ツトムさん家の写真日記。

写真いっぱいの楽しい日記です。(全面表示でご覧下さい)

第203回  利根川の渡し舟。 島村の渡し。

2007-05-31 23:23:23 | 旅行

5月20日(日)     

今どき珍しい渡し舟祭り」が開催されました

有史以来、頻繁に洪水を起こし暴れ竜と云われた坂東太郎(利根川)も、現在では上流のダムで流量調節し氾濫するとこがなく、対岸への行き来きも大きな橋で楽になりましたが、昔は利根川を渡るには上流の浅瀬を徒歩で渡るか、渡し舟を利用するしか方法はありませんでした。

昔に消え去ったと思っていた、その渡し舟が利根川に今でも現役で活躍しているのです。(群馬県営)

その場所は群馬県伊勢崎市境町島村地区利根川河原

今どき珍しい渡し舟の祭りがあると聞いたので、早速見に行きました。
 
島村渡舟フェスタ(第12回)の広い会場は朝早くから車と人で盛況でした。

会場のお祭り広場では地元剣士太刀棒術による真剣そのものの模範演技。
 
獅子舞や太鼓・舞踊など郷土芸能が盛り沢山演じられました。

島村河原の祭り会場の一角からは自衛隊協賛の「利根川遊覧舟」の軍用舟艇が出ていました。
 
自衛隊の小型舟艇が沈没した時に備えて救護舟も川央で救難旗を立てて待機・・・。 でも、なんで自衛隊が利根川遊覧船を・・・って?

利根川遊覧舟は参加者が多くて乗れずに諦めました。

河原には大きな釣堀が作られて、釣りの大会です。

別の池では魚のつかみ取りカヌー体験などもありました。

無用な殺生はパスして、上州名物焼き饅頭コーナーへ・・・。
な、な、なんと、本日は焼き饅頭が無料の出血大サービス中。
早速、列に並んで、焼き饅頭をGET!!
 
この焼き饅頭は自分で焼いて甘味噌ダレを塗って又焼いて仕上げるのです。
縁日の焼き饅頭屋になった気分ですね。結構上手に焼けましたよ。

折角、渡し舟フェスタに来たのですから、対岸まで渡し舟に乗ることにしました。
乗船列に並んでいると、対岸からの渡し舟が乗客を6人程乗せて来ました。
 
昔の手漕ぎ舟と違って今はエンジンですから、スピードが出て早いです。

利根川も水質が改善されてきれいですね。ここ利根の中流域でも水は透明で浅瀬では川底が見えました。
対岸の遥か遠くに飛行船が北に向かってノンビリと飛行していました。(でも強風でなかなか進みません。胴体にはNISSENって・・・通販?)
 
対岸から渡し舟で来た、前後につながった親子自転車です。 春の日のエコ健康家族の見本ですね。 
筆者もよく走りましたが、この地の利根川両堤は数十Kmのサイクリングロードに整備されています。

いよいよ島村の渡し舟に乗船です。岸辺に鉄骨で組んだ桟橋はお祭り用の特別船着場でしょうか? (普段はただの小石の河原が船の発着場です。)
 
利根川本流を横切り、中洲に開けた狭い水路を通って行きます。
 
南岸の船着場
に無事到着しました。   通ってきた狭い水路を帰り舟が・・・。
渡し舟は新鮮な気分で結構楽しめました。
島村の渡し舟は江戸中期から約2200年余の長きに渡って運行されているそうです。

この島村の渡船295号(新地⇔伊勢崎線)の名が付いたれっきとした群馬県道なのです。渡船が県道なのは全国的にも非常に珍しいそうです。

利根川の南側から見た島村渡船フェスタ会場

島村河原には後方の赤城山も霞むほどの砂煙が吹いていました。

渡った利根川南岸にも伊勢崎市境町島村の土地があります。
明らかに埼玉県側なのに・・・飛び地でしょうか?

利根川南岸の島村地区を地図を頼りに徒歩で巡ってみました。

この地は幕末の画家・文人の一人、金井烏州の誕生地でもあります。
金井烏州は幕末の文人墨客の代表者で、画家としても南画で才能を発揮し素晴しい作品を描きました。

下は金井烏州一族の墓です。 金井烏州の墓には烏州金井君墓 喝と気合の入った墓碑銘!
 
あの世でも頑張れって!喝を入れられてるんですね。(墓碑文は渋沢栄一の揮毫)

近くに金井烏州の生家と横にアトリエ(呑山楼)が建っています。
現在も子孫の方が住居として使用していました。
 
金井烏州生家の近くに板倉と言う、文字通り板で作った倉庫がありました。
(上野国佐位郡島村 栗原清右衛門 が建てたとの銘文あり)
天明2年(1782年)に造られ、天明3年からの天明の大飢饉には大いに役立ったそうです。
当時の倉には珍しく瓦葺きに切妻形式で、高床にして上下四方を杉板で囲って湿度の調整を図ったそうです。 米60俵が入ったとの事。

板倉”を説明してもらった親切な古老に「ここは北岸の島村の飛び地ですか?」って聞いたら、「冗談じゃね~、島村の本地はこっちだ。」って。
話を良く聞いたら昔は利根川はもっと南を流れていて、群馬側の島村と埼玉側の島村は地続きだったそうです。 地形は時代によって変化するものですね、勉強になりました。

帰りの北岸へも渡し舟のご厄介になリましたが、強風のため渡船フェスタも一時間ほど早めに終了し、渡船も風で運行中止にすると言う。ラッキーにも最終の渡し舟に乗船して帰ることが出来ました。

2007 05 31(木)記。    前橋市    最高気温23℃

社会保険庁のズサン体質と無責任政党・自民党。

年金納付記録の5000万件が誰のものか不明だって!
膨大な数だよ。 私の年金もきっと減ってるね。最低でも支払った分と経年利息を受け取れなければ詐欺だ!

