時半頃から歩いて川越の町並みを見物。
一昨年にも川越見物に来ていたので、道に迷うことなく山車を見て廻れました。
それにしても沢山の見物客ですね!
小江戸と云われる古い町並みと川越祭りの見物に!
東京から近い立地条件も多くの客を呼んでいるのでしょうか?
所々にあるお祭り広場ではいろんなイベントが開かれていました。
駐車した“札の辻”の近くのでは右肩に緋ちりめんに黄八丈姿の祭り先導役・手古舞衆に突然出会いドッキリ。
また、祭り会館広場では新設舞台で「新藤間流」の日本舞踊など、踊りの艶姿をご披露していました。
混雑する人ごみの中を歩いて山車の追っかけです。
山車最上部の人形は障害物がある時は内部に下ろせます。昔、川越城の城門を入る時に引っかからない様に昇降式に。(左写真は龍神人形を下ろした状態、白いおかめがおどけて踊っています。)
華麗な山車と共に歩いて街中の川越ランドマーク“時の鐘”(鐘楼)も見物。
川越と云えば「芋」ですね。 江戸時代の江戸でさつま芋のことは「十三里」と云ったそうです。 それはさつま芋の名産地・川越が江戸・日本橋から十三里の距離に由来する。
以前食べて美味しかった「紫いも饅頭」を作っていた菓子屋横丁近くの店がお祭り参加で臨時休業。仕方なしに「紫いもソフト」を食べて我慢です。
あちこち廻って日も暮れて疲れたので夕食タイムにしました。
川越の食事では川魚料理が有名。川魚の代表は”うなぎ”ですね。少し贅沢しての鰻重を頂きました。
お祭りで早仕舞いするとかで、6時過ぎには閉店ですが小一時間お座敷で休めたので疲労も回復。 さて、川越祭りの夜の部へ・・・。
札の辻交差点から南へ続く一番街通りには勢子に曳かれた豪華な山車の巡行が見られます。
黒や朱色の漆で彩色され、更に金箔で鮮やかに飾られた絢爛豪華な山車が沢山の提灯でライトアップされていました。
余談ですが、川越祭りの江戸系川越山車は明治26年の川越大火であらかた消失、その後江戸時代以上に豪華な山車が再建されたそうです。
山車の装置も新たに加えられ、台車の上の舞台が360度回転できるなど改良されました。
江戸時代にお祭りの主役が山車から神輿に代りましたが、川越祭りの山車は江戸・山王祭・神田祭の初期形式を受け継だ山車を忠実に守っています。
この川越祭りは「川越氷川祭の山車行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。
次回は川越祭りの夜ハイライトの曳っかわせ(囃子合戦)です。
2006 10 17(火) 洗濯日和。 最高気温26℃
10月17日 貯蓄に日(旧新嘗祭) 沖縄そばの日 カラオケ文化の日
10月8日(日) 久し振りに埼玉・秩父地方へ日帰り旅。
場所は秩父市吉田下吉田の椋神社(むく)。
毎年、10月第2日曜日に開催される椋神社秋の例大祭を見物に。
6日(金)の台風並みに発達した猛烈な低気圧の暴風雨で、祭り用の河川敷駐車場が流失したと云うので、駐車場確保のため朝早く出発。
朝の8時前に第6無料駐車場でガードマンに文句を言われながらも無理やり駐車です。
私の車が最後で後の車は有料駐車場への案内でした。
妻も「今日も朝から運が付いてるね。」って・・・。
5分ほど土の農道を上って椋神社に到着。
平成の大合併で同じ市になった秩父市の秩父神社ほどではないが、山間地にしては立派な神社でした。(椋神社は秩父事件の困民党蜂起の場所)
椋神社と隣接する八幡宮には極彩色の彫刻が飾られていました。(まさか左甚五郎では・・・?。)
境内には所狭しと屋台が軒を並べて既に朝から開店商売中。
椋神社例大祭の分け祭りの龍勢見物には、有料の桟敷席が多数用意されていました。
9時から始まる龍勢見物の人達が既に腰を下ろしています。
中には早くもと料理で朝宴会している豪儀な連中も・・・。
写真正面の山は龍勢の舞台になる芦田山で、真中には龍勢の発射櫓(ヤグラ)が聳え立っています。(木製櫓の高さは22m)
龍勢を打ち上げる各流派の色とりどりの幟旗が強い秋風に煽られていました。
有料の桟敷席は遠慮して、何とか良く見える無料の場所を探しまくって、立ち入り禁止区域真近の道路際をGET!!
