たかはしけいのにっき

企業研究者の書く日記。歩くコンプライアンス。

いつまでも落ち込んでんじゃねーよ

2017-08-10 01:26:11 | Weblog
 「何のために生きているのか?」などと考えすぎてしまうと、とたんに生きづらくなってしまう。
 俺は、哲学的に問いかけてみることを否定して「現実を見ろ」だとか「大人なんだから」などと誤魔化して、社会性という名の妄想に囚われる生き方は大嫌いで、これまでこのページでも日常生活でも、「"考えちゃう"で止めずに、考え切ってみろ」と追及してきた。そもそも、哲学などの病にかかるのは思春期や青春時代によく見られる現象だと決めつけるのはナンセンスで、自分たちが信じている危うい社会システムを否定したくないがために、誰かが自分自身で考えようとしている行為を「誰もが通る病だ」「妄想だ」などと言い放つのは、(それこそ)大の大人がすることではない。

 しかし、である。あまりにも長い期間、根源的な問いに囚われ続けているだけで、理想と現実との乖離に苦しんで、いつまでも自ら主体的に行動しようとしない態度も、同じくらい、俺は好きではない、というのも本心である。
 そこに、どうしても「世間では殆ど誰も疑問に思っていない本質的な問いについて、本格的に悩んでしまっている、自分」という自惚れを感じてしまうからだ。多くの周囲が自分よりもバカである事を前提とした思考回路と言動は、俺には受け入れられないのだ。そこには、社会性を真っ先に大事にする多くの自称大人達と同じ類いの「決めつけ」が存在しているのに、そんなことにすら気がついていない思慮の低さが「自ら行動しようとしない」怠惰さを肯定化し続けてしまうのだろうと思う。
 簡単に言ってしまえば、その程度のレベル・その程度の賢さで、いつまでもいつまでも悩んでいても、あまり価値はないということである。そんなんだったら、無鉄砲でも行動してしまうほうがいくらかマシだ。

 確かに俺がめちゃくちゃ器用だという部分はある(自分で言うのもなんだけど)。
 俺は気分が沈んでいても、手だけは実験できるし計算できるし、思考を展開できるし、見ず知らずの誰かの相談メールにいつも通りに返信できるし、正常なフリして文章を書く事もツイートすることも、最近ではYouTubeで音声をとることすらできてしまう。だから、行動がフィードバックして高揚に戻しやすいというのはあるだろう。

 だが、あまりにも、現実との乖離に傷つきっぱなしでいすぎていないだろうか?、という部分が最近気にかかる。
 俺の目には、環境を利用して成り上がろうとする人間、環境の波に適度に揺られていることに一番の価値を感じている人間、そして、環境に適応できなくてふさぎ込んでいる人間は、ほとんど同一に見える。
 特に研究界隈にいる人間はこうであってはダメで、環境を自ら作ろうとする側にいなくてはいけない。なのに、「どの環境であれば自分がフィットするだろうか?」ということばかりに囚われるでない!と言いたい。

 傷ついている時間、それを癒す時間を十分にとった(1-3ヵ月くらい?)なら、、ほんの少しで良い、元の生活に身体を無理矢理に戻してみること。
 そして、それで上手く行き始めても「これでいいのだ」と思わないことが重要なのである。とかく俺以外の人間は、失敗しているときに哲学的であり、成功の兆しが見えて新しい言葉をゲットし始めたとたんに「これで良いんだ」と突然に社会性に重きを置くようになってしまう人が多いが、この性質も俺は大嫌いである。

 上手く行っていても、上手く行かなくても、そんなことに依存せずに、哲学的に考えられる視点を持ち、同時に誰かを助けるために現実世界にアジャストできる能力も持ち、その上で環境を自分の力で少しでもより良く変えようとしてみろよ。これこそが、実を伴った圧倒的な思考力を育む。

 もっともっと、俺は君らに期待してるんだぜ。
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