4月15日(日) 寄居北條まつりもいよいよ終盤戦の佳境を迎えました。
前回の荒川・玉淀河原右岸・豊臣陣営での戦いが終わり、次には豊臣勢の左岸への攻撃に舞台は移ります。
左岸の鉢形城下に陣を配置した北條軍へ豊臣軍の渡河・攻撃が開始されました。
迎え撃つ北條方は大筒に加えて、小型の手筒も発射!! (和製バズーカ砲)
銃器火器の効少なく豊臣軍の上陸を許してしまいました。
上陸後、しばし両軍の弓矢の応酬合戦が行われます。
弓矢では勝負の帰趨は決せず、豪傑者の武将同士の闘いか展開されました。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って眼にも見よ~~!! 我こそは北條家の家臣・○×之介なるぞ~~!」と互いに大声で名乗りを挙げます。
石だらけの河原で見事な立ち回り!! 格闘で豊臣の武将を打ち倒しました。
一騎打ちの決着がつくと同時に、豊臣軍は一斉攻撃に打って出ます。
玉淀河原で熾烈な乱戦模様が展開・・・。
崖上の鉢形城を死守する北條軍の防戦が効をあげ、豊臣軍を一度阻止し、上陸陣地まで押し戻しました。
玉淀河原では次なる武者の一騎打ちが・・・。
河原の上では決着が着かず、荒川の水上での闘いに移りました。
対岸からの大観客の声援に応えて、真に迫ったズブ濡れの死闘!!
別の武将の戦闘シーンも始まりました。
真迫の殺陣で攻撃陣豊臣軍の名だたる武将をことごとく討ち取り、北條武士の面目躍如!!
再度、豊臣軍と北條軍の集団戦で激烈な戦闘が開始されます。
真に迫った戦闘シーンの連続! とても演技とは思えません。
乱戦模様を呈した玉淀左岸では勝敗の決着がつきません。
北條・豊臣両軍は共に勝利を祝い勝鬨の声を高らかに挙げていました。
前田利家を総大将とする2万人の豊臣軍は一ヶ月近く経ても鉢形城を陥落出来ず、秀吉は更に浅野・木村・佐竹・宇都宮軍3万を鉢形城攻撃陣に増派しました。 (前田・上杉家を主力とする豊臣軍は鉢形城を奪っても、この地は徳川の領地になる事を知って、見せ掛けだけの手抜き攻撃だったとの説もあります。)
鉢形城に篭城する北條軍は3500人、攻める豊臣軍は増援部隊を加えての5万の軍勢。 六月十一日に豊臣勢の総攻撃が開始されます。
少数の北條軍は天然の要害鉢形城で必死に防戦しましたが、これ以上の城兵の犠牲を避けるため、北條氏邦(小田原城主・四代目北條氏政の弟 所領70万石を有し,文武に秀で名君の誉れ高い。)は出家し十三日に豊臣方と和睦開城、この日をもって壮絶な鉢形城攻防戦は終結となりました。
北條軍の和睦の証として北條氏邦嫡男・東国丸は人質として、北條軍将兵に見送られ北条家菩提寺・正龍寺の和尚に伴われ豊臣方へ出向きます。(史実では氏邦公正室・大福様も人質となる。)
東国丸公は無事荒川を渡って豊臣陣地に入り人質となって、寄居北條まつりの華麗な戦国合戦絵巻は終幕となりました。
上野国(群馬県)沼田の名胡桃城事件に端を発した北條征伐の鉢形城攻略は天正18年(1590年)5月13日に開始され、6月13日まで激しい攻防戦が続きました。
出家し豊臣軍に投降した北條氏邦公は前田家お預かりとなり、9名の家臣と共に金沢で前田家客分として厚い待遇を受け生涯をまっとうしたとの事。
群馬県北部の沼田・月夜野地区の小さな名胡桃城の事件から大軍が動き、小田原評定の諺を残した名家北条家の滅亡(五代・氏直)をもって豊臣の天下統一達成、長く続いた戦国時代の終焉を迎えます。 まことに歴史の妙と言えるのではないでしょうか・・・。
寄居北條まつりで筆者に甲冑を貸して足軽写真兵に取立てて頂いた、三鱗会の皆様と、特にお世話になった方々に本当に感謝いたします。
三鱗会のこれからのご活躍とご健勝を祈念申し上げます。 (凛々しい美女戦士と筆者。)
北條まつりの合戦の動画はここをクリック、カメラ撮影中の筆者も写っています。
2007 04 28(土)記。 前橋市 のち 最高気温22℃。
4月15日(日) “寄居北條まつり”の鉢形城攻防戦が開始された。