社保庁はなんてバカでずさんな役所なんだ! バカを通り越して犯罪的役所!!

社会保険改革法案をマトモニ審議もしないで、数の暴力で強行採決だって

早く国民の眼から逸らそうって自民の魂胆ミエミエさ。

まして、数十年監督を怠って閣僚を送り込んだ、自称・責任政党の自民党は総退陣・辞職すべきだ! 仕事を何もしないで、役人の言い成りにしてきた無責任政党の極みだ。

収賄・汚職疑惑自殺人ばっかの自民党が数をたのんでの長期独裁政権では日本の未来は真っ黒。  正直者の庶民がこれ以上バカをみない様に投票でカタキ討ちだね。


第202回 小栗上野介・小栗祭り。 東善寺。

2007-05-28 22:22:22 | 旅行

5月27日(日)   江戸時代末期の偉人小栗上野介140回忌の法要と小栗祭りが催された。

場所は小栗上野介(おぐりこうずけのすけ・1827~68年)が明治新政府に斬首された榛名山麓・烏川水沼河原の近くにある、倉渕村権田の古刹・諏訪山東善寺
東善寺は寛永10年(1633年)に創建され曹洞宗に属し、東善寺のある権田地区が小栗家の知行地であった為に幕臣を辞した後、上野介一家が隠棲した寺です。
 
朝から小栗家縁の村人や熱心な歴史ファンが東善寺に集まっていました。
境内には地元物産売店が軒を並べて農産物などの即売会で賑わっていた。

なかには「よこすか海軍カレー」なんてのも・・・上野介が一時期軍艦奉行・海軍奉行を勤めた関係でしょうか?
 
東善寺本堂左横には花束に囲まれた小栗上野介銅像が陽光を浴びても、志半ばで斃れた無念さを漂わせていました。

本堂裏の坂道を登ると2~3分で小栗上野介と一族・家臣の墓が木立ちの中にひっそりと立っています。
 
小栗上野介忠順(みなもとのただまさ)の墓。 は上野介の養嗣子・小栗又一忠道の墓。 (上野介41歳、又一21歳で斬首されました。)
一緒に処刑された家臣と共に並ぶ墓地には多くの地蔵菩薩が涙を・・・。

東善寺境内での串焼きを食してから、小栗公遺品館を見物。
 
小栗上野介公にまつわる遺品を沢山展示しています。
続いて本堂内部の上野介ゆかりの展示物を拝見しました。

小栗上野介公の展示物には数隻の帆船の大きな模型が目を引きます。
遣米使節団(77名)の首脳部を乗せた米船・ポウハタン号(蒸気外輪帆船・2400トン)の大きな模型です。(右はパナマからワシントンまで乗船した汽帆船・ロアノーク号)
 
ポウハタン号
は随伴護衛船「咸臨丸」を従えてハワイ経由でサンフランシスコへ、更にパナマまで遣米使節団を運びました。(咸臨丸勝海舟達はサンフランシスコ到着直後に日本へ帰ります。明治政府は幕府遣米使節団の成果を隠すため「咸臨丸」の太平洋横断を勝海舟の偉業と大々的に宣伝しました。)

事実はブルック大尉ら米船員11名が往復を操船。
勝海舟はふて腐れた態度で終始し、船員達のヒンシュクをかい船室に閉じこもったままで、ブルック大尉に呆れられていた腰抜け侍だったそうです。[ブルック「咸臨丸日記」] 私達の学んだ勝海舟像とは大違いです。

現代の教科書も咸臨丸と勝海舟を英雄視する誤った記述を載せています。
政権の都合の良いように歴史は捻じ曲げられますね。(従軍慰安婦問題も・・。)

は遣米使節団のニューヨーク・ブロードウエイでの大歓迎パレードのエッチング画。
 
右画像は遣米使節団の首脳たちの写真。 左 副使・村垣範忠 中央 正使・新見正興、右 監察役・小栗上野介
アメリカの官民殆どが上野介を日本代表として接遇した由。
正・副使が異国人とは面識が無く戸惑い勝ちで、浦賀で異国人などと交渉した経験のある小栗が会議・パーティーや報道陣への主役となりました。 

伴奏付きの幻灯映写会でナイアガラ滝を見る小栗たち。(1860年6月5日)
米国大統領がお忍びで来て、談笑後お供も連れずに帰ったのに小栗達は「大きな国の身軽な政府」と大いに驚いたそうです。
 
上右は米政府高官と幕府遣米首脳に土下座する家臣達。
この風習には米国人がビックリ、新聞のニュース画に取り上げられました。

アメリカ土産ネジです(本物)。 製鉄所を見学し、金属ネジ一つ作れない日本との差を実感して見本土産としました。 この時の経験から上野介横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)を作ります。
 
上右のナイアガラ号(最新鋭のスクリュー船・フリゲート艦4800トン)で大西洋・インド洋を周って1860年11月30日江戸湾に帰着。ナイアガラ号の後方には富士山、周囲の艪を漕いでいる伝馬舟との対比が面白い。
 日本初の世界一周は遣米使節団。

幕末に日本を背負って大活躍した小栗上野介も明治政府にとっては小栗の才能が危険な存在とみなされ、1986年上野国(こうずけのくに・群馬県)権田村の烏川水沼河原で3名の家臣と共に斬首・処刑され、首と胴体は別々の場所に埋められた。(首は館林の法輪寺、胴体は東善寺)(翌日 息子・小栗又一も斬首さる。)

権田村・中島三左衛門・塚越房吉が館林の法輪時から夜中に首を掘り出し権田に持ち帰り、胴体と一緒にして東善寺に葬りました。
村ではこれを“お首級迎え”(おくびむかえ)と云うそうです。

 
(烏川畔の上野介処刑地にある花に囲まれた上野介碑。旗には小栗家の「立ち波」紋)

烏川・水沼河原に建つ慰霊碑には「偉人 小栗上野介 罪無くして此処に斬らる」京大法学部教授 蜷川新・揮毫)と記しています。
昭和4年建立のこの慰霊碑文字にも「天皇の官軍が罪無き人を斬ると書くのは何事か!」と警察からクレームが付く事件がありました。(天皇制はアナ恐ろしや!!)

幕末の日本に多大な貢献をした小栗上野介は不幸にして斬首されたが、彼が手掛けた事業・政策が明治期に花開き、日本の近代化の基礎を開く事となりました。 
小栗上野介明治の父と謂われる所以です。

なお、小栗上野介は幕臣として要職を歴任した中に勘定奉行があり、徳川御用金・赤城山黄金埋蔵金の噂が明治新政府(官軍)により上野介の評価を下げるために創作されました。

小栗上野介の詳細はここクリック)

2007 05 28(月)記。     前橋市     最高気温23℃。

農水大臣の松岡利勝が自殺!!

自殺しなきゃならない程悪い事して追い詰められてたんだ。

金銭疑惑デパートの一人が消え去り、地球の腐ったゴミが一つ無くなって少しサッパリしたよ。一週間も経てば松岡なんて忘却の彼方に・・・。

自殺するなら自宅でひっそりと死んで欲しいものだ、超豪華な議員宿舎での自殺は大迷惑!自殺した部屋はどうするんだ。 死んでも国民に迷惑をかける最低野郎!

腐りきった松岡利勝を大臣に任命し、最後まで弁護する極悪戦争犯罪人岸信介の孫・アベ総理も同じレベルだね。

数を頼んでの横暴で平和憲法まで改悪しようとする自民・公明党。

郵政民営化の一言で小泉に踊らされて自民を大勝させ、こんなヤカラに政権を任せた国民も反省しなきゃ・・・ね。

松岡利勝については ここクリック。  と   ここクリック。 と ここクリック。 読んでね。


第201回 美しいシャクヤクの花。

2007-05-24 23:23:23 | 写真・旅行・日記・コラム

5月24日(木)   春は心躍る花の季節

美人の形容にたとえられる花と云えば、今の季節は立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花の諺に出てくる芍薬(シャクヤク)ですね。

前橋市上増田町の大山シャクヤク園(℡ 027-266-1705)で芍薬花が満開と聞いて、早速見に行きました。

場所は前橋市の駒形駅の北側、共愛学園の近くです。

大山シャクヤク園は4000平方メートルの敷地に、約50種類1600株の芍薬花が今を盛りと咲き誇っています。
大山シャクヤク園の無料駐車場にを駐車し、受付で入園料の200円を支払うと、花より綺麗な娘さんが「帰りに花を一株持ってって下さい」だって。

安い入園料に更に花の大サービス! 太っ腹な大山シャクヤク園です。
無料サービスの花の品定めを小当たりにしてから、取りあえず芍薬園へ・・・。

入場すると、そこは一面のカラフルな芍薬畑です。
赤、白、ピンク、紫、と色とりどりに咲き誇って、まるでシャクヤクの天国!
 
花好きの人には堪えられないゴージャスな光景が広がっていました。

シャクヤクの花は華麗な美しい立ち姿を見せています。

流石に「立てば芍薬」と言われる艶やかな姿形です。

一番人気なのが、真っ白な花を咲かせている「酔月」ですね。

大輪の花が太陽の光を浴びて眩しいくらいに輝いています。

園内には芍薬だけで無く、アイリス、グラジオラス、ポピー、などの春の花も華を競っていました。
  
それぞれの芍薬花には名前が記入された標板が立ててあります。

派手なショッキングピンク色は「花 籠」。  品の良いピンク色の芍薬は「サラベルナール」。
 

鮮やかな赤は「小島の輝き」。  奥ゆかしい白さは「信濃の月」。
 

三浦綾子の小説からでしょうか?「氷点」。  黄色の珍しい品種は「オリエンタル・ゴールド」。
 
他にも「華燭の典」「ラズベリーサンデー」「ソルベット」「春の粧」・・・沢山の種類で載せきれません。

芍薬花を充分に堪能してからサービスの花鉢を頂きました。
入園時に選んでおいた“西洋オダマキ”をGET! 
開花したらオダマキをうるさい時の妻に見せて、「あんたはオダマリ!」って・・・。(爆)

