トシの読書日記

読書備忘録

日本人的個人主義が圧殺するもの

2007-02-27 15:20:36 | な行の作家
中島義道「<対話>のない社会」読了

中島義道の著書は、これまでにたくさん読んできたが、これはその中でもかなりまじめな(?)一冊でした。

なぜ、日本人は個人同士が正面から向き合う「対話」をさけるのか、その意識の根源を解き明かそうとして、いろんな角度から考察したもの。

なかなか興味深く読みました。

人との話の中で、わからないことがあっても「わかったつもり」になってうなずく。そのほうが角が立たないから。で、あとでその人のいないところで不満を並べ立てる。
こんな例はゴマンとあるが、中島は、その「日本人的態度」を徹底的に忌み嫌う。
こんな話があった。少し長いが、引用します。


ドイツ人オイゲン・ヘリゲルが日本の弓道のコツを呑み込むまでの苦心惨憺たる過程を書いているが(「日本の弓術」岩波文庫)、彼は日本人の先生(阿部研造)に対して「わからない」と言いつづける。どうしても<対話>を求めてしまうのだ。

・・・・自分はこれ以上どんなに進もうと思っても進めないと、先生に告白した。「あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは頃合いよしと感じるかあるいは考える時に、矢を射放とうと思う。あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である。あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを学ばなければならない」と先生は言われた。私は「しかしそれを待っていると、いつまで経っても矢は放たれません。私は弓を力の続くあいだ張っています。そうしてしまいには、まったく意識的に矢を放してやらなければ張った弓に両腕を引き寄せられて、矢はまったく放たれるに至りません」とお答えした。すると先生は「待たなければならないと言ったのは、なるほど誤解を招く言い方であった。本当を言えば、あなたは全然なにごとをも、待っても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということがひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」と答えられた。
・・・・私はそれでまだ満足しなかった。そこで私は、「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」と尋ねた。すると先生の答はこうである。――「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。・・・・」
 そのようにして一週二週と過ぎひと月ふた月と経っていったが、矢はただの一度も正しく放たれたことはなかった。・・・・「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」――こう言って先生は私を戒めた。それに対して私が「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私には分からないのですから」と答えると、先生は途方にくれて、答える術を知らなかった。


日本人同士なら、まず起こりえないやりとりである。おそれ多くも、先生に言われたことにたてつくようなことは、日本人ならまずしない。分からなくても分かったような顔をして、「さすが師匠!」かなんか言って(笑)お茶をにごすのが関の山である。

ここに日本人の<対話>のなさ、ひいては日本人特有の「優しさ」「思いやり」が相手との真の関係を築けないでいる原因であると中島は断じている。

なにかの会議の席などでも、こういった空気は日常茶飯に顕著に表れる。「この決議はおかしい」と思っても、堂々と反対意見を述べるものは稀である。なぜなら、反対したところで、その決議が翻ることはまずあり得ないと思うし、回りから「調和を乱すやつ」とか「空気読めよ!」とか言われて自分が結果的に「損」するからである。

こうして<対話>を避け、我々は黙り込むのだ。

おっしゃることは、ごもっともです。この私も真の意味での対話を避け、人との関係を(悪い意味で)うまく図ろうとする一人です。しかしねぇ・・・言うは易し、行うは難しです(苦笑)

中島先生、あなたは(いろんな意味で)立派な方です!勉強になりました!

こういう手合いを、この人は最も忌み嫌うんだろうなぁ(笑)