2008 10 05(日)
二本松市の“二本松提灯祭り”から引き続いて福島県の観光です。
昨夜は郡山市のホテルに夜遅く着いて宿泊。
5日はノンビリと朝寝坊してから車で名勝“阿武隈洞”へ・・・。
郡山市の左に隣接する星の町・田村市が誇る天文台から眺めた阿武隈洞がある岩山”東釜山”。
白い岩肌から全山が石灰岩で出来ているのが良く判ります。石灰石を切り出した跡ですね、切羽の高さ140mとか。
流石に有名な観光地です、駐車場や売店・レストランなどの設備は良く整っています。
公園風の広場には遊び心いっぱいの銅像も、奥に見えるスロープを歩いて阿武隈洞へ・・・。(この場所の標高は610m)
整備された遊歩道を1~2分で阿武隈洞の入洞口に到着。(料金1200円)
全体的には薄暗い洞内ですが、通路に照明がついて歩き易くなっています。
頭上から様々な鍾乳石が垂れ下がって奇妙な別次元の世界に迷い込んだ気分です。
見所にはスポットライトの照明が点けられて見易くなっています。
洞窟内の途中で別途200円支払い探検コースへ・・・。
それぞれの鍾乳石や石筍には相応しい名前が付けられています。
カメラレンズに水滴が付着したので画像中央がぼんやりと してしまいました。
”石化の樹林”と名付けられています。
”滝根御殿”と名付けられた広い洞内空間が一番の見所です。
ステンレス製の階段を上り“竜宮殿”方面に・・・。
見物客の感嘆の声が洞内に木霊していました。
下の画像は“観音像” “根滝の斜塔” “不滅の滝”。
下の画像は“月華の滝” “白銀の滝” “黄金柱”。
私達の想像を超えた幾千万年の歳月で石灰石が侵食されてこの様な不思議な地底世界が生まれたのです。
“黄金柱”の上からはカーテン状の鍾乳石が垂れ下がっていました。
まさに不思議の世界、地底のファンタジーが実感できます。
阿武隈洞の設備は良く整っています。指示板通り進めば洞内で迷う事はありません。
歩を進め”竜宮殿”に向かいました。
巨大な“きのこ岩”、これが食べられたら何人分かしら・・・。
“月の世界”など雰囲気に合わせた色々な名前が面白い阿武隈洞です。
写真を撮りながらノンビリと見物して約1時間弱の行程でした。
阿武隈洞は1969年(昭和44)に石灰石の採掘中に発見されました。
現在公開中の奥に未公開部が約2500m程あり、学術調査中とのことです。
日本でも有数の規模を誇る鍾乳洞“阿武隈洞”、東北方面に旅したらぜひ見物したい場所ですね。お奨めいたします。
2008 10 31(金)記。 前橋市 最高気温15℃
2008 10 04(土)
二本松市霞ヶ城で開催されている日本一の菊人形展を見物してから夕方から行われる“二本松提灯祭り”へ・・・。(4・5・6日の3日間)
車は南小学校の臨時無料P場をお借りしました。
二本松市内をブラブラ散策していると昼の山車から夜の提灯屋台(太鼓台)に衣替えの最中。
10月4日午後5時。メイン会場・亀谷交差点(亀谷ロータリー)には続々と提灯屋台(太鼓台)が集結します。(5日は二本松駅前が会場)
二本松提灯祭りの本部では市長を初めに祭り関係者のご挨拶です。
祭り本部の前に並んだ七町七台の太鼓台の雄姿は、これから始まる提灯祭りの賑やかさを予感させていました。(七町=本町 亀谷 竹田 根崎 松岡 郭内 若宮)
提灯屋台(太鼓台)の出陣までは近くに在る“二本松神社”へ参拝に・・・。
“二本松提灯祭り”は二本松地方の総鎮守にして丹羽藩主の守護神でもある二本松神社の秋期例大祭。
神社には拝殿まで奉納提灯が並び善男善女?が行き交っていました。
200年余前(1806年)に建てられた二本松神社拝殿では御神火祭が行われ、下帯姿の若衆が整列して待つ内に太鼓台の提灯に灯す灯明が宮司により厳かに採火されます。
宮司から頂いた御神火は境内に設えた篝火へ直ぐに点火されました。
御神火を松明に灯して、若衆達は一斉に二本松神社から駆け下ります。
随神門からは下りの石段。御神火を手にした若衆は本町通りを駆けて我先にそれぞれの太鼓台(提灯屋台)へ一目散に走ります。
二本松神社からの御神火を一番早く太鼓台の全ての提灯に点灯し、最上部の“すぎなり”をいち早く立てた組には観客から称賛の拍手が沸き起こります。
亀谷交差点の祭り会場は大勢の群集で立錐の余地もありません。(画像はTV撮影の照明で明るくなっています)
人々の間を少しずつ分け進み太鼓台に近付きます。それぞれの太鼓台には300個余の紅提灯が灯され、高さ11mの太鼓台に全部の提灯が灯され豪華絢爛に秋の夜を彩ります。
二本松提灯祭り 2008 第一
二本松と言えば“二本松少年隊”ですね。 白足袋・袴姿の二本松少年隊衣装で提灯屋台(太鼓台)を曳いていました。
暗い切り通しを通過し、郭内通りから根崎交差点と智恵子生家へ明々と提灯を灯した太鼓台は進みました。
二本松提灯まつり 2008 第二。
帰りの竹田坂を上り、下りには亀谷坂を通過するのが一番の難所!
