町田市議会議員 山下てつや “獅子奮迅”

てつやではたらく“山下てつや”が日々の活動や出来事、お知らせしたいことを報告します。

ごみ処理候補地検討委員会を傍聴して

2012年09月28日 | 活動日誌

ごみ処理施設の検討委員会を傍聴しました。正式には、町田市資源循環型施設整備基本計画検討委員会といいます。ごみ関係施設を建設するには、建設場所の確保が大きな課題。ですから、町田市では、この検討部会に候補地部会を設けて、その評価の仕方を検討して、客観的な基準により建設候補地を絞りこんできました。すでに、多くの候補地が評価対象からもはずれ、最終候補地の選定の段階になり、残っている候補地の多くが、小山田に集中する結果となることが明らかになってしまいました。

小山田は、最終処分場の時代を含めると、もう、50年近く、町田市内のごみを集中的に捨てられてきました。特に、焼却もせず、ごみを直接捨てていた時代に、小山田で育った人からすれば、「もう、そろそろ小山田が、町田市のごみから解放されてもいいのでは」と思うのが当然の気持ちなのかもしれない。

いやなことは、順番で。こうした、子どものころから学んでいた公平性が、ごみ処理場の場所の確保という問題では、ことごとく、通用していない状況に、憤りを感じる人がいても仕方ない話である。

候補地部会においては、客観性を重んじて作業を進めているので、過去の経緯というものは反映されない。いまの焼却施設の周辺に古くから住む人にとってみれば、自ら出したごみは、自らの地域で責任を持って処理をするとの前提にたった視点が、この検討作業のなかに反映されるべきで、さらには、それとは正反対の状況のなかで、集中的に、ごみを受けいれてきた歴史的経緯からすれば、現在だけを捉えた客観性より、過去の経緯を踏まえた公平性が重んじられて、然るべきだとの考えを持つのは当然だと思う。

すでに、公平性の視点からすれば半世紀にも及ぶ貸しがある。忠生、なかでも、小山田の人にとってみれば、町田市民に、その歴史感を理解してほしいとの思いが、どうしても、先行する。

検討委員会は、その使命を全うしてもらうしかないのだけれども、小山田をはじめとして、リサイクルセンター周辺の住民感情を理解することこそ、根本的には、この問題を解決していく近道だと思う。


湯沢町の恩師逝く

2012年09月10日 | 活動日誌

先週、5日の朝、大学時代からお世話になった恩師、古川幸永先生が、長い闘病生活の末、永眠されました。78歳でした。本会議の日でありましたから、自宅の留守電を聞いた妻や大学の先輩からメールをもらい、初めて、訃報をしることとなりました。

すぐに、先生の自宅である越後湯沢古川旅館に電話を入れました。奥さまが出られ、亡くなられる数日間と最後のときを迎えらたときのことを話さしていただき、ご長男で喪主であるご子息にかわられ、葬儀日程を確認させていただきました。

亡くなられる三日ほど前ぐらいから、実は、不思議なことですが、とても、気になり、こちらから電話を入れようと思っていた矢先のことでした。

古川幸永先生というのは、元湯沢町スキー学校の校長であり、全日本スキー連盟公認の元デモンストレーター、そして、越後湯沢の古川旅館の主です。大学2年の冬から、スキー学校のインストラクターの助手をしながら、古川旅館に寝泊まりして、スキーを通して、旅館での生活を通して、先生に体当たりで、いろんなことを教わりました。

何から、話せばいいのか、わからないくらい人生において、大きな存在でした。

奥さまにも、大変、御世話になり古川旅館での生活は、厳しく、大変なこともあったけれど、都会の形式的な儀礼的なものとは違って、人間味溢れる、かけがえないものでありました。

挨拶に立たれたご長男が、「スキー人古川幸永を思い出してしてほしい」と、それ以上の言葉はないだろうと思うほどの校長への尊敬の思いを聞いたとき、さまざまな思いが込み上げ、どう表現しても、伝えられないような気持になりました。

もっと早く行って、もっと、湯沢にいて、皆と校長のことを語りあいたかったけれども、通夜であった7日の晩に仕事を片づけ、翌8日の告別式に参加して、すぐに、町田に帰りました。

校長が亡くなれて、昨日で一週間が過ぎました。その間、ふと、気が付くと、雪上であったり、旅館のお勝手であったりと校長の在りし日の姿を思い出しては、その存在の重たさを噛み締めているような時間が何度かありました。

校長にめぐり合えて、本当に、よかったです。何か、恩返しをと思っても、どうすればよいのか。古川旅館で、一緒に生活できたことを誇りとして、そして励みとして、できることを全力でやっていこうとの思いです。奥さまをはじめ、ご家族の皆さま、ありがとうございました。そして、先生のご冥福を心よりお祈りしています。