寄居町の南部を流れる清流・荒川を挟んで、右岸に寄せ手の豊臣軍、左岸の鉢形城直下の河原には北條軍が布陣し対峙、戦いの期が熟すのを今か今かと待っていす。
北條家・寄居鉢形城の戦さとは、上野国(こうずけのくに・群馬県)北部の沼田地方で真田家と北條家が沼田城と名胡桃城(なぐるみ)の領有をめぐって揉めていたのを、豊臣秀吉の調停で沼田城は北條領、名胡桃城は真田領に分割しました。
ところが、北條支城・沼田城の鼻先にある真田・名胡桃城は喉に刺さったトゲで、沼田城代・猪俣邦憲が策略をめぐらし名胡桃城代・鈴木主水以下の城兵を城外へおびき出し、その隙を衝いて名胡桃城を奪取してしまいました。名胡桃城を盗られ鈴木主水も割腹自刃し、天下に恥を晒した真田家が秀吉に北條家の非道を直訴した事が小田原城・鉢形城攻防戦に至る原因となりました。(天正17年 名胡桃城事件 名胡桃城由来の「裸奇祭・ヤッサ祭り」)
その事件以前から秀吉は北條家に人質を出すよう要求していましたが、北條家は言を左右にして人質を出す気配は無く、心良く思っていなかった秀吉は諸大名関の争いを禁じた「惣無事令」違反と裁定し、名胡桃城事件を切っ掛けに北條征伐の軍を起こし、小田原・北條氏政攻略(小田原征伐)の豊臣本軍とは別に前田利家を総大将とした前田・上杉・真田の別働隊(2万人)を上野国へ派遣しました。
天正18年(1590)豊臣軍は北條軍の守る沼田城・名胡桃城を攻略し、名胡桃城と沼田城を真田昌幸に与え、更に余勢を駆って北條氏邦が居城とする寄居・鉢形城攻略の軍を荒川に進め、鉢形城眼下の玉淀河原で北條軍と死闘を繰り広げる事となりました。
寄居北條まつりの合戦模様は最初に豊臣・北條両軍からの大筒の撃ち合いで開始されました。
広い玉淀河原の川面に大筒の轟音がひびき渡ります。
豊臣攻撃軍は6門、対する北條軍は3門の大筒で間断なく炸裂爆音が続きました。
両軍の大筒の撃ち合いの最中、北條軍から豊臣軍陣地へ決死の切り込み戦隊が無事に渡河上陸し奇襲!!
北條軍渡河隊と豊臣軍との間で激しい戦闘が展開されました。
上陸してしばし優勢に闘った北條隊も多勢に無勢!
あまつさえ、外人参加の国際隊も奮戦!!
戦闘の推移と共に次第に北條軍の敗色濃くなってゆきます。
玉淀河原の各所では武将同士の一騎打ちが・・・。
武器を捨て素手での格闘が行われて見物客の大声援を受けていました。
豊臣方・前田軍の腰元部隊のお姉様たちの見守る中、太刀での死闘が繰り広げられました。
北條攻撃隊の主将も壮絶な討ち死を遂げ、荒川右岸での北條軍・豊臣軍の華々しい戦闘は終結しました。
次回は、左岸・鉢形城崖下での豊臣軍の攻撃模様です。
2007 04 26(木)記。 前橋市 最高気温23℃
4月15日(日) “寄居北條まつり”の鉢形城から市街地への武者行列もつつが無く終了。 武者行列の面々は合戦場となる荒川の河川敷に続々と集結です。
寄居・鉢形城を対岸に望む清流・荒川の河原は美しい景勝地として、昔から文人達に愛でられた処で「玉淀河原」とも呼ばれています。
その玉淀を舞台として“寄居北條まつり”の鉢形城攻防戦が展開されます。
左岸の陣幕は北條陣地、右岸は寄せ手の豊臣陣地。(左岸の上部が鉢形城跡になります。)
寄居北條まつりの武者達が豊臣陣地に集結中。
北條軍も豊臣軍も威儀を正してご入城!
武者行列の最終地点の玉淀河原には右岸に6門左岸に3門の大筒が配備され、戦いの火蓋が切られるのを今や遅しと待ち構え・・・。
合戦の始まる前に大筒の横でアイドル撮影会でしょうか?
和風顔の美人くの一忍者がポーズをとって・・・。 こんな可愛いくの一が筆者の寝所に忍び込んでくれたらなァ~~。
豊臣方の総大将・前田利家軍も遠路はるばる到着しました。
右端2名の腰元衆は足軽姿になってお家の為に戦います。
玉淀河原から北條軍は渡し舟で鉢形城直下の左岸河原に渡河作戦中。
筆者も北條軍の御味方に馳せ参じ、船に乗船して左岸に・・・。
北條軍最強の寄居十六騎は早々に布陣していました。
鉢形城主・北條氏邦公はどっしりと構え、鉢形城防衛作戦を熟考中?
右岸、豊臣軍も大勢の将兵を出陣させ、合戦の準備万端整い、いざ出陣!!
左岸、北條部隊の大筒も右岸豊臣軍に砲弾を浴びせるべく戦闘の開始を待ち構えています。
次回は、寄せ手・右岸の豊臣陣地での合戦模様です。
2007 04 24(火)記。 前橋市 最高気温15℃
4月15日(日) 埼玉県北部・寄居町の“寄居 北條まつり”を見物。
寄居町には東武電鉄・秩父鉄道とJR八高線が通っているが、特に名所・名物がある訳でなく、比較的地味な地方の町がこの日ばかりは“北條まつり”で大賑わいです。
全国から合戦ファンの方々が続々と集結して寄居町は物々しい雰囲気に包まれていました。
寄居町の“北條まつり”は市内の外れを流れる荒川岸の断崖上にある鉢形城を豊臣軍が攻撃した時の北條軍との攻防合戦を再現する祭りなのです。(鉢形城は日本名城百選の一つ。)
北條まつり出陣式は12時30分に鉢形城で快晴の中、威風堂々と行われ、参加者の勝鬨の声が城跡に木霊していました。
出陣式のあとは鉢形城⇒寄居駅⇒荒川河原への武者行列となります。
先頭は北條武士団で後に豊臣の人質になる東国丸もよちよちと歩を進めていました。
様々な企業やグループの軍団が次々と鉢形城から下って来ます。
〒マークの幟旗はお馴染みの郵便局隊。
寄居町いずみ保育園隊もちびっこ忍者の出で立ちで、日頃鍛えた忍びの術をご披露すべく馳せ参じました。
元気良くメッポウ明るい乙姫様は三名で飾り車に乗って御出陣。
お隣の群馬県箕郷町からは山伏を先頭にした箕輪城隊も駆けつけました。(箕輪城も日本百名城の一城)
外人さん達が結成した国際隊も緋縅の甲冑で行進。これぞ外人部隊のハシリって事でしょうか?
武者行列は清流の荒川を渡って寄居町の市街地へ入城しました。
鉢形城攻防戦では嚇々たる武勲を立てた十六騎軍団の雄姿です。
先頭の武将は寄居町長が演じる鉢形城主の北條氏邦公。
本家・小田原北條家からは小田原城馬廻衆の武士団が北條家の三鱗の旗を高く掲げてて堂々の行進です。
寄せ手豊臣軍の三河・本多家武将とハィチーズ! 戦の無い平和って最高ですね。
小田原提灯踊り保存会の踊り手を従えた山車と共に、鉢形城攻防戦後の和議調停役の寄居北條家菩提寺・正龍寺の住職役も・・・。
小田原提灯ぶら下げて~、の音頭に合わせて小田原ちょうちん踊りの御婦人連です。
25℃の炎天下での武者行列で一番威勢の良かったのは小田原ちょうちん隊の面々?ですね。 本当にお疲れ様でした。
筆者もひょんな事から縁あって飛び入りで武者(足軽)の姿に変身!
(ローマの真実の口?)
日頃から嘘を云わない正直者ですから運の良いことに親切な人に出会いました。
三鱗会の衣装をお借りして足軽カメラマンに取り立てられ、この足軽衣装のお陰で見物客の入れない場所でも撮影出来ました。
寄居・東京三鱗会の皆様には感謝、感謝です。
次回は鉢形城攻防戦です、乞ご期待!