坂の手前で呼吸を整えてから一気に竹田坂を駆け上がります。
ロウソク提灯ですから、時々ロウソクの交換です。高い場所は肩車などして・・・。
太鼓台からはひっきりなしに祭囃子が打ち鳴らされて賑やかな提灯祭りの夜でした。
二本松提灯祭り 2008 第三。
ゆさゆさと夜空高く揺れる“すぎなり提灯”はまさに夜空の幻想的な光景!
二本松提灯祭りは夜中の12時まで、若衆の掛け声や祭囃子で観客を陶酔させながら二本松市街を練り歩き、二本松全体が祭り熱気に包まれていました。
360年(寛永20年1643年)の歴史を誇る“二本松の提灯祭り”は日本三大提灯祭りの一つに数えられている豪壮な夜祭りです。( 二本松提灯祭り 秋田竿燈祭り 一色町大提灯祭り→異説もあり。 )
二本松提灯祭り公式HP ⇒ ここクリック。
2008 10 29(水)記。 前橋市 最高気温22℃
2008 10 04(土)
二本松市で日本一と云えば、霞ヶ城で開催される“二本松の菊人形”ですね。
菊人形展の場所は二本松市の旧跡・霞ヶ城。
昔は二本松藩十万石・丹羽氏の居城。
戊辰戦争で灰燼に帰しましたが、聳え立つ石垣と箕輪門が往時の威容を物語っています。(箕輪門は昭和57年再建)
霞ヶ城の前庭には二本松少年隊の在りし日の戦闘シーンの銅像が・・・。
戦に出る我が子の出陣衣装を縫い繕う母の像が胸を打ちます。
×紋幕を張った箕輪門の前には二本松菊人形祭りの今年のテーマの“篤姫”。
菊人形“篤姫”様にお出迎えされて霞lヶ城へ入城。(菊人形展1000円 10月1日~11月23日)
城内は菊花が咲き乱れ“日本一の菊人形”と呼ばれるのも頷けます。
まさに菊の芸術! 製作の苦労が偲ばれます。
NHK大河ドラマ「篤姫」の大掛かりの御殿セットが組まれていました。
篤姫が薩摩から江戸へ旅立ちのシーン。背景の桜島も良く描けて雰囲気が良く出ています。
二本松の北に位置したのは仙台藩、やはり奥州の雄・伊達政宗公も菊人形展に出陣。
新撰組の隊士の面々の菊人形。
「壬生浪士隊」と名乗っていたが、会津藩の別働隊として会津藩から「新撰組」と命名されるシーン「新撰組拝命」。
慶応4年7月28日二本松城下の大壇口で奮戦する二本松少年隊の菊人形。
三春藩の寝返りで勢いづいた官軍は“錦の御旗”を押し立てて二本松城に迫ってきます。
菊人形の製作過程も展示されて勉強になります。
大きな五重塔がありましたが、これから屋根に菊花を飾るのでしょうか?