気持ち良い初夏の気候中、美麗な芍薬で眼の保養が出来た楽しいひと時でした。

読者の皆様もぜひ前橋市大山シャクヤク園へ・・・。
2007 05 24(木)記。    前橋市    最高気温30℃。


自動車のドアを開閉するリモコンの電波到達距離を伸ばす方法。

自動車リモコンの動画はここクリック。

早速、筆者も実験してみました。 
T社の車ですが、頭蓋骨経由で約2倍の距離でもリモコン電波が到達・作動しました。 人体は伝導体ですからアンテナの役になったのでしょうね。
ナゼか?上の画像のように口をアホみたいに開いた方が結果は良好です。 
暇な読者は一度お試しあれ~~、  きっと驚きますよ。


第200回 100年前のおもしろ広告 みどり市コノドント館

2007-05-21 21:21:21 | 旅行

5月18日(金)    明治・大正・昭和初期の古い折込チラシの展覧会が群馬県のみどり市で開催中。

を飛ばして行った所はみどり市大間々町の中央部にあるコノドント館(大間々博物館)。
 
コノドンって変わった名前の博物館ですね。
みどり市郊外の地層から見つかった中生代・三畳紀(約2億年前)の化石生物の名前とか。

コノドントについては後日談と致しまして、そのコノドント館「100年前のおもしろ広告」と銘打って、主に昔のチラシ広告を展示公開していました。(4月28日~5月27日迄)

総レンガ造りの古い銀行を改造したコノドント館の入口は建物の裏側。無料P有り。
入場料はナントたったの100円!! 見る前から料金で感謝感激です。

100年前のおもしろ広告」はコノドント館の2階と3階に展示中。
綺麗に系統立っての陳列はとても見易くて絵画美術的にも優れています。

100年前のおもしろ広告」は東群馬の大間々町を中心として蒐集されたチラシ広告です。(大間々町は足尾銅山の中継地として戦前まで繁栄を極めた街。)
大都会には見られないユニークな絵図柄が興味を引いていました。

沢山の展示物の中から数点掲載させて頂きます。

まずは上部に大黒様和装美人のグラデーション絵と雲状態の金貨から釣り下がる各種格言、下部は右に日本の太陽暦と左に中国の大清暦を載せた日中で使える貴重な引札(藤屋忠三郎店)。
 
上右(吉野屋)は初日の出で正月の引札波形も鶴の羽ばたきを表現しています。(製作 大阪・古島竹次郎)

現在はチラシ広告と云ってますが、昔は引札(ひきふだ)と云いました。
”は配布する事を意味し、また客を引く、福を引く、金銭を引きつけると云った語呂合わせにもなっています。

前原商店引札は小船で懸命に藻を刈っている図です。

藻を刈る儲かるの語呂合わせですが、見てすぐに理解できたでしょうか?

引札」の大きさはタテ25cm,ヨコ40cm程で、当時の引札の大半は横長タイプ。
美人画引札も多数あります。現代のグラビアポスターでしょうか?
引札の多くは錦絵の伝統を引き継いだ石版印刷の多色刷り極彩色です。
 
引札」には略暦・鉄道時刻表・郵便料金などが印刷され、壁や襖に貼って生活の便に利用されていたそうです。 今で云うなら生活密着形広告の原点ですね。

コノドント館の「100年前のおもしろ広告」に展示されている引札は、みどり市在住の関口初男氏のコレクションを中心として、主に正月に配られた目出度い引札が多く見られます。

下は澤酒造(清酒・世界一)のカレンダー入りのカラフルな引札
 
現在でも生き残っている広告付き団扇。 少女の洋装姿が時代を物語っています。

下は郵便夫の絵に郵便物早見表旧略暦の三つを欲張って入れ込んだ引札(明治36年)

この「藤屋源蔵商店」の引札一つで全てOK! ってなワケですかね。

山深い大間々の地にも文明開化の息吹が引札と共に・・・。

足利屋は黒船の荷揚げ作業の港風景引札に描いています。

文明開化の象徴として自動車・複葉機・飛行船・陸蒸気など盛り沢山の磯田屋引札

舶来物・足袋の銭屋商店は鹿鳴館モードの引札です。背景の大きな太陽は明治期の日本の勢いを表現・・・。 横尾忠則の絵の原点はここにあったんですね。
 
菓子製造・山田屋大正ロマンの香り漂う美人画。 猫を抱いて竹下夢二の世界を彷彿とさせていました。

コノドント館の「100年前のおもしろ広告」では引札を中心に百数十点の展示品が見られます。 なかなか見ることの出来ない明治期からの貴重な引札の集大成で、見る価値は充分にあります。(博物館の目玉・コノドント化石も珍品です。)

群馬県みどり市間々町のコノドント館(TEL 0277 73 4123)へぜひ見に行って下さい。

2007 05 21(月)記。    前橋市   最高気温23℃。


第199回 秩父市羊山公園  芝桜の丘

2007-05-18 18:18:18 | 旅行

先日の4月21日(土)に秩父市芝桜を観に行きました。

秩父市の羊山公園日本一の芝桜の公園があると聞いたので・・・。
勝手知ったる秩父路を飛ばして一路秩父市へ!

日本一の芝桜園の遥か手前で駐車(P代500円)して、そこからシャトルバス。
で田舎の道を揺られること約10分で目的地芝桜の丘に到着。

バスを降りて芝桜の丘までは人の行列行進です。
気温の高い中、ゾロゾロと緩い坂道を8分程で到着しました。

入口の前には朝からお土産売りの露店が立ち並び、観光客の人だかりです。

秩父市の公園なので無料かと思ったらしっかりと入場料をとられました。(入場料300円)

芝桜の丘」の中に入ると人の波・波・・・大波。

入場した人は皆さん異口同音に「芝桜より人の方が多いんじゃん」って云ってましたね。

日本一の芝桜”って宣伝が良く効いた結果でしょうか。
日本一の芝桜って入場者数が日本一ってこと・・・!?

天気が薄曇りで写真にはイマイチですが、芝桜をご覧下さい。(人の少ないのを選んで載せたつもりです。)
 
芝桜の色はご覧の通り基本は白・赤・薄紫・ピンクです。説明では8種類との事。
 
芝桜の丘」の面積は16000m2,芝桜は40万株で広さが日本一と説明していました。
広いのか?人が多過ぎるの所為なのか? しきりにスピーカーから迷子の案内放送が流れて芝桜見物の興を削いでいました。

芝桜の丘の代表的な芝桜花をUPしてみました。
 

 
い芝桜もありますが省略しました。

園の隅にチューリップが数本・・・。

春らしくて良い風情で佇んでいました。

春の秩父路(誤変換では父無事。)は草花が一斉に開花しますね。
鮮やかな菜の花が眼に沁みるようでした。
 
「芝桜の丘」の片隅では画家が油絵を描きながら絵筆タッチの説明をしていました。

“芝桜の丘”花の絨毯を威圧するような姿の武甲山とその稜線がくっきりと見えていました。

セメント原料の石灰石を採ったために標高が数十m低くなったそうです。最後は真っ平らになって分譲地でしょうか?

下の写真は秩父市の“芝桜の丘”のほぼ全体像です。(3枚合成)
時期が遅かったのか、芝桜の生育が悪かったのか、所々に土が露出していました。

春爛漫たる秩父路の芝桜見物を楽しんだ一日でした。

人大杉をお嫌いでない方は“秩父芝桜の丘”へ是非どうぞ・・・。

2007 05 18(金)記。     前橋市 薄    最高気温29℃   蒸し暑い。


第198回 春日部市 大凧祭り 下。 宝珠花神社・富士塚

2007-05-15 19:19:19 | 旅行

5月5日(土・子供の日)   春日部大凧あげ祭りの江戸川河川敷会場の直ぐ側に珍しいモノを発見しました。

場所は江戸川堤防下にある宝珠花神社の境内。

宝珠花神社自体は何ら変哲も無い普通の神社ですが、脇にある岩山が歴史を感じさせます。

その岩山は宝珠花神社拝殿の左横に聳え立っています。
岩山の大半が溶岩を積み上げて出来ており、20m程の高さでしょうか。(江戸時代に大きな溶岩石を如何にして富士山から運んだのか不思議?)
江戸時代後半に流行った富士山信仰の富士塚とみました。
 
この溶岩山にも鳥居が建ち、上部に三国第一山と銅扁額が掛っていました。
三国第一山」とは駿河・甲斐・相模の三国にまたがる富士山の事と思います。

銅扁額の裏面には、この地・西宝珠花の人々が不二(富士)登山121回目を記念して天保四年(1833年)に奉納した事、銅扁額の製作者は粕壁(春日部)の鋳掛師・駒田文吉と彫られています。 書体は鳩ヶ谷の不二道指導者・小谷三志の筆になるそうです。

江戸時代には不二(富士)山信仰が庶民層にも広がり、余裕と元気のある人達は挙って富士山詣でに精を出したようですね。

子供や老人とか、また体調と手元不如意の人は富士山まで登れませんから、この様な小山を富士山に見立てて擬似富士登拝を行ったと云われています。
 
宝珠花神社富士山塚には階段状の登山道(表・裏道)があり、現在では誰でも気軽に登山が出来ます。(江戸期には何時でも登れた訳ではありません。富士塚登拝の日は定められていたそうです。)

富士塚に登る途中には五合目、八合目などの合目石や多数の石碑が建っています。
御嶽大神”や“伊勢講 奉納二十三両”など富士山信仰とは関係無いものまで一緒くたのテンコ盛り!! 
 
この富士塚に登れば全ての神様に一度にお願いが通じそうです。
江戸庶民の大らかな気風には脱帽ですね。

富士塚の山頂には立派な青石が据付けられています。烏帽子石でしょうか。
長年この富士塚に登山した人々が触ったのでしょう、石に彫り込んだ文字が磨り減って良く読めません。

一文字づつ指でなぞってやっと判読できました。
山頂石の字は多分、“浅間大神と彫ってあると見ました。
富士山信仰なのに山頂石が富士権現では無く浅間権現とは・・・?
(後で調べたら、浅間山の事では無くて当時は富士山信仰は富士浅間信仰と言ったそうです。 浅間=せんげん)

江戸時代の信仰のユニークさと奥深さに戸惑いながら、富士塚山頂から下界の展望を楽しみました。

富士塚山頂からの下山途中に撮った真下の宝珠花神社拝殿です。
富士塚の解説はここクリック

富士塚横の江戸川の河川敷では春日部大凧あげ祭りの真っ最中!