2007 04 22(日)記。 前橋市 最高気温25℃ 熱い夏日です。
4月7日(土) 甘楽町・小幡郷の織田家七代の墓のお参りを済ませた後、道路を更に上方に歩きました。
目的の場所は、「宝を積む寺」と云う縁起の良い名前の寺、“宝積寺”(ほうしゃくじ)です。
ムフフのお宝映像が沢山奉納されているお寺なんて考えてると罰があたりますからね。(宝は心に積むと云う意味の寺です。)
この宝積寺の境内に大きな枝垂れ桜が花開していると聞きました。
織田家の墓から宝積寺までは距離にして2kmの散歩。
道路上には最近建てたらしい立派な寺石標が立っていました。
頭に曹洞宗と刻んでありますから、禅寺なのでしょう。
宝積寺への路上には六地蔵と「お化け灯篭」が・・・。
夜中に常夜灯のこの灯篭を見た人がお化けが出たと腰を抜かしたことから、「お化け灯篭」と呼ばれるようになったとさ。
たしかに一風変わった形の灯篭ですが、地震の時はお化け灯篭が倒れて死神に化けるかも・・・。
宝積寺に近くなると、車で来た観光参詣客がゾロゾロと・・・。
織田家墓から徒歩30分でやっと到着、歩いて来た人は他には誰もいません。
でも、車の通行の少ない田舎道を草花を見ながら歩くのもまた一興です。
参詣料200円支払って宝積寺の境内へ入りました。
境内で最初に出会うのが、「身代り地蔵」です。
昔から「身代り地蔵」を削って飲むとお腹の病に効くと云われ、腰から上が削られてボロボロになっていました。
「身代り地蔵」に諸々の災厄の身代りをお願いして境内を進むと、目的の枝垂れ桜が右手に現れてきました。
枝垂れ桜は開花は8分程でしたが、見事な桜花!(曇天で画像の発色悪し)
(樹齢約140年、樹高14m、 エドヒガンザクラ種)
枝垂れ桜の正面には「菊女観世音菩薩」という大きな石像が立っています。
高さ6mの新しい観音様で、子宝・安産を初め商売繁盛・無病息災などに霊験があるそうです。 行けない方は下の菊女観音画像に「南無菊女観世音菩薩」と3回お昌え下さい、きっと霊験新たかになることと思います。
この観音には「菊女伝説」と云う悲しい逸話があり、「怪談・番町皿屋敷」のお菊噺の原形とか・・・。(菊女伝説はページ下の宝積寺HPをクリック。)
大枝垂れ桜の裏には“なでほてい”と言う布袋様の石像がありました。
参拝者が頭を撫でながら願うと何時の日か願いを叶えてくれるそうです。
この布袋様も最近作ったように見受けました。
参拝順路に従って進みますと、宝積寺本堂の横裏に“天狗の腹切り石”が見られます。
上部が平らな大きな岩です。直径が2.5m位でしょうか。
昔し、永禄3年(1563年)の宝積寺合戦で身の丈2mの寺僧・巌空坊覚禅が敵兵と戦い、最後にこの石の上で切腹して果てたので名付けられたそうです。
本来はこの石の上で僧侶が座禅をした、宝積寺の修行の中心石です。
更に進むと、“菊女と母親の墓”なるものがありました。
悲劇の主人公菊女とその母の墓石塔です。(右が菊女の墓)
小さなものですが、相当に古びていますので真実味もありそうです。
菊女の墓の後ろには、“国峰城主・小幡氏歴代の墓”が並んでいました。
8基の小幡家の墓ですが、小幡郷の名由来の藩主の墓としては悲しいほどの小ささです。
墓地の近くには若木の枝垂れ八重桜が鮮やかに咲いていました。
曹洞宗・鷲翎山宝積寺(じゅれいざんほうしゃくじ)には見所が随所に大盛り・特盛りです。
西上州の片田舎の寺が観光で必死に寺興しを図っている健気さを感じました。
企業家精神が旺盛な寺ですから、今後益々発展することと思います。
なお、信長子孫の織田家は三代まで宝積寺を菩提寺としていた名刹との事です。
“宝積寺のホームページ”には逸話が懇切丁寧に掲載されています。
菊女伝説・天狗腹切り石・身代り地蔵など読んで、ぜひ訪ねては如何でしょうか・・・。
宝積寺からの帰り道、小幡桜並木を流れる雄川堰に至る上流の雄川用水添いの遊歩道を散策。
直角に横ぎる川の上を跨ぐ水道橋に出合いました。 名前は“吹上の石樋”(ふきあげのいしとい)と言います。
長さ6mの一枚岩を3枚組み合わせて川の上を通す水道橋です。
慶応元年(1865年)に七ヶ月と250人の労力で完成したそうです。
現在も立派に現役で街中の雄川堰に綺麗な用水を送っていました。
雄川用水添いには菜の花やダイコンバナが満開で、春の訪れを実感できる旅となりました。
読者も西群馬の歴史地区・甘楽町を散策されては如何でしょうか、きっと新たな発見に出会うことでしょう・・・。
2007 04 18(水)記。 前橋市 のち 最高気温10℃ 真冬並みの寒気。
4月18日 発明の日 よい歯の日 よい刃の日