菊人形展の途中に大きな滝が在りました。小高い城内に流れる滝は18km先の安達太良山麓から水を引いているそうです。(二合田用水)
名は“相生の滝”。鯉の滝登りでしょうか・・・金太郎が鯉に跨ってハイドォ~ド。
色々な菊人形を楽しんでから、菊人形劇場へ・・・。出し物は「二本松少年隊」。
劇場の壁面には二本松菊祭りのポスターが第一回目から貼っていました。
今年の菊人形展は第54回になります。
劇場内が暗くなり、菊人形芝居の幕が開かれます。
二本松少年隊が官軍からの攻撃を必死に防戦している場面「大壇口の戦い」。
「突きの一手」と名付けられた名場面。
幼い少年兵を哀れみ斬り付けなかった官軍の将・白井小四郎は少年隊士・成田才次郎の鋭い突きで斃れます。
敵の長州藩士・白井小四郎の遺骸はその慈愛の心意気に感じた二本松の人達によって地元の真行寺に丁重に葬られています。
最後は二本松霞ヶ城の落城シーン。
丹羽藩主は落ち延びましたが、城代・内藤四郎兵衛は「むなしく内に在って死すべきにあらず」と自刃せず城から討って出て見事な最期をとげました。
今でも“二本松武士の鑑”として讃えられています。
二本松菊人展を楽しんでから、霞ヶ城下の名跡・戒石銘の見学。
道路わきに在る大きな自然石が有名な国指定史跡“戒石銘”。
藩主の諌めとして、寛延2年(1749年)藩主・丹羽高寛公が藩儒学者・岩井田昨非に命じて書かせた石碑。
碑文「爾が俸 爾が禄は 民の膏民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し」と藩士への規範を示しました。現代の政治家や官僚に捧げたい名言ですね。
霞lヶ城の菊人形祭りなどをタップリと楽しんでいると陽は沈み夕刻になりました。
古城を後にして二本松に来た一番の目的の“二本松提灯祭り”の会場へ・・・。
次回は”二本松提灯祭り”。
2008 10 25(土)記。 前橋市 最高気温20℃
ネコカラオケ。
ちいニャい秋みつけた。
2008 10 04(土)
智恵子の生家を見学し、高村光太郎著・智恵子抄でホロリとしながら、次なる二本松の名所へ・・・。
二本松市の郊外にあるテーマパーク“安達ヶ原ふるさと村”の近くの観世寺を訪問。
この天台宗の真弓山観世寺は“奥州安達ヶ原鬼婆伝説”で有名な霊場です。
拝観料300円を払って山門を通って境内へ。
山門の正面にしっかりとした本堂と五重塔が見えてきました。
お寺に人に尋ねると、五重塔はテーマパークのものだとか・・まるで、この寺のものみたい、借景にピッタリでした。
本堂への石畳の脇には巨大な怪石奇岩がゴロゴロです。
巨石の手前に「松尾芭蕉・正岡子規 参詣の地」なる立て札も・・・。
「涼しさや 聞けば昔は 鬼の家」正岡子規。
巨石の周囲に“鬼婆供養石”なる小さな石塚。
さらに進むと、“出刃洗い池”と言う物騒な名前の池が在りました。
奥州安達ヶ原の鬼婆が人を殺めたとき使った出刃包丁をこの池で洗ったそうです。
行基菩薩が彫ったという白真弓如意輪観世音がある観音堂(鬼婆を白真弓につがえた金剛の矢で射殺した如意輪観音を祀る)の後方にも巨大な岩石が・・・。
60年に一度の御開帳秘仏・白真弓如意輪観音の前立て観音を拝んでから、鬼の棲家と云われ、存在感充分の巨石に圧倒されながら怖いもの見たさで近寄ってみました。
鯨の頭のような形の“蛇石”。 昔は沢山の白蛇が棲み付き白真弓如意輪観音の化身と崇められ、観音の守護石だそうです。
また、参詣人の道中無事の祈り石としても祀られています。
白真弓如意輪観音堂の裏側にも巨大な怪石が・・・。
奇妙なバランスで大きな岩が屋根の庇のような格好でのっています。
下の巨石は“祈り石”と名付けられていました。
説明文には「行者・東光坊祐慶が鬼婆の居室を覗くと死体が散乱。恐怖に駆られて逃げ出すと、鬼婆が追いかけるが追いつけず。祐慶がそれ以上に進めないよう鬼婆はこの石に封殺の祈りを込めた呪い釘を打ち込んでから追いかけた」と記されていました。
巨岩の上にずり落ちそうにのった、ヒビ割れた亀の甲羅のような岩は“甲羅石”。
屋根状態にのっているのは“笠石”、鬼婆が住んでいたという岩屋です。
石のお地蔵様が安置され鬼婆の霊を鎮めているのでしょうか?
