山下てつやです。一日一日が早く過ぎていく、ため息が出るほど。最近、そんな感じです。あっという間に年齢を重ねていると思うこともあります。子どもは、大きくなるし、夜遅い日が続くと、体調に影響が出ます。また、若いときほど、食べられないことを自覚する年齢になったようです。今まで以上に健康に留意する必要があるようですね。
ここ数週間ほど、週2回から3回の水中歩行を始めました。水中散歩とでもいう雰囲気でプールの中を歩いています。施設内にいるのは、30分~一時間くらいがほとんどです。自分のスケジュール管理は、サラリーマン時代より自由になったはずですが、実際は、不自由の時間が増えたようです。いただいた時間を大切にしながら、やってます。時間帯でいえば、朝一番9時ごろからであったり、夕方であったり、夜であったり、日曜の昼であったりと時間帯も、歩行時間もまちまちです。仕事柄、日の明るいうちに、プールに行くことに抵抗がったのですが、体調管理をしっかりやると腹を決め、とにかく週二日は多摩のアクアブルーか市民プールに行くことにしました。
体罰がマスコミで取り上げられています。指導者が責任を追及され、体罰による指導が否定されています。また、体罰を受けた側が、それによる愛情を感じなかったということを言っている記事も読みました。この問題は、某スポーツ選手の記事にある通り、愛情の問題が最も大事なことであると思いますし、それが、問題の本質を解決できる鍵でもあると思います。もちろん、今の時代、体罰は、当然、否定すべきものだと思います。そのうえでの話です。
私が最も尊敬し、現在でも、親交を結ばせている先生は、手を上げる先生でした。本当に、痛い思いをしたこともあります。痛い思いというのは、身体が痛いということではなくて、先生の思いをずっしりと痛いほど感じたというような表現が正しいかもしれません。うまく表現をできませんが。もちろん、殴られれば痛いし、どなられれば辛い。それは変わらないと思う。
私の親も手を上げる親でしたから、比較的慣れていたのかもしれません。しかしながら先生との強い信頼関係は、体罰という表現からはほど遠く、手を上げた先生の愛情から生まれたものであったと、この問題が取り上げられて改めて感じています。当時は、愛情がどうのなんてことは考えもしなかったけれども、今、敢えてそのことを考えるのであれば、愛情に満ち溢れていたと年を追うごに感じています。いまでも、先生に教わった同期も後輩も仲良くしているし、先生があっての現在の自分という側面を誰もが否定しないと思う。
体罰を受けて、愛情を感じなかったということをいうことについて否定はしないけれども、愛情を注がれなかったかどうか、そうした視点を欠如したコメントばかりが目立つ。立派に成人して、家族をもち、人並みの生活を送れるのは、愛情を注いでいただいたからに他ならないのではないかと思う。一方で、愛情を感じない、実社会、そして教育現場、体罰、暴力という文字はなくても、本質は、どうなのか。この問題を通して考えさせられる出来事はあまりにも多いのではないでしょうか。