ここは有料席より前ですから、邪魔されずに全てが見物出来る最高の場所!
オマケに龍勢を運ぶ時に撒かれる“お餅”“お菓子”“小銭”などが頂ける特典まで、早く到着したので益々運が向いてきたみたい・・・。
龍勢が打ち上げられる9時前から搬入路には、それぞれ工夫を凝らした龍勢が運ばれて行きました。
龍勢とは長い竹の先に火薬を詰めた筒を付け、それに点火して大空く打ち揚げる原始的ロケットのことです。(別名 農民ロケット 龍勢煙火)
起源は、鉄砲伝来(1543年)から30年ほど経った天正3年(1575年)との事。
(日本各地に鉄砲火薬の伝播が早いことには驚きますね。)
初めは合戦時の狼煙として用いられ、後に地元農民が簡単な筒花火を打ち上げて五穀豊穣を祈願していたそうです。
江戸・安政年間(1772-1781)に地元の住職が長い絹布を火薬で付けて打ち上げ、それが天に昇る龍に似ていることから龍勢と呼ばれる様になったそうです。
(夜の打ち上げは星のごとく流星と、昼のは天空に竜の翔るを見るようで竜勢とも言われます。)
上左写真の先端部に黄色と黒のパラシュートが格納されているのが見えます(背負い物と呼ばれ、唐傘・布テープ・落下傘などを詰め上空で放ちます)。
上部のピンク色はパラグライダーでしょうか? その下の緑色部が火薬の充填された火薬筒(筒は松材で中空構造、直径15cm・長さ70~80cm 中空部に黒色火薬6kg 周囲を竹編みのタガで締める)です。
矢柄と云われる長い竹竿(15~18m)で龍勢ロケットの方向性とバランスを取るのです。 龍勢は構想1年、製作1ヶ月、「龍勢祭」がそれぞれの打ち上げ流派の龍勢師達の晴舞台となります。
各流派の龍勢打ち上げ前には、それぞれの龍勢口上が声高らかに述べられる儀式が特設櫓で行われます。
口上役にはタレントのラッシャー板前も出演して、気張った声で口上を・・・。
「東西ぃ~、東西~ぃ、ここにかけ置く龍の次第は~っ、○×流の日々の技の精進の証にして~ぇ、秋空に天高く舞う△□号なりぃ~。・・中略・・ ここに商売繁盛と皆様のご健勝を祈念して~ぇ、これを椋神社にご奉納~~!」っと、立派に口上を述べていました。
発射櫓(やぐら)の最上部で振られる旗が赤色から白色に変わると発射準備OKです。 その後櫓から龍勢師たちがぞろぞろと下りて避難して点火・発射~っ。
点火から3~5秒間櫓で燃焼・噴気してから轟音と共に急速上昇。
上写真の龍勢は打ち上げ成功で、美しい軌跡を描いて昇龍となりました。
今までの最高高度は535mですが、龍勢コンテストは打ち上げ高度だけではなく、飛翔姿勢や背負い物からの放出落下物などの姿も評価に入れて順位を決めるそうです。
龍勢が遥か上空で炸裂して、背負い物(しょいもの)から様々なヤクモノが空中に放出され、更に子花火が次々に炸裂、カラフルな色模様を秋の大空に咲かせていました。
龍勢ロケットの安定性を保つ為の矢柄と云われる長い竹竿は危険防止の為、パラシュートで吊り下げて落下・着地させます。
でも、当日は強風のため遠方まで流されていましたし、直ぐ近くの有料席にも燃え残った火薬が落下・飛びはね危険な一瞬となりました。
火薬が燃焼しながら回転降下中の紫唐傘が所定外に落ちて有料桟敷の皆さん大騒ぎです。
中の写真は上昇せずに櫓の中で龍勢の火薬全てが燃焼、「居づくまり」と言われる失敗作。
右爆発写真は駐車場への帰路、デジタル望遠で撮った、発射櫓での龍勢爆発です。 上昇しないまま爆発するのを「筒っぱね」と呼ぶそうです。
今年、龍勢を打ち上げたのは26流派・35本。
因みに流派名を記しますと、武甲雲流・上蹴翔舞流・愛火雲流・巻神流・美峯雲流・櫻龍会・秋雲流・東雲流・開祖昇雲流・・・・などで、雲と名付く流派が多くありました。開祖から雲の一文字を貰ったのでしょうか。
朝の9時から13分間隔で夕方5時までの長丁場、最後までは見ませんが、龍勢ロケットの成功率は70%程。
失敗作もそれぞれユニークで面白くて、非常に印象に残る「龍勢祭」でした。
龍勢ロケットを打ち上げる祭りは他には3ヶ所で、静岡・岡部町「朝比奈祭」 清水市「草薙神社祭」 滋賀・米原市「流星祭」です。
昔はもっと沢山の場所で行われたようですが、次第に廃れて今では全国4ヶ所のみ。
貴重なお祭りですから、是非後世までも残して欲しいと思います。(埼玉県無形民俗文化財)
秩父・吉田の龍勢祭は日本三大奇祭の一つ ?。
読者にはぜひオススメしたい祭りです。
2006 10 11(水) 時々
最高気温22℃
10月11日 「リンゴの唄」の日(並木路子) ウインクの日(10と11を横にすると開いた目と閉じた目に)
タイ国の農民ロケット。 制作動画。
タイ国の農民ロケット。 打上げ動画。
9月29日(金) 夜の7時30分から水上町月夜野・下津地区で面白いヤッサ祭りが行われた。(毎年9月29日、一回のみ開催)
あまり有名ではないので、期待しないで行ってみました。
上越高速道の月夜野インターを下りて、大きな利根川を渡りすぐの場所が目的地。名前は小川島・若宮八幡宮です。 祭りの観客が約10名程いただけで寂しさいっぱい。鳥居の脇には江戸時代から続く「小川島歌舞伎舞台」がヤッサ祭りの社務所(仕度場)として使われていました。
薄暗い神社の境内が提灯でボンヤリと照らし出され、夜店も自販機も全く無しで本当にDo田舎の祭りの侘しさを感じさせます。
夜の6時30分から地元婦人会の方々の盆踊りが始まりました。(お盆ではありませんが・・・。)
みなかみ町・下津地区は予算不足らしく、踊手たちの服装は各自バラバラの普段着(和服姿は一人も無し)。 統一感は全く欠けるし、日頃習った踊りの成果を発揮しようとしていましたが、見応えはありませんでした。(お願い!来年は和装で・・・)
1時間程、盆踊りや澄んだ夜空を眺めて所在無く時間つぶしです。
(山間地なのに半袖で見に行きましたから次第に寒さが深々と・・・。)
7時半を回った頃に若宮八幡宮のヤッサ祭りが本番と相成りました。
神主さんが二人揃って何やら祝詞(のりと)をブツブツと・・・。
お祭りの主役の若衆たちに榊での御祓いとお神酒を廻します。
若宮神社の本殿は非常に小さな建物で、その本殿の上には大きな赤い屋根の覆いがかぶさっていました。この覆い建屋が祭りの主舞台となるのです。
下帯姿(フンドシ)の若者たちの奇祭・ヤッサ祭りが時間通りに開始されました。
ヤッサ祭りの歴史は古く、戦国時代から伝わっている由緒正しい伝統の祭りだそうです。
前の人の下帯を掴んで、数珠繋ぎになった半裸の若者達が、神社の鳥居から境内へ威勢良く雪崩込んできました。
先頭は両手に持った小さな石と鉦(かね)を打ち鳴らしながら、“ヤッサ、ヤッサ、シンジュウロゥー”“ヤッサ、ヤッサ シンジュウロゥー”と繰り返し叫んでの早足です。
絶対に前の人の褌(ふんどし)から手を離してはいけないので、みんな必死。
一列になった若者が蛇のように蛇行しながら、輪になったり、またトグロ巻いたりしての熱演です。
お神酒を呑んでからの猛烈な動きですから皆さんバテバテに疲れます。
列がヨタってくると、参加者の中から「寝ろ、寝ろ、寝ろ・・」と掛け声が・・・。
全員が倒れ込むと直ぐに「起きろ、起きろ・・」の連呼で、ふらつきながらやっと起き上がって、また蛇行練り歩きの連続です。
若宮八幡の境内で、蛇行したり、輪になったり、とぐろを巻いたり、ひっくり返ったり、起き上がったりの繰り返し。
かなりキツイ重労働なお祭りですね。
とても小さな若宮八幡宮の周りを半裸の男達が鉦を叩きながら“ヤッサ、ヤッサ”と叫んで廻っています。
日本の若衆はパンツを穿いて、その上から下帯を付けていましたが、下帯のみの勇気ある方が一人だけおりました。日本人より日本的な人ですね。
後に紹介がありましたが、臨時助っ人で参加したフランス人だそうです。
フランス人は偉い!! フランス万歳!!
いよいよ八幡宮本殿を覆っている建屋の柱によじ登り開始です。
高さ4m強の柱に“ヤッサ、ヤッサ、シンジュウロゥー”と繰り返しながら全員でピラミッド状によじ登ります。
最上部にたどり着いた若衆が手に持った鉦を打ち鳴らしながら“ヤッサ、ヤッサ、シンジュウロゥー”とはやします。
若衆たちの柱よじ登りは建屋の左右の柱で行われました。
地元のオバサンが「以前はパンツなしのフンドシだけだったんで、フンドシがずれてお宝が丸見えで面白かったよ~。」って云っていました。大らかな時代で良かったですね。
若宮八幡宮のヤッサ祭りは、下帯姿の若者達が境内での列になった練り歩きから、本殿巡り、建屋柱よじ登りなどを約2時間に亘って合計7回行います。
大変なエネルギーのお祭りですから、年々参加者が減っているそうです。(今年は13~15名)
フランス人までもが友情参加してヤッサ祭りを盛り立てています。
元気ある読者の皆様も奮ってご参加ください・・ね。
最後の七回目に神社の鈴綱をもぎり取り、今年に豊作を願ってヤッサ祭りの無事終了となりました。
その後は地元の人々や観客も交えての餅撒きです。
一緒に行った妻も沢山の餅をGETですが、餅拾いの姿をプロ・アマのカメラマンに撮られていました。 あ~~我家の恥!!
ヤッサ祭りは豊年満作・無病息災を祈願して行われます。
掛け声のヤッサ、シンジュウロゥーは戦国時代に実在した武士との事です。
シンジュウロゥーは本名が大木新重郎と云い、近くの名胡桃城(なぐるみじょう)の争乱時に新重郎の腰紐に村人を数珠つなぎに掴らせて夜間に避難させた故事で、祭りの境内での繋がった若衆の練り歩きがその名残りを表しています。
また、祭りで柱によじ登る姿は近くの利根川の氾濫で村人達が崖をよじ登って難を逃れた逸話に由来しているそうです。
ヤッサについては単なる掛け声とも言われています。
“ヤッサ、モッサ、シンジュウロゥー”と云った時代もあったとか・・・不明ですが?