“鬼の岩屋”は後に鬼婆となる岩手(婆の名前)が棲んでいた怖い伝説の地です。
更に奥に進みますと岩が重なっって出来た空間の“胎内くぐり石”が在りました。
太古の昔には、この巨石に人々が住み着いて住居として生活していたとか。
巨石怪石の傍らに南無阿弥陀仏と彫られた“安堵石”。
この石に悩み事や心の憂さなどを投げかけると気持ちがスッキリとするとか・・・。
癒し系のセラピー石です、昔の人もストレスが多かったんですね。
地面に半ば埋まった苔生した石は“夜泣き石”です。
夜半に旅人が通るとこの石から赤ん坊の泣き声が聞こえたと云われている。
鬼婆に殺された赤子の泣き声として、“夜泣き石”と名付けられました。
真弓山観世寺山門を出て右に見える堤防を越えると鬼婆を埋葬して弔った“黒塚”が阿武隈川の河川敷にありました。
昔はこの一帯を”奥州安達ヶ原”と呼ばれて鬱蒼とした森林地帯が続きホラー物語の舞台となった場所です。
白塀で囲まれた“黒塚”。真ん中から杉の巨木がすくすくと・・・。
東光坊祐慶の祈りが叶い、如意輪観音の破魔の白真弓で鬼婆は退治され、この地に埋葬されたそうです。
平 兼盛が詠む「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれると 聞くはまことか」
我が娘(恋衣・こいぎぬ)の腹を裂き、孫の生き肝を取り出した怖くも悲しい鬼婆伝説。
歌舞伎や謡曲などでお馴染みの奥州安達ヶ原鬼婆物語の舞台を見聞し、次なる観光地・二本松霞ヶ城の菊人形展へ・・・。
2008 10 22(水)記。 前橋市後
最高気温23℃
2008 10 04(土)
二本松少年隊で有名な大隣寺の前にある隊士館でラーメンを食べていると何やら笛太鼓の音が聞こえてきました。 食事もそこそこに、店の外へ・・・。
二本松市成田町の田畑の中を立派な屋台が曳かれてきました。
この屋台は今夜の“二本松提灯祭り”に参加するため昼間の巡行の最中でした。
昼食していたお店の前で屋台は小休止してから再出発。
金箔で飾られた豪華な屋台は二本松の名城・霞ヶ城へ・・・。
賑やかな屋台を見送ってから、戦前の画家であり、高村光太郎の妻でもあった“智恵子の生家”を見学に・・・。
智恵子の生家脇の道路には“智恵子純愛通り”と彫られた大きな石碑が置かれています。(石碑の横が市営無料P場)
軒先に杉玉(酒林)を飾った大きな商家が智恵子の生家。明治初期に建てられたそうです。(生家付近からコロムビアローズⅡが歌う「智恵子抄」が流されています。)
高村智恵子はこの家で1886年5月20日に長沼今朝吉の長女として生まれました。( 戸籍名は長沼チエ )
長沼家はこの地方で屋号を「米屋」と称する酒造業を営む資産家でした。
当時醸造していた清酒の商標は「花 霞」。 1914年に高村光太郎と結婚するも、父・長沼今朝吉の死後、1929年(大恐慌)に長沼家は破産し智恵子は心労などから次第に心を病み、自殺未遂など起しながら1938年に肺結核で亡くなりました。(享年52歳)
智恵子生家の裏側から内部に入ることが出来ます。(入場料400円)
智恵子の生家の勝手口からの屋内です。
智恵子が使っていた什器などの生活用品が展示されていました。
長沼家の中心の居間。 智恵子は二階の部屋に住んでいたそうです。
右手前のガラスケースに智恵子が愛用した琴が綺麗な状態で保存されています。
奥の部屋に置かれた智恵子が使っていたはた織機は、今でもカタカタと音をたてて動き出しそうでした。
昔懐かしい蓄音機。 この蓄音機で智恵子はベートーベンの第6交響曲「田園」を好んで聴いていたそうです。
智恵子の生家特別公開(2015.10.31) (拝借動画。)
智恵子生家の裏手にある近代的な“智恵子記念館”に入館。
