中間試験が終わって最初の土日、新しい台本を使って頭から通し小返しだ。ほんのちょっとのマイナーチェンジだけど、これまで呼吸のようにしゃべり続けてきたせりふだ、慣れるのはきっと大変だろうな、なんて、全くの杞憂だった。恐るべし高校生!しかも、ほとんどの役者がきっちりせりふを入れてきている。中に入っていない部員がいたりすると、あっちからこっちから白い視線が手裏剣のように突き刺さる。いい!なかなかいい雰囲気だ。県大会で上を狙うなら、このくらいの意気込みは見せてくれなくちゃ。
新しいせりふや変わった動きを自然なものにするってことも大切な課題だが、そこに止まっていたんじゃ、レベルアップは縁遠い。全員が演技者として一皮も二皮も剥けてもらいたいと思って指導当たっている。だから、役者たちに何より望むことは、役を生ききれ!ってことだ。60分間の芝居のすべてを通してその人物として呼吸してほしいとまでは要求しない。せめて、舞台に出ているときだけでも、役所の人間として話し、動き、感じ、反応してほしい!これが願いだ。
そんなことみんなしてんじゃん!なんて簡単に言って欲しくない。これって本当に難しいことなんだ。まあ、大体は、それっぽくせりふをしゃべり、それらしく動いているだけのことだ。役柄のとおりに心を動かし、感情の赴くままに表情が作られ、生身の言葉としてせりふがほとばしるなんてことはそうとうの訓練がないとできるもんじゃない。あいつは上手い、なんて褒められてる奴だって、それっぽくその場しのぎをやっているに過ぎないんだ。
だから、今、つばを飛ばし飛ばし言いつのるのは、「おまえが演じている人間は今、どう感じてるんだ?!」ってことばかり。「相手のせりふを聞いて、どう思ったんだ?!」「自分のせりふの前に心が動いているはずだろ?!」そんなことをひたすら叫び続けている。
そんな繰り返しがようやく伝わったのか、ここ数日、主役二人は真剣に怒り、心の底から涙を浮かべられるようになってきた。3年目にしてようやくかよ、なんて減らず口は叩くまい。これは彼女らの演技者開眼なんだと思う。彼等の視線に込められた悪意の鋭さにはっとしたり、激情の迸りにはあやうくもらい泣きをしてしまいそうだ。一人でも二人でも役として稽古場に立つ者が出てくると、雰囲気は格段に上がってくる。緊張感が伝わっていく。
だからと言って、役者全員が役の心を自分のものとして動けるかっていうと、そうは上手くいくものじゃない。特に端役になるほどそれは難しい。なんたってせりふが少ないから。主役のやりとりを聞きながら周辺に佇んでいるって場面が多い。この手持ちぶさたな時間を役として生ききるっていうのは、言うは易し行うは難しって奴だ。まして、台本にはその役の性格とか背景なんかが書かれていないことが多い。どんな人物か、どんなこと考えているのか、どんな感情で見守っているのか、高校生には、自分で役を作っていけるほどの力量はない。さらに、こういう役は、まだまだ未熟な下級生が受け持つのだからなおのことだ。そして、ここが厳しいところだが、周囲を取り巻く脇役たちの表情や動きの一つ一つが、そのシーンの出来を左右するってことなのだ。
ということで、これからの課題はせりふの少ない彼等をどう生き生きと動かしていけるかってことになる。暮らしの経験も乏しく、その小さな蓄積を振り返る力に欠ける彼等に、一人一人、一つ一つ、その場の心の動きについて問いつめ、主役のせりふがどう聞こえるかを確認させ、感情のひだを刻ませて行く。仕草やせりふ回しの指導とともに、何故そう動くのか、その言い回しがどう聞こえるのか、そんなことを一つ一つ解説しながら、脇役の立ち位置から立ち姿、手足の置き方にまで思いを至らせていく。
残りわずかに2週間、こんな作業がどこまで達成できるか、まるっきり勝算はない。それでも、今、これをしつこくうるさく懲りずに言いつのっておけば、いつか、今の主役の子たちと同様に役者開眼の時を迎えるに違いない。それを楽しみに、なーんて、そんな悠長なことは言ってられないんだよ。おい!おまえら!そのぼけーーっとした様子、絶対観客に見透かされるから、「あの役者、夕飯なんだろって考えてるよ、きっと!」ってさ。