たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

東大に行って最も良かったこと

2020-11-23 02:45:13 | Weblog
 「東大(の大学院)に行って良かったことってなんですか?」
 自分より若い子にたまにこれを訊かれるのだけど、なかなか上手に応えるのが難しいなぁと思ってしまう。

 例えば、「最先端の研究を自分で進めることのなんとも言えない快感」とかキレイゴトという名の嘘を言ってみても虚しいし、「世間が自分を見る目が明らかに変わる」とか他者からの評価に依存したことなんてくだらないし、「有能な友達が沢山できて良い」とか実利的なことに矮小化することで大切な交友関係を無機質なものに染めてしまうのはもったいない。

 そもそも大学は、知を獲得・開拓する場である。その知とは、往々にして価値観であることが多い。
 学生・研究員で東大にいた約7年の間に、いろいろな価値観の存在を奪い取り、非常に僅かながらも、いくつかの価値観を開拓することができたと思う。その価値観のなかで、「これはとても大事だ」と心から思えるものを今日は紹介しようと思う。

 大学(学部は理科大)に入る前、俺は、大学の先生と話す機会があるときにはとても緊張したし、どこかドキドキしながら話をさせてもらっていた。一人ひとりが、大企業の社長さんや芸能人のような感覚があったのかもしれない。一挙手一投足に気を払い、絶対に粗相のないように注意していた。
 大学には、実際に世界的にも有名な先生がいたりする。東大ともなれば、会う前から有名な本の著者で知っている先生もたくさんいるし、テレビ等でも誰もが知っているような先生がキャンパスを普通に歩いている。

 ある日、キャンパス内で用を足していると、ある超有名な、理系だったら誰もが知っている先生が、トイレの個室から出てきた。
 その瞬間に、俺の中で、おそらく何かが崩れ去った。非常に当たり前のことなのだが、どんなにすごい先生でも、う○○はする笑。けれども、なぜかそれがめちゃくちゃ印象的で、そこから、その先生の(研究室運営等の)ダメな部分や問題のある部分がやたらと目につくようになったのだ。
 おそらく俺らは、勝手に「すごそうな人」を神格化してしまうクセがある。その人は自分とは違う人間なのだから、特別扱いが通常なのだ、と。しかし、非常に当然のことながら、どんな人でも、メシを食べるし眠い時は寝るし、家で誰かに怒られることもあれば、お腹が痛くなることもある。この「どんなに権威ある人間でも、まったく同じ人間なんだ」という感覚を持つことはとても大事なのだが、多くの人が持っていない。

 東大で大学院生をしていれば、生活のほとんどは東大のキャンパス内で過ごすことになる。
 そうなれば、めちゃくちゃ偉い先生の人間的な一面を、日常の中でいくらでも目にすることになる。些細なことで幼稚にマジギレしている様子もあれば、奥さんが怖くて早めに帰る姿もあれば、居室で居眠りをしていることもあれば、即席カレーを温めていることもある。

 この、「すごいと思っていた人」の人間的な部分を間近でたくさん見れる部分が、東大の良いところの一つだと思うのだ。
 まぁ、他の東大生は、「それでも偉い先生なんだ!だから、特別扱いするべきなんだ!」というスタンスを変えないようにと、変な方向に努力する人が多いけど。

 俺は小学校の頃は地元の公立小学校に通っていたので、同じクラスのなかに、障害者の子もいれば、家庭の事情で大変な子もいた。客観的に観ても、俺は、そういった理由から集団から孤立している子に対して、率先して話しかけてコミュニケーションをとっていたと思う。それは、俺は、みんなと違って(優しいから!、という理由だけでなく笑)、そのような人たちを「自分とは違う人間」だとどこかで決め付けていたから、手助けすることが当たり前だと思っていたからだ。しかしながら、コミュニケーションすればするほど、自分とまったく同じ人間だということがわかっていく。こんなにもまったく同じなのか、と発見していく。
 俺らは、一人ひとり、ほんのちょっとずつしか違わない。先程のトイレの個室から出てきた超有名な先生も、たった一つ条件が変わって、場所が東大でなく小学校であれば、みんなから「あいつ、学校で、う〇〇してたんだぜ!」っといじられるだろう。友達と仲良くコミュニケーションをとって、それにより自己肯定感が増せば、勉強しまくるようになり、東大の教員になるだけの賢さのポテンシャルを秘めていたとしても、家が貧乏で体臭がきついというたった一つの理由があるだけで、友達ができず、自己肯定感を失い、高校に進学せずにニートになってしまうかもしれない。

 俺は東大で博士号を取得しアメリカにポスドクで留学してから、日本の一般企業に就職した。日系企業に就職した際にものすごく違和感を感じたのは、「社長や会長を神のように崇めている空気感」だ。
 ついこないだまで、ノーベル賞受賞者やハーバード卒とも談笑していたのに、日東駒専を卒業し親のコネで社長をやっている人に、俺が緊張するわけがない。そう思っていたけど、よくよく考察すると、理由が違うのかもしれない。
 そのような相対化ではなく、「(東大なんかにいるような)どんなに権威がある人でも自分と全く同じ人間であることをよく知っている」から、だから緊張しないのである。

 はっきり言ってしまえば、こうした価値観を得ていても、実利的なメリットは何もない。むしろ、「俺がこんなに偉いのに、なんでこいつは敬意を払わないんだ!」と思われることが多くなったと思う。
 だけど、「大先生なんだから!もっと緊張しないと!」とか「上司なんだから偉いんだ」という、あまりに幼稚な発想に束縛されずに良かったと心から思う。

 ある講演家さんが言っていたことだが、講演する際に最も重要なことは「聴講者が普通に使用するトイレは絶対に使用しない」ということだそうだ。権威があると思わせている魔法がすっかり解けてしまうからだろう。非常に本質をついているのだが、だとすると、我々一般の聴講者は講演の何を聴きに行っているのだろう。
 あなたがもしサラリーマン・OLなら、勤めていらっしゃる企業の社長が、用を足しているところを見たことがあるだろうか。社長が男性の場合、個室から出てきたところを見たことがあるだろうか。結局のところ、社長業というのは、一般社員とは簡単に関わらせないことで神格化させておくこと、に尽きるのかもしれない。そうすれば、魔法がかかった状況で、自分の好きなように駒を動かせる。

 「結局のところ、誰もがみんな同じ人間である、ということを東大に行って学んだ」というのは、あまりに当たり前すぎてバカバカしいことであるが、もともと頭が良いほうではないので、許してほしい。これが、とても面白く大切な価値観として、学ばせてもらったことだなぁと今更になって、よく思うのである。
コメント
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