芸術家・智恵子が残した油絵や紙絵などの作品の数々が展示され、芸術的雰囲気に浸れる記念館です。
高村光太郎と幸せなツーショット。丸顔の智恵子が愛らしく写っていました。
夫・高村光太郎作の彫像・「乙女の像」(1953年)。智恵子をモデルにして製作したそうで、顔には智恵子の面影が色濃く表現されています。
高村智恵子の詳細はここクリック。
智恵子の生家と記念館を見学してから直ぐそばの小高い丘にある“智恵子の杜公園”へ・・・。
丘の頂上に建つグロテスクな展望台に上がってみました。
二本松市の一部が眺望できます。
智恵子は時々この丘に上がって安達太良山を眺めていたそうです。
「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・」(智恵子抄・樹下の二人)
「阿多多羅の山の上に、毎日出ている青い空が、智恵子のほんとの空だといふ。」(智恵子抄・あどけない話)
智恵子は故郷のこの丘から眺めた安達太良山の空がほんとに好きだったのですね・・・。
昭和懐メロの名曲 「 智恵子抄 」 歌手 コロムビアローズ 二代目
次回は奥州安達ヶ原鬼婆伝説の地。
2008 10 16日(木)記。 前橋市 最高気温24℃
2008 10 04(土)
今回は少し足を伸ばして東北地方へ・・・。
北関東高速道から東北高速道を経由して目的地の福島県二本松市へ・・・。
途中の阿武隈SAで小休止。トイレの脇に「是より みちのく 」の真新しい石碑がありました。
でも、快晴の高速道では「みちのく ・奥の細道」って感じは湧きませんね。
郡山市付近から安達太良山(標高1700m)の稜線が見えてきました。
純愛詩集「智恵子抄」(高村光太郎著)で有名な「智恵子のほんとの空」があると言う安達太良山(阿多多羅山)。
正午近くに智恵子生家のある二本松市に到着。
東北自動車道・二本松IC出口からほど近くに建つ古刹・大隣寺へ・・・。
大隣寺境内に上がる石段 の脇に「二本松少年隊 副隊長・二階堂衛守、隊士・岡山篤次郎」両氏が戦死した場所として石碑が建てられていました。
石碑に合掌してから大隣寺本堂へ・・・。
大隣寺の正式名は巨邦山大隣寺(こほうざん だいりんじ)で宗派は曹洞宗。
二本松藩主・丹羽氏の菩提寺として寛永4年(1627年)に建立されました。
北国の厳しい風雪にも耐えてきた頑丈な造りの本堂です。
通常本堂正面にあるはずの唐破風が左手隅に、中央には質素な入口があるだけです。 唐破風の内部は慈眼堂で幾体もの仏像が並んでいました。
中央の入口から内陣を拝見しました。 内部は暗くて良く見えません。
天井には歴代の住職が使った駕籠が三台、保存状態が良くて今でも使用出来そうな感じです。
大隣寺本堂の直ぐ横に二本松少年隊の墓所がありました。
鬱蒼とした木立に囲まれて二本松少年隊の墓石がひっそりと・・・。
中央の大きな石碑の両翼に二本松少年隊16名の墓石が隊列を組むように整然と並んでいます。
幕末・慶応4年(1868年)の戊辰戦争で幕府軍に味方した二本松藩の兵力不足の補充員として、12~17歳の62名の少年達が戦闘要所に配属されました。
戊辰戦争最大の激戦と云われた城下西口の要衝・大壇口での戦闘には隊長・木村銃太郎の指揮下に25名の少年兵が官軍と勇敢に戦いました。
二本松藩主が逃げ落ちたのも知らず、義に殉じて壮絶に闘い14名の少年兵士が斃れたのです。 二本松少年隊の惨事は有名な会津白虎隊自刃の約一ヶ月前の出来事でした。
中央の石碑には「戦死群霊」と刻まれています。
ここに葬られた16名の中の少年兵士は哀れを誘う13~17歳だったのです。
二本松少年隊墓所の前にある苔生した大筒砲が少年隊の苦闘を物語っているようでした。
