向日町記念の決勝。並びは脇本に武藤,窓場‐山田の京都に大森,清水‐松岡の西国で大槻と松谷は単騎。
大森がスタートを取って窓場の前受け。4番手に脇本,6番手に松谷,7番手に清水,最後尾に大槻で周回。残り3周のバックの半ばから清水が上昇を開始。大槻も続きました。清水はコーナーで脇本の外に並び,そのまま併走。バックの手前からそのまま発進し,窓場を叩いて打鐘から先行。最後尾になってしまった松谷が内を進出。ホームで大槻の後ろに入りました。バックに入って窓場が発進。後方から脇本も捲ってきて捲り合戦に。大槻はインを突きましたが松岡と接触して直線の入口で落車。窓場が一旦は先頭に立ちましたが,大外の脇本が僅かに差し切って優勝。窓場が8分の1車輪差で2着。この両者の間に進路を取った武藤が4分の3車身差の3着でその外の山田が4分の3車輪差で4着。脇本よりも外を回った大森が半車輪差で5着。
優勝した福井の脇本雄太選手は福井記念以来の優勝で記念競輪15勝目。向日町記念は2021年と2022年に優勝していて2年ぶりの3勝目。このレースは窓場と脇本が別々に戦うことを選択したので,あまり強固なラインが結成されませんでした。清水が先行するのは意外な展開でしたが,前受けした窓場にとっては悪くなかったと思います。松谷に入られてしまったのはたぶん誤算で,その分だけ発進のタイミングはやや遅れてしまったかもしれません。それでもやや離れた後方から前をまとめて捲り追い込んでしまった脇本が強かったというほかないでしょう。別々に戦ってワンツーですから,その選択も悪くなかったといえそうです。
書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は編集者たちの手許に残りましたので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。ただしこれら3通は,宛先が伏せられて掲載されたのです。当然ながらこれはフッデJohann Huddeに対する配慮であって,宛先を示してしまえば書簡の内容からフッデとスピノザの間で書簡を通しての交流があったということが明るみに出てしまい,フッデの要望を満たすことができなくなります。だから宛先を伏せた上で,編集者たちはこれらの書簡を遺稿集に掲載したのです。これは実際に有効だったのであって,これらの書簡はスピノザがホイヘンスChristiaan Huygensに出したものであると想定されてきた歴史があります。
フッデに対する配慮はほかにもあったのですが,それは後で説明します。僕の考えでは,フッデに対する配慮がこのように行き届いたものとなり得たのは,フッデの要望がどういうものであるかということについて,編集者たちの間で共有されていたからです。編集者たちがどのような役割をもっていたのかは分からないのですが,それぞれの編集者がそれぞれの役割を果たすことによって,スピノザとフッデとの関係が分からないような形で遺稿集の発刊が可能になったのだと僕は思うのです。
フッデと同様の要望を有していたのがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizです。ライプニッツに対しても編集者は配慮をしています。
書簡四十五と書簡四十六を読むと,スピノザとライプニッツとの間で哲学や神学を巡る書簡上の議論があったことが推測できます。また現にそういう議論が交わされたということは,書簡七十および書簡七十二の内容から確定的に史実として解してよいように思います。スピノザとライプニッツとの間で交わされた議論ですから,本来であれば遺稿集に掲載するに値する内容をもっていたということが容易に推測されます。ところがそれらの書簡は,何通あったかは分かりませんが,遺稿集には掲載されませんでした。また,そうした書簡があったことを確定させる内容の書簡七十と書簡七十二の2通も,遺稿集には掲載されていません。これはライプニッツがスピノザと交流があったことを秘匿したいと思っていて,編集者がそれを知っていたからだとしか思えません。
大森がスタートを取って窓場の前受け。4番手に脇本,6番手に松谷,7番手に清水,最後尾に大槻で周回。残り3周のバックの半ばから清水が上昇を開始。大槻も続きました。清水はコーナーで脇本の外に並び,そのまま併走。バックの手前からそのまま発進し,窓場を叩いて打鐘から先行。最後尾になってしまった松谷が内を進出。ホームで大槻の後ろに入りました。バックに入って窓場が発進。後方から脇本も捲ってきて捲り合戦に。大槻はインを突きましたが松岡と接触して直線の入口で落車。窓場が一旦は先頭に立ちましたが,大外の脇本が僅かに差し切って優勝。窓場が8分の1車輪差で2着。この両者の間に進路を取った武藤が4分の3車身差の3着でその外の山田が4分の3車輪差で4着。脇本よりも外を回った大森が半車輪差で5着。
優勝した福井の脇本雄太選手は福井記念以来の優勝で記念競輪15勝目。向日町記念は2021年と2022年に優勝していて2年ぶりの3勝目。このレースは窓場と脇本が別々に戦うことを選択したので,あまり強固なラインが結成されませんでした。清水が先行するのは意外な展開でしたが,前受けした窓場にとっては悪くなかったと思います。松谷に入られてしまったのはたぶん誤算で,その分だけ発進のタイミングはやや遅れてしまったかもしれません。それでもやや離れた後方から前をまとめて捲り追い込んでしまった脇本が強かったというほかないでしょう。別々に戦ってワンツーですから,その選択も悪くなかったといえそうです。
書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六は編集者たちの手許に残りましたので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。ただしこれら3通は,宛先が伏せられて掲載されたのです。当然ながらこれはフッデJohann Huddeに対する配慮であって,宛先を示してしまえば書簡の内容からフッデとスピノザの間で書簡を通しての交流があったということが明るみに出てしまい,フッデの要望を満たすことができなくなります。だから宛先を伏せた上で,編集者たちはこれらの書簡を遺稿集に掲載したのです。これは実際に有効だったのであって,これらの書簡はスピノザがホイヘンスChristiaan Huygensに出したものであると想定されてきた歴史があります。
フッデに対する配慮はほかにもあったのですが,それは後で説明します。僕の考えでは,フッデに対する配慮がこのように行き届いたものとなり得たのは,フッデの要望がどういうものであるかということについて,編集者たちの間で共有されていたからです。編集者たちがどのような役割をもっていたのかは分からないのですが,それぞれの編集者がそれぞれの役割を果たすことによって,スピノザとフッデとの関係が分からないような形で遺稿集の発刊が可能になったのだと僕は思うのです。
フッデと同様の要望を有していたのがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizです。ライプニッツに対しても編集者は配慮をしています。
書簡四十五と書簡四十六を読むと,スピノザとライプニッツとの間で哲学や神学を巡る書簡上の議論があったことが推測できます。また現にそういう議論が交わされたということは,書簡七十および書簡七十二の内容から確定的に史実として解してよいように思います。スピノザとライプニッツとの間で交わされた議論ですから,本来であれば遺稿集に掲載するに値する内容をもっていたということが容易に推測されます。ところがそれらの書簡は,何通あったかは分かりませんが,遺稿集には掲載されませんでした。また,そうした書簡があったことを確定させる内容の書簡七十と書簡七十二の2通も,遺稿集には掲載されていません。これはライプニッツがスピノザと交流があったことを秘匿したいと思っていて,編集者がそれを知っていたからだとしか思えません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます