片岡義男「彼らを書く」(光文社)を読む。
ビートルズ、ディラン、そしてエルヴィス。
彼らにまつわるDVDを片岡義男が見て、そして書く。
ただそれだけの本だけど、
たとえば渋谷陽一や松村雄策、萩原健太といった
ロック評論家が書くビートルズやディランとは
まったく異なる表情が見てとれるというか。
たとえばビートルズの章では、
有名な「ハード・デイズ・ナイト」とか「HELP!」などには言及せず、
エド・サリバン・ショーに出た彼らを収録したDVDなどをじっと見て、
そして思考する。たとえばこんな具合だ。
Something for everybodyというこの番組の方針を、ザ・ビートルズはきれいに体現している。(中略)日本語で言うなら、ご家族みんなで楽しめる、とでもなるだろう。ご家族みんなとは、保守の見本ではないか。そのような雰囲気を出せ、と番組のほうがザ・ビートルズに強く求めたのではない。ザ・ビートルズが番組の雰囲気に無理に合わせたわけでもない。バーラフォンからデビューしてアメリカ公演にいたるまでのザ・ビートルズは、そもそもこのような中道的な雰囲気を持っていた。
また、ディランがジョニー・キャッシュ・ショーに出演したDVDを見て、
3曲目のGirl Fron The North Countryは、すわってキャッシュとデュエットで歌う。歌う、という行為のなかで、当人が自在に操ることの出来る才能の複雑さ、奥行きの深さ、さらには間口の広さなどにおいて、ディランはキャッシュにとうていかなわないことを、僕が確認した映像だった。
そして、エルヴィスの主演映画「闇に響く声」については、
あの顔立ちと髪をなるべく目立たないようにしよう、と制作者たちは努力した。その努力は報われている。エルヴィスの演技は正当に評価されるべきものだ。彼の演技は良いではないか。この物語のなかのダニーという青年をエルヴィスは良く演じてはいるけれど、鋭く立ち上がった縁のようなものが常に現在の自分を取り囲んでいる青年は、この物語とその展開のなかでは居場所がない、と書いておこう。
以上、引用が続いたけれど、
本書で書かれているのは、映像に映っている彼らが、
どう動き、歌い、話し、演技をしているのか、そのことを考察しているだけで、
そこには、どれだけ自分は彼らのファンであるかという思い入れや、
映像作品における彼らを論評するものではない。
あくまで見えてきたものについて語るだけ。
そのアプローチが非常に新鮮で読みふけったという次第。
そういえば片岡さんには、「彼女が演じた役」という、
原節子について論じた本があるのだけど、
あれもいわゆるシネフィル的な視点がまったくなく、
ただひたすら映像に映し出される原節子の
一挙手一投足を追い、考える評論集だったな、と。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます