町田市議会議員 山下てつや “獅子奮迅”

てつやではたらく“山下てつや”が日々の活動や出来事、お知らせしたいことを報告します。

桜の季節、新たな思いで。

2012年03月27日 | 活動日誌

さまざまなことを思い出す桜かな。町田に来たのも、ちょうど桜の季節を迎えるころだっただろうか。ちょうど学生時代大学4年を迎える春、雪深いスキー場から合宿を終えて帰ってきて、すぐの引越しとなった。

そのとき新居となった家の前は栗畑。その前に道を挟んで小学校があり、長閑な場所だなと思ったが、バス停やスーパーも近く、思ったより便利な場所だった。

両親、姉、妹、そして、私と犬二匹。犬は、こちらに来る前は仲がよかったのだが、急に喧嘩をするようになり、結局、犬小屋を増やすことになった。環境や立場がかわると、関係までも変わってしまうのは、どうやら人間だけではなさそうだ。

引っ越してきて、すぐ、家族で伊豆に行った。河津の民宿だった。桜は、もう散ってしまっていて、「今度は桜を見にこよう」と話したように記憶している。

もう、それから20年以上が過ぎた。結局は、河津桜を家族と見に行くことはなかった。両親は千葉に越し、姉も妹も結婚し、町田を離れた。私だけが町田に残り、現在にいたっている。

先日、高校時代の友人が河津桜を見に行ったときの写真を見ることができた。便利な時代、ネットで、しばし拝見しながら、いろんなことが思い起こされてきた。高校時代のこと、部活やクラスの仲間をはじめ、苦い思い出も。そして、家族と河津桜を見にいこうと話したことも、漸く思い出した。

さて、いよいよ新年度。役所は、人事異動や定年退職など、慌ただしい。今日は、この3月で定年退職をされる方数人、直接挨拶にうかがった。大変、お世話になった方もいて、しばし懇談もさせていただいた。

私が感心したのは、自分の後輩をしっかり育てている人がいることだ。当然、後任人事は自分が育てた人間を起用している。ここまでできているのは、役所の中では、非常に稀なことと感じたが、少なからず仕事ぶりを評価させていただいた方々が後継をつくっていたことは、喜ばしいこと。きっと、新たな人材がまた育ってくると期待している。

私も、新鮮な思いで、新年度を出発したい。


清掃行政について

2012年03月10日 | 活動日誌

本定例議会の一般質問では、現在の清掃工場と最終処分場について、質問をさせていただいた。私が住んでいる小山田には、1970年代から、、清掃関連施設が次々と集中。それを受け入れてきた住民と清掃行政の歴史を知るにつれ、、この地に越してきて、いつかは、今回のような質問をしなければならいという思いが年々強くなった。

この地に最初に、最終処分場ができてからは、40年ぐらいになるし、さらには、現在の清掃工場、特に、焼却施設は、建て替えたり、煙突を長くしたりと、もう、かつてのような迷惑的な要素が少なくなってきているように感じるが、この地で生まれ育ち、これまで、町田のごみを受け入れて続けてき人たちにとっては、今とは違った、見るに堪えないような状況も記憶の中に残っている。

かつては、焼却処理もせず、ごみそのものを埋め立てていた時代が、この町田市にもあった。その時代を知っている人たちにとっては、目を見張るような町田市の発展も、一歩見方を変えると、増え続けるごみの問題、そのものであったのかもしれない。

最終処分場に、ごみそのものを埋め立てていたことから、匂いの問題は当然のこととして、大量のねずみや害虫の発生、そして、野犬が集まり、相当な劣悪な生活環境を味わったようである。夜、暗い夜道で、野犬に襲われる不安から、自宅に帰ることも困難なことまであったようである。また、ガスが発生していた処分場は、度々、火災を起こした。地元消防団として、消火活動をしていた人もいた。焼却処理においても、ダイオキシン問題で、都内ワースト2になったとの歴史もある。

近隣には、蓮田がある。シーズンになると関東一円からカメラを持った人が集まるほどの美しい風景が広がる。その蓮田もできた経緯を聞けば、素直に、現在の美しい景色を受け入れるには、複雑な思いが同居する。

かつては、この辺りは水田で稲作をしていた。それが、最終処分場からの汚染水や工場からの重油が漏れたりと稲作を続けることができない環境を余儀なくされたことから、宅地造成が行われ、一部が蓮田になり、今に至っている。

