⑩-1の第1図で,△3四同金と取れるのが,金が4三にいる効果です。
これが△3六歩の先手。▲4七金と受けるのは止むを得ないでしょう。
ただ,これで後続がないと,駒の損得がありませんから,後手は陣形を乱しただけになってしまいます。△8六歩と突き捨てました。
これには▲同歩もあったと思いますが,▲同銀と応じました。薄くなった6筋へ△6五歩。これは取ってしまうと△3六歩▲同金△6六角の筋を狙われます。そこで▲4五歩と反撃に転じました。後手は△6六歩と取り込んでおき,▲4四歩に△同金。▲6八歩と受ければ手堅いかもしれませんが,さすがに屈服という感じもあり,▲1五歩△同歩▲1四歩と端に手をつけました。
ぼんやりとした感じの手ではありますが,後手がどう指すかも難しいのではないかと思えました。
スピノザの哲学における区別はこれがすべてです。ただし,僕たちが真理を追究するという場合には,同一のものを異なった概念として把握した方が有益であるということがあります。こうした思惟作用に依拠して,同一のものを違った観点から把握するために区別することは,理性的区別といわれます。他面からいえば,観念対象ideatumが同一である観念を,知性の能動によって敢えて区別するとき,それは理性的区別といわれるのです。
第二部定義六は,実在性と完全性は理性的にのみ区別されるという意味だと解せます。この定義は「解する」という形式になっていますから,まさに知性の作用に注目されていることになります。
第二部定義二の意味からして,ある事物とその事物の本性は,理性的に区別されることになります。これは当然です。たとえば平面上の三角形と,その本性を示した,平面上の内角の和が二直角である図形は,ideatumとしてみれば同一だからです。つまりそれは理性的に区別されているだけです。そしてこの関係が,あらゆる事物とその本性との間に成立します。僕の考えだけいえばこれは公理です。スピノザがこのことを定義として示したのは,当時の思想状況は,これを共通概念notiones communesとすることができなかったからだったと推測します。
第二部定理四九系は,意志と知性が理性的に区別されるという意味を含みます。意志も知性も思惟の様態ですが,それは様態的に区別されるのではなく,理性的にのみ区別し得るのです。同様に,個々の観念とその観念が含む意志作用というのも,同じ思惟の様態として様態的に区別されるのではなく,理性的に区別されます。
僕がこのブログで実在性を力という観点からみた限りで本性であるというとき,僕は本性と実在性は理性的に区別されると主張しているのです。上述の例と照合すれば,ある事物X,Xの本性,Xの実在性,Xの完全性は,いずれも理性的に区別されるのであって,実在的にも様態的にも区別することはできないと僕は考えています。
ほかにもありますが,これくらいで十分でしょう。
これが△3六歩の先手。▲4七金と受けるのは止むを得ないでしょう。
ただ,これで後続がないと,駒の損得がありませんから,後手は陣形を乱しただけになってしまいます。△8六歩と突き捨てました。
これには▲同歩もあったと思いますが,▲同銀と応じました。薄くなった6筋へ△6五歩。これは取ってしまうと△3六歩▲同金△6六角の筋を狙われます。そこで▲4五歩と反撃に転じました。後手は△6六歩と取り込んでおき,▲4四歩に△同金。▲6八歩と受ければ手堅いかもしれませんが,さすがに屈服という感じもあり,▲1五歩△同歩▲1四歩と端に手をつけました。
ぼんやりとした感じの手ではありますが,後手がどう指すかも難しいのではないかと思えました。
スピノザの哲学における区別はこれがすべてです。ただし,僕たちが真理を追究するという場合には,同一のものを異なった概念として把握した方が有益であるということがあります。こうした思惟作用に依拠して,同一のものを違った観点から把握するために区別することは,理性的区別といわれます。他面からいえば,観念対象ideatumが同一である観念を,知性の能動によって敢えて区別するとき,それは理性的区別といわれるのです。
第二部定義六は,実在性と完全性は理性的にのみ区別されるという意味だと解せます。この定義は「解する」という形式になっていますから,まさに知性の作用に注目されていることになります。
第二部定義二の意味からして,ある事物とその事物の本性は,理性的に区別されることになります。これは当然です。たとえば平面上の三角形と,その本性を示した,平面上の内角の和が二直角である図形は,ideatumとしてみれば同一だからです。つまりそれは理性的に区別されているだけです。そしてこの関係が,あらゆる事物とその本性との間に成立します。僕の考えだけいえばこれは公理です。スピノザがこのことを定義として示したのは,当時の思想状況は,これを共通概念notiones communesとすることができなかったからだったと推測します。
第二部定理四九系は,意志と知性が理性的に区別されるという意味を含みます。意志も知性も思惟の様態ですが,それは様態的に区別されるのではなく,理性的にのみ区別し得るのです。同様に,個々の観念とその観念が含む意志作用というのも,同じ思惟の様態として様態的に区別されるのではなく,理性的に区別されます。
僕がこのブログで実在性を力という観点からみた限りで本性であるというとき,僕は本性と実在性は理性的に区別されると主張しているのです。上述の例と照合すれば,ある事物X,Xの本性,Xの実在性,Xの完全性は,いずれも理性的に区別されるのであって,実在的にも様態的にも区別することはできないと僕は考えています。
ほかにもありますが,これくらいで十分でしょう。
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