Days of taco

やさぐれ&ヘタレtacoの日常と非日常

打って守って走れるひと

2022年11月16日 | 日々、徒然に
大森一樹監督は、自主映画出身者で
プロの映画監督になった最初のひとだと言われている。

松竹で撮った「オレンジロード急行」(1978)が公開のとき、
新世代の旗手みたいな感じで、扱われていたと記憶している。
ほぼ同時期、CMディレクターだった大林宣彦が
「HOUSE」(1977)でデビューしたり、
日活で「高校大パニック」(1978)を撮った
石井聰亙(岳龍)は澤田幸弘と
共同監督だったとはいえ、話題を呼んだ。

さらに東映のサード助監督だった横山博人が
自主制作で「純」(1979)を撮って大当たりさせたり、
フリー助監督の小栗康平が
同じく自主制作でつくった
「泥の河」(1981)がベストワンになったり、
アングラ演劇の俳優だった金子正次が自己資金で
「竜二」(1983)を撮って評判を取り、直後に死去したのも
いまや伝説的なエピソードというか。

時代は確実に変わってきていて、
そもそもPFF(ぴあフィルムフェスティバル)が
始まったのが77年で、以降、自主映画の出身者が
80年代以降の日本映画を背負っていくわけで。
つまり、70年代後半から80年代前半にかけて、
いよいよ日本映画も新しくなったという感じがあったのです。

コメント
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