こうした話を一つ一つ聞いていくと、この小山田周辺だけが、なぜ、ごみ関連施設を集中的に受け入れなければならなかったのかという思いがわいてくる。ここ数年は、ごみ問題を市全体で共有しようという行政の対応がなされてきていると感じるが、それまでは、ごみ問題は小山田だけの問題として、多くの市民が意識として共有化されている問題ではなかった。

この清掃工場周辺が宅地造成されて売り出された際、物件を見に来た同じ町田市民から、「こんな煙突の近くに住んで、大丈夫なのですか?」と聞かれ、そんな場所だと世間は見ていたんだと、つらい思いをした人もいた。

そうした場所に、同じ町田市内から転居してきた私にとって、これまで周辺住民が言葉にできなかった思い、そして、これまでの清掃行政の在り方について、見過ごしてはならないものが多く存在していると強く感じている。

 ここ数年は、老朽化した施設の安全性の確保と、長寿命化をはかって運転していることについて、可能な限り、安心してもらえるよう、理解を深めていくことが、大きな課題である。

石阪市長が就任して、最終処分場の調査の実施、そして、ごみゼロ市民会議など清掃行政の在り方は、各段に向上したことは確かである。また、職員の方々も、地域との対話を積極的に行おうとの姿勢が見られることや、それまでの清掃行政の歴史を残していこうとの取り組みをしていることも聞いている。

あらためて、無事故とともに、地域との共存やつながりを大事にする、清掃工場、そして職員の方々の対応であってほしいと強く思ってる。

 


危機管理について

2012年03月02日 | 活動日誌

危機管理。今の日本が、取り組まなくてはいけない課題である。東日本大震災における菅直人首相の危機対応のためにとった行動が、大きく疑問視されているが、危機管理のマネージメントがなされていない日本では、大なり小なり、似たような事例が存在しているようである。

私が、最初にいった被災地で、直接会った被災者の声は、まさしく危機管理に慣れていない行政組織の対応が読み取れるものであったので紹介する。一つは、津波の被害から、一日半をかけて逃れて、学校に避難した方の声である。「はじめて、配られた食事は、カップ麺。お湯を沸かそうと思ったら、教育委員会から、学校施設で、火を使わないでくれと、注意された。」もちろん、こんなことに、まともに付き合ったわけではないのだが、生きるか死ぬかといった場面である。被災者は、憤り、大きく、心を痛めたのではないだろうか。

津波の初期対応についても、危機管理の対応は、常識を超えたところで、その是非が問わることを確認した。津波のために、水門を閉めたが、津波の大きさゆえに、水門の効果がなく、それどころか、水門を閉めたことにより、交通が寸断されて、津波から逃げることができなかったために、奪われた命もあったようである。

阪神淡路大震災のときの教訓が生かされたかどうか、疑問視されている事例として、海外から来た医師団への対応は、危機管理への対応能力の無さを表している。日本の医師免許がないことから、被災者の救護をしてもらうことについて、円滑な対応をできなかったのでないかといわている。

被災者支援という点でも、危機管理への対応力の無さがうかがえる。なかなか配給されない義援金をはじめとして、行政組織によくある公平性や整合性などが重んじられて、肝心のどれだけのタイムリーな成果があったのか、なかなかわからないような話が多いようである。手で洗濯をしている被災者のことをテレビで見て、被災地に洗濯機を20台送ってほしいといわれ、都道府県単位で、連絡をしてみたが、数が少ないので受けいれできないと言われて、直接、被災地である役場に連絡をしてみると、すぐに、送ってほしいということになった。これも、被災している現場の意識とは、ほど遠い、危機意識はあっても、危機管理という対応能力がないことを感じさせるできごとである。

はたして、通常の職務の階級によって、緊急時における危機対応の判断や指示がされることで、人命が守られるのかどうか。専門的な知識や能力、判断力がないと難しい要素が危機管理についてはあるのではないだろうか。

例えば、役所の資料は、一般的に物事の過程を重要視しているし、結論を導く出す間の機会損失を、あまり考慮していない。災害が起きて一刻を争うような事態に直面したときに、役所は、どう対応するのか。できるのか、疑問である。

海外では、危機管理をマネージメントするしくみが、導入されている。危機管理マネージメントをする一定の資格も存在しており、日本は明らかに、この点では、遅れているようだ。国は、早急に、危機管理への対応を見直すべきではないかと思う。