春日部(粕壁)って見所が結構多い街です、皆様も歴史を訪ねに行かれては如何・・・。

2007 05 15(火)記。   前橋市 時々   最高気温23℃

5月15日    5.15事件の日(詳しくはここクリック) 日本は天皇制軍国主義へ、大東亜戦争へ、悲惨な敗戦へ一直線!!  最近の政治右傾化に御用心を・・・!!


第197回 春日部市 大凧祭り 中。 大凧揚げ本番。

2007-05-12 22:22:22 | 旅行

5月5日(子供の日)    春日部大凧会館の見学が終り、再び江戸川河川敷に戻ってきました。

凧揚げ会場の江戸川河川敷には既に大勢の見物客が日本一の大凧祭り(無形民俗文化財)に詰め掛け、大空に翻る様々な凧を見ていました。

春日部大凧祭り”とは江戸時代の天保12年(1841年)に出羽国の僧・浄信が各地巡礼の折り、この地・宝珠花小流寺に滞在し、人々に養蚕の豊凶占いとして凧揚げを教えた事に始まります。
何時しか繭の収穫時期から端午の節句に揚げる時期が移り、も次第に大きくなりました。明治初期には現在の半分の大きさに、明治中期に現在の大きさになったと云ます。災害や戦争などで中止された年もありましたが、宝珠花地区の祭りとして長く親しまれている伝統行事(国選無形文化財)です。
 
江戸川堤防の上では凧の説明をマイク片手の凧指導員が名調子で面白く・・・。
 
午前中は“全国凧揚げ大会”が開催され、珍しい凧・名物凧のオンパレードです。

江戸川堤防下には幾つもの大きな凧が並べられ出番を待っていました。





人間と比較すると大きさが良く判ります。
石川五右衛門みたいに人間が乗れそうな凧ですね。
でも、この凧たちは大凧ではありません。 中凧とでも云うのでしょうか?(係員は小凧と言ってました。小凧でも縦6m横4m、重量150kgです。)

小凧の「希望」と「華翔」が鮮やかに飛揚する雄姿です。

いよいよ午後2時から大凧揚げが開始される予定。

それにしても、凧の大きさには驚きの一言! 目を見張るものがあります。
大凧の骨組みに縦15本、横17本、斜め14本の割り竹が使われます。
組み立てられた竹の骨格に、半紙大の和紙1500枚が縦16m横12mの広さに貼られるのです。(糊しろ各1m) 
完成した大凧は縦15m横11m、重量約800kgの巨大な凧。(約100畳)
 
この大凧を大凧文化保存会の「上若」「下若」の若衆約100人で江戸川堤防の上まで懸命に持ち上げます。見ているだけでスケールの大きさを実感できますよ。
50mの運搬作業だけで30分! 壊さない様に丁寧な人力作業、いやはやご苦労様なことです。

堤防の上では元関取・舞ノ海NHKのレポーターをしていました。

凧揚げもスポーツの分野に入るのでしょうか? それとも芸能ニュース?
NHKでは5日夕方6時から第一で放送しますと言ってました。

地元のTV局(TV埼玉)の放送時間に合わせて、大凧揚げは一時間遅れの午後3時からとなりました。
待った甲斐あって大凧環境は無事に離陸!!

大凧の飛揚を固唾を呑んで見ていた大勢の人達から一斉に大拍手が沸き起こりました。 大感激の一瞬と言っても過言ではありません!

雲ひとつ無い青空に悠然と舞い上がる大凧には感無量です。
 
地上では百数十名の「上若・下若」若衆が大凧の綱を必死に引っ張って操作していました。
用意した揚げ綱の長さは1000mとの話です。
風速が4~5m程で大凧「環境」は100~150mの範囲を遊弋・・・。

次には大凧地球が颯爽とデビューする筈でしたが、江戸川堤防上の風が弱くなり揚がりきらない内に敢え無く失速してしまいました。

この日の為に苦労して作った大凧地球」でしたが、竹の骨組みが複雑骨折・破損!!
修復不可能で本日の大凧揚げは「環境」のみの成功をもって終了となりました。
二張りの大凧が大空に舞うと地球環境と自然の大切さをアッピールできたのですが・・・。

大凧や各種変わり凧など楽しめた江戸川河川敷の対岸にはグライダー滑空場(関宿滑空場)があります。

グライダー牽引機のプロペラ機やスマートなグライダーなどが凧と共に良く見ることが出来ます。 (上画像は連凧に戯れるグライダー、右下には関宿滑空場。)
子供連れ家族の行楽には絶好の大凧祭りです。 
読者の皆様も来年5月には1841年(天保12)から続く伝統の大凧祭り春日部市宝珠花へ是非どうぞ・・・。

