トシの読書日記

読書備忘録

フェアプレーに徹する

2010-04-18 15:23:59 | や行の作家
山口瞳「男性自身~冬の公園」読了



なにかの折々にふと山口瞳を思い出して読んでみると、心の中にわだかまっていた鬱屈としたものがきれいに一掃される感じがして、すがすがしい朝を迎えたような思いになります。本書はもちろん再読ですが、やっぱり山口瞳、いいですねぇ。


冒頭の「ザボン」というエッセイ。プロ野球の練習風景を見るという仕事があって筆者は熊本の島原へ船で渡る。そこの旅館で二泊して帰る段になり、港へ行くんですが、野球チームの広報の田村さん、旅館の主人、仲居さんが見送りに来る。ここからは本文の引用です。

「小さな港。小さな船。船長と船客。岸壁。出港を告げるアナウンス。浅いつきあい。別れ。五色のテープ。こりゃあやっぱり相当におかしい情景であるといってよい。笑うより仕方がない。(中略)船室は椅子の部屋と日本間とになっている。(中略)船員がお茶とスポーツ紙を持ってきて、すぐに出ていった。私は一人になってレインコートを着たまま畳のうえに寝ころんだ。
 思いがけないことが起った。私の目から涙があふれてきたのである。それをどう説明してよいかわからない。なんだい、こりゃ『伊豆の踊り子』じゃないか。おかしいね、俺は37歳じゃないか、いやになるね。それともなんでもないことに泣けるのはいいことなのか。そんなことはあるまい。悲しいね、泣くなんて。バカバカしいよ。私は鎮静剤をのみスポーツ紙を頭にかぶってすこしねむった。」


これです。これが山口瞳なんですね。この心情、ものすごくよくわかります。こういったシーンが自分の琴線にビンビン触れるんですねぇ。


こういった部分を挙げるとキリがないんでこのひとつにとどめておきますが、この山口瞳の人に対する厳しさとか優しさの、その態度というのは誰に対してもフェアな関係を築きたいという思いなのではないでしょうか。

対する相手によっては、自分を有利な方向へ導きたいがために、おもねったり、妥協したり、強引にしたりしがちなんですが、それをしない「強さ」というものを山口瞳に感じます。


久しぶりに山口瞳のエッセイを読んで、心が洗われる思いです。

「ヴァリス」の春分の日

2010-04-07 17:29:26 | あ行の作家
阿部和重「アメリカの夜」読了



久々の阿部和重です。本棚の隅にうずもれていたのを見つけ出して読んでみました。1994年、群像新人賞を受賞した、本作家のデビュー作であります。


いやぁ、またまた前回の諏訪哲史に続いて難解なのを選んでしまいました。


主人公である中山唯生が読んだ本、フィリップ・キンドレット・ディックによる「ヴァリス」の中で、ホースラヴァー・ファットが3月のウァーヌル・イークノスの翌日「聖なるもの」との遭遇を体験したとされていて、「ウァーヌル…」というのは春分の日、3月21日のこと。そして唯生の誕生日が9月23日、つまり秋分の日で、ヴァリスの物語と重なり合うと一旦は喜ぶのだが、春分の日というのは、その翌日から昼の方が夜より長くなるのに対して、秋分の日はその逆で、夜の方が長くなり始めると。

そして唯生は「光」が聖なるものの象徴とすhるなら「闇」は俗なるものの象徴であると考える。それで自分は秋分の日の生まれであるので、「闇」=俗な人間であると自分で決めつけ、ここからが論理が飛躍するんですが、ならば「光=聖なるもの」と闘おうと決意するわけです。

それから延々と唯生の思考が書きつらねられていくわけですが、正直、ちょっと疲れましたね。終盤の映画を撮影する場面はなかなか面白かったですが。


なんだか、まともな感想になってないんですが(笑)