ヴァージニア工大での射殺魔韓国人チョ・スンヒと間違えられ一時容疑者扱いになった、銃器マニアの中国人・江さん
。
4月7日(土) 甘楽町・小幡郷の古い家並み沿いの桜並木と武家屋敷見物の後、道路を500mほど上に行った処にある織田家七代の墓を訪ねることにしました。
道路沿いの民家の壁には次の日曜日(4/15)に催される「城下町小幡 武者行列」のポスターも・・・。
名庭園「楽山園」横の弓道場では女性が健気に弓を引き絞っていました。
ここ甘楽町も“群馬”でしたね、「カカァ天下と空っ風」の気風ですか・・・。 (群馬の女性に失礼しました! ホントは働き者で優しいんです。)
7分程ぶらぶら歩くと路上に「織田宗家七代の墓」の標識板が出ていました。
そこを左に入って短い階段を上ると立派な二股枝の松が見えてきました。
二股松の後ろに織田家の霊を供養する、織田家菩提寺の臨済宗・小幡山崇福禅寺が建っています。
(上画像の中央は本堂、左隅には織田家十代の位牌を安置する位牌堂です。)
近年に建てられた位牌堂の奥に、小幡藩主であった織田家ゆかりの織田家十代の位牌が安置されています。
小幡藩初代藩主の織田信雄(おだのぶかつ)から十代目の織田信美(のぶかず)までの位牌が整然として安置。
位牌は古色蒼然として遥かな歴史を忍ばせていました。
織田家十代の位牌を収めた位牌堂の左上が目指す“織田宗家七代の墓”。
まずは小幡藩初代藩主・織田信雄の墓に参詣。(下左)
七代の七基の中でもひと際大きな墓で目立っていました。
上右画像の手前の墓は二代藩主・織田信良(のぶよし)、三代・信昌、信久、信就、信右、七代・信富と続いています。
織田家七代の墓の後ろ側にはそれぞれの正室の墓が夫を見守るように立っている姿が印象的でした、
満開に咲いている桜花の下で眠っている織田家の霊もさぞ安らかなことでしょう。
なぜ群馬の片田舎の甘楽町・小幡郷にあの織田家の子孫が??・・・って。
豊臣家を滅ぼし、天下を取った徳川家康は出来ることなら自分より上になる者は排除・滅亡しようと考えたが、織田家は徳川の主筋にあたり、世間の体面上滅ぼす訳にいかず、八代の信邦が出羽高畠藩に移封されるまで152年間に亘り、ここ西上州の小幡郷に二万石を与え幽閉同然に隔離したとのことです。
因みに、初代信雄は織田信長の次男で元和元年(1615年)に小幡藩主に任命され、73歳まで存命・・・当時とすると驚異的な長寿者でした。
西上州の歴史散策の旅など如何でしょうか? 春うららの日差しを浴びながら・・・。
2007 04 14(土)記。 前橋市 最高気温25℃。 風強し。
4月14日 タイタニック号の日(1912年4月14日沈没。)
タイタニックでの悲劇・・・!?
4月7日(土) 甘楽町・小幡郷の桜が満開との情報。
早速をカッ飛ばして甘楽町小幡へ・・・。
甘楽町・小幡郷は古い街並みと武家屋敷と織田信長子孫の織田家七代の墓がある処として名高い地区です。
雄川上流から約4kmほど引いてきた雄川堰(おがわぜき)のせせらぎが街の中心を流れています。(雄川堰は環境庁の「名水百選」の一つに選ばれています。昔はこの雄川堰の水を生活用水として利用していました。)
清流の雄川堰に沿って江戸時代から続く家並みの横に桜並木が続いていました。
商家の古い看板には「腹調丸」と書いてありましたが、正露丸の元祖でしょうか?
小幡郷の桜並木は350m程の長さですから、ちょうどGLOFのミドルホールの距離と同じですね。 桜並木の下は遊歩道で花見の客と露店でにぎわっていました。
晴天の桜花の下をノンビリとお散歩タイム、体も心もウキウキと晴れやかな気分です。
桜並木の中ほどには薄暗い小幡八幡神社が小山の中腹にひっそりと建っていました。
甘楽町小幡の桜並木は約60本ありますが、戦後すぐに植えられたそうです。
今では大木になって町の名物の一つで、町興しの大役の一つを担っております。
桜並木のお花見散歩の後は、武家屋敷めぐりに向かいました。
春うららの中を歩いていると、町の角々に春の草花がいっぱい咲いていました。
この鮮やかな薄紫色の花はヤシオツツジでしょうか?
数軒ある武家屋敷の一つ「松浦家」です。
約300年ほど前、藩主が織田家の時代に建てた書院造りの家。
本来の屋根は茅葺きだったと思われますが、ご覧の通り銅板葺きになっていました。 金属泥棒の餌食にならないようにご注意を・・・。
下の画像は「喰い違い郭」と呼ばれています。
戦闘の防備の為と、下級武士が上級武士と直接出合わないように隠れ場を作った江戸時代の石垣塀です。 (いつの世も下っ端はツライものですね。)
陽光をたっぷり浴びて草花も我が世の春と満開状態!
見ているだけで気持ちまでウキウキしてきます。 なんたって春が一番!!