2007 05 12(土)記。    前橋市    最高気温25℃   無風快晴


第196回 春日部市 大凧祭り 上。 大凧会館。

2007-05-09 19:19:19 | 旅行

5月5日   子供の日に巨大な凧を揚げるお祭りがあると聞いたので、さっそく妻を引き連れて行きました。

場所は埼玉県春日部市郊外の江戸川河川敷。

朝からをぶっ飛ばして春日部市の西宝珠花町へ・・・。
江戸川河川敷の無料駐車場に運良くパーキングできました。

河川敷では既に小凧がいくつも青空を気持ち良さそうに泳いでいました。

春日部名物・巨大凧の出番までには時間があったので、近くの大凧会館を訪問。
凧の展示場にしては超立派な大凧会館です。
 
入場料300円支払って入ると正面には代表的な凧の展示。

階段には河豚の連凧バットマン凧
 
大きな扉を開けて大凧会館本展示場に入ると、まず眼を引くのが壁面に飾ってある巨大凧!!
  
15m11m重量800kgの大凧が四張りです。
彩の国は埼玉県のことですが、庄和って何・・・??

春日部市が誕生する前、この地は糟(粕)壁地区と庄和地区に分かれていたそうです。 その2地区が合併して春日部市が誕生しました。

もともと大凧庄和地区のお祭り用だったんですね。 それで庄和の大文字が書かれているんですね。

大展示場の最奥にはガラスケースに収まった本格的武者絵大凧が見られます。
  
左、本能寺の森蘭丸。 右、源平・壇ノ浦合戦の大凧です。
見ているだけでも惚れ惚れする出来栄えの古い作品。

広い展示場には全国の代表的な凧が飾ってあります。
 
上は江戸凧の展示。流石は華のお江戸、鮮やかの絵柄。

朱色の羽織凧は南総(千葉)凧で図柄は八犬伝です。
 
右上は隣の県・群馬上州べえ凧でねぶた図柄をモチーフとしていました。
右隅の人と比較すると大きさが判ると思います。
海外の興味深い凧も沢山展示していました。
左下はインドネシアの凧です。
 
右上は日本軍の戦闘機を描いた、ターゲットカイト
このターゲットカイトは空高く挙げられ、射撃の標的に使用したそうです。
戦争になると凧も軍用凧になりますから、平和が一番ですね。

春日部市大凧会館には約450点の各種凧が展示公開されています。
最上部の7階には展望レストランも有りますから、ぜひ入場・見学して下さい・・・ね。

次回は春日部大凧祭りの本番です。

2007 05 09(水)記。    前橋市    最高気温29℃

安倍晋三がこそこそと真榊を靖国神社に奉納したって、内閣総理大臣なんて書かないで無名で奉納しろってば! 近隣諸国の嫌がることを密かにするバランス感覚の抜けたのアホ首相!
靖国神社なんて国益を損なうだけの代物、早く取り壊して公園にしましょう。

台湾の対岸の中国・温州にはこんなユニークな公衆トイレが出来たそうです。
 
おばさんが管理してるから、有料トイレみたいですが・・・。
昔は鳥居に小便をかけるとチン○が曲がるって言われたけど、靖国神社にかけると大きく立派になるかもね・・・。 


第195回 埼玉県加須市 ジャンボ鯉のぼり。

2007-05-05 22:22:22 | 旅行

5月3日     巨大な鯉のぼり見物です。

場所は埼玉県の加須市(かす市でも、かず市でもなく、かぞ市と読みます)。

加須市大越の利根川緑地公園の広々とした河川敷が会場です。
この緑地公園で5月3日に第19回 加須市民平和祭が開催され、その一環としてジャンボ鯉のぼりが揚げられます。

朝早くで出発、加須市北中学校に駐車して無料のシャトルバスで河川敷へ向かいました。

利根川河川敷・緑地公園の中央にはイベント広場ができて賑やかです。
イベント広場から下流方面には広大な菜の花畑が満開の花を咲かせていました。
 
雲ひとつ無い鯉のぼり日和の下、菜の花畑に沿って露店加須名産品店が列をなして営業中! 

利根川河川敷の堤防のなだらかな斜面には数万人の見物客がジャンボ鯉のぼりの揚がるのを待っています。 

露店商をヒヤカシながら待つこと暫し、加須市ジャンボ鯉のぼりは午前11時から第一回目が始められました。
 
今までに見た事も無い巨大なクレーン車(車輪タイヤが大人の背丈同じ大きさ)でジャンボ鯉のぼりの口の部分からゆっくりと引き上げていきます。

この鯉口の直径だけで10mとの説明放送がありました。
 
徐々にクレーンで引き上げられますが、肝心のが少し弱いようです。

ジャンボ鯉のぼりの下には小さな鯉のぼりが一緒に曳き上がって・・・。
小さいと言っても6~7mもある立派な鯉のぼりです。

加須市自慢のジャンボ鯉のぼりはこの鯉が平成15年完成の三代目で世界一の大きさだそうです。(一代目は昭和63年、二代目は平成8年に完成。 歴代では二代目が一番大きく、長さ111m 重量730kg 遊泳中破損・引退。)
三代目の全長は100m、重さ350kg(ポリエステル使用で軽量化)。 目と口の直径は10m。 一枚のウロコは5m。 脅威の大きさです。
昨年にはドイツへ親善遊泳をしに外遊したそうです。(加須市鯉のぼりHPはここクリック)

ゴマ粒みたいなと比べると巨大さが良く判ると思います。
やはり午前中は天気が良すぎてが吹きません。
ジャンボ鯉の尾が空中に泳ぎません、30分程頑張りましたが、風が見込めないので第一回目は不成功の内に終了しました。

第二回目は午後の1時から、それまではイベント会場でのアトラクションと昼食で暇つぶし!