ふう…ちょっと疲れました。次はもうちっと柔らかいヤツ、いってみます。

皮膚こそが真実である

2010-04-07 15:12:14 | さ行の作家
諏訪哲史「ロンバルディア遠景」読了


「アサッテの人」で第137回芥川賞を受賞した同作家の3作目となる長編です。どんな作家なのか、全く予備知識もないまま読み始めたんですが(名古屋出身ということくらい…)、これはすごいですね。哲学的な警句に満ちあふれた、簡単には読み飛ばすことができないような内容です。

読後、著者のプロフィールを見ると、國學院大學文学部哲学科卒業とありました。さもありなんですね。


以下、印象にのこった箇所を引用します。たくさんあります。


「表面に、皺に、皮膚に、敢然として踏みとどまること。」F・ニーチェ『華やぐ知慧』より


「『小説とは、やむをえず詩が弛緩した形式だ』(中略)この場合、『やむをえず』を『耐えきれず』と差し替えても一向かまわない。『堪えきれぬ』のは読む者が、であり、それは詩の緊張に、耐えきれないのだ。」


「『じゃあ、よ。あの、ぶあつい電話帳みたいなさ、全国版鉄道時刻表ってのがあんだろ。あれなんか、まったく正気の沙汰じゃねえぜ』(中略)『だってよ、あんなにこまかくこまかくさ、蟻みてえにこまかく書かれた数字、時刻のとおりに、日本中のだぜ、すべての日本中の列車が、それぞれの始発点から終着点まで、狂いもなく運行されてるんだ。事故とか、そういうのはもちろん度外視でだ。北海道の彼方から、鹿児島の果てまでよ。分単位、いや、秒単位で、しかも同時刻に、あのぐねぐねに延びた線路、常軌を逸した数の枕木の上を、タタンタタン、タタンタタンってさ、各地のJRやら私鉄やら地下鉄やら市電の軌道までが、数えきれない車輪の回転に際限なく我が身をふませて蹈ませてんだ。完全に正気じゃねえ。馬鹿野郎、気がふれてやがる」』


「『…宣誓や告解、命令、あらゆる意思の表明、その発話行為、つまり…、人の言葉の機能を自由にした暁にこそ、ひとつの人体という、疥癬の棲み処、矮小なる惑星、しかし奴らにとっては広大な領土の帝国は、本当の意味で完成される。疥癬の、疥癬による、疥癬のための統治だ。気味の悪い、ウジャウジャの蟲どもの、へへへ、民主的な、いや、蟲主的な国家が始まるんだ、グッ、オ、オ、エ、ウエエ、レグッ、ゲォッ…』」


「(中略)『だが俺は、俺自身を破壊することをどこかで欲している。その「俺」、「俺自身」というやつ、それは単純に俺のからだなのか、この肉体が「俺」なのか、それが分からないんだ。でも、絶対に間違いないことがひとつだけある。それは、「俺」が、この「世界」そのものである、って事実だよ。ゆえに「世界」とは破壊されるべきものになる。だが、俺は未だその「世界」とやらを見ていない。そして、俺は「俺自身」さえも未だ見てはいないんだ…』」


「先哲の言によれば、主体と客体、魂と物質、主語と述語、私と世界、これらはすべて、互いを前提にして存立し、両者はいわばバロック的な『二襞(ふたひだ)(Zwiefalt)』に等しくなる。二つの襞は、たえまなく他方を拡げては折り返し、存在を開示しつつ、同時に隠蔽する。差異を自己差異化するこの無限のプロセスが、『私と世界』という二襞にも該当する。私が世界の内に存在するには、まず世界が私の内に存在しなければならない。こうした内と外の永劫の反転が、コッホ曲線のように襞を微分、生成し続け、ついにそこに『私』という宇宙が実存することになる。」


「詩人が見者となるがためには、自己の一切の官能の、長期間の、深刻な、そして理論的な紊乱によらなければならない。あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、彼はみずからの内に探求し、みずからの内に一切の毒を味わいつくして、その精華のみを保有しなければならない。深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われた人に、…そして絶大の知者になる!…なぜなら、彼は未知に到達するからだ!」


「かつてアルトーは『詩を言語に閉じ込めてしまうことの醜さ』を嘆いた。詩とは、ある生の瞬間だ。逆説的だが、詩は、書かれることで詩自身を殺すのだ。同様に生も、書かれることで生自身を殺す。」