その傍らには「仙台藩・会津藩 戊辰戦役供養塔」なども建てられています。
二本松少年隊墓所を懇ろに供養してから、本堂の裏山にある二本松歴代藩主霊廟を訪問。
裏山の中腹にある霊廟は苔で覆われながらも二本松藩の栄華を偲ばせていました。
ここは二本松藩の歴代の藩主・丹羽氏の霊廟。
かの丹羽長秀が織田・豊臣に仕え、長秀の子・丹羽長重は徳川時代の初期に二本松へ移封され以来、二本松十万石の丹羽家はこの後、230年余に亘ってこの地を治めました。
丹羽家は関が原で西軍として参戦したのにも係わらず、これ程長きに亘って移封・転封・改易に遭わなかった大名は稀有と云えましょう。
外様の雄・仙台伊達藩の抑えとして丹羽家は重用されたと思われます。
中央が初代・丹羽光重公、右は三代・長之公、左の四角い墓石は五代・高寛公。
墓石横の石灯籠に刻まれた丹羽家紋は×紋。違棒(ちがいぼう)、直違紋(すじちがいもん)と言います。 ×紋は大隣寺の寺紋でもあります。
歴代藩主の霊廟の下方には奥方や側室の墓所「内室陰墓」が荒れ果てて寂しそう・・・。
二本松少年隊の墓所や藩主・丹羽氏の霊廟をめぐってから大隣寺前の二本松少年隊会館で昼食。
庇の上に二本松少年隊の雄姿の人形が・・・。
二本松少年隊は死してなを看板として酷使されるのか・・哀れ!!
昼食にはラーメン! 福島県ですから蔵の町・喜多方らーめん(840円)を注文。
内容のわりにはお値段が・・・高いです。
次回は智恵子の生家の見学。
2008 10 14(火)記。 前橋市後
最高気温18℃
2008 09 20(土)
伊香保温泉の露天風呂を楽しみ、勝月堂の元祖「湯の花饅頭」を食べながら石段を上って伊香保神社へ・・・。
夕暮れ時の伊香保神社では氏子達が本神輿を社殿に仕舞い込む準備中。
前日の19日(金) この本神輿の渡御が伊香保温泉街で行われたそうです。
伊香保神社本殿脇にはいろいろな絵馬が掛っていました。
伊香保温泉は「子宝の湯」としても昔から有名ですね。
伊香保神社から急な石段を下りて伊香保温泉石段街へ・・・。
”伊香保まつり”は伊香保神社の秋の例大祭と伊香保で亡くなった文人・徳富蘆花の命日を合わせて毎年の9月18~20日に行われています。
石段を上ってくる湯治客は神社へお参りでしょうか? 街中では大勢の人達が集まって賑やかな様子。
石段街では既に伊香保まつりの樽神輿渡御が始まっていました。
少年達が担ぐ樽神輿(たるみこし)も足元不案内の石段街に繰り出します。
2008 09 20(土) 2008年 伊香保祭 1
けっこう危険な祭りですね。
若連と染め抜いたハッピを着た若衆が樽神輿の暴走を防いでいました。
伊香保温泉の有名な石階段での神輿祭ですから、かなりの危険性が伴います。
若い女性達も樽神輿を担いで“伊香保まつり”を盛り上げていました。
お祭り衣装でイナセなお姐さんも・・・。 若くて可愛いって最高~!
2008年 伊香保祭 2
“伊香保まつり”の樽神輿は威勢の良い掛け声を石段街に響かせていました。
押したり揉んだりしながら石段を少しづつ上って行きます。祭りの熱気は最高潮!
神輿通り道にある商店は店先を壊されないように板で囲って防御体制は完璧!
2008年 伊香保祭 3
夜の8時近くから雨が降り出し、次第に猛烈な篠つく雨となりました。
「雨でも槍でも降って来い」と叫びながら頑張っていますが・・・。
威勢の良い若衆達も豪雨には勝てません、びしょ濡れで流石にギブアップ!!
石段街の途中で手仕舞いの三々七拍子してから一斉避難で樽神輿渡御は中止となりました。
(例年、樽神輿渡御は6時30分から石段街で始まり、9時30分に伊香保神社へ着いて終了。)
傘を差していた筆者も駐車場までの500mで下半身ずぶ濡れ状態!