北群馬・水上町郊外の田舎祭りですが、ご婦人の踊りから丁度3時間の見物。
特に7時30分からのヤッサ祭り本番は全く飽きさせないで、見応え充分!!
群馬県の重要無形文化財です、来年の奇祭・ヤッサ祭りには是非お出かけ下さい。
2006 10 05(木) 時々
気温22℃
10月5日 鉄道時刻表の日 折り紙の日 達磨忌 レモンの日(高村智恵子命日)
新潟の旅も最終回となります。
村上小学校での川越藩火縄銃隊の模範演舞を見た後、直ぐ近くの「おしゃぎり会館」に直行しました。
「おしゃぎり」とは村上地方の江戸時代の言葉で「お祭りに引き回される屋台(山車)」のことだそうです。
鉄筋コンクリの体育館風な近代的建物で伝統の山車とは違和感が・・・。
一階にはおしゃぎり(山車)が所狭しと並べて、村上大祭(7月6・7日)の雰囲気を伝えています。
おしゃぎり(屋台・山車)には村上堆朱・堆黒の粋を凝らし、艶やかさを競っています。
京都や飛騨の高山をはじめとして、先の戦災に遭わなかった町には豪華な彫刻を施した山車・神輿がいっぱい残っていますね。
貴重な文化財です、大切に保存しましょう。
二階には村上藩時代の武具・文物・民具等を展示。
また、村上藩歴代藩主の肖像掛け軸や銘刀なども多数陳列していました。
「おしゃぎり会館」の隣にある武家屋敷「若林住宅」を訪問。
この若林家は、全国数ある武家屋敷の中で、唯一国の重要文化財に指定されています。
武家屋敷「若林住宅」は今から240年程前の中級上位の武士の屋敷として建築されたの事。(若林氏は藩主内藤氏時代の物頭役150石取り。会社にたとえるなら部長クラス)
小屋形門付き曲屋造りの茅葺平屋建で部屋数も多く、素晴らしい日本庭園もありました。 現代の中級上位のウサギ小屋住宅より遥かに豊かな住環境です。
三面川を控えた村上らしく、若林家の軒先にも美味しそうな鮭が吊るしてありました。
悪戯に手に持ってみましたが、鮭の油でベトベトに・・・ あ~失敗!
「秋の日は釣瓶落としの如く」で、急いで次の見物地へ。
最後に向かった場所は鮭の博物館「イヨボヤ会館」です。
イヨもボヤも魚の事です。イヨボヤとは魚の中の魚といった意味で、鮭のことです。
さすがに鮭に関しては至れり尽くせりの展示説明でした。
鮭で有名な三面川の分流をガラス越しに水中が見られる設備には感心です。
自分が魚になった気分が味わえます。
木彫の武士は青砥武平治翁。
世界で初めて鮭の回帰性(母川回帰)に着目して、鮭が産卵しやすい様に川を整備、鮭を保護し、村上藩の財政に寄与した偉人です。(種川の制・たねがわのせい。)
漁具やミニ孵化場などもあって勉強になるイヨボヤ会館でした。
村上と云えば「鮭」ですね。
市内各所で撮った鮭写真では、屏風祭りに参加展示していた越後国村上・味匠「喜っ川」の店内の塩引き鮭が見事でしたのでご覧下さい。
ぶら下げて干していた鮭も、近くで顔を見ると非常に不気味ですね。
見ている貴方に鮭の怨念が・・・。 (笑 笑)
半乾きの鮭はまだツヤが良くて、皮肌がテラテラと気持ち悪く輝いています。更に干した塩引き鮭の臭いが何とも云えずに・・・でした。
お土産に買った村上茶福餅は抹茶とチョコのコラボが絶妙です。
読者の皆さんは眼で美味しく味わって下さいね・・・。
今回の新潟の旅は見所いっぱいで参考になる旅行になりました。
新潟は見ても食べても楽しいところです、皆様もどうぞ新潟観光へ・・・。
2006 10 03(火)記。 前橋市 時々
気温27℃
10月3日 登山(10 3)の日