中央のイベントステージでは武州太鼓の実演や民謡・踊り・キーボード演奏・フォークダンスなど盛り沢山!
隣りの青年会議所広場では地震体験コーナーや子供広場など有り、子連れ達で盛況でした。

でも、一番感心して楽しめたのが「加須小・郷土芸能クラブ」が演じた武州加須囃子うどんひょっとこ踊りでしたね。
加須市名物の「加須うどん」の作り方をテーマにした笛太鼓のお囃子付きの楽しい踊りです。
 
ひょっとこ面を被った加須小学校の生徒さん達の熱演には万雷の拍手!!
加須小がある限り日本の未来は明るいですね。

午後の一時になって第二回目ジャンボ鯉のぼりの掲揚開始です。
午前中より風が吹いてきたようです。
 
鯉の大きな口からをいっぱい吸い込んで生き返った様に見えました。

風速も5~6mで丁度良い風との説明放送です。
 
ジャンボ鯉のぼり下の小さく見える鯉のぼりも気持ち良さそうに泳ぎだしました。

大空をノンビリと遊泳中の鯉のぼりと違って、地上では鯉のぼりのバランスを取る為、係員達が必死にロープを手繰っていました。

この作業で鯉のぼりが逆さにならない様にバランスをとっています。

鯉口の左右から引いたロープで微妙に操作するのですね。

新聞社やテレビ局のヘリがバタバタと取材に飛んでいましたが、まるでジャンボ鯉に軽くあしらわれている様で鎧袖一触って形容がピッタリでした。
  
ジャンボ鯉のぼりの巨大尾の一撃を避けるかのように、ヘリは遠くから廻って撮影していました。(空撮は朝日新聞。)

抜けるような紺碧の大100mの巨体をくゆらせながら、何時までも気持ち良さそうに泳いでいました。

これぞ平和日本の象徴ってな感じです。(北朝鮮問題を利用しての最近の右傾化にご注意!)

しばし遊泳してから、満足したように無事着地しました。
 
人間のナント小さなこと、巨大な尾から吹き出すで人が飛ばされそうでした。
 
係りの人々が取り付いている様は、まるでガリバー物語を彷彿とさせます。

なんとかビニールを敷き詰めた所定の位置に着地。

雄大な遊泳の余韻に浸るかのように何時までも尾から風が抜け切れません。

ジャンボ鯉のぼり撤収は、口の大きさを基準に胴と尾を縦に三つ折りにたたみ、尾部からクルクルと巻いてゆきます。
 
10名ほどで巻きます。最初は効率良く巻けますが、重量350kgですから次第に全員ヘトヘト状態になります。  
途中で人員交代しながらなんとか20分程で巻き終わり、無事トラックの荷台に収まって全て完了! (荷台には一代目が予備用として積んでいました)

加須市ジャンボ鯉のぼり参加の皆様、本当にお疲れ様でした

絶好の晴天日和に恵まれて悠然と大空を泳ぐ、「加須ジャンボ鯉のぼりには大感激しました。「加須市民平和祭」が益々盛大になるよう祈ります。

読者の皆様も是非ご覧に加須市へ行っては如何でしょう。

2007 05 05(土・子供の日)記。    前橋市   最高気温29℃

大阪吹田市エキスポランド・スタンディングコースター「風神雷神Ⅱ」の事故。
 ご冥福を・・・。


第194回 花の秩父路

2007-05-02 22:22:22 | 旅行

4月21日(土)    埼玉県秩父市・羊山公園の芝桜の丘へ。

秩父市の芝桜の丘には日本最大の面積を誇る芝桜の公園があると聞きました。

早速、を飛ばして一路埼玉の秩父市へ・・・。
道路は県道の前橋秩父線と云う地方の幹線を南下。

群馬県の冬桜で有名な鬼石町から神流川を渡ると埼玉県に入ります。(鬼石冬桜はここクリック) 

埼玉・神泉町の急な上り坂を越え、長瀞方面にだらだらと下り、やっと開けた山間地の人里に満開のツツジが咲いていました。

薄暗い杉林の峠道から明るい場所に出たので、ツツジの花が眩しく映ったのでしょうか?

それにしても眼を奪われるほどの見事なツツジでした。
通る車の大半がツツジ見物で徐行して・・・。   

さしずめ、秩父の山奥に花開いたツツジの桃源郷ってな感じでした。

県道近くの小川には黄金色した花も・・・。
 
太田道灌の鷹狩にまつわる話で有名な「七重八重、花は咲けども、山吹の。みの一つだに、無きぞ悲しき」(兼明親王)の句に出てくる山吹の花ですね。

鮮やかなヤシオツツジとゴージャス色の山吹花を眼に焼き付けながら、春の秩父路を芝桜の丘目指して走りました。

秩父市羊山公園の芝桜の丘は近日中に掲載予定。

2007 05 02(水)記。    前橋市     最高気温25℃

(GW中多忙に付き簡略化、悪しからず。)