風邪を引かない様に急いで帰宅した“伊香保まつり”見物の半日でした。
2008 10 08(水)記。 前橋市 薄 最高気温23℃
2008 09 20(土)
水沢観音をお参りした後、車を走らせて天下の名湯・伊香保温泉へ・・・。
夕刻から始まる“伊香保祭り”まで少し時間が余ったので、伊香保温泉の露天風呂に浸かりに行きました。
まだ、夏の深緑を残す木々の間から朱色の欄干がひと際目立つ「河鹿橋」を渡ります。
下を流れる小川は伊香保温泉源泉からの湯で川底が茶褐色に染まっていました。
河鹿橋から100m程で伊香保を詠んだ「万葉歌碑」と“伊香保温泉飲泉所”。
観光客や宿泊客などが散歩がてらに立ち寄って飲んでいました。
源泉からの湯と清水が四六時中流れ出ています。
やはり、温泉の鉄分で茶褐色の湯垢が・・・。
飲泉所から坂道を上ること1分で“伊香保温泉露天風呂”に到着。
ここには伊香保町営の露天風呂と第2号源泉井戸があります。
町営露天風呂の敷地内には湯の湧き出す源泉井戸が有り、透明なドーム状の覆いが掛けられています。 今日は何故か湯の噴出量が少なかったようです。
源泉は透明の湯ですが、空気に触れると含まれている鉄分が酸化して茶褐色に変化するのです。
伊香保温泉源泉の周囲には「ラドン発見の碑」やドイツ人医師のベルツ博士の碑なども・・・。
医学者として日本に招聘され、東京医学校(東大医学部)の教授でもあったベルツ博士の温泉に関する研究は世界的にも知られています。
特に草津温泉、伊香保温泉、箱根温泉など薬効のある多くの名湯を世に広めました。 ベルツ博士の詳細。
伊香保温泉露天風呂には三々五々入湯客が・・・。
入口暖簾の右手で入湯料金450円を支払って入ります。
露天風呂の効能書きを良く読み、体を洗ってから入湯しましょう。
当日の露天風呂は超満員で撮影できません。 拝借画像ですが露天風呂はこのままです。(男湯)
源泉かけ流しで、左は熱め右は低温浴槽です。 女湯は竹垣の奥。昔は混浴だったのに~~残念!
露天風呂で10分間ほど温まってから伊香保温泉街の上にある伊香保神社へ・・・。
日も暮れた石段街を散策しながら伊香保神社の階段下に到着。
伊香保神社下の右奥に建つ“薬師堂”傍の「勝月堂」が伊香保温泉「湯の花饅頭」の元祖なのです。
勝月堂の初代店主・半田勝三氏が試行錯誤しなら明治43年に考案し、天覧御買上品にもなっています。
皆様も伊香保温泉に行かれたら、勝月堂で本当の「湯の花饅頭」を賞味しては如何でしょうか・・・。
因みに一個80円。6個箱入りは600円也。手作りですから一個ずつ形が異なります。
黒糖を使ったほど良い甘さの黒漉し餡が特徴の勝月堂「湯の花饅頭」。
饅頭の皮の色は伊香保温泉の湯の色に似せています。
露天風呂で温まり、勝月堂「湯の花まんじゅう」を食べて伊香保温泉縁の竹久夢二の美人画でも眺めていると、浮世を離れた湯煙り情緒が満喫できますよ・・・。
次回は伊香保祭りです。
2008 10 06(月)記。 前橋市 うす 最高気温23℃
世界最速の自転車。
世界新記録を打ち立てFINISHする自転車と内部構造。
カナダ人Sam Whittingham氏は9月15~20日に米国ネバダ州バトルマウンテン郊外のハイウエー305号線で開催された自転車競技会「World Human Power Speed Challenge」で「VARNA DIABLO Ⅲ」号に乗り、自己の持つ世界記録130.4Kmを更新し時速132.4Kmの世界記録を打ち立てた地上で最速のサイクリスト。
車体はカーボンで組み立て、前進5段の変速機を備えた流線型のカーボンファイバー製のリカンベント型自転車(寝そべった状態)。
9月18日(木)の天候は晴れ、無風、気温27℃。
305号線の平坦コースは8Km。 途中に200mの速度測定区間が設けられている。
Sam Whittingham's 2008 world record run
Sam Whittingham 2008 World's Fastest Bicycle 82.33 mph!
バランスを崩すと・・・!
High Speed Streamlined Bicycle Crash!
