昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(241)市民大学・哲学コース(28)

2018-01-13 07:42:58 | 三鷹通信
 年が明けて、久しぶりの市民大学・哲学コースを受講した。
 合田正人明治大学文学部長の「文学と絵画と音楽から美と崇高を考える」
 
 受講生ほぼ30名満席だ。
 10時から12時まで若干の休憩時間と質問時間を挟んで実質1時間45分。
 失礼を承知で言わせていただければ、いつもながら、先生のお話は四方八方に飛び散り、次から次へと留まるところを知らない。

 今日の講義に関して用意いただいたレジメが46頁!        
 これだけの内容をうまく纏められるわけがない。
 特に気を引いた点をピックアップして感想とさせていただく。

 特に<音楽>に関して。
 アルトゥル・ショーペンハウア「意志と表象としての世界」によれば、
 <表象>は現象であり、アポロン的な造形であるのに対して、<意志>とは物自体でありディオニソス的であり、これこそ<音楽>であり破壊的だと?
 <音楽>はほかのあらゆる芸術からまったく切り離された独自のものであり、人間の一番深いところにきわめて力強く働きかけてくる。
 ・・・言うなれば見えないものを描く。<意志>それ自身の模写である、と。

 アポロン的な協和音に対してディオニソス的な不協和音を、リズミックなビート感として導入したのはベートーベンである。
 
 第九の歓喜に満ちた恍惚を演出し、戦慄とも言える崇高感を表現した。
 
 シンフォニー(syn=まとめ)がアポロン的であるのに対し、ラプソディ(狂詩曲)は仮縫い、パッチワーク的という点でディオニソス的。
 西欧の主要な音楽の伝統は、おおむね、発展と統制のリズムに依存し、論理的にコントロールされた前進運動に奉仕しているが、
 現代音楽は、メシアンの音楽に見るように、意図的にこうした特徴から距離をおこうとして、ポリリズムという複数のリズムがつぎ込まれている。
 たとえばパフュームのように。
 
 また、アフリカンリズムにも着目。
 
 現代では、ますますアポロン的なものからディオニソス的なものへと移行を速めているかのように見える。

 「何? モームス?」
 
 合田先生は、現在流布する短絡的な言葉にも着目された。
 「モーニング娘をここまで簡略化するとは?」
 
 SNSが普及して、ますます我々の音楽や、言葉さえもディオニソス的になり、簡略化された刹那的な叫びのようになり、人類の証である<言葉>はどうなってしまうのだろう?