武家屋敷塀でスレンダーな美女発見! やっぱ花より団子、団子より美人ですね。
武家屋敷めぐりの後は、直ぐ近くにある江戸時代の名庭園を復元した「楽山園」へ・・・。
池を中心に築山と茶屋を巧みに配した設計の純和風庭園。
もう少しで完成と思いますが、時を経ると共に樹木も育ち、庭園に風格の趣を添えることでしょう。
楽山園の見物でちょうど正午に。 楽山園入口前にある、蔵を改造してうどん屋にした「蔵楽屋」(くらや)で手打ちうどんを食しました。
「蔵楽屋」のうどんは見た目も風味も手打ちそのものです。本当の手打ちうどんで、ダシ汁も天然材料だけを使って美味しいのですが、醤油過多で塩っぱさが勝ち過ぎていました。もう少し塩分控えめだと良かったですが・・・。 (田舎料理は塩っぱいのが特徴でしたね? 余計なお世話でした・・。)
次回は、織田家歴代の墓の予定。
2007 04 12(木)記。 前橋市 最高気温19℃
4月12日 パンの日 世界宇宙飛行の日(ソ連 ガガーリン宇宙飛行。)
4月4日(水) 北本市石戸宿の「石戸蒲さくら」の見物後、市内の桜名所を訪ねました。
途中で出合った見事な樹花です。
紅白入り混じった八重の枝垂れ桜でしょうか? 梅か桃かな・・・?
北本市高尾のさくら公園へ向かいました。
春ですね~。 野原や畑には様々な草花が顔を覗かせていました。
色鮮やかなタンポポと土筆です。 ツクシは食べても美味ですよ。
テレビ東京でしょうか? 高尾さくら公園でTV番組の収録をしてました。
タレントは山田花子とガレッジセール。
ハッピには「拝借御免」と書いてありましたから、付近の農家に行って何か借りてくる番組と思います。 旧モー娘・Wユーの辻 希美も参加していましたよ。
辻 希美はスタッフのガードが完璧で撮れませんでした。
「高尾さくら公園」でタレントと桜花を楽しんだ後、直ぐ横の“高尾・阿弥陀堂”のエドヒガンザクラの大木を見物。
阿弥陀堂のエドヒガンザクラは樹齢約200年との話です。
確かに大木です、高さ15m程でしょうか?
惜しいことに花の盛りは過ぎて、葉桜になりかけていました。
阿弥陀堂からで次なる桜名所「城ヶ谷堤」へ移動です。
城ヶ谷堤の桜は堤防上の道路を挟んで二列に植えられていました。
華やかなサクラのトンネルです。 仄かにサクラ香の匂いも・・・。
城ヶ谷堤は江戸時代に荒川の氾濫から田畑を守るために築かれた堤防です。
桜は敗戦後、堤に植えられたそうですが、約60本あるソメイヨシノ桜は全て巨木の趣きがあります。
平日にも拘らず露店も沢山出ていました。
4月4日は晴れたと思ったら氷雨が降ったりの目まぐるしい天気でした。(東京は季節はずれの小雪とか。) 城ヶ谷堤の花見時間は曇天でした。
北本市のパンフにお隣の桶川市の枝垂れ桜が載っていましたので、枝垂れ桜見物へ・・・。
見に行った所は桶川市川田谷。源範頼公由来の諏訪山普門寺です。
見事な枝垂れ桜(エドヒガンザクラの変種でイトザクラ)が、さながら悲劇の武将・源範頼公の鎮魂のために花を咲かせて屹立している様に思えました。
普門寺は平安時代・天長年間に慈覚大師の開山と伝えられ、江戸時代には寺領3万石の朱印地を与えられ栄えましたが、現在では廃寺になり堂宇は全く有りません。
江戸時代の普門寺は源範頼公(前回の石戸蒲桜の項を参照)のドクロ(頭骨)を寺宝としていた天台宗の寺院です。
この枝垂れ桜は樹高12m、樹齢190年余と云われています。
花の美しい季節です、読者の皆様も花見物に北本・桶川へどうぞ・・・。
2007 04 10(火)記。 前橋市 最高気温19℃。
4月10日 女性の日 駅弁の日 ヨットの日 四万十の日(四国四万十川)
3月4日(水) 埼玉県北本市に有名なサクラの名木を発見。
早速高速道を走って北本市へ・・・。
桜の名木がある場所は北本市石戸宿3丁目。
朝から変な天気ですが、午前中はなんとか持ちそうな感じでした。
桜の花には碧い晴天が一番良く似合います。
晴れたり曇ったりの空を心配しながら北本市の石戸宿へ・・。
目指す桜木は石戸宿3丁目の時宗・西亀山東光寺の境内です。
北本市石戸宿の桜木は日本五大桜の一つに数えられ、石戸蒲桜(いしとかばざくら)と名付けられています。
(日本五大桜 福島県三春の瀧桜、山梨県山高の神代桜、岐阜県根尾谷の淡墨桜、静岡県狩宿の下馬桜、埼玉県北本市の石戸蒲桜。)
小高い斜面の東光寺は桜花に囲まれて春の日差しを浴びて華やかな雰囲気!
