第三部定理一八から,疑惑dubitatioの除去後と除去前で,感情affectusのあり方,とりわけこの場合では喜びlaetitiaと悲しみtristitiaの感じ方に変化がないということが分かりました。ここから分かるのは,第三部諸感情の定義一四の安堵securitasおよび第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioは,希望spesおよび不安metusの派生感情でなければならないということです。
まず,希望と不安は表裏一体の感情なので,僕はある感情が希望の派生感情であるならば,不安の派生感情でもあるとみなしますし,逆にある感情が不安の派生感情であるならば希望の派生感情でもあるとみなします。
次に,希望は第三部諸感情の定義一二から分かるように,ある疑惑がある状態での表象像imagoから生じる喜びです。安堵というのはこの疑いが除去された状態での喜びとされています。しかし疑惑が除去される前でも除去された後でも,同一の表象像からは同一の感情が生じるのですから,ある希望とある安堵が,同一の表象像から生じるということがあり得ます。異なるのは疑惑の有無だけだからです。そして,疑惑がある状態は時系列的に前にあり,疑惑がない状態は時系列的に後にあります。このことは,疑惑が除去されるということは,前もって疑惑が存在しなければ生じ得ないということから明白です。ですからある表象像に対する希望と同じ表象像に対する安堵は,必ず希望が先行し,安堵が後続することになります。よって,人間が何事かによって安堵を感じるなら,その人間は事前にそれについて希望を感じていたといわなければなりません。よって安堵は希望の派生感情であり,希望の派生感情であるからには,不安の派生感情でもあるということになります。
絶望と不安の関係は,各々の定義Definitioに注意すれば,喜びが悲しみになるというだけで,安堵と希望の関係と同様に証明できることになります。したがって絶望は不安の派生感情でなければなりません。そして不安の派生感情であるなら希望の派生感情でもあるのです。
第三部諸感情の定義一六の歓喜gaudiumおよび第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusだけでなく,安堵と絶望も希望と不安からの派生感情なのです。
平面上に作図された三角形の内角の和は二直角になります。よって三角形を真に認識しさえすれば,平面上の三角形の内角の和が二直角であるということは確実に認識できるのでなければなりません。何度もいうように,第一部公理六でいわれていることは,どのような哲学であるかを問わずに成立しなければならないからです。よって人間は,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,三角形について確実であることはできるでしょう。第一部公理六でいわれていることは,人間の本性の創造者が人間を欺くことがあろうとなかろうと成立しなければならない筈だからです。
そして,ここが重要なのですが,三角形を真に認識するcognoscereことは,神Deusを真に認識することよりも,一般的にいって人間にとって容易であるということができます。これは単純にいって,平面上に作図された三角形というのは物体corpus,すなわち延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisとして存在しますが,神は,スピノザの哲学の場合でいえば絶対に無限な実体substantiaとして存在しますし,デカルトRené Descartesの哲学でいえば,最高に完全な実体というべきものとして存在するからです。いい換えれば一方は様態modiとして存在するのに対し,一方は実体として存在するからです。このためにスピノザは,想定した反駁者にもより容易に理解できるように,人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,人間は神について確実であることができるとはいわずに,人間は三角形について確実であることができるといったのではないかと僕は思うのです。想定した反駁者の精神のうちに三角形の真の観念idea veraがあったなら,反駁者はこの解答に対してさらに反駁することはできませんし,仮にそれがなかったとしても,三角形を真に認識することは,反駁者にとってさほど困難なことではないと思われるからです。
後続の部分から明らかなように,この三角形の確実性certitudoは,神に関する確実性があって初めて成立するというようになっていますから,その点では,スピノザが汲んだデカルトの哲学の確実性の条件を逸脱するものではありません。ですが,僕の推測が正しいとしたら,その間には明確な齟齬が生じているのではないでしょうか。
まず,希望と不安は表裏一体の感情なので,僕はある感情が希望の派生感情であるならば,不安の派生感情でもあるとみなしますし,逆にある感情が不安の派生感情であるならば希望の派生感情でもあるとみなします。
次に,希望は第三部諸感情の定義一二から分かるように,ある疑惑がある状態での表象像imagoから生じる喜びです。安堵というのはこの疑いが除去された状態での喜びとされています。しかし疑惑が除去される前でも除去された後でも,同一の表象像からは同一の感情が生じるのですから,ある希望とある安堵が,同一の表象像から生じるということがあり得ます。異なるのは疑惑の有無だけだからです。そして,疑惑がある状態は時系列的に前にあり,疑惑がない状態は時系列的に後にあります。このことは,疑惑が除去されるということは,前もって疑惑が存在しなければ生じ得ないということから明白です。ですからある表象像に対する希望と同じ表象像に対する安堵は,必ず希望が先行し,安堵が後続することになります。よって,人間が何事かによって安堵を感じるなら,その人間は事前にそれについて希望を感じていたといわなければなりません。よって安堵は希望の派生感情であり,希望の派生感情であるからには,不安の派生感情でもあるということになります。
絶望と不安の関係は,各々の定義Definitioに注意すれば,喜びが悲しみになるというだけで,安堵と希望の関係と同様に証明できることになります。したがって絶望は不安の派生感情でなければなりません。そして不安の派生感情であるなら希望の派生感情でもあるのです。
第三部諸感情の定義一六の歓喜gaudiumおよび第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusだけでなく,安堵と絶望も希望と不安からの派生感情なのです。
平面上に作図された三角形の内角の和は二直角になります。よって三角形を真に認識しさえすれば,平面上の三角形の内角の和が二直角であるということは確実に認識できるのでなければなりません。何度もいうように,第一部公理六でいわれていることは,どのような哲学であるかを問わずに成立しなければならないからです。よって人間は,人間の本性natura humanaの創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,三角形について確実であることはできるでしょう。第一部公理六でいわれていることは,人間の本性の創造者が人間を欺くことがあろうとなかろうと成立しなければならない筈だからです。
そして,ここが重要なのですが,三角形を真に認識するcognoscereことは,神Deusを真に認識することよりも,一般的にいって人間にとって容易であるということができます。これは単純にいって,平面上に作図された三角形というのは物体corpus,すなわち延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisとして存在しますが,神は,スピノザの哲学の場合でいえば絶対に無限な実体substantiaとして存在しますし,デカルトRené Descartesの哲学でいえば,最高に完全な実体というべきものとして存在するからです。いい換えれば一方は様態modiとして存在するのに対し,一方は実体として存在するからです。このためにスピノザは,想定した反駁者にもより容易に理解できるように,人間の本性の創造者が人間を欺くかどうかを知らないとしても,人間は神について確実であることができるとはいわずに,人間は三角形について確実であることができるといったのではないかと僕は思うのです。想定した反駁者の精神のうちに三角形の真の観念idea veraがあったなら,反駁者はこの解答に対してさらに反駁することはできませんし,仮にそれがなかったとしても,三角形を真に認識することは,反駁者にとってさほど困難なことではないと思われるからです。
後続の部分から明らかなように,この三角形の確実性certitudoは,神に関する確実性があって初めて成立するというようになっていますから,その点では,スピノザが汲んだデカルトの哲学の確実性の条件を逸脱するものではありません。ですが,僕の推測が正しいとしたら,その間には明確な齟齬が生じているのではないでしょうか。
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