ステージおきたま

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ぶん殴って欲しい!鈍感な頭と心:朗読劇『この子たちの夏』に悶々とした午後

2016-07-18 09:03:59 | 演劇

 年取って、日増しに世間への興味関心が薄れつつある。なにを見てもあまり心が動かされない。テロしかり、地震災害しかり。いつの間にか既視感が漂い出て視野を遮る。新聞やテレビも、食い入るように見るってことが少なくなった。まして、激しく心を揺さぶられるなんてことは稀だ。70年近く生きて来たんだから、いろんな出来事や思想や思惑や感情やらが蓄積されていて、ああ、それ見たことある、聞いたことある、とすり抜けて行ってしまう。

 やり過ごしてはいけないことは絶対にある。命の大切さだったり、歴史の成果だったり、他者への共感であったり。それはわかっている。ただ、強烈な感情とともに迫ってこないってことなんだ。だから、頭では極力追尾しようとしている。今、急速に変革期になだれ込みつつあること世界の動向にも、鈍い頭と弱った視力を必死に振り向けるようにしている。

 何が言いたいのか?朗読劇『この子たちの夏』、ほとんど心動かされなかったことに動揺しているってことだ。小学校の運動場で母親の遺体を焼いた話しとか、自分の体に白血球を作り出せと命じる少女のことなど、はっとする逸話もないわけじゃなかった。エンディングの子どもたちの遺影にはさすがに胸を突かれた。

 でも、全体を通して惹きつけられ、心を震わせられたか、と言えば、鈍い心はどっかと腰を下ろしたままだった。で、そのことに思い悩み、一人戸惑いしつつ、右往左往して時間を過ごした。なぜ?なぜ?なぜ?僕の心には響いてこないのか?

 作品の良しあし、出演者の力量、そういった問題ではない。題材の重要さ、時代性もわかる。だが、わかることと感動することとは別次元なのだ。先に書いたことと矛盾するようだが、年寄りの震えぬ心の所為にするのは実は間違っている。何故なら、ぼろぼろと涙を流すことも結構多いからだ。例えば、NHKの「ドキュメント72時間」なんかでは、行き場なく賀茂川辺で一人佇む青年とか、仙台の定食屋で1人飯を食う単身赴任の父親とか、久しぶりに再会した中年親友たちの熱い語らいとか、涙滂沱で見ていたりする。

 解明のカギは、やはり既視感にあるのだと思う。敢えて非難されることを承知の上で言えば、ヒロシマはナガサキ、語られ過ぎている。いや、これは誤解される。何度も何度ても、核兵器が廃絶され、原発が廃棄されるまで、いや、人間の争いが続く限り語り継がれねばならない。

 ただ、舞台作品としてどうなのか?違う。僕にとってどうなのかって問題だ。

 斬新なものを求めたい。これまでの経験や知識をひっり返すような物語や表現に出会いたい。驚きと衝撃を待っている。思う存分引きずりまわされることを願っている。見たこと聞いたことのない話し、巧みに騙し笑わせ泣かせる芝居を心待ちしている。お馴染みの内容、お定まりの展開、あらかじめ共感が予定された舞台、そんなのはお断り!ってことなんだ。幕が上がってから、降りるまで、悶々と心をよじらせていたのは、僕の願いと舞台との行き違いにあったってことなんだ。

 いや、実はもう一つ、朗読という表現への違和感もあった。だが、それについてはいつかまた書こう。

 驚く心、震える魂、止めどなき涙、腹の底からの大笑い、馬鹿笑い、歳とともに失った、なんてことにならぬよう、刃の一部だけでも研ぎ続けようと思う。

 

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