(上画像の右の樹が石戸蒲桜。)
門前には北本市の観光案内所が出ていました。(近くに無料駐車場あり。)
平日の午前中なので観光客は少なく桜見物には最高!!
東光寺への正面階段脇のサクラ木が有名な石戸蒲桜かと間違うほどの立派な古木です。
十数段の石段を上がると東光寺の右側に蒲桜がドカ~ンと・・・。
巨木の桜ですね、なんでも800年余の樹齢を誇っているそうです。
もちろん、国指定天然記念物(大正11年指定。)
見事としか言いようがないほどの巨木です。
「石戸の蒲桜」の石戸はここ石戸宿の地名から名付けられたのですが、蒲ってまさかウナギの蒲焼に由来でも・・・?
北本市のパンフの説明では、源頼朝の弟、義経の兄で源範頼(のりより)公のあだ名が蒲冠者(かばのかじゃ)と云い、源平合戦で大活躍したので猜疑心強い兄頼朝の嫉妬を買ったそうです。
頼朝によって謀反の罪をでっち上げられて1194年に伊豆の修善寺に幽閉・死去しましたが、ここ石戸宿では逃れてこの地へ隠れ住んだと云う伝説があります。 逃れて来た際についてきた杖から根付いたので、蒲冠者の桜で蒲桜と呼ばれるようになりました。(義経殺しと同じ、「男の嫉妬ほど恐ろしいものはない」の見本ですね。)
可愛そうな伝説とは裏腹に蒲サクラは優雅に咲いて、時おりヒラヒラと花弁を舞わしていました。
蒲ザクラの根元には源範頼の墓石と伝えられる石塔と供養する板塔婆などが・・・。
蒲桜の太い先端の枝木(幹かも?)は切られて痛々しい姿でした。
昨年までは枝に桜花を咲かせていたのでしょう。
樹齢800年余ですから、幹にも大きな穴が開いて、向こうのサクラ花が見えていました。
老木でも健気に可憐な花を咲かせていましたよ。
石戸蒲桜は江戸時代にも有名で、文人墨客たちが訪れていたそうです。
裏横からの蒲サクラです。(逆光です。悪しからず。)
隣の畑では春の野菜も色づいていました。
石戸蒲桜の樹種は和名「カバザクラ」という世界でもこれ一本の品種です。
この桜木が枯れたらカバザクラは絶滅してしまいます。(見物はお早めに!)
ヤマザクラとエドヒガンザクラとの自然雑種との説明でした。
蒲桜の東光寺門前にはお堂に入った六地蔵さんか微笑んで・・・。
関東埼玉の田舎にも意外な名所があるものです。
皆様も春の日にのんびりと訪ねてみては如何でしょうか・・・。
2007 04 06(金)記。 前橋市 最高気温14℃
4月6日 城の日 白の日 新聞をヨム日 北極の日(1909年 北極点到達)
3月24日(土) 古河市総合公園古河桃まつり会場での熱気球フライト体験を無事終了した後、次なる観光名所を訪ねてGO!
古河市総合公園の中にも幾つかの見所があると云う。
桃の花を観ながら歩いていたら、野点の茶席が・・・。 (野点の一服は500円。)
茶席の周りにはカメラ小僧とジジ・ババが・・、何かと覗いてみたらピンクの和服を着た“桃むすめ”が休憩中です。
可愛い桃むすめが撮れるって、これ幸いとカメラ小僧の仲間入り。
ポーズを決めてハイ・チーズ!
