スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オールスター競輪&ミリアムとイサーク

2024-08-19 18:55:11 | 競輪
 平塚競輪場で行われた昨晩の第67回オールスター競輪の決勝。並びは新山‐佐藤‐守沢‐渡部の北日本,松井‐郡司の神奈川,窓場‐古性の近畿で真杉は単騎。
 郡司と古性がスタートを取りに行き,内の郡司が譲る形で古性が誘導の後ろに入り,窓場の前受け。3番手に松井,5番手に新山,最後尾に真杉で周回。残り2周のホームの入口から新山が上昇。窓場は一旦は突っ張る構えを見せましたが,バックで引き叩いた新山が打鐘から先行。5番手に窓場,7番手に松井,最後尾に真杉の一列棒状に。バックから窓場が先んじて捲り発進。最終コーナーで佐藤が牽制したのですが,窓場が乗り越えました。マークの古性が窓場を差して優勝。窓場が1車輪差の2着で近畿のワンツー。逃げ粘った新山が4分の1車輪差で3着。近畿ラインを追って外を捲り追い込んだ松井がタイヤ差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は5月の函館記念以来の優勝。ビッグは昨年10月の寛仁親王牌以来の8勝目。オールスターは初優勝。このレースは窓場の前受けになりましたが,郡司はたぶん新山が前受けしにきたら譲らなかったと思います。狙いは窓場が新山と先行争いをするか,飛びつくかで隊列が短くなったところを捲ろうというもので,真杉も似たようなことを考えていたので,新山ラインを追走しなかったのでしょう。これは結果的に他人任せの作戦といえ,今回は失敗になりました。この開催を通しては2着になった窓場の充実ぶりが目立っていて,もうトップ選手の仲間入りを果たしたとみていいのではないかと思います。窓場も強いレースでしたが,マークの古性が現時点では上回っていたということでしょう。

 スピノザの父であるミカエルの最初の妻はラヘルといいます。妻ですが,ミカエルの従妹にもあたります。ラヘルが死んだ日ははっきりしていて,1627年2月21日です。このラヘルとミカエルとの間には子どもは産まれませんでした。
 2番目の妻がハンナで,この人がスピノザの母です。ということはスピノザの兄であるイサークの母でもあり,姉のミリアムの母でもあります。このうちミリアムは,1650年6月に結婚した時点で21歳ですから,1629年に産まれたことになります。そこで,もしもイサークがミリアムの兄であったとしたら,イサークは当然ながらそれよりも前に産まれたのでなければなりません。しかもミリアムの結婚時の年齢からは,1629年産まれのミリアムは,その年の6月より前に産まれたのでなければなりません。そしてミカエルが前妻と死別したのが1627年2月ですから,もしイサークがミリアムの兄であるならば,イサークはラヘルが死んでから半年後にはハンナと結婚して,すぐにハンナが妊娠したとしなければなりません。人間の妊娠期間からすると,そうでないとミリアムの前にイサークが産まれる時間的なゆとりか,イサークが産まれてからミリアムが産まれるまでの時間的ゆとりのどちらかが不足してしまうからです。
                           
 さらに,最初の妻であるラヘルはミカエルの従妹でもあったわけで,その従妹と死別してから半年で再婚してしまうのは,イサークの気持ちの面からも難しかったのではないかと吉田は推測しています。そして,ハンナと再婚した後に最初に産まれた子どもがミリアムであったとして,それが1629年の半ば。スピノザの生命がハンナに宿るのが1632年1月とすれば,その間にハンナが妊娠ししてイサークを出産するという時間的なゆとりは十分にあることになります。こうしたことから,吉田はミリアムが姉でイサークは弟ではなかったかと推定しています。これはあくまでも推定ですから,それが歴史的な事実であったということはできません。ただ,吉田が示している論拠からは,それが歴史的な事実であった可能性も十分にあるということは理解できるでしょうし,僕もそう思います。

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