ご安心を・・・かすり傷一つ負わないで無事でした。
2008 09 20(土)
9月18~20日まで湯の町・伊香保温泉で“伊香保祭り”が開催されました。
伊香保祭り見物への途中、榛名山の秀峰・水沢岳中腹にある名刹・水沢観音に立ち寄ってみました。
水沢観音の門前には“日本三大うどん”(讃岐、稲庭、水沢)の一つといわれる“水沢うどん”のお店が水沢街道の両側に軒を並べています。
大沢屋・田丸屋・丹次亭・山本屋など・・・各店が元祖・本家と名乗っていますが、本当の老舗元祖は清水屋だとか。
でも、各店工夫を凝らして美味しい水沢うどんを提供していますね。
水沢うどん街の突き当たりが“水沢観音”で有名な水沢寺への階段です。
石段下の右手にはこんこんと清水が湧き落ちる手水舎。
急な石階段を上ると水沢寺の朱塗り山門(仁王門)。
山門の両側に怖い顔の仁王像が参詣者の素性を吟味しています。
山門上部に掲げられている扁額には「五徳山」、昭和51年に付け替えられた奉納額です。
山門の仁王像の裏側には風神・雷神像。
上州は空っ風とカミナリの産地ですから・・・。
山門の裏側から山門二階へ上れます。
山門二階の中央部には釈迦如来像を中心に左・普賢菩薩像、右・文殊菩薩像。
金色で大きくて立派な仏像でした。
山門から更に急勾配の石階段が水沢寺本堂へ続きます。
いつでも線香の煙りの絶える事ない本堂と六角二重塔。(撮影時刻午後4時過ぎ)
通称・水沢観音の正式名は天台宗五徳山水沢寺。
坂東33ヶ観音霊場の第16番札所。 推古・持統天皇の勅願による高麗の高僧・恵潅僧正の開基。寺の歴史は千三百年余を誇っています。
水沢寺は歴代天皇の勅願寺、徳川家の祈願所として昔から尊崇を集めています。
夕刻近くの水沢観音はさすがに人影も少なく・・・。
本堂の観世音と書かれた大提灯の上に極彩色透かし彫りは左甚五郎の作か・・??
五つ並んだ鉦と飛天女と昇龍の天井画が水沢寺の栄華を偲ばせます。
五徳山水沢寺の御本尊は伊香保姫の持仏・十一面千手観世音菩薩。
金ピカの本尊様のお顔は何となく東南アジアの仏様みたいです。
本堂の隅には朱塗りのビンズル尊者。このビンズル様は最近の流行でしょうか?あちこちの寺でお見かけします。
水沢寺の御本尊・十一面千手観音は霊験新たかで、特に「七難即滅 七福即生」のご利益があると云われています。
線香の煙る水沢寺本堂と六角二重塔。
大きく書かれた「六道輪廻」の額が掛った六角二重塔の中心には回転式の六地蔵尊が安置されています。
天明7年建築の六角堂二階部には大日如来坐像がおわすそうです。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界の六道を守る六地蔵尊を祀っています。
六角堂の横には、子年歳生まれの千手観世音から戌亥歳の阿弥陀如来までの十二支守り本尊石仏が並び霊場の趣が・・・。
本堂の回廊から見た六角二重塔と鐘楼。
鐘楼右下の赤鳥居が“龍王弁財天”の霊泉。
水沢寺本堂に掛けられた絵馬。 今年の干支の子(ね)が福袋を担ぐ招福絵馬です。
群馬県はダルマの産地。「七転び八起き」の開運絵馬など沢山のユニークな絵馬が・・・。
水沢観音の境内には清水が湧き出している所が沢山あります。
これは水沢観音の霊泉“龍王弁財天”の清水。
この清水は「財を成し、病を癒して天命を全うする」霊泉として、水沢寺の基泉水で親しまれています。
(霊泉にお参りの際は、第二次大戦中に食糧難のため、この周辺のカエルを食べ尽くした事から、カエル供養として手前のカエル石像に清水をかけて下さい。)
御利益がありそうな龍王弁才天霊水を飲んでから伊香保温泉祭へ出発!
水沢観音のHPはここクリック。
2008 10 03(金)記。 前橋市時々
最高気温22℃
コスモス咲き乱れる秋の季節、百恵ちゃんの名曲を・・・。
山口百恵~最後の生放送出演で「秋桜」を歌う