大勢のカメラ撮影で野点のお茶は飲めなかったけど、神様は微笑んでくれました。
直ぐ近くに甘茶の無料サービスがありました。
4月8日のお釈迦様の誕生日を少し早めに祝って甘茶サービスです。
本当にお釈迦様ってアリガタヤ、有難や・・ですね。
お釈迦様の甘茶で一息ついてから近くの“古河公方・足利義氏墓所”を見学。
古河公方の墓はひっそりとした佇まいかと思いきや、周りを華やかな桃花で囲まれた一角にありました。
古河公方は鎌倉時代から続く家柄、鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が1445年古河に移り、それから五代にわたり約130年間、北関東に一大勢力を築いた名家です。
古河に居を構えたことから「古河公方」と呼ばれました。
正面の大きな石碑が足利義氏の墓と思ったら、なんと右奥の木の根元が墓所との事。墓石もなにもありません。(正面の石碑は後世に建てた足利義氏公墳墓標石です。)
見に来た人は全員戸惑って標石を拝んでいましたっけ・・。
古河市総合公園南側の小高い場所に行くと、なにやら古い農家が二棟が・・。
一つの農家は“中山家住宅”で1674年(延宝2年)に建築されたそうです。
江戸時代初期に建てられ、間口9間半、奥行き5間半の直屋(すぐや)と呼ばれる大きな農家です。
屋根を支える梁や桁には木材の自然な湾曲を利用していました。
中山家住宅は茨城県の有形文化財に指定されています。
中山家住宅の隣には“飛田家住宅”が建っています。
飛田家住宅は1700年代中期の建築で、L字形の大きな曲り屋です。
曲り屋の隅には馬小屋(うまや)があり、人と馬とが同じ建物で暮らした様子が判ります。
“飛田家住宅”は昭43年国の重要文化財に指定されていました。
上記二棟の古農家はいずれも昭和の戦後に当地へ移築された。
この二棟の古農家の建っている小高い台地が古河公方の館があった跡で、中山家住宅の前に「史跡・古河公方館跡」の石碑が建っています。
桃まつり開催中の古河市総合公園を後にして、古河市内に向かいました。
先ず目指したのは、徳川幕府初期に大老を拝命した“土井利勝”の墓所。
お寺の名前は“利勝山正定寺”(しょうじょうじ)と云う土井利勝が建立した古刹です。(土井家菩提寺)
正面の山門ではなく、横の“黒門”から見学しました。
この黒門は土井家江戸屋敷の表門でしたが、昭和8年に正定寺へ移築したそうで、お陰で戦災にも遭わなく威風堂々とした門です。 (黒門の形式は医薬門です。)
正定寺本堂前には土井利勝公の銅像。
境内には土井利勝墓所の案内標識はありません。
本堂裏手の墓地の一番奥の隅に土井利勝公の墓がひっそりと・・・。
(土井家の墓所は浅草の誓願寺でしたが、昭和2年に正定寺に改葬されました。)
土井利勝は家康の隠し子と言われ、老中・大老となり幕政の中枢で活躍しました。
訪ねた墓所は古河藩16万石の藩主の墓としては少し寂しい風情でした。
次に訪ねた処は「日本三大長谷観音」の一つがある明観山長谷寺。
立派な観世音菩薩は古河長谷観音と呼ばれ霊験あらたかなことで知られている。
古河長谷観音は古河公方・足利成氏が1500年頃(明応年間)に寄進した、木造十一面観世音菩薩。
長谷寺が古河城の鬼門にあたることから、古河城の鬼門仏として歴代藩主の祈願所でもあった。
(日本三大長谷観音は奈良と鎌倉と古河の長谷観音のこと。楠木の一木彫刻造り。)
古河長谷観音をお参りしてから、150m程歩いた場所にある“鷹見泉石記念館”(鷹見泉石屋敷)へ。
鷹見泉石(たかみせんせき)は古河藩の家老となり、江戸幕府の老中であった藩主 土井利厚・利位(としつら)の補佐役として名高い。
泉石屋敷の玄関には雛祭り人形が飾られて古色の建物にも華やかさが・・。
鷹見泉石の資料は鷹見泉石記念館の前にある古河歴史資料館に展示されています。
古河歴史資料館に入館して最初に眼を引くのが「鷹見泉石」の掛け軸。
江戸期の文人・画家・学者で有名な渡辺崋山が描いた名品で国指定重要文化財です。
鷹見泉石は洋学に秀でて、当時のオランダ地図を製作したり、西洋文物の勉学で崋山など蘭学者たちと交流していました。
オランダ商館長・ブロンホフから「ヤン・ヘンドリック・ダッペル」というオランダ名を貰うほどの西洋通でした。
また政治行政でも辣腕を奮い、土井利位(としつら)が大阪城代の天保8年、大阪で起きた“大塩平八郎の乱”でも鷹見が指揮を執り見事鎮圧に成功した功労者です。
土井利位は古河藩主として、大阪城代や京都所司代、更に主席老中の要職を歴任。また顕微鏡を用いて日本初の雪結晶観察図鑑「雪華図説」を著わした雪の殿様として高名。
「雪華図説」の雪結晶を模様化した着物や日用品などが江戸で大流行しました。(雪華模様訪問着)
最後に訪ねたのは永井路子の旧宅。
建物は江戸末期の葉茶商家のおもむきを残しています。(葉茶の他、陶磁器や質屋も営業していた、当時では大金持ちの家と思われる。)
内部にはお雛様を飾った帳場も残っていました。
永井路子女史は芥川賞・直木賞・菊池寛賞・吉川英治文学賞等々の文学賞を総取りした日本を代表する女流文学者です。
土井家黒門の正定寺から長谷寺・鷹見泉石・古河歴史資料館・永井路子旧宅までは狭い地区内にあります。 徒歩で気楽に観光出来ますので読者の皆さんも一度古河市へ遊びに行かれて古河の歴史・風物に触れては如何でしょうか・・・。
2007 04 03(火)記。 前橋市 時々 最高気温13℃。 花冷え。
4月3日 悪天の特異日 清水寺の日 インゲン豆の日(隠元禅師忌日)