「C神父がいつかこう言っていた。『君が男女を問わず愛せないこと、それがすべての男女にとって業苦になる。だが、実のところ君自身の美とは、君がすべての人間を平等に愛し得ないという、その一点にこそ保証されている…』」


「…内面とはすなわち外面の謂である。そもそも内面なんて、外面の裏側でしかないのではなかろうか。本当は、種や仕掛けなんてどこにもありはしない。でも人は、隠すことで自分の本性を美しくほのめかす。たとえ隠すものがなくても、ほのめかすことならできる。ほのめかし方次第で、人は自分をどんなカリスマに仕立てることさえも不可能ではない。日本という国の、あらゆる美徳が、この操作によってかたちづくられていることを、僕は知っている。」


「…つまるところ、この世の万象はただ一葉の紙面、外面でもあり、内面でもある、一枚の『カミ』に収斂される。…他でもない僕自身が、その一片の紙きれ、外面と内面の両義的現象(アンビヴァレント)なのだ。もし僕の本質が外面でないならば、さらに内面であるはずもないだろう。僕という存在は、薄っぺらな貝殻の形象(かたち)をした、一片の鼓膜だ。一方が頭蓋に向かい、もう一方が下界へ向かう。だが僕自身は、そのどちらでもない。」


「生きる私とは、けだし『苦』そのものだ。一切はみな苦である。愛・別離は苦である。求むるものが得られぬのは苦である。そして五蘊盛苦(ごうんじょうく)、すなわち個の生動が盛んであることこそ、苦そのものに他ならない。これら苦諦(くたい)の元である五蘊、つまり感情も認識も意思も知覚も、また身体・物質さえも、いずれもが『我』にあらず、と古人は説いた。精神と物質の仮和合(けわごう)は実体でなく、すべては無常なる幻であり、無常の幻であるがゆえに苦であり、苦であるその一切が『我』と呼ばれる狂おしいひとつの『塊』なのであると。
客体・対象を認識すること、それ自体が、対象への執着(しゅうじゃく)を意味するのだ。認識とは執着である。執着とは妄念であり、愛憎であり、煩悩であり、無明である。この如何ともしがたい煩悩の根源、他者を是が非でも認識したいという『想念』が、日常の虚妄に満ちた言語活動を誘発し、言語はさらなる煩悩を生む…。これら虚しき言語のたゆたい、名身(みょうしん)・句身・文身、いわば『戯論(けろん)』を断ち切る斗(たたか)いにこそ、色も空も超克した択滅(ちゃくめつ)の無為…かの『涅槃(ニルヴァーナ)』への、唯一の途(みち)があるのに違いない。」


「メルロー=ポンティはかつて、『世界と皮膚とは同じ生地で織り上げられている』と述べた。」




以前、著者が雑誌かなにかで「紋切り型の小説は書かない」と述べているのを読んだことがあるんですが、正にこの作品は他のどの小説とも違う、独特の内容です。小説の構成といい、テーマといい、作中の人物の挙動といい、とにかく驚きの連続でした。自分の拙い語彙では到底この小説の感想を表現しきれません。


諏訪哲史の小説を遡るかたちで、次に2作目の「りすん」、そしてデビュー作である「アサッテの人」と読んでみたいと思っています。



いやぁ文学って奥が深いですねぇ。自分の底の浅さを思い知らされました(笑)

飄々と生き抜く技術

2010-04-07 14:48:24 | た行の作家
田中小実昌「天国までぶらり酒」読了


10年前に74才でロサンゼルスで客死した同作家のエッセイです。昔、テレビなんかにもちょいちょい出てて、なんだかおもろいおっさんだなと気になっていた人です。


しかしすごいですね。こんな風に生きられたら悔いはないでしょう。とにかく好きな事をして、というか好きなことしかしないで生きていく人生。大したもんです。


まぁ、話はとりとめもなく続いていく感じで、いかにも「コミさん」らしい文章です。


「うらやましい!」の一語に尽きます。