たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

期待が重荷に感じたら

2013-05-30 00:12:12 | Weblog
 最初は期待されるだけで満足。
 平均的な描像のなかから自分だけが期待される特別な存在であると確認できうる時間の区切りでは、その競争のなかでは自分が非凡であるという具現化だからだ。

 その期待に応えようと日々頑張る自分を客観視したときに、また、もう一歩先の満足ができる。
 今できることがきちんとできている自分を感じながら頑張ることは、楽しいし、期待のされ方も一段上がる。

 ここからは、即物的な結果が出せれば現状維持で、出せなければ期待が重荷へとtransferしていく。
 遅かれ早かれ、結果はいつかは打ち止めになる期間が来るので、数でも質でも量でも期待されればされるほど、その期待に応えなきゃ、ってやっきになっている自分に疑問が生じてくる。
 自分は何のために、こんなに一生懸命、頭を使い、身体を使い、感情を使ってるのか?、ってね。行動を捧げ、時間を捧げ、お金を捧げ、身体を捧げている、自分自身と、それを要求してきている(と勘違いしている)相手に対して、懐疑的になる。

 この状態が長く続くと、途中で気がつく。単に、期待されなくなることが怖いだけ、ってね。
 そう、最初から、自分だけが期待されているわけじゃなく、大勢に対して等しく期待してくれている博愛主義的な人に期待されていただけなのだ、っと思ってしまう。
 でも、なかなか、離れられない。これまで使ってしまった、膨大な奉仕を、無駄にはしたくないから。

 こんなプロセスを、仕事でもプライベートでも続けていれば疲れてきそうだけど、実は、このプロセスをきちんと踏むことで、やっと、ホンモノか否かを評価することができる。
 最後の段階まで行った時に、あなたから離れず、相手から離れていってくれたら、イヤなやつだからほっとけばイイ。最後の段階、つまり、結果がで続けないような苦しい時間帯や、生活の中での難しく退屈な側面を共有しても、一緒にいてくれるなら、それでもなお期待してくれるなら、その関係は逃しちゃダメだ。
 そういう人と繋がらさせてもらっていたなら、必ず結果は出るし、残酷な物理現象に勝っていける。

 いつまでも続く信頼関係は、即物的な言葉や結果に依存しない。
 心と心が繋がりながら、お互いがお互いを期待し合い、その関係性まで期待できるようになっていったなら、楽しく強